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第一話「深夜三時、禁書保管庫」

# 第一話「深夜三時、禁書保管庫」


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【演算記録:旅の第0日、または始まりの夜】


予測:今夜、侵入者が来る。確率99.99%。

観測:来た。


予測:侵入者は目的の情報を手に入れ、退出する。確率98.7%。

観測:正しい。ただし、想定した形式とは異なった。


備考:演算は、概ね正確だった。

   ただ「形式」の部分が——まだ、うまく説明できない。


---


 深夜三時。

 アルスは扉の前に立っていた。


 禁書保管庫の外廊下は、石造りの壁が息を殺しているような静けさだった。松明の一本もなく、足元を照らすのは調律器の先端から漏れるかすかな光だけだ。腰に差した金属管——調律器を抜き、廊下の天井に向ける。


 地脈の流れを読む。


 廊下に張り巡らされた警戒術式は、細い糸のように魔力が通っていた。侵入者の気配を感知すれば音を鳴らし、評議会の鎮圧部隊を呼ぶ仕掛けだ。アルスは目を閉じ、その流れの歪みを探す。歪みは、ある。一箇所、通路の中央付近に、術式の結び目が固まっている。


 均す。


 音もなく、歪みが解けた。術式は消えたわけではない。ただ、流れが滑らかになった。侵入者の気配を感知する「引っ掛かり」が、なくなっただけだ。


 調律師は魔法を使わない。整えるだけだ。


 それがアルスの仕事だった。七年間、ずっとそうしてきた。


 廊下を進み、最深部の重い扉に手をかける。金貨三十枚。依頼の内容は単純だった——禁書保管庫の最深部に保管されている特定の文書を取ってくること。評議会の人間に知られずに、一人で。組合の中級調律師に頼む仕事の規模ではないとは思ったが、インファ・クロスは「あなたならできるはずです」と言って笑っていた。細面に、作り物のような笑顔をいつも貼り付けている男だ。


 力を買われているとも、汚れ仕事を押し付けられているとも考えられるが、単に仕事だから来た。それだけだ。


 扉を開ける。


---


 部屋は広かった。


 天井まで棚が並んでいる。棚には分厚い書物が詰まっており、羊皮紙の束、革装丁の書物、封印された筒状のものが雑然と積み上げられていた。魔力を帯びたものが多いのか、棚全体がうっすらと青白い光を放っている。足を踏み入れると、空気の質が変わった。古い紙と、長い時間の匂いがする。


 目的の文書の場所は聞いていた。最深部、東側の棚、最上段。


 アルスは棚の端を見上げた。


 ——高い。


 天井近く、人の身長の三倍以上の高さに、目的の文書らしき筒が見えた。足場になるものを探す。はしごはない。踏み台になる台座もない。調律器を使って浮けるほどの魔力操作はできない——調律師は整えるだけで、自分を動かす術式は持っていない。壁を伝って登れる突起があるかと確認したが、石造りの壁は滑らかで、手がかりになるものが何もなかった。


 部屋を見回す。何か使えるものが——


 そのとき、別の廊下から、音が聞こえた。


 低い機械音。保管庫の別の警戒機構が、何かを感知している音だ。


 アルスは舌打ちをした。侵入は感知されていない、はずだが——扉を開けたことで別のトリガーが動いたか。時間が削られている。


 腰を落として思考する。別の手段。別の経路。何か——


 「何を探していますか」


 声がした。


---


 人の気配は、なかった。


 正確には——俺の調律能力が反応しなかった。魔力や生物というのは通常何らかの流れを持ち、その変化を俺は人よりも感じることができる。だから人がいればその気配を探らずとも辿ることができるし、ましてや人が同じ空間にいて気づかないはずはない。


だがそいつは最初から、部屋の中央に、いた。突然現れたのならば大きな魔力を嫌でも感じるはずだ。つまり、アルスの目が「関係ない」と処理していただけ。それほど存在感がなかった、とも言えるし、その場所に無機質な物が置いてあると思っていた、とも言える。


 部屋の中央の床に、少女が座っていた。


 小柄だった。アルスの肩口ほどの身長だろうか——立っていれば、という話だが、今は膝を抱えるでもなく、ただ静かに足を折り畳んで座っている。長い黒髪が背中に沿って落ちていた。白いローブ。手が細く、肌が青白い光の中でさらに白く見えた。


 目が、アルスを見ていた。


 金色の瞳だった。溶けた星に似た色で、何の感情も映していない。見ているというより、観測している、という感じがした。


 アルスが「お前、何者だ」と言った。


 「世界のあらゆる情報を演算できる存在です」と少女が答えた。


 抑揚がなかった。声に温度がなかった。呼吸のように言葉が出てきた。


 聞いたことがある。評議会は、顔を揃えて会議をしているわけでもなく、ただ一人の演算術者による結果を元に9割の判断を決めている、と。


 大層な大魔術使いか、洗脳者が大勢のお偉いさんを前に煙草を吸いながら重々しく結果を伝えるような想像をして笑ったことがある。


 イメージとはだいぶ違うが、この十五歳にも満たないであろう外見の少女が。


 可能性はある、と思った。


 「何を探していますか」


 アルスは少女に敵意がないことを確認すると、一拍置いて、探している文書の内容を言った。地脈の調律記録、七百年前の大崩落に関するもの。評議会が封印した、世界の心臓に関する最古の記録文書が欲しい、と。


 少女はまばたきをした。一度だけ。


 「知っています」


 そして答えた。


 本の取り方ではない——文書に書かれていた事実が、彼女の抑揚のない声で、言葉として端的に表現される。七百年前の大崩落の原因。地脈の収束点の位置。世界の心臓への到達条件。潮と地脈が合わさる一刻の長さ。調律師が立つべき場所の座標。それを均す手順。


 それを真実と裏付けるものは何一つない。しかし、アルスにはそれが真実以外の何物でもないと判った。


 録音機はない。アルスは全てを記憶に刻みながら、聞いていた。


 長い時間ではなかった。一分ほどで、必要な情報はすべて出揃った。


 「他に何か?」と少女が言った。


 「いや」


 上を見る。相変わらず人が使うとは思えない高い位置から、書物たちがアルスを見下ろしていた。



 「理解はした。嘘ではない、と思う。ただし————情報を形として持ち出さないといけない」


 「形」


 機械音が部屋の近く、複数の位置で聞こえる。そろそろリミットか。


 少女を見る。細く、白いその腕を見る限り片手でも持ちあげられそうだ、とアルスは思った。


---


 少女はそこにいる。同じ場所に。同じ姿勢で。アルスが来る前もそうだったように、アルスが出ていった後もそうであり続けるように——まるで数百年間、そうしてきたかのように、座っていた。動く素振りもなかった。表情も変わっていなかった。目だけがアルスを見ていた。金色の、何も映さない目が。


 アルスは「来い」と言った。


 ——理由はない。


 気づけはそう口走っていた。


 少女が「非効率です」と言った。


 抑揚は変わらない。事実を述べるように言った。


 「私を連れ出すリスクは、資料を持ち出す場合より格段に高い。あなたが単独で退出する場合と比較して、捕捉される確率が四十一パーセント上昇します。演算外の行動です」


 「そうだな」とアルスは言った。


 否定しなかった。少女の言っていることは正しい。正しいと思いながら——


 「だが、時間がない。それに」


 少し間があった。アルスは、自分がこんな台詞を言うとは思っていなかった。


 「お前が俺に必要な情報を教えてくれた礼に、お前が知らないものを俺が教えてやる」


 少女が黙った。


 初めて、返答がすぐに来なかった。


 「知らないもの、とは」


 「外の風だ」


---


 その言葉の後、部屋が静かになった。


 少女は答えなかった。金色の瞳がアルスを見ていた。何かを計算しているのか、何かに詰まっているのか、アルスには読めなかった。表情は変わっていない。変わっていないのに、何かが違う気がした。


 「風は知っています」と少女がゆっくり言った。「大気の流動。気圧の差異によって生じる現象。体感温度を下げ、音を運ぶ。記録は六千万件以上あります」


 「そうか」


 「しかし」


 少女が続けた。声が、わずかに——本当にわずかに——変わった気がした。


 「感じたことは、ありません」


 アルスは何も言わなかった。


 少女が立ち上がった。


 床から、するりと立ち上がった。長い黒髪が背中から流れた。白いローブの裾が揺れた。アルスの肩口ほどの背丈で、真っ直ぐにアルスを見た。


 「案内を」と少女が言った。


---


 廊下を走りながら、アルスは考えていた。


 仕事の範囲が、どこかで変わった。そのことだけははっきりしていた。どこで変わったかと問われれば——「来い」と言った瞬間だ。理屈はなかった。理屈より先に口が動いた。七年間、理屈の範囲でしか動いてこなかったのに。


 「左です」と少女が言った。


 アルスは左に曲がった。


 「この経路は評議会の警戒が薄い。出口まで確率七十一パーセントで通過できます」


 「七十一か。低いな」


 「残り二十九パーセントの場合、別の経路を案内します」


 「了解だ」


 走りながら少女がアルスの隣を歩いていることに気づく。走っているのはアルスだけで、少女は速足で歩いているのに、なぜかついてきていた。足音がほとんどしなかった。


 この細い体のどこにそんな力が? いや、あるいは魔力か。


 考えていたのは1秒。今はどうでもいい。


 廊下の突き当たりで、重い扉が見えた。外への出口だ。


 アルスが調律器を向け、扉の術式を均す。鍵が外れる感触があった。扉を押す。


 夜の空気が、どっと入ってきた。


---


 少女が止まった。


 一秒だけ。


 扉の枠のところで、足が止まった。


 風が吹いていた。大陸の秋の夜の、冷たい風が。少女の黒髪を揺らした。白いローブの裾を揺らした。


 少女は何も言わなかった。


 「止まるな!」アルスは叫んだ。


 少女が再び歩き出す。


 扉の外へ、一歩踏み出した。


 それだけだった。表情は変わらなかった。何も言わなかった。ただ、その一歩が——六百年ぶりの、最初の一歩だった。


 アルスにはそんなことはわからない。ただ走れと思っている。追手の声が廊下の奥から聞こえ始めていた。


---


 安全な場所に出たのは、それから十五分後だった。


 大陸中部の街道の外れ、廃屋の陰。アルスは息を整えながら、懐から小型の通信石を出した。インファへの連絡用に渡されていたものだ。


 「取れた」と言った。


 少し間があって、インファの声が返ってきた。「資料は」


 「資料じゃない」


 また間があった。


 「……どういうことですか」


 「そのままの意味だ」アルスは少女の方を一度見た。少女は廃屋の壁に背をつけて立っていた。天を見上げている。星でも見ているのかもしれない。「情報を知ってる奴を連れてきた。資料より早い」


 今度の間は、長かった。


 「それは——」


 「なんでも聞けるから、こっちの方が効率がいい」


 「……そうですね」


 インファの声はすぐに戻った。いつもの、滑らかな声に。「それは確かに。ではこちらで手配を——」


 「待て」


 アルスが言った。


 「なんで俺を、この任務に選んだ」


 沈黙。


 一拍。二拍。


 インファが笑った気配がした。「あなたが適任だと判断しました」


 答えになっていない。アルスはそう思ったが、追及しなかった。今は逃げることの方が先だ。


 通信石を懐に戻す。評議会の鎮圧部隊の気配が、まだ遠くにある。


 「行くぞ」とアルスは少女に言った。


 少女が振り向いた。金色の瞳が、アルスを見た。


 それからもう一度、夜空を一秒だけ見上げて——


 「わかりました」と言った。


 歩き出した。


 アルスの隣を、足音もなく。


---


 世界の終わりまで、七百二十三日。


 そのカウントがまだ誰も知らない数字だった夜に、禁書保管庫の最深部で、「お前が知らないものを俺が教えてやる」という約束だけが交わされた。


 ——約束した側は、それが約束だとは思っていなかった。

  約束された側は、約束という概念をまだ知らなかった。


 それでも、旅は始まった。


---


**第一話 了**


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