閑話 蛇と耳長
エルフのアルティリアは帝国から離れることにした。
無力だから康太郎に対して出来ることも無いと腐ることも無く、事実を事実として受け止め、自分を救いに来た康太郎に報いるには自身が壮健であることが何よりも重要であると彼女は心を決めたのだ。
故に自身の心を満足させるためだけに、帝国相手に復讐へ臨んだりしなかった。
ナビィに解放された後、アルティリアはヴァンガード・クラスタで手続きをして正式にヴァンガード(冒険者)となった。
端的に言えば路銀を稼ぐためだ。
さて、クエスト受注には自身のランクが影響する。登録したての最低ランクのアルティリアでは、自身よりも高ランククエストは受注できない。しかしそれを無視して、彼女は高ランクの魔物を狩った。
魔物の討伐に関しては、ある種の例外項目だ。遭遇して可能ならばこれを退治することを誰が咎めようか。
無論のこと、それが詐称の可能性もあるだろうが、力の証明などやりようはいかほどでもあるのだ。
まして、王種相手に短時間ながら防衛戦を展開できるほどの手練の彼女だ。
その手の問題はすぐに解決し、彼女は路銀というには多すぎる額の資金を手に入れた。
それでも特別多い金額ではないなあと感じていたのは、康太郎の金遣いが豪放な面もあったからだろう。
こうして、後に“破邪の銀聖”とよばれる大型冒険者が誕生した。
そんな彼女が蒼い彗星、つまりは康太郎を見掛けたのは東大陸の北部の街道を移動しているときだった。
彼女の行く先は北大陸の秘境。かつて友人となった竜人族の少年シンに会うためだ。
だが、蒼い彗星を見た時、いや、その前に感じた空間を震わす理力の波動を感じた時から、もうシンに会うことは、頭から離れていた。
彗星が流れていったほうへアルティリアは走り出した。
魔力で速力を強化して走り続けることは、今の彼女でも難しい。これが地元の森であるならば話はまた違っただろうが、残念ながらそうではない。
しかし走らなければならない。
アルティリアは、もう、あの蒼い光を見失うわけには行かなかったのだ。
「くそ、こんなところで、魔力が……」
やはりというべきか、魔力が首都に入ったところで尽きた。
しかも城塞都市でもある帝国の首都は広大で、さらに下町の道は入り組んでいるところが多い。
その中を魔力切れのエルフが歩き回れる道理も無いのだ。
「ぜぇ、ぜぇ……」
アルティリアは頭を垂れ、汗を流し、リュックを背負ってヒイコラ喘ぎながら歩いていた。
美貌のエルフもこれでは見れたものではない。
しかし、それでも行き場所はわかっているのだ。
アルティリアは倒れそうになる身体を、精神で支える。
彼女の相棒、いや彼女を遥か先から牽引してきた男は、傷ついても、限界に合っても尚、立ち上がる男なのだ。
その隣に立つのなら、それに追いつくためなら、格好なんてどうでもいい。なりふり構っていられるものか。
しかしそれでも、限界が訪れた。
肉体の限界が、精神で支えられる許容をさらに上回ったのだ。
前のめりに、倒れて行くアルティリア。
地面との強烈なキスまであと少し。
「…………えっ」
しかし彼女の顔は、いつまで経ってもぶつかることはなった。
アルティリアは襟元を掴まれていたのだ。
ゆっくり掴まれた方を見る彼女の視線の先に、神々しいまでの美貌が飛び込んでくる。
その美貌の持ち主は、女性で、背が高く、細い腕でアルティリアを掴んでいた。
一方、もう一つの空いた手には串焼きが握られていた。
そして背には、康太郎の得物である“五条(刀)”と“九重(棍)”。
さらにアルティリアは、その顔には見覚えがあった。
女性が口を開く。
「何をしておる、守護者の子よ」
「……せ、世界蛇様?」
人型の女性へと姿を変えた王種・世界蛇“アンジェル”が串焼き片手に立っていたのだ。
時は、康太郎が初めて帝国入りしたときまで遡る。
当初は康太郎のペットのような扱いの小さな蛇として康太郎に付き添っていたアンジェルだったが、一向に進まない調査に加え、暗殺されてしまった康太郎の亡骸に復活の兆候が見られないとなると、康太郎の得物と所持金を持ち去り、帝都をぶらり巡り歩いていたのだ。
王種である彼女が、わざわざ帝国に居残ったのは、康太郎の件もそうだが、なにより食事だった。
人間の食事に味を占めたのだ。
極端な話、アンジェルの場合は、生きるための食事は必要ない。
アンジェルにとっての食事は、生存競争のしきたりに沿ったものでしかなく、嗜好の意味が強かった。
そんなアンジェルが、康太郎に付き合って食事を何度か共にするうち、人間の食事を気に入ったのだ。首都というだけあり、食事を提供する店は多く、また康太郎も節制していたわけではないため、アンジェルは東大陸の美味を堪能していたのだ。
今のアンジェルはちょっとした美食家であった。
彼女が康太郎の金を奪ったのは、飯を食うためだ。
飯を提供する社会が金銭を必要とするものと知っていたからで、それは彼女なりの”気遣い”の表れだった。
アンジェルのテリトリーである想樹の森近辺であればいざ知らず、帝国、というより東大陸は、彼女にとっては異邦。
そこにはそこのルールがあるだろうという、彼女にしてはかなりお優しい判断であった。
そして、五条と九重を持ち去ったことについては、この二つについては、康太郎の下で御されていなければ危険極まりない兵器であったからだ。
特に五条のほうは素人が扱っても王種であるアンジェルにも傷をつけることが可能なほどだ。もっとも、素人が五条に触れれば、その瞬間五条は触れたものを斬り刻んでしまうだろうが。
最終的に康太郎が復活するにしろ、そのときまでは自分が管理しておく必要があるだろうという使命感からだった。
「はぐ、んむ、はむ」
「もきゅ、もきゅ、もきゅ」
下町でも繁盛の酒場兼食堂で、大量の料理を二人の美女が食い散らかしていた。
無論、アルティリアとアンジェルである。
美人が一心不乱に大皿料理を掻きこむ姿は、鬼気迫るものがあった。
アルティリアなど、ほんのわずかだが、お腹がぽっこり出始めている。
ビジュアル的に残念なエルフの出来上がりである。
しかし、アンジェルはともかく、アルティリアがこんなことになっているのは、れっきとした理由が存在する。
それは枯渇した魔力を回復させるためである。
D世界の住人は、理力を取り込み、理力を魔力に変換して活動している。
その理力の取り込みを大量の食事で補っているのだ。
特別大食漢でもないアルティリアだが、旅に出始めのころに比べ、精神的にたくましく魔力量も多くなった今の彼女ならば、大量の食事を平らげることも可能だった。
「ごく、ごく、ぷはぁ!」
アルティリアはジョッキに注がれたブドウジュースを飲み干すと、気持ちよさそうに声を上げた。
「ここまで運んでいただいて、本当に助かりました、世界蛇様!」
「なに、我も金が尽きかけていたところ、ちょうど良かったわ。それにしても良い食べっぷりじゃな」
アンジェルが麦酒を飲みながら言った。
食事に舌鼓を打ち、緩んだ顔つきをしていたアルティリアだったが、表情を真面目なものに改めて言う。
「あの、ところで、世界蛇様。コウ……九重康太郎がこの帝国首都に向かったことはご存知でしょうか」
「無論。強烈な理力を放っておったよ、アレは」
アンジェルの顔に微笑が浮かんだ。北の大陸で一戦やらかしたときに見せた歓喜の表情だった。
「しかし、今はおとなしいものじゃ。あやつ、今は地下にいるようだぞ。皇居、と呼ばれるもののな」
「やはり……」
うぬぼれでなければ、康太郎は、アルティリアの救出に向かったのだろう。奇しくも入れ違いになってしまったことが残念でならない。
「世界蛇様、私はこれから、コウの元へ向かおうと思います」
「そうか。……しかしな、守護者の子よ。少し忠告してやるが、今はやめておけ」
「えっ?」
あのアンジェルが、アルティリアに忠告をした。これは本来ならありえないことだった。アンジェルは、アルティリアのことをようやく個人として認識し始めた程度だったからだ。
「なぜ、ですか」
「一瞬だが、アレとは、違う別の理力の波動を感じた」
「コウとは、別の?」
アンジェルが、目を細めた。先ほどまでの歓喜が嘘のようだった。
「ああ、力強く、しかし狂気と狂喜が合わさった。これは間違いなく、危険な理力だ。仮にココノエとそれがぶつかれば、どうなるかわからん」
「わからんって……」
「これでも我はな、自身が戦うことが、この世界でどれだけの影響を及ぼすか測ることができる」
アンジェルは麦酒の入ったジョッキを回すように弄びながら言った。
「ココノエと戦うときでさえそうだ。ココノエも無意識だが出しても良い力の質を分かっている。だが、我が感じたもう一つはそうではない。あれは破滅を呼ぶモノだ」
アンジェルは険しい表情で語った。
アンジェルがこれほどの警戒を露わにする相手とは一体どんな存在というのか。
「今は下手に近寄らず様子見だ。お主は会いたくてしょうがないという心なのだろうが」
「いえ…私は世界蛇様に従います」
康太郎が生きてこの世界にいると確証が得られただけ今は上等だ。
アルティリアははやる気持ちを懸命に抑えた。
そして大地が揺れた。