第51話 一つの数字
8月14日、お盆の前日のその日、一つの事故が報道された。
女性のニュースキャスターが、数あるトピックスと同じように朗々と読み上げる。
要約すると次のとおりだ。
大型トラックが運転手の居眠り運転を起因とする誤操作でコンビニエンスストアに衝突する事故が発生。運転手は容疑を認めている。この事故での負傷者は軽傷者がコンビニエンスストアの従業員2名、客3名。重体者が1名、病院に搬送され、意識不明とのことだった。
重体者の名前は九重康太郎と言った。
事故の第一報を聞いたとき、佐伯水鳥は張り裂けそうな心を押し殺し、すぐに搬送された病院を調べ上げ、急ぎ車を走らせた。
神木征士郎は、知らせに来た執事の胸倉を掴み怒鳴り散らすほどに大いに取り乱した。後に冷静さを取り戻し、病院に向かった。
そして穂波紫織子は、その場を動けなかった。自分に邪念なき意思の下に近づいてきた例外的存在。その喪失が意味するところを彼女は、まだ理解できずにいた。
「…………」
康太郎の父、九重錠太郎は赤いランプが点灯している手術室の前で、何度目かになるため息をついていた。
既に彼の会社では夏季休暇に入っているのだが、長期の海外出張を間近にして、彼は会社で引継ぎのための準備に追われていた。順調に行けば一ヶ月で終了だが、それ以上になる可能性も十分にあるため、それなりに引き継いでおかねばならなかった。
それがお盆前にまでずれ込んだのは偏に錠太郎の有能さの現れであり、同時に抱え込んでいた仕事の多さゆえだった。
そんな引継ぎもようやく終わり、帰り支度をしているときにその連絡があった。
曰く、息子さんが事故にあいましたと。
どれだけ急いでも病院までは一時間以上は掛かるその間、錠太郎は己の半生を振り返り、これが報いかと、ただただ己を責めるばかりだった。
やんちゃな跳ねっかえりで幼い頃は近所のガキ大将であり周りの大人たちには迷惑ばかりかけた。
中学、高校と上がっても変わらず、スケールアップして不良どもの元締めのようなことをしていた。
そこから足を洗う切っ掛けとなった一連の怪事件、この世ならざる超常の生物達との戦いでは、多くの犠牲を払い、あらゆる異形を蹴散らして手を血に染め、それでも錠太郎は生き残った。
そうした嘘のような青春時代を駆け抜け、やっとの思いで大学に何とか進学できたと思ったら、そのときには恋人のお腹の中には新しい命が宿っていたという。
生まれた子供と籍を入れ妻となった恋人と生活しながら大学に通い、バイトに励みながら……余裕など無いし、生活は苦しく、愛し抜くと誓った妻とは喧嘩すらもした。
それでも錠太郎は、幸福だった。幸福になれた。
生まれた息子には、自分のような波乱に満ちた人生ではなく、真っ当で、そしてすこやかに育って欲しいという願いを込めて康太郎と名付けた。
康太郎は、まさにその願いどおり、これといった病気も無く、健康に育ってくれた。
錠太郎とはまた別のベクトルでオタクになってしまったことは迂闊だったが、一般常識はわきまえているバランス感覚を持った人間にはなっているのでそこは妥協した。
そんな康太郎がここへ来て、こんな目にあうなど、まるで道理に合わない。
仮に死ぬとしたら、それは過去の業を重ねてきた自分だ。
康太郎には何の咎も無い、まさに彼の人生はここからが面白いというのに。
それともこれが、過去の業の清算だとでもいうのか。
だとすれば、これほどまでに運命という奴を憎んだことは、いまだかつて錠太郎には無いだろう。もっとも、そんな運命を抗う術など、今の錠太郎は持ち合わせてはいないのだが。
「ジョーくん!」
「朱里……」
息を切らして走って来たのは、亜麻色の髪を肩の辺りで切りそろえ、メガネをかけた女性だ。本来その年齢ではかなりの美貌なのだが少々やつれ気味で、今はさらに恐慌状態になっているので、尚酷かった。
「こ、康太郎は……?」
錠太郎に力尽きた体を預けながら、康太郎の容態を聞いた彼女こそ、康太郎の母であり、錠太郎の妻、朱里である。
「峠を越えられるか、かなり厳しいらしい。包み隠さずこちらに言っているということは、覚悟はしておけということだろう」
「そう……なんだ」
錠太郎は朱里とを連れて、近くの長いすに座った。
「康太郎……なんてお馬鹿さんなんだろうね。こんなに心配かけて……」
朱里が泣いているとも苦笑しているとも判別しがたい微妙な表情を作って錠太郎の肩に寄りかかった。
「……君に似たんだろう、粗忽なところは」
朱里の肩を抱きながら、彼なりに優しい声音で錠太郎は言った。
「それを言ったら、間が悪かったり、余計なことに足を突っ込むのはきっとジョーくん似よ?」
「そんなことは……あるか」
否定できないのが痛かった。過去の自分と、そして康太郎の過去の行いからして。
なぜ完全に寝静まったであろうあんな遅い時間に康太郎は目を醒ましていたのだろうか、とか。
何度か交通事故にあっていて、その全てが轢かれそうになっている何がしかを助けるため、とか。
思い当たる節がありすぎて困る。
「ジョーくん、康太郎がもし、もしもだよ?」
「言うな。言葉にしたら、本当になりそうで怖い」
そう言って、錠太郎はそれ以上の言葉を重ねることなく、朱里の肩をより強く抱いた。
朱里もその意図がわかったのか、黙って錠太郎に身を寄せるままにした。
刻々とただ、無為に時間だけが過ぎていく。
そんな折に、せわしない駆けてくる足音が聞こえてきた。
廊下の角から駆け込んできたのは、ブラウスを来た少女と、室内だというのにサングラスをかけた黒いスーツ姿の男が二人。
錠太郎たちの姿を捉えた少女は、錠太郎たちの前まで来ると立ち止まり、佇まいを直した。
「あの、康太郎君のご家族の方でしょうか?」
錠太郎は一目で、またアクの強い奴を友人に持ったなと錠太郎は顔には出さず思った。
「ああ、そうだが、そちらは?」
「はじめまして。康太郎君の同級生で佐伯水鳥と申します」
折り目正しく挨拶をした水鳥。一つ一つの所作が一線を画して優雅であることを錠太郎は見抜いた。
本当は挨拶するのも億劫なのだが、それでも挨拶されたのならば、返すのが道理だろう。錠太郎は立ち上がった。
「これはご丁寧に。私が康太郎の父、錠太郎だ。こっちが、妻の朱里」
錠太郎の言葉に合わせて朱里が頭を下げた。
「康太郎君にはいつもお世話になっております。……あの、それで康太郎君の容態は!」
水鳥が切羽詰って様子で錠太郎に詰め寄る。こういう顔を錠太郎は過去に何度も見ているだけに、それが本気で康太郎の身を案じたものだとわかった。
そこへ、また別の人間がやってきた。すらりと高い長身に、程よく鍛えられたバランスのいい体躯を持った少年だ。
「遅いわよ、征士郎」
「うるさい、すいちょう。あのコウの、いえ康太郎君のご家族の方ですね? はじめまして神木征士郎と申します」
「貴方が神木君? 康太郎の母です。康太郎から貴方のことは聞いているわ。仲良くしてもらってるみたいね」
朱里が神木の名前に反応を示した。錠太郎もそうだが、神木については錠太郎も朱里も康太郎からその存在は聞かされていたので名前は知っていた。非常に出来るいい奴というような話だったはずだ。
「あ、いえ、そんな……」
そんな社交辞令にも近い言葉でも神木は一瞬だが、顔をほころばせた。康太郎の家族にもすでに自分は認められているのだということに、神木は嬉しさを隠せない。
「ちょっと征士郎、今はそんなことで喜んでいる場合ではなくてよ」
水鳥が神木に棘のある言い方で彼を制した。
「べ、別に喜んでなどいない……あのすみません、康太郎君は、今どんな状態なんですか」
錠太郎は二人とも随分とアクの強い人間だとも思いながら、現在の康太郎の置かれている状況を説明した。
「そんな……」
「コウ……」
見るからに気落ちする二人を見て、一体この二人にとって、康太郎は何なのだと錠太郎は思った。
そもそも病院を探り当ててここまで駆けつけているのも尋常ではない。
ある意味では錠太郎も朱里も笑えないのだが、この際それは目を瞑った。
それから水鳥と神木はぽつぽつと、康太郎と自分達についての成り染めなどを語り始めた。
無為に過す時間の中、少しでも気を紛らわせるためのものだった。
このときばかりは、神木はともかくとして水鳥にも両親にアピールだとかそういう打算は何一つ無かった。
それでも水鳥は康太郎に対してお慕いしているだの、交際を申し込んでいるだの臆面もなく言ってのけている辺り、もはや手に負えないレベルだった。
そして時間は過ぎて、不意に手術室のランプが消えた。
4人ははっとして手術室のドアを見やった。
時間はまだ日が跨ぐかどうかというところ。
難航すると聞いていた手術にしては、早すぎると皆が感じていた。
悪い想像ばかりが頭を巡る中、手術室から、執刀医が現れた。
錠太郎は医師に駆け寄った。
「先生、康太郎は、息子の手術は……」
医師の顔は優れない。それは明らかに疲労のものだけではないのは明らかだった。
医師は一呼吸溜めて、厳かに、結果を言い渡す。
「残念ですが……」
医師は錠太郎から視線を外さずに告げた。
「あ、あああああ……」
水鳥が両手を顔を多い、泣き崩れた。
「ふざけるな!!」
神木が執刀医に詰め寄った。
「ヤブ医者が! コウが、コウが死ぬわけ無いだろう! 訂正しろ、どんな手を尽くしても助けるのが医者ではないのか!」
「おい、やめるんだ、神木君」
「聞いているのか! 早くコウを助けるんだよ!」
錠太郎の制止は、神木には届いていないようだった。
そして執刀医は黙って神木の罵声を受け止めるだけだった。
錠太郎は、わめく神木に歯噛みした。そして
「やめろと言っているのが聞こえんか、このうつけが」
底冷えのする声が、感情のまま叫ぶ神木よりもその場にいる誰もの耳に通った。
神木の肩を掴み、医師に迫る彼を錠太郎は力任せに投げ飛ばした。
投げ飛ばされ、呆然とする神木を修羅のごとき錠太郎の視線が射抜いた。
「一番憤っているのはこの俺なんだからな」
「ジョーくん……」
朱里は涙をこらえる錠太郎の胸に飛び込み、嗚咽を殺して泣いた。
錠太郎は、朱里をただ強く抱きしめた。
ああ、悪い夢なら、早く醒めて欲しいとそんな益体もないことを願いながら。
その日、九重康太郎は死んだ。
誰かの死は、その他大勢にとってはただその日カウントされた一つの数字でしかない。
人間一人の死はただの終わりでしかない。
人の命は軽く儚く、だからこそ尊い。
では、九重康太郎の命の価値は、どうだったのだろうか。
主人公が死にました。でも物語はもうちょっと続きます。
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