第43話 学ぶ鬼と奈落の獏
「この値xというのは、先に紹介した公式に当てはめると……」
白いシャツにうっすらと汗をにじませながら、教諭が黒板に数式を埋めていく。
アルティリアが今いるのは、康太郎が数学の授業を受けている教室だ。
アルティリアは康太郎の後をつけ、学校内まで侵入した。
現状、今のアルティリアは物に触れられず、誰からも認識されていない状態なので、こうして康太郎が授業を受けている教室に堂々居座っていられるのだが。
(なに言っているのか、さっぱりわからない……)
内容が数学だけに黒板の内容はかろうじておぼろげな意味はわかるものの(D世界は数記号が常識レベルではR世界と共通)、説明内容に関しては、アルティリアにはまったく理解できていなかった。
これが本当に康太郎が言う異世界であるとするならば、言語が異なることも説明がつく。
そういえばと、アルティリアは思い出していた。
過去のほんの僅かな期間であったが、康太郎は古代エルフ語はもとより、D世界共通の人工言語<グラント語>すらわかっていなかったことを。
康太郎は1日でD世界の言語を習得したため、アルティリアは言葉がわからないことがフェイクの類ではないかと若干疑いの目を向けていたのだが。
(そういえばコウのやつ、固有秩序を使ってとかなんとか言ってたわね……あれ、本当だったんだ)
改めてそうした康太郎の化け物じみたところを思い知らされる。
(それにしても、この世界はなんなのかしら。単純に異世界に来ているというわけでも無さそうだし……それにコウがここにいるというのも変だ。だってコウは、今は私達の世界にいるのだし……)
康太郎は、アルティリアたちには自らを異世界からの異邦人であると説明している。しかし、その実態であるところの眠りを介して二つの世界――康太郎にとっての夢と現実――を行ったり来ていることまでは話していなかった。
D世界における康太郎のスタンスは、あくまで何かの拍子の迷い込んでしまった異世界からの異邦人、ある種のロールプレイだ。
だからアルティリアたちは、康太郎の体が丸ごとD世界にあると思っている。
康太郎の考えとは裏腹に、ある意味でそれは正しいといえなくも無いのだが。
(もしかして私は、康太郎の記憶の世界にいる?)
思索した結果、アルティリアはそのように結論付けた。
あの黒い穴が康太郎の世界と繋がっているものであるとするなら、それを康太郎は知っているはずだ。
仮に眠っている状態で落ちたとしても、この世界に来るまでに見た、あの情報の奔流の衝撃で一度は起きてしまうはずだ。
だが康太郎からはそんな話は聞いていない。あるいは話していないだけ、ということもありうるが……。
この世界が康太郎の世界そのものであるということだけは否定できる。
そうであるなら、今の自分が物に触れられず、認識もされないというのはあまりにも不可解だ。
一方、これが康太郎の記憶ということになれば、過去の記憶ゆえに干渉できないと、説明をつけることも可能だ。
(闇雲に歩き回っても、この世界については知識が殆ど無いから、脱出についてのヒントを見つけるといっても骨が折れそうね……)
故にアルティリアは、しばらくは動かず、この触れられない康太郎の生活を観察することに決めた。
本物の康太郎が同じ記憶の世界にいるのなら、もしかしたら、関わりのあるこの場所を訪れる可能性も考えられる。
そうでなくとも、今のアルティリアにはこの世界における接点は康太郎だけだ。他に手がつけられそうにないというのもあった。
(それにコウが言う異世界が本当にあるのなら、その世界を見たいという気持ちもあったし)
巨大な鉄の箱が道を闊歩し、魔物は存在せず、魔法も無い。
文明の主役は科学。物理法則が支配し、あらゆる幻想は、現実を犯すことも無い。
そんな世界はアルティリアたちの世界とは明らかに異なるものだ。
康太郎の話す寓話の中のあるはずもない世界と半ば思っていたアルティリアだったが、実際にこんなもの見せられては俄然興味が沸いて来ていた。
康太郎に対する気持ちの変化と共に、ある種の素直さを見せるようになった今のアルティリアは、康太郎自身のことも深く知りたいと思い始めていた。
それは康太郎のパートナーたらんとする彼女の向上心の現れの一つでもある。
だが、そこにはそれ以上に、もっと違うベクトルの種類の感情があることに今のアルティリアはまだ気がついていない。
根が好奇心の塊なのに、それを責任感や使命感で覆い隠し抑圧していたのがアルティリアという少女だ。
しかも狭く閉ざされた里という環境で育ったため、多少お転婆ではあるものの、実態は世間知らずな純粋培養の箱入り娘なのだ。
そんな彼女の前に突然現れた、見た目同年代の謎の少年。
王種にも匹敵する圧倒的な力と異なる価値観、感性の持ち主。
九重康太郎の存在は、アルティリアにとっては彼女が思っている以上に劇薬だった。
自らを刺激し、新しい世界を見せる存在。
抑圧していた好奇心と冒険への憧れを解き放つきっかけ。
そうした存在に抱く感情というのは、時に単なる憧れでは説明のつかないものへと変化することがある。
その行き先は――。
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~~~~~~
「で、でかい……」
迷路のような書庫の中を進んだ俺は、一際開けた大きな空間にいた。
そこには多数の机が置かれ、その上に数々の実験器具が配置されていたり、本が積み重なっていくつもの小さな塔を作っていたりしている。
そしてその傍にはかなり巨大なロッキングチェアに座って眠りこけてきている、巨大な男が一人。
少なく見積もって2メートルより下はくだらないであろう身長。伸びきっていてくたびれた黒いシャツを着ていて、その上から白衣を羽織っている。
ちらりと見える素肌からは分厚く隆起した筋肉が見えた。
そして男をなにより特徴付けるのは、額より少し上のところにちょこんと映えている白く鋭角な角だ。
この男の種族は鬼人と言い、人間と同形態の亜人系の中でも随一の膂力を誇るが気性は荒く、多くの国で人類ではなく、魔物のカテゴリーに入れられることも多いと聞く存在だ。
その鬼人が俺の目の前でグースカ寝ていたのだ。
彼はここに住んでいるのだろうか?
……というか黒い穴に飛び込んだ先にいる白衣を着た鬼人って、違和感ありまくりなものだから、もうあからさまと言ってもいい。
俺にはその正体の予想が立てられるじゃないか。
鬼人と呼ばれる種族でありながら、極めて理知的な知性を持ち、<賢聖><刀神>の仲間であり、参謀役であり、そして城塞都市フツノに大規模な仕掛けを施すほどの技術力を持った男。
その晩年を万華鏡の書庫で過ごすと五条に伝えた男。
鬼人で、白衣を着て、そしてこの本と実験器具に囲まれている生活……。
彼こそ学ぶ鬼、<学鬼>ウォル=ロックということか。
鬼人の寿命は普通のヒューマンに比べれば多少長い程度。
エルフであるカーナさんと違い、存命しているはずのない人だ。
だが<刀神>五条を一時的に生き返らせるほどの技術を持つ人物ならば、自身にも何らかの仕掛けを施すことも可能かもしれない。
ともかく現状、ここを脱出するにせよ、この場所の詳細にしろ、今は目の前のこの人物が俺の手がかりなのだ。
起こす以外にないだろう。
「もしもし~。起きてください、ウォル=ロックさん」
俺は鬼人の肩を軽くゆすりながら声をかけた。
「……う……これ以上は……つめられない……」
一体どんな夢を見てるんだこの人は。
「ちょっと、起きてくださいってば」
先ほどよりも強く揺さぶってみる。
「う、うーん……なに……?」
「あ、気がついた。ウォル=ロックさんですよね?」
「…………」
目覚めたウォル=ロックさんの目の焦点があっていない。
キョロキョロと目線が泳ぎ、少ししてようやく俺の方を向いてくれた。
――じぃーっ。
凝視してくる彼に思わず目線をそらしそうになる。
そして遂に彼の口が開いて。
「なんだ、ただの神か」
…………はっ?
謎の一言だけを残して、ウォル=ロックは再び眠ってしまった。
「いや、ちげーよ! 何が神だよ! アンタ一体何処の掲示板に書き込んでるんだよ! 何の動画を見てるんだよ!!」
ちょっとカチンときたので胸倉を掴み、前後に思いっきり振ってしまう。
「……うっちゃい」
存在超強化を僅かでも発動していなければ、俺はこのとき死んでいたかもしれなかった。
興奮して揺さぶりをかけた俺に、眠りこける鬼人からのパンチが飛んできた。
大柄な体に似合わずその打ち込みの速さは五条の剣速にも匹敵するだろう。
とっさに顔面をかばってガードするが、ガードした腕さえも壊れてしまいそうなインパクトだった。
その力を利用して俺はわざと後ろに飛んで威力を可能な限り殺す。
「あーもう、わかったわかった、起きますよーっと」
あくびをかみ殺しながら、鬼人がついに立ち上がった。
寝ぼけているとは思えないほど、その立ち居振る舞い自然体で、隙がなかった。
って別に戦うわけでもないのに、そんな最初から戦闘を前提に考えてどうするよ。
ガシガシと白い髪の頭を掻きながら鬼人は問うて来た。
「……もう答えはつかめたんじゃないの? わざわざ私を起こしてまで知りたいことってなんだい、九重康太郎」
「え……俺、まだ名乗っていないのに」
「……? 君、ここがどういう場所とか、わかってない?」
俺は首を縦に振って肯定の意を示した。
「あーそう……本にも残してたつもりだったけどなあ……。でも凄いなあ。じゃあ君は<奈落の獏>を引き寄せるだけの情熱とエネルギーを持ってるってことになるのかなあ」
<奈落の獏>……? 引き寄せるって、あの黒い穴のこと、だよな?
これはちょっと一つ一つ、聞いていく必要があるなあ。
「えーっと、すみません、俺、ここのことわからないことばかりで困ってるんです。不躾で申し訳ないんですが、色々おしえてもらえませんか」
「うーん……」
俺のストレートすぎる願いには応えず、彼は伸びを一つして、首を回し、肩を回して骨を鳴らす。
そして白衣の胸ポケットに入れていた小さな丸メガネをつけると、椅子と机に向けて指を指して、
「久々の対話だ。どこまで期待に添えるかわからないが、可能な限りの講釈はしてあげよう、掛けたまえ」
彼は眠気を完全に払った目で、理知的な口調で俺に着席を促したのだ。
「さて、では何から聞きたいのだね?」
神経質な教授を思わせる口調で彼は言った。
「えっと、まずは貴方の名前から、確認させてください。貴方は<学鬼>ウォル=ロックさんですか?」
「いかにも、私はウォル=ロックだ。生前は魔導力学を専攻していた」
「生前……ということはやはり、今の貴方は」
「ああ、肉体というものは今の私にはない。今のこの私は霊体を<奈落の獏>に定着させ、住まわせてもらっている状態だ」
さっきから何度も出ている<奈落の獏>という単語。どうもあの黒い穴と、この空間は同じもののようだけど……。
「あの、ここは<万華鏡の書庫>ではないのですか?」
「ああ。その認識は正しい。ここは<万華鏡の書庫>の一角だ」
「では、さっきから言っている<奈落の獏>というのは?」
「ふむ……万華鏡の方だけが一人歩きしているようだな」
ウォルさんは、あごに手をやって少しだけ考える風にしてから応えた。
「万華鏡の書庫は、<奈落の獏>という王種の体内に存在しているものなのだ」
「王種……!? でもそんな王種、聞いたことが無い……!」
俺がカーナさんに聞いたのは西の大陸にいる世界蛇とかつていたエルフの祖である妖精女王、北の大陸にいる征竜、東の大陸にいる水晶土竜、南の大陸にいる白夜亀くらいだ。
「王種とは、広義では一種族・一個体の孤高の存在という種族のことを呼ぶ。むしろその存在が有名になっていることの方がおかしいのだよ。人類が確認できていない王種はきっとこの世界にまだまだいることだろう」
俺とアルティリアは確認されている王種だけを巡るつもりでいた。
だが、他にも王種がいるとなれば……なるほど、そっちのルートに進んでも結局一筋縄ではいかないってことかな。
「それで<奈落の獏>っていうのは、一体どんな生き物なんですか?」
「奈落の獏は人の心・夢を糧として存在する、穏やかな気性の王種だ」
獏と呼んでいたからその類とは思っていたが……ということは、俺は今、夢の中で夢を見ているような状態なのか。
「万華鏡の書庫は奈落の獏のサービスといったところだ。奈落の獏は古今東西、遥か悠久の彼方からあらゆる夢を喰らってきた。そうして蓄えた夢から得た知識を、自らを求めるほどの熱情をもった者に望む形で分け与える場が、万華鏡の書庫だ」
「熱情……」
「奈落の獏は、人の強い想いが好物なのだよ。そうして自らに美味をもたらす夢の持ち主に、何かの形で返礼したいとそう望んでいるのだ。だが今の時代に奈落の獏が気に入るほどの熱情というのは思いのほか少ない。だがそんな時に現れた君だ。故に獏は自ら進んで姿を見せたのだろう」
俺に奈落の獏について説明してくれるウォルさん。だが、何故彼は奈落の獏の気持ちを代弁するようなことが言えるんだ?
「ふむ、その顔はなぜ私がここまで奈落の獏について詳しいか、疑問に思っているようだ。幸い私は説明が嫌いではないので、些細な疑問にも答えるとも。仔細は省くが、私は奈落の獏に悠久のときを永遠に共に知識を蓄えたいという願望を訴えて、彼に同化させてもらったのさ。故に彼の気持ちや彼の見ているものを私も見ることができる。だから私は、君の名前も知っているというわけだ」
わざわざ俺の疑問を拾ってくれてどうも。
しかし、ウォルさんの説明が本当なら、俺の目的のものは……。
「あのウォルさん。ここが奈落の獏のなかの万華鏡の書庫であることはわかりました。でも俺の望む知識は、まだ得られてはいません。ここの本はみんな白紙だったし……これはどういうことでしょうか?」
俺の問いに、ウォルさんはずれたメガネを直す仕種をして応えた。
「考えられる理由は二つ。奈落の獏を以ってしても君の願いをかなえる知識が無いか。あるいは、君のその願いが偽りである場合だ」
「えっ……」
「前者ならばもうこれはどうしようもない。過去にも例を見ない珍事だが、ありえない話ではないだろう。だが、後者であるならば、話は簡単だ。獏は、君の本当の願いだけに応えようとするからな。偽りには見向きもしないのさ」
俺の願いが……この夢を終わらせたいと思う気持ちが偽者、っていうのか?
「いやいや……後者だとすると、獏はなんで俺に姿を見せてくれたんです? 願いをかなえたいが故に万華鏡の書庫を求めた俺の気持ちは、本物のはずですよ」
俺は何故か必死になって後者の可能性を否定した。
「求める気持ちは本物だろうさ。だが、その源である願いはどうかな? ヒトは自らの心にも平気で嘘をつける。時にそれを本物と錯覚できるほどに」
…………。
「とはいえ、何の収穫もないままでは、獏も申し訳なく思っているようだ。異世界の原風景を見せてもらった礼がしたいともね」
……結局、何が原因かは知らないが、俺の望むものはここでは得られないらしい。
そもそも図書館の中でも思ったが、魔法だの魔物だの王種だの、
ファンタジー要素がずらりと並んでいるのに、異世界とかそういったものに関してはめぼしい情報は殆ど無いあたり、このD世界という奴は、あくまで独立した一つの世界観と考えるべきものだろうな。
夢を見る原因を夢の中に求めて探るのは、やはり愚策なのだろうか。
2ヶ月以上も同じ世界観の夢を、もう一つの現実と錯覚しそうなほどのリアリティのあるD世界を見続けることは、明らかな異常だ。
ちょっと本格的に検査でもしてもらうかな……父さんには心配かけて悪いとは思うけど。
俺が気もそぞろにウォルさんの話を聞いていると、
「……そこで、君の別の願いを、別の形でかなえることにしたよ」
突如としてウォルさんを黒い霧が包み込んだ。
跳ね上がる存在感、そして向けられる敵意。
黒い霧は書庫全体に瞬く間に広がり、書庫を黒く染め上げた。
そして混沌へ。黒い霧に包まれた書庫は赤と黒のマーブル模様の不可思議な空間へと変異した。
「講釈の続きは実地だよ、康太郎君。君の可能性を広げる手伝いをしてあげよう」
まるでボクサーのように両腕を構えるウォルさん。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。可能性って一体――」
俺の言葉をウォルさんの一撃が遮った。
すばやい踏み込みも、存在超強化を発動している俺には、見切ることは容易い。
そのはずなのに。
「ぐはっ……!」
俺は顔面に見事なストレートパンチを貰い、その力を殺しきれず盛大に後ろに転がった。
<続く>
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