第6章 プロローグ 其は一つの病也
この作品は、まどろむ愚者のD世界です。
九重康太郎の朝は早い。
起床は五時前。夜がようやく明けた頃だ。
一も無く二もなく、テレビとHDDレコーダーのスイッチをONにする。
テレビはともかくレコーダーの方は起動に少々時間がかかるのでその間にリビングの冷蔵庫から冷えた麦茶をコップに注ぎ、それを一気に飲み干した。
追加にもう一杯注いで、自室へ戻る。
「やべえ・・・とんだダークホースだわ」
画面に映し出される一幕を見て、康太郎は一人声を上げた。
それは今期より始まった新番組だ。当初まったく注目もしていなかったのだが、秀逸な脚本、作画で第1話の掴みは今期の中でもトップクラスであろう。
「カツ・ドゥーン……力強い響きだ、じゃねーよ」
既に2週目を見ながらニヤニヤ笑う。気持ち悪いことのこの上ない。
しかし自室での自家発電である。大目に見て欲しい。
というのも、予約録画してもそれを見れるのは、D世界での一日を挟んでのこと。つまり、一日お預けされているのと、同じことなのだから。
同時に、そんな新番組を見ながら康太郎が行っているのは柔軟である。
180度に股を開き、胸を地面にぺたりとつける。
最初から出来たわけではない。
康太郎がD世界と名付けた謎の夢を見始めてから、約半年にして、ついにここまでの柔軟を成しえたのだ。
体術を基本戦術とした康太郎だが、身体の柔軟性ばかりは固有秩序の強化では及ばない部分だったからだ。
といっても、夢であるD世界のことなのに、R世界(現実)で行う柔軟が果たして役に立つのか。
役に立つのだ、これが。
現実で手に入れた柔軟性は、そのまま康太郎のイメージに繋がる。D世界において、康太郎のイメージが及ぶ範囲で出来ないことはない。
そして実際のところ、両世界間での肉体フィードバック機能――互いに補完し合う関係が強くなっている最近では、確実に、R世界での柔軟性をD世界に持ち込むことができていたのだ。
暦は既に9月。学校は2学期に突入していた。
そして、康太郎の心にもある変化が訪れていた。
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「おはよう、コウ」
「おはよう、全高チャンプ」
朝の学校への道。康太郎の友人たる神木征士郎が声をかけてきた。
「もう、その呼び名はやめてよ。いつまでも恥ずかしい」
神木は頬を赤く染め、照れくさいのか、明後日の方を向いて頬をかいた。
「何しろ我が高校初の運動部全国制覇なんだ。それくらいは我慢しなさい。まあ人の噂も七十九日って言うし、そのうち落ち着くって」
「いや、最後のはなんかおかしいよね?」
二学期が始まって既に一週間近くが経とうとしていた。
校舎にはでかでかと大きな垂れ幕がいくつか垂らされていて、その中でも一際目立つのが<全国高校バトミントン選手権 男子個人の部 優勝おめでとう 神木征士郎くん!>という垂れ幕である。
個人の名前を思いっきり晒していいものかと思うが、学校の指導というより、神木個人の資質に因る所が多いとわかっているのだろう。
ともかくそんな垂れ幕があるうちは、康太郎は茶化すつもりだった。
「おはよう」
康太郎たちは背中越しに挨拶された。
残暑も厳しい九月に、しかしその声は涼やかに康太郎の耳を打った。
康太郎は、何かと戦っていて後ろから不意打ちを受けてしまった、そんな勢いで後ろを振り向いた。
「お、おはよう、穂波さん」
「おはよう」
康太郎と神木も挨拶で返した。
康太郎たちに声をかけたのは、図書室の君、孤高の女王、遅れてきた高校デビュー……などと康太郎が数々の称号をひそかに授けている美少女、穂波紫織子だった。
授けられるほうはたまったものではないが、しかし、的は得ている。
一言挨拶を交わし終えると穂波はすたすたと足早に康太郎たちを追い抜いていく。
穂波紫織子は、謎の女だ。それもそうで、誰も彼もが彼女とは距離を置いている。
決して疎んじているわけじゃない。蔑視しているわけでもない。むしろその反対に、その距離は敬いから来ている。
常に学年一位の成績で、動けば運動能力でもトップだ。
朝方で涼しいとはいえ汗一つ流さない氷の彫像を思わせる美貌。艶のある長い黒髪、スラリと手足は長く、非常に均整の取れたスタイルだ。
言ってしまえば完璧超人、だが完璧超人であるが故に、そこには親しみも、入り込む隙も無い。
だから、彼女は孤高なのだ。
だから、誰も気づかない――3人ほど除いて。
穂波紫織子が自発的に誰かに挨拶をすることの異常さが。
例外とは、彼女に唯一、友達という関係性を持っている九重康太郎。康太郎の友人である神木。
そして、
「おはようございます、康太郎君!……と、幸太郎君にくっついている……えーっと、なんだったかしら、クズ木くんだっけ」
朝から毒を吐き捨てた、佐伯水鳥だ。康太郎に絶賛恋人要請している少女だ。
「朝から無駄に元気だな、佐伯」
「神木だよ、佐伯さん。か・み・き。……どうしたの、もうボケ始めたのかな?」
神木が青筋を立てながら返した。かろうじて笑顔だが。
神木と水鳥は恐ろしく仲が悪い。当初は康太郎の手前、表面上は仲良くしていたのだが、つい最近になって康太郎にそのことがバレ、もはや隠さなくなっている。
ちなみに二人は幼馴染だ。幼馴染の仲が良いなんて所詮は幻想かと、康太郎の(偏った)常識を粉々に打ち砕いている。
たたっと水鳥が駆けて来て康太郎の横に並び、そして康太郎の腕を捕まえて腕を組んだ。
「やめい」
康太郎はすげなく水鳥の手を払いのけた。
「お前も懲りんな、すいちょう。いい加減、諦めたらどうだ。見苦しい。」
神木は水鳥のことを“すいちょう”と呼ぶ。声音もやけに冷めている。ある意味ではこちらが素に近いのだが。
「お黙り、征士郎。もう相変わらずつれないお方。でもわかっております、嫌よ嫌よも好きのうちと申しますから、ね?」
水鳥が、康太郎にしなだれ掛かり、康太郎の胸に“の”の字を書きながら、一つウインクして見せた。
「ちげーよ。嫌は嫌に決まっているだろうが。てか、上目遣いでウインクしてもお前への評価は何も変わらないよ」
水鳥のアプローチは、とにかく実直である。あるいは見せ付けるように、とでも言うのか。人目をはばかることをしない。
だから傍から見ていたら、二人は痴話げんかしているか、康太郎の方が恥ずかしがっているだけにしか見えない。
暑いのに熱い事でと、朝から地球温暖化の原因となっている二人に、恋人が居ない者たちからのやさぐれた目力が注がれる。
康太郎にとっては勘違いもはなはだしいと憤慨するところなのだが、水鳥はこうした視線を浴びることを心地よいと感じていた。
「今や私達は、校内でも公認の声が高いカップルみたいですよ、康太郎君」
「知らん」
鋼のごとき意志で、康太郎は水鳥を寄せ付けない。
というより鋼でもなければ、水鳥の好意を跳ね除けるのは難しい。
水鳥はかわいい。水鳥かわいい。悔しいが2回繰り返した。佐伯水鳥は大和撫子という形容が良く似合う日本美人だ。
康太郎への態度から、アッパー系の性格と思われるが、その本質は冷静で理知的、思慮深い。
人の本質と力量を見抜く観察眼を持ち、パートナーにすれば、これほど他人を立てることの出来る人材もそうはいない。
そんな優良物件を康太郎が袖にしているのには、わけがある。
過去にドッキリ企画を仕掛けられたことで、軽く人間不信、とりわけ女性から向けられる好意を信じられなくなっているのだ。
その上で既に過去3回、康太郎は自身が水鳥に振り向くことは無いだろうと語っている。
それでも諦めない水鳥は大したもので、流石の康太郎も態度は軟化している。
だが一線は越えない。
というのも、最近になって康太郎は、とある一つの気持ちを自覚した。
あえて言えば、8月半ばに会った人身事故が切っ掛けではあるのだが。
すくなくとも康太郎がその一つの気持ちに決着をつけないことには、誰も彼も前には進めない。
その一つの気持ちとは。
康太郎の胸のうちで、穂波紫織子の挨拶が繰り返されていた。
繰り返す度に胸が熱くなるのを康太郎は感じていた。
孤高である穂波に、何故康太郎は近づけたのか。
昨年の文化祭辺りから、1年近く、何故彼女と関わり続けることが出来たのか。
何故、友達と呼べるまでに距離を近づけることが出来たのか。
それは、人間不信で相手の気持ちを疑わずにはいられない、そんな性質であるにもかかわらずーー
九重康太郎は、穂波紫織子に、恋をしていたからだ。
※ この作品は<九重康太郎の青春ラブコメ歪んでいる>ではなく、まどろむ愚者のD世界です。