第41話 オウンゴール
水鳥は康太郎を空中へと放り投げた。
か細い女子の腕で大の男を投げ飛ばすなど尋常ではない妙技であるが、水鳥にとっては、ちょっとした人体力学の応用と称する彼女の一族に伝わる武術の技を用いただけのことに過ぎない。
むしろ彼女にとって難しいのはその流麗な足裁き。なにしろこれがあればこそ康太郎に反応一つさせなかったのだから。
康太郎は背中を地面にしたたかに打ちつけた。
「かはっ……」
だが、水鳥は見逃さない。康太郎は、投げられ宙にある間に状況を把握し、頭部の地面への直撃を避けたことをだ。
やはり、と水鳥は内心で得心する。自分が見初めたこの男は、武道に対しても適正を持っているのだ。
水鳥の観察眼は並々ならぬものがあり、一目見ただけでその人物の能力や将来性を見抜けるほどだ。
そんな彼女の目を以ってしても康太郎は尚も見切ることができない人物であった。
およそあらゆる分野に通ずる才能があり、それでいてどの分野にも開花しきれておらず、その器の大きさも知れない……まるで霧が掛かったようで、その正体は康太郎自身が思うところの底の浅さなのか、それともなんでも受け入れてしまうほどの大器か。
いずれにせよ、水鳥はそんな康太郎に恋するどころか、告白し今に至るまでで一足飛びに、愛しているといっても過言ではないほどにその想いを成長させていた。
政財界にも影響力のある家系に生まれ、複雑に絡み合う権謀術数うずまく環境の中で育ち、ある意味では早熟で俗世間を斜めに見ていた彼女にとって、恋だの愛だのは幻想に過ぎなかった。
そして自身は将来的には権力強化のための俗に言う政略結婚の道具であるという自覚もあった。
そんな自分が一目ぼれをするというのはまさに予想だにしなかった大珍事であり、彼女にとっては嬉しい誤算でもあった。
しかも惚れた相手の能力がすばらしいものであったのだから、彼女としては渡りに船である。
政略結婚のメリットを差し引いても将来的に康太郎が加入することによるメリットは大きいだろう。少なくとも水鳥はそう考えている。
勢いよく康太郎が全身のばねを使って跳ね起きた。
そんなスプリング、器用貧乏にできるほどのものではないはずなのだが。
「いってえ……なに、なんなのお前! いきなり投げ飛ばすとか、バカなの!? 趣味なの!? 変態なの!?」
酷い。なにもそこまで言わなくても。
水鳥に言わせれば、自身に対する認識が果てしなくズレている上に、お子様な幻想にとらわれて恋もできない康太郎の方がよっぽど変だというのに。
というのは、お前が言うなという話だ。自分だって、康太郎に出会っていなければ、恋など否定している立場であったのだから。
だがそれでも、今は肯定する立場であるからこそ、水鳥は言うのだ。
「康太郎君があまりにも愚かなことを仰るからいけないのです。相手を疑う、信用しきれない……そんなことは、当然のことなのですよ」
「……なに?」
康太郎が、訝しげな顔をした。
だが、言うべきことは言わねばならない。
「人とは元来エゴのかたまり。そして恋というのもまた本質的にはエゴであり、生物学的に見れば、生殖活動を円滑に進めるためのものでしかないのです」
そう、水鳥はそんな風にしか考えていなかったのだ。
「エゴである人が、自分以外の他者を疑うのは至極当然。家族でさえ、紐解けば一人一人の人間の集合でしかありません」
自分が見てきた世界のなんと信頼と信用の薄っぺらいことか。
うわべだけ、利害関係のみで繋がる関係など溢れ返っている。
「世の中の恋人が、夫婦が、全てが全部、康太郎君が思う関係であると思いますか? 違うでしょう。破局して、離婚することもあるのですから」
それがよいことであるとは思わない。だが、互いのエゴが時に絡み合った心を引き離す。
「恋なんて、いいものじゃないですよ。そのことで頭は一杯になるし、不安になるし……私、いつも凄く勇気を出しているんですよ? わかっていますか、康太郎君」
康太郎は水鳥から視線をそらし、頬をかいた。
「し、知らないよ、そんなの……」
「だったら、知ってください。私はいつも真剣なんです」
いつも手探りだったのだ。アプローチなど何が正解か、わからない。しかし、隠す意味も無い。伝わらないのなら、何度でも言って、わからせるだけなのだ。
「コホン、その反面私達は一人では生きていくことが難しい。故に他者を求めます。それを伝えるために、言葉で、態度で、行動で示すのです。恋愛にあっても同じこと。他者の信用を勝ち取るにはそれ相応の努力が必要なのです」
康太郎はうつむき、頭を掻く。視線を合わさないまま、水鳥に言う。
「で、それでなに。その話を聞かせて、俺にどうさせたいんだ」
水鳥は一つうなずきを返し、
「私が言いたいのはですね、私を振るには康太郎君のそれは理由として弱いっていうことなのです」
「…………」
「疑いも信用も、時を経て生まれるもの。そしてそれらは水物。互いに思い合い、積み重ねることが必要なものなのです。康太郎君の理由はそもそも前提が間違っているのです。初めから確固たる信用も恋も愛も存在しません」
「……価値観の相違だな。俺はそう思わない」
「いいえ、普遍的な事実です」
康太郎は苛立ち、そこでようやく水鳥の方を見た。
「……ああもう、意味わかんないんだよ! 一体俺の何処に、お前が執着する美点があるんだ! 大体、あんな俺の情けない話を聞いて、幻滅しなかったのかよ!」
怒鳴り散らす康太郎に、しかし水鳥は笑みを返した。
「いいえ、全然。むしろそれくらいの弱みがあるほうが可愛いですよ」
あの程度の話で冷める恋なら、自分はそもそも落ちていない。
一目ぼれから、これまで見続けて、思いはより強くなるばかりだった。
「……ああ、クソ。完全に目論見失敗じゃねえかよ、これ」
康太郎は両手で顔を覆い隠して嘆いた。
水鳥に言わせれば、そもそも彼は戦略を間違えているのだ。
自分に諦めてもらおうとするのならば、もっと無関心を貫くべきだった。路傍の石のように無いのと同じに振舞うべきだ。
こうして呼び出し、水鳥のことを一定以上に評価したうえで、なおかつ、自分の過去の事情から諦めてくれとお願いするなんて本当に愚策としか言いようが無い。
あるいは、彼女が知る俗物と同じように家柄に目がくらんで媚びへつらう態度でも取ればまた話は違うかも知れなかったが、彼は私がどのような立場の人間かある程度知った上で、その上で対等に接していた。
そしてまだ記憶に新しい穂波紫織子との件についての<話し合い>。
人気の無い校舎の端で、壁を背にして詰め寄られ、どこまでも冷たいその双眸に射抜かれて。
そんな風に自分に対して怒り、恐怖を覚えさせた人間などいなかったのに。
穂波紫織子に関する事というのが気に食わないが、あんな風に誰かを思っての真っ当な怒りを持てるというのは、水鳥にとっては持ち得ない煌きだったのだ。
そして今回、こんな話だ。
知れば知るほど好きになっていくのに、そんな傷まで見せられては、それを自分こそが癒してあげたいと、より想いを強くするのは自明の理だ。
結果として康太郎はとことん墓穴を掘りぬいた形となっている。
康太郎は、良くも悪くも根がお人好しなのだ。歪みを抱えた精神を持ちながらも、その目指す先は、どこまでも真っ直ぐなのだ。
なるほど神木征士郎も気に入るはずだと、水鳥は思った。
歪みを抱え、それでも尚真っ当を目指すお人よしなその心根は、水鳥や神木といった人の黒い部分を見てきている者にとっては眩しいのだ。
神木も神童と持て囃された男だが、康太郎はそんな神木に対して、水鳥が見る限りは対等に接していたのだ。一人の友として。
それが、どれだけ難しいことか。それがどれだけ嬉しいことか。
そんなことを恐らく、自分の価値を低く見ている康太郎は決して気づくことは無いだろうが。
「というわけで康太郎君。改めて言いますね、私とお付き合いしてください」
水鳥はその足捌きで康太郎にスッと近づき、顔を覆った両手を掴んではがして、言った。
「断る」
にべもない。こんな風に即断で断られるのは何度目か。
自身の女としての魅力はそんな欠けているだろうか。
康太郎は水鳥の腕をはがすと後ろに下がって距離を置いた。
それにしてもと、水鳥は思う。
この頑なさは、崩すのには骨が折れそうだ。しかし彼の傷からして、自分は最初の選択を誤っているとは思う。
ならば少しずつ距離をつめるように戦略を切り替えよう。
今まで自分は関係を早急に求めすぎていた。少々搦め手を使ったほうが彼には有効だろう。
こんな不器用な正攻法にも届かない体当たりをしてくるくらいだ、
きっと彼は搦め手をするのもされるのも苦手のはず。
でなければ、ドッキリのターゲットにもならなかったであろうから。
「……わかりました。では康太郎君の恋人になるというのは、しばらく諦めることにします」
「本当か!?」
……なんでそんなに嬉しそうな顔をするのですか。
不満な顔をが出そうになるところを、ぐっとこらえる。普段は表向きの表情など幾らでも作れるのだが、こと康太郎の前ではそれもうまくいかない。
これも恋のなせる業か。ようは、水鳥は甘えているのだ、康太郎に。
「はい。私は順番を間違えていました。恋人とかそれ以前の問題でした」
そうして水鳥は右手を差し出した。
「え、何、この手。掴んだ瞬間、俺を投げるとかそんなんじゃないよな?」
どうも水鳥は余計な警戒を彼に与えてしまったらしい。
「いえ、そうではなく。私と、友達になってくれませんか、康太郎君」
「えっ……?」
「恋人はダメでも、友にならなれるのでしょう? だって貴方は恋が怖いというだけ、なんですから」
その水鳥の言葉を聞いた康太郎はきょとんとした顔になった。
まるで盲点を疲れたような、そんな感じだった。
「あー、うん、そうだな……。いやでもなー……?」
彼は中々こちらの手を掴んでくれない。
「まさか友達にすらなれないほど、私のことを、嫌いなんですか?」
康太郎を上目づかいで、潤んだ瞳で見る水鳥。
無論、潤んだ瞳は演技である。
「いや、まあ、そういうのじゃなくて、だな……」
しどろもどろになる康太郎。
ここで即答できるくらいならまだ水鳥を恋人にしないという主張も受け入れられるのだが。
「えーっと、友達になりましょうも何も、な? 俺たちもう、友達……だったんじゃないの?」
「えっ……?」
今度は水鳥が驚く番だった。
思い返せば、水鳥にとっても気の置けない友人というのはいなかったわけで。
まさか康太郎がすでに自分をそんな風に見ていたとは思いもしなかった。あの一定以上の評価は、そういうことなのか?
これはつまり、今まで康太郎に好意を伝えてきた水鳥の努力はまったく報われてなかった、ということにはならないのではないだろうか。
とにかく、一度出した手を引っ込めるのは、なんとなく格好がつかなくて。そしてドサクサにまぎれて、彼に触れたいという欲求もあったので。
「では、改めて。私と、友達になってください、康太郎君。もう既に友達であるなら、この手を取るのは、そう難しいことではないのでは?」
そうして水鳥は歩をつめた。
「そう、だな……ったく、何やってんだか、俺は」
康太郎は水鳥の手を掴んだ。
「っ!」
それだけで水鳥の鼓動はトクンと高鳴った。
「よろしくな、佐伯」
康太郎はぶっきらぼうに苗字で水鳥を呼んだ。
「水鳥、と名前で呼んではくれないのですか?」
「女の子の友達の名前を呼び捨てにできるかよ。そんなのは、2次元だけにしとけって……いや、なんでもない」
少々甘えた声で言ってみたが、ダメだった。
まあ、これは後の楽しみに取っておこう。
自分の名前を呼ばれるそのときは、きっと……自分達の関係が良い形で変わるときなのだから。
こうして、戦いは佐伯水鳥の圧勝で終わり……康太郎は過去の話し損、余計なダメージを負っただけで。
そして二人は、改めて、<友達>という関係に治まることになった。
余談ながらその続きとして。
「えいっ」
「やっぱりかーー!」
いたずら心が働いた水鳥は、握手した康太郎の手を使って投げ飛ばした。
心の片隅で警戒していた康太郎は、投げられた勢いを利用して捻り側転をしてダメージを回避したという。
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どうしてこうなった。 こうしてこうなった!
佐伯ときっぱり縁を切るつもりが、逆に正式に友達になってしまうとか、どうかしている!
もう完全に道化じゃないか……余計な過去を教えただけじゃないか。
これはあれか、自分でも思っていないほどに意識していたりするのか?
なんかもうよくわからん……もうこんな時はD世界に逃げ込むしかない!
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やはりD世界を夢に見た俺はいつものように、図書館で情報収集していた。
そして物色中に俺は発見してしまう。穴を。
ぽっかりと開いた、人一人入れる程度の大きさの黒い穴を。
R世界で穴があったら入りたいとは思ったが、まさかD世界でそれそのものを見ることになるとは。
って何故にこっちに向かってくる!?
俺は逃げ出し、アルティリアとの合流を急いだ。
俺の中である考えが閃いたのだ。これはもしかすると、図らずも当たりを引いたのではないかと。
<続>
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