第2部 第12話 天使とランデヴー
康太郎は、目の前の美女、アンジェルが変化した姿に思わず見惚れていた。
一方で、今のアンジェルは決して気を抜いてはならない相手だと肌で感じていた。
怪しさと艶やかさを同居させ、見る物を虜にする雰囲気を発散させるアンジェルは、その艶姿で誘い寄せて捕食する食虫植物を思わせる。
(どうした、そんなに見つめおって)
堅く口を結んだ康太郎にアンジェルは、妖しく微笑んだ。
「あ、いや、別に」
康太郎は思わず視線をそらした。
「お前、もう大丈夫なのか」
ちらちらとアンジェルを時々見ながら、康太郎は言った。
(大丈夫とは、一体何のことだ)
アンジェルは首をかしげた。とぼけた様子ではなかった。
「いや、ほら。操られてたっていうか……そこのキャスリンに」
そう言って康太郎は、先ほど自ら撃破し、倒れている金髪の悪魔を指差した。
(ああ、そのことか。うむ、我は、我の意思で今ここに立っておるよ。お主の駄蛇呼ばわりが、やけに耳に響いてな)
じろりと康太郎をねめつけるアンジェル。
剣呑さはないものの、不服ではあることを乗せた声だ。
実際アンジェルは、康太郎の声でキャスリンの干渉から逃れていた。
康太郎の心の、そして腹の底からの怒声には無意識にだが康太郎の理力が篭っており、その振動が、キャスリンの干渉を跳ね除けさせる切っ掛けになったのだ。
キャスリンにとっての不幸は、康太郎とアンジェルがかつて死闘を繰り広げた仲で、康太郎は、アンジェルが名を呼ぶことを認めた例外的な人間であったこと――アンジェルの康太郎への意識が、キャスリンの固有秩序よりも深いところで刻まれていたことだ。
もしも、アンジェルと康太郎が出会っていなければ、康太郎の怒声を聞いたところでアンジェルは何の反応も示さなかっただろう。
もっとも、アンジェルと出会っている故に、康太郎は声を上げたのだが。
(しかもお主、二度も我を駄蛇と呼んだな。我がその忌み名を嫌うのを知っておろう)
「わ、悪かったよ。あれは言葉の綾だ。流してくれるとありがたい」
康太郎はうろたえた。
アンジェルは顎に手を沿え、悩むようなしぐさをして、
(ふむ、我もあの程度の相手に誘導されたとあれば、我が名を許した相手に罵られても、仕方ないかも知れぬな。……よかろう、ココノエ、許してやる)
「あ、ああ……ありがと」
笑い掛けるアンジェルの美しさに、康太郎は思わず声を漏らし、頬を朱に染めた。
(だが)
アンジェルが康太郎の横を通り過ぎ、倒れているキャスリンへと歩み寄っていった。
(この娘については許すつもりはない)
「待て、アンジェル」
屈んでキャスリンに触れようとするアンジェルを慌てて康太郎が呼び止めた。
(なんだ、ココノエ)
康太郎の声に振り返ったアンジェル。美しさはそのままに捕食者の殺気を滾らせており、見るものにより強烈な印象を与えていた。
「そいつには、色々と聞きださなきゃいけないことがある。手荒な真似はやめてくれ」
キャスリンは、相応の業を背負っている。この世界にもたらした混沌、そして王種の心を弄んだことは、許されざるものだ。
だが康太郎は、それでも自身の都合を優先させた。
現実での死を克服させてしまったD世界に対する情報を以前にも増して欲していたのだ。
だから誰よりも先んじて、キャスリンを確保する必要が康太郎にはあったのだ。
しかも直に接触して得られた“Dファクター”というキーワード。キャスリンが、康太郎よりもD世界に対する理解が深いのは、明白だった。
R世界での接触は、キャスリンがVIPであることから難しい。今の康太郎にとっては、あらゆる意味でしがらみの少ないD世界で確保するほうがよほど現実的な手段だったのだ。
(断る)
康太郎のそんな思惑とは裏腹に、にべもなくアンジェルは即答した。
(如何にココノエといえど、聞けん頼みだ。我を一時でも謀ったのだ。このままというわけにはいかんな)
「それでも、ここは引いてくれ」
康太郎とアンジェルの視線が交錯し、二人の周囲一体を異様な緊張が支配する。
(断る。こやつは喰らう。我が血肉とすること、それが我が情と知るが良い)
アンジェルが腕を弓なりに引くと同時、康太郎が一歩踏み込んだ。
アンジェルは倒れているキャスリンに、引いた腕を解放し、突きたてた。
「ぐあっ!!」
苦悶の声を上げたのはしかしキャスリンではなく、康太郎だった。
康太郎はとっさに無拍子を使って移動、キャスリンを抱え庇いつつ、アンジェルから距離を置いた。
その際、アンジェルの貫手が康太郎の左肩に刺さり、しかし康太郎は歩みを止めず深手になる前に距離を離すことができた。
その結果、康太郎は左肩から背中に走る傷を背負うことになった。
(なぜ庇った)
康太郎の血が付いた手をチロチロと舐めながらアンジェルが言った。
「言ったろ。こいつには用があるんだ。せっかく見つけた糸口をここで失うわけには行かない」
キャスリンがD世界で死んだところで、R世界のキャスリンは無事だろうと康太郎は思った。しかしだからといってここでキャスリンを庇わないという選択肢は康太郎にはない。
そんな風に命の勘定を始めたら、自分の命も軽んじることになる。
それは父との約束を反故にすることだ。そんなことは、康太郎にはできない。
(では、どうする。我の怒りは、治まらん。しかもお主の理力にも中てられて、身体が疼きおる。腹も減っておるしの。ああ、やはりうまいな、ココノエの血は)
妖艶に、自身の手を舐めながらアンジェルは言った。
アンジェルは代案を出せば、見逃すといっている。しかし、その代案とは。
「いつぞやみたいに、俺の血を与えるっていうのではだめか」
想樹への道案内の際、アンジェルが出した条件を康太郎は持ち出した。
(足りんな。半端にココノエの血なんぞ飲もうものなら、我は逆に欲求不満に成ってしまうぞ)
「だったら、お前は――」
康太郎は何なら納得すると言いかけ、しかしアンジェルの指がスッと自分の方へと伸びて言葉を閉ざした。
(はっきり言うぞ。我は、お主が欲しいのだ、ココノエ)
ともすれば、愛の告白にも聞こえるそれは、しかしこの場においては、戦慄しかもたらさなかった。
「嫌だと言ったら?」
(そのときはしょうがない。お主の抱える、その人間を喰らうまで)
アンジェルの意思は固い。
康太郎は空を仰ぎ見てため息を一つ。数秒を目を閉じて考えを巡らせ、そしてアンジェルに向き直った。
「アンジェル、ちょっと待ってろ」
(なんだと)
「大丈夫、逃げやしない。必ず、ここに戻ってくる」
理力を視線に込めて康太郎は言った。
そしてキャスリンを抱えたまま、一足飛びに後方へ跳び、アルティリアたちに合流した。
「大丈夫、コウ」
アルティリアがアンジェルにつけられた背中の傷を見て言った。
「大丈夫なわけあるか、マジ痛い。これ絶対、跡残るぞ」
抉られたまま、動かしただけに背中に一直線に走る傷は深かった。しかし出血は傷の程度からみれば少ない。
「アティ、コイツを頼む」
いまだ気絶しているキャスリンを康太郎は横たえた。
「ちょっと……まさか、世界蛇様と戦う気?」
「まあ、それしかないだろう。このままじゃあ、キャスリンは喰われる」
「ねえ……」
「ん?」
アルティリアは俯き、沈んだ面持ちをしていた。
「本当にその人間を生かさなきゃいけないの?」
アルティリアの見せたほの暗い言葉に、康太郎は目を剥いた。
「いや、前にも言ったけど、こいつは、手がかりなんだ。俺がこの世界にいることの意味。こいつは、それに繋がっている」
「で、でも……シンの一族は、この人間のせいで傷ついたし、他の皆だって」
「そうだな。それを思えば確かにキャスリンは死んだっていいのかもな。だけど、俺は俺の都合でこいつを助ける」
康太郎は自分の意思を押し通した。勝手な話だが、康太郎にとってはキャスリンを打ちのめした段階で、D世界に対する罪の部分は、清算してしまっていた。
「そもそもキャスリンを倒すだけなら、俺達単独で挑む必要なんてなかったんだ。シンの親友を不用意にでも倒したくないという思いと、俺の打算。それがあったから俺達はチームを組んだ。決してシンに同情して善意だけで協力しようなんてことはなかった。アティがどういうつもりだったか別にしてな」
「――それ、は、わかってるつもりだけど」
「あんまり、ここで話してもいられない。アンジェルが待ってる」
「コウ!」
アルティリアが大きく声を上げて、去ろうとする康太郎を呼び止めた。
「なに」
「コウは、私たちの世界に、そんなに居たくないの?」
アルティリアの問いに、康太郎は振りむくことなく、答える。
「――楽しむだけの世界では、もう無くなったよ。アティ、前にも言ったよな。非道の先に俺の欲しいものがあるのなら、俺は迷っても、お節介に止められても最後にはそうするって」
「う、ん……」
「共犯でいられないなら、それを咎めるつもりはない。だけど、邪魔をするのなら、そのときは覚悟しろ」
「あ……」
康太郎は一瞬だけ、アルティリアの方を見た。
その一瞬に、最大密度の殺気を乗せて。
「じゃあ、頼んだぞ」
康太郎は、背を向けて走っていく。
「コウ……私は」
アルティリアは、自身のほの暗い感情から出た発言を恥じた。
だが、同時にそれは本心だ。
康太郎が、自身の謎に近づけば近づくほど。それはアルティリアとの旅の終わりを意味するのだ。
それはアルティリアにとっては、歓迎すべきことではなかった。
だが、康太郎の旅の目的はまさにそれなのだ。
万華鏡の書庫ですら有益な情報を得られず、落胆した康太郎だが、一方でアルティリアは口ではなんと言おうが、嬉しかったのだ。
一緒に旅が出来ることを。まだ見ぬ未知を共に探求できることが。
シンへの同情も、キャスリンがもたらしたことへの義憤も、その感情に比べれば些細なことだった。
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「悪い、待たせたな」
(まったくだ。それでどうするつもりなのだ)
「俺の身体を好きにすればいい」
(ほほう、いいのか)
アンジェルが喜色満面になった。
「ああ、ただし。俺を倒せるのなら、な。友達といえど、ただでくれてやるほど、俺の身体は安くはない」
アンジェルは一瞬、きょとんとして
(ぷっ、くくく、あーっはっはっはっは)
大仰に笑ったのだ。
(然り然り。その身はまさに至高だ。そして我は一度はおぬしに煮え湯を飲まされておる。その我が、お主を喰らうなど、増長も甚だしいというものよ)
アンジェルが魔力を解放し、一気に存在感を高めた。
(お主を下し、王気を見せよう。至高のおぬしに相応しい、最高の我をお主に見せよう。体感するが良い、ココノエよ。そして我が血肉となり、我が情を細胞の一片に至るまで感じさせてやる)
どんどん濃密になるプレッシャーに冷や汗をかきながらしかし康太郎は臆せず、構えた。
「言っとくが、一番初めに会った時とは比べ物にならないくらい俺は強いぞ」
(わかっておるわ。だが、ここには想樹もないし、存分にやれる。そしてそっくりそのまま言葉を返そう。我もまた、王の高みを上っているのだと。我が力を違えるなよ、ココノエ)
二人の理力と魔力が相克し、空気が震えだす。
一斉に飛び出す二人。最初の一撃は、互いに右の拳。
最高のファーストアタックを、頬にかすめながら、互いに避ける。
返すもう一方の拳が振るわれるのも同じタイミング。
二人は互いの顔面を殴りあい、盛大に吹っ飛んだ。
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