第1話 こんな明晰夢は嫌だ
──歩き続けて、数時間後。
「はぁ、はぁ、はぁ、くそ。夢ならいい加減覚めろっていうんだ」
自然と口からついて出る悪態が、森の中に吐き出されては消えていく。
「ったく、これは夢なんだろ? だったら、ご都合主義的にお助けキャラが出てきたっていいじゃないか……」
独り言が増えてきていた。いい加減参りそうだ。
歩けども歩けども景色は変わらず、その上今の俺は全裸なんですよ?
局部をふらふらと晒したまま歩くなど、例え何者が見ていなくとも、俺の羞恥心が耐えられない。
「もうどんくらい歩いた? いい加減足の裏が限界だよ」
――これは夢だ。夢だ。夢だ。夢だ。夢じゃなけりゃ何だって言うんだ。
――夢じゃなけりゃ……現実、なのか?
――現実ならば……こんな森の中、何のサバイバル知識もない俺は……。
どんどん思考が悪いほうへと進んでいく。
そんなときに、俺の前方に、うすらぼんやりと黒い影が見えた。
(もしかして……人か!?)
まともな思考力がなくなっていた俺は、足の痛みも忘れ、不用意に影へと近づいていく。
近づくにつれ、徐々に黒い影の姿がはっきりしたものへと変わっていく。
だがそれは、人ではなく――
「く、熊……!?」
お助けキャラなんかじゃなかった。体長は2メートルはあるだろうか。影の正体は人も食べる大型の哺乳類だったのだ。
俺はとっさに身を低くし、近くの茂みに身を潜めた。
幸い熊はこちらに気づいていない様子だった。
俺は、早くどこかに行ってしまえと祈りながら熊の様子を伺っていた。
(行け、行け、行っちまえ…!!)
不意に熊がこちらのほうに視線を向けてきた。ドキリとして思わず息を呑む。
しかし、熊は視線を逸らすと別のほうへ去っていた。
「……た、助かった……ふふ、やっぱり夢だぜ。熊なんかに襲われるわけがないんだ」
安堵のため息を漏らし、俺はそのまま地面に座り込んだ。
座ったらさっきの熊との遭遇の緊張感から抜け出した安心感のせいか、一気に今までの疲れが出てきた。
「ふう……まだ、覚めないのかな、この夢」
いい加減わかってきていた。この痛み、この疲れ。夢で通すにも限界ってやつがある。リアリティがありすぎる。
認めたくはない。ないが、これは現実、なのかもしれない。明晰夢なんて代物じゃないかもしれない。
そんなふうに思い始めると急に不安が押し寄せてきて、鼻がつんとしびれて、泣きそうになる。
泣いたら駄目だ。こんなわけもわからないところで泣いたら、俺は耐えられなくなる。
まったくさすがガラスのチキンハートだ。我ながら呆れるほどのヘタレ根性で情けない。
そんな時、俺の後ろの茂みから、妙な気配がした。さっきの熊とは比較にならないほど嫌な予感がする。
「な、なんだよ、今度は何が出てくるんだよ……」
現実は小説よりも奇である、なんてよく言ったものだ。さっきの熊とはまた違う脅威が俺の前に姿を見せた。
「キシャァァァァァァ!!」
現れたのは俺の体をはるかに凌駕した大きさを持つ、巨大な蛇だった。
「う、うわああああああああああああっ!」
それを見た瞬間の俺は思考が凍りつき、ただ本能のままに叫び、みっともなく反射的に逃げ出していた。
後になって思うのだがこのとき、誰もいなくてある意味で非常に助かった。こんな醜態、俺の黒歴史でも1,2を争うぞ。
足の痛みに目を白黒させながら、それでも俺は草木の中を駆け抜けた。
そんな俺を巨大蛇は獲物を逃がすまいとでもいうのか、俺に迫る勢いで追いたててくる。蛇とはそんなに高速で動く生物なのか?
だが、俺の必死の逃亡劇は、1分もしないうちに終焉を迎える。
「ぐぎっ……!!」
地面に顔を出している木の根の尖った部分を踏み抜いてしまい、俺はその強烈の痛みに姿勢を崩して転んでしまったのだ。
なまじ勢いがついていたために、二転三転して体のあちこちに傷がついていく。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
(だめだ、こんなバケモノになんて俺じゃあどうにかできる気がしない……!!)
俺が動きを止めたためか、先ほどよりもゆったりした速度で俺に迫る巨大蛇。
彼我の差が縮まり、蛇と俺の目線が交差する。
すぐさま噛み付かれるかと思ったのだが、どうしたことか蛇は俺をじっと見つめたまま、動きを止めていた。
「な、なんだよ……そんな、熱い視線送られたって応えられねえって……」
(……面白い理力の波長をしているな、人の子よ)
「!? いきなり声が!?」
(我の声を聞き取れるか。幾年月ぶりにみる人の子だが、これは面白い変り種だな)
頭に響いてきたのは、渋みが効いているダンディなナイスミドルが出しそうな重低音ボイス。
辺りを見回してみるがを俺の周囲にはこの蛇以外には誰もいない。ということは……
「この声、まさか、お前…なのか?」
(我以外に誰がある。しかも我に向かって「お前」呼ばわりとは、身の程を弁えよ、人の子)
やはりこの重低音ボイスはこの蛇のものらしい。
もしかすると、さっきの熊が去っていったのは、この巨大蛇の存在を察知したからかもしれない。
またしても俺の理解を超えた展開になり、俺はこの蛇を黙って見つめることしかできなかった。
(ふむ? 人の子よ、お主は我がどのような存在か理解しておらぬのか?)
「あ、当たり前だろうが! 喋る蛇とか、初めての経験だっつーの!」
偉そうなこの蛇は自分を知ってて当たり前、みたいな態度だ。
(なるほど、ではこの領域が何であるかも理解しておらぬのか?)
「あ、ああ。目が覚めたらいきなり裸で捨てられてたんだよ」
この領域が何だって? ますます要領を得ないことをいう言う蛇。
「まあよい。どんな理由があるにせよ、端とはいえ我が領域を侵したのだ。その罪はお主の血肉によって購うがよい」
な、なんだって? 俺の血肉によって購うだって?
「お、おい。何言ってんだよ」
(喜ぶがいいぞ。お主のような穢れ持ちの下賎なものが世界蛇である我の血肉糧となることができるのだからな)
蛇はそう言うとその巨体を一旦俺の身から離すと勢いをつけて、俺を丸呑みできそうなその口で噛み付いてきた。
「う、うわあ!」
命の危機が迫り第六感が働いたのか、俺史でも最高の反応速度で横に飛び、蛇のかみつきを回避することができた。
「や、やめろ! 俺は食べたってお、おいしくないぞ!!」
なんだ、このテンプレな命乞いの台詞は。
(ふふ、我を前に活きがよいなあ。安心するがよい。我は好き嫌いしない。それにお主の理力からすれば、意外な珍味であるやもしれん。お主の魂の一片に至るまで咀嚼してくれよう)
最初の不遜な態度とは違い、蛇は俺を食べることに対してノリノリであった。
「くっそ~、夢は夢でも悪夢じゃねえか! こんなのをよりにもよって明晰夢でなんて見たくなかった! どうせならもっといい夢が見たかった! 俺の嫁大集合でポロリありの水泳大会とか!!」
思いっきり錯乱するしてわけの分からんことを口走る俺。
オタクやっていいのは現実と妄想の区別がついているやつだけだって言ってなかったかって? いいんだよ、夢は現実じゃなくて、俺の脳内だけのことなんだから。
まあ、悪夢なんてこんな風に往々にして理不尽なもんさ。多分、この蛇に食われることで俺は目を覚まして現実に還れるのだろう。
そう思うとさっきまでビビリまくっていた俺も、諦観からか落ち着きを取り戻していた。
ちなみにこの悪夢が最悪現実であるという可能性を、俺はこのとき棚に上げている。
そして俺は、この巨大蛇にひとつの問いかけをする。
「いや、取り乱して悪かった。後生だ、最後に俺の命を糧とする、お前の名前を教えてくれないか」
(錯乱したかと思えば不遜にもこうして我の名を尋ねたりもする。お主はよくわからんな)
俺の芝居がかった物言いに苦笑(?)する蛇。
(まあよい、久方ぶりに食べる面白き人の子だ。特別に名乗ってやろう。我が名はアンジェル。世界蛇の一柱だ)
「世界蛇……アンジェル……」
(ついでだ人の子よ、お主はなんと言う名だ?)
「……俺は、九重 康太郎だ」
(聞きなれぬ響きだ。ココノエと申すのか)
「いや、九重は苗字のほうで……って別にどうでもいいか。夢の蛇相手に何言ってんだ俺は。うん、ココノエでいいよ」
(ふむ、ではココノエ。お主を食すことにしよう)
さあ、いよいよ以って俺が食われるときがやってきたようだ。
まったくここ最近夢なんて見ていなかったのに、久しぶりに見たと思ったら明晰夢でしかも悪夢だなんてな。だが、この明晰夢、今回みたいに偶然じゃなく今後も意識的に見ることが出来たのなら面白いかもしれない。その時はこんな蛇に食われる悪夢ではなく、もっと楽しい夢を見よう。生きてたらな。
――そんな風に、これは夢だからだと、簡単にあきらめて。
――巨大な蛇にいざ食べられようとする俺の胸裏に生まれた最後の感情は。
――理不尽に対する、暗くて黒い怒りだった。
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我が領域に人間が紛れ込んできた。守り人を称する彼奴らは何をしていたのか。
だがこの人間から世にも珍しい理力が感じられた。
それにこやつ自身には穢れ持ちと言ったが、実際のこやつには、この世に生きる者なら誰しもが持ちえる穢れ――カルマ――がまるで感じられなかった。まるでこの世界に生まれたばかりの存在とでもいうように。
本来であれば、人間など食うにすら値しない存在だったが、少しばかり興味が湧いたのでこの人間――ココノエを食うことにした。
美味だった。
悦楽の極みとも言えるほどのものだった。
これほどの美味には出会ったことがない。
ほどよく脂ののった肉は穢れがないため、まったくしつこくない。それでいて噛めばかむほど芳醇かつ複雑な味わいが我の全身を駆け巡った。
だが、もっとも格別であったのはその魂。これはもはや「この世のものではない」と形容するにふさわしいものだった。
そしてその魂は、我が牙をつきたてた瞬間に弾け、あふれ出したのだ。
やつから感じた波動はごく少量のものだったはずなのに、実際の量は我が感じた何万倍もの桁外れのものだった。
魂に圧縮がかけられているとは一体どうしたことだろうか。
だが、これだけの魂を我が取り込めば、我が始祖にも匹敵する存在になるだろう。
まったくよい拾いものをしたものだと思ったものだ。
だが、後に我はこのときの軽率さを身を以って後悔することになる。
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第2話に続く。
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