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ママね……         :約2000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/08/09

 階段を降り、あくびをしながらリビングに入った僕は思わず声を漏らした。

 ママが食卓の椅子にぽつんと座っていたのだ。明かりもテレビも点いておらず、窓から差し込む夕暮れの薄明かりだけが部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。その薄暗い光の中でママは微動だにせず、ただ正面の一点だけを見つめていた。

 テーブルの上には皿が一枚もなく、炊飯器も動いていない。家の中が不気味なくらい静まり返っていたので、誰もいないと思い込んでいた僕は心底驚いた。


「あの、ママ……? ご飯は? もうこんな時間だよ」


 そう言って僕は壁掛け時計を見上げた。いつもならとっくに夕飯ができている時間だ。それなのに今日は支度をした形跡すらない。弁当でも買ってきたのだろうか。

 そう思い、僕はテーブルやキッチンに視線を巡らせたが、それらしい袋は見当たらなかった。


「……ママね」


 ママは前を見つめたまま大きく息を吐くと、ぼそりと呟いた。


「ママね、地球温暖化を止めに行ってきたの」


「……え?」


 ママは椅子の背もたれに身を預けると、ゆっくりと天井を見上げ、また大きく息を吐いた。


「えっと……どういうこと?」


「美術館に行ってね、絵に腐ったコーンスープをぶちまけてきたの」


「何してんの!?」


「コーンスープが腐るのは、地球の平均温度が上がっているからなの。2100年までに気候変動を止めなければ大変なことになるわ。今よりも地球の平均気温が四度上がった場合――」


「あ、あのさ!」


「なーに?」


 ママは相変わらずこちらへ顔を向けようともせず、間延びした声を返した。


「えっと……つまり、デモ活動をしてきたってこと? それはまあ、好きにしたらいいと思うけど……いや、よく捕まらなかったな。それはそうと、ご飯は?」


「ママね……」


「ん?」


「SNSに蔓延る情報操作を止めてきたの」


「は……?」


「よその国の人たちがこの国の人のふりをして、男女や社会を分断しようとしているの。デマを流して、人と人を憎み合わせ、政府への批判を煽って――」


「あのさ!」


「なあに?」


「いや、その……止めてきたって何?」


「正しい情報を流して、一人ひとり誤解を解いて回っていたの」


「あー……SNSで延々と絡んでくる人か。まあ、それも好きにしたらいいと思うけど、ご飯は?」


「ママね……」


「何さ……」


「少子化を止めてきたの」


「はいはい。止めるための活動をしてきたってことね。いや、止まらないでしょ、少子化は。何したってんのさ」


「セックス」


「はあ!?」


「サステナブル……」


「それは意味がわからないけど、つまり、誰かとしてきたってこと……? おえっ」


「ふう……」


「満足げな息をやめて。まあ、お父さんももういないし、好きにすればいいと思うけど、僕のご飯……いや、食欲なくなってきたな」


 僕は眉間を指で押さえ、ため息をついた。ママはいったいどうしてしまったのだろう。話の筋がまったく見えてこない。

 頭がどうかしてしまったのだろうか。ああ……さっきまで空腹だったはずなのに、胃のあたりはずんと重くなり、じわじわと苛立ちが込み上げてきた。


「ママね……」


「今度は何……」


「軍に志願書を出してきたの」


「はいはい……え?」


「今、世界は大きな争いの渦の中にあるわ。それは、この国だって例外じゃないの。軍靴の音はもうすぐそこまで迫っている。何事も知らされてからでは遅いの。気づいた今こそ行動すべきなの――」


「ちょ、ちょっと待って! え、どういうこと? ママ、戦争に行くの……?」


 震えながら訊ねると、ママはゆっくりと首を動かし、ようやくこちらを向いた。

 その瞬間、背筋がぞくりとした。顎をわずかに上げ、どちらかといえば凛とした表情でこちらを見ている。けれど、その瞳は僕を映しておらず、もっと遠くの何かを見据えているようだった。


「いいえ」


「え?」


 ママの表情がわずかに緩んだ。


「あなたが行くの。じきに迎えが――ああ、来たみたい」


 その言葉の直後、玄関のほうから物音が聞こえた。


「いってらっしゃい」


 ママは小さく手を振った。

 僕はただぽかんと口を開けた。意味が分からない。だが数拍遅れて、ざわざわと胸の奥から冷たい不安が全身に広がっていった。


「いや……は? じょ、冗談でしょ? ね? ね?」


「ママね……」


「な、なんで勝手に! あ、あ……」


 どうやら玄関の鍵は開けっぱなしだったらしい。

 廊下を踏み鳴らす靴音がこちらに近づいてくる――次の瞬間、リビングのドアが開き、無地の作業服を着た男たちが中に入ってきた。

 がっしりとした体躯に、鋭く冷たい目つき。その威容に僕は思わず一歩後ずさりした。手を前に突き出し、「待ってください」と声を上げようとしたが、男たちは僕の姿を認めるや否や素早く距離を詰め、その腕を左右からがっしりと掴んだ。


「ママをやめたの。もう、あなたの世話をするの疲れちゃった。政府のせい、社会が悪い……あなたが語る政権批判とか社会論とか、もううんざり……。はい、よく頑張ってきました……」


 ママは自分の頭を手でぽんぽんと撫でた。


「で、でも、僕はもう四十歳だし、最近、股関節が痛いし……あの、はな、放してください! 放せ! ママ! ねえ、ママ!」


 ――戦争を止めてきてね。


 ずるずると廊下を引きずられていく僕に向かって、ママは小さく手を振った。その表情には、久しく見なかった穏やかな笑みが浮かんでいた。

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