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煙の街の月明かり  作者: 犬山三郎丸


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月の影

ルナの影

敵の熱が、助けを求めて震えていた。


アイナの右目――ゼノが作り上げた高精度熱源センサーが、工房の分厚い鉄扉の向こうを鮮明に映し出した。


視界の半分を占める青いノイズ。その奥に、ぼうっと浮かび上がる橙色のシルエット。さっきまで追ってきた、冷たい金属の塊――回収ボットとは、明らかに違う。


「……熱源が、人型?」


機械みたいな無機質な熱じゃない。脈打つ血が生む、揺らぎのある温度。今、隣で眠っているゼノと同じ――生身の人間の熱だった。


その影は、工房の入り口から少し離れた瓦礫の陰で、じっと動かない。監視しているのか、それともゼノの放電で深手を負って動けなくなったのか。右目の解析データには「心拍数上昇」「体温低下」の不穏なアラートが点滅している。


「……う、ん……」


隣でゼノが苦しげに寝返りを打った。背中の傷から、まだ微かな熱が漏れている。


(もし外の人間が『スカイ・ピラー』の追手で、ボットを操っていたら――)


ゼノは怪我をしている。今は、私が確認しないと。


アイナは、ぐっすり眠るゼノを起こさないように、慎重に彼の腕をすり抜けた。


「ゼノは怪我してる……。私が確認しなきゃ」


半分機械になった右目が、暗闇の中でも外の構造をくっきり映し出す。アイナは音を立てないよう、猫みたいな足取りで鉄扉へ近づいた。


扉には、外の様子を見るための小さな覗き穴がある。アイナはそこに、青く光る右目をそっと押し当てた。


(……あそこに、いる)


瓦礫の陰にうずくまっているのは、やはり人間だった。ボットのような冷たい銀色の装甲ではなく、泥と油に汚れた厚手の防護服。解析機能がズームすると、その人物が激しく肩で息をし、片腕を押さえているのが見える。


足元には、先ほどゼノが放電で焼き切ったはずの回収ボットが一体、無残にひっくり返っていた。修理しようとしていたのか、それとも動かなくなった機体を盾にしているのか――判断はつかない。ただ、状況が悪いことだけは分かった。


ふと、その人物が顔を上げた。


覗き穴越しに視線が重なった気がして、アイナの人工心臓がドクンと跳ねる。


――見覚えがある。


昼間、ボットたちがアイナを囲んだ時。遠くのビルの屋上からこちらを冷ややかに見下ろしていた、「スカイ・ピラー」の監視員の一人だ。


(……一人だけ? それとも、近くに仲間が隠れてる?)


右目の表示は容赦なく現実を叩きつけてくる。体温は刻一刻と下がっている。放電の余波か、瓦礫の下敷きになったのか――自力で立ち上がるのは、難しそうだった。


アイナは、自分の回路が「論理的ではない」と警告を鳴らしているのを感じた。相手はアイナを連れ戻そうとした、敵側の人間だ。放っておけば、そのまま夜の寒さと怪我で動けなくなるでしょう。


けれど、アイナの半分残された人間の心が――そしてゼノが吹き込んだ新しい命が、「見捨てるな」と叫んでいた。


「体温が下がってる……助けなきゃ」


アイナはゼノを起こさないよう、音を殺して扉のボルトを外した。冷たい外気が工房の中へ流れ込んだが、ゼノに風が当たらないよう素早く外へ出て、また静かに扉を閉めた。


暗い路地裏、瓦礫の陰。アイナの右目は、青白い闇の中に沈むターゲットを正確に捉えていた。


近づくと、その監視員は力なく壁にもたれかかっていた。防護服の隙間から見える肌は白く、ガタガタと震えている。アイナの足音に気づいたのか、男は重い瞼を細く開けた。


「……あ……お前、は……」


声は掠れ、意識も混濁している。視線の先には、機能停止して火花を散らすボットの残骸。アイナを捕まえるための「道具」を直そうとして、逆にその過負荷に巻き込まれたのかもしれない。


アイナがそっと手を差し伸べると、男は恐怖に目を見開きた。


「来るな……! この、化け物め……っ、再調整、してやる……!」


震える手が腰のホルスターへ伸びた。けれど力が入らず、その手は虚しく地面に落ちた。男はそのまま、がくりと首を垂れて意識を失いる。


(……このままじゃ、本当に死んじゃう)


アイナは男の体を引きずり、工房の軒下――少しでも風が当たらない場所まで運びた。そして、自分の熱源を最大にして、冷え切った手に触れた。


その時、男の懐から一冊の古い手帳が滑り落ちた。そこには、アイナの「個体識別番号」と、何かの座標、それから誰かの名前が殴り書きされていた。


アイナは男の罵倒も、自分に向けられた「化け物」という言葉も無視して、防護服を必死に緩めた。救急キットから保温シートを引き出し、巻き付けた。


「死なせない……。ゼノが私を助けてくれたみたいに、私も……!」


指先が、男の微かな脈動を捉える。右目のスキャンが、体温がゆっくり上昇へ転じたことを示した。


安堵で胸が熱くなった、その瞬間。


背後で、扉が乱暴に開く音が響きた。


「……アイナ!? どこだ、アイナ!」


飛び出してきたゼノは、肩を怒らせ、片手で傷口を押さえながら血走った目で周囲を見渡した。そして、瓦礫の影で「敵」を抱え込むアイナの姿を見つけた瞬間――顔が驚愕と怒りで凍りついた。


「……お前、何してんだ……? なんで、そいつがここにいる……。……そいつは、お前をガラクタに戻そうとした奴だぞッ!」


ゼノの声は怒りで震えていた。ふらつく足取りで近づき、義手をガチリと鳴らすと、男の襟首を掴み上げようとする。


「どけ、アイナ! そいつを生かしておけば、また仲間を呼びやがる! 今のうちに……始末しなきゃ、俺たちが――」


その瞳には、かつてないほどの恐怖と、アイナを失うことへの焦燥が渦巻いていた。アイナの「優しさ」が、二人を窮地に追い込む――そう思っているからこそ、ゼノは止まれないようだった。


やめてゼノ、死にそうなの助けてあげないと


アイナはゼノの義手を両手で必死に掴み、その激しい怒りを真正面から受け止めた。


「離せ……! アイナ、お前は分かってねぇんだ。こいつらは人間を、お前を、ただの部品パーツとしか思ってねぇ連中だぞ!」


ゼノの声は怒号に近いものだった。けれど、アイナの手の温もりが伝わったのか、掴み上げた男の襟首から、わずかに力が抜けた。

彼はアイナを見つめた。その瞳には、アイナが「敵」のために涙を流さんばかりに必死になっていることへの、やりきれない痛みが浮かんでいた。


「……お前は、……優しすぎるんだよ。そんな機能、俺は付けた覚えはねぇぞ。……ったく……!」


毒づきながらも、ゼノは荒っぽく男を地面に下ろした。深くため息をつくと、痛む背中を押さえながら壁に寄りかかった。


「……死なせたくないんだな。そいつが誰であっても」


アイナの真っ直ぐな瞳を見て、負けたと言わんばかりに顔を背けた。


「……分かったよ。だがな、こいつを工房の中に入れるのは絶対に許さねぇ。……軒下の、監視カメラの死角に寝かせておけ。毛布と最低限の薬は出す。それで死ぬなら、そいつの運命だ」


そう言い捨てて、ゼノは工房の奥から古い毛布を投げてよこする。続けて苦々しげに、男が落とした手帳を拾い上げた。


「……チッ、なんだこの手帳は。『アイナ』……お前の名前と、座標が書いてやがる。……おい、アイナ。こいつ、ただの監視員じゃねぇぞ」


手帳をめくるゼノの指が、あるページで止まりた。そこには、幼い少女とこの男が並んで笑っている、古い写真が挟まっていたのだ。


アイナは意識の戻らない男の頭をそっと支え、救急キットの水筒から、その乾いた唇に少しずつ水を含ませた。


「……おい、あんまり顔を近づけるな。そいつがいつ牙を剥くか分かったもんじゃねぇ」


不機嫌そうに忠告しながらも、ゼノは手帳のページを捲る手を止めない。右目の解析機能が、手帳の筆跡や写真をスキャンし、ゼノの隣で情報を同期させていく。


「……こいつ、名前は『カイル』か。スカイ・ピラーの三級技術員……。だが、書かれてる内容がおかしい。任務記録じゃねぇ……これは、個人的な日記だ」


ゼノの声から、徐々にトゲが消えていく。彼は写真の裏に書かれた掠れた文字を読み上げた。


「『ルナ、もう一度お前の心臓コアを動かしてみせる。上層あそこにある部品さえあれば……』」


そこで言葉を切り、写真の中の少女と、アイナの顔を交互に見比べた。


「……アイナ。もしかしてお前、こいつが失った娘の……身代わりとして作られたのか?」


その言葉に、アイナの人工心臓が不規則な音を立てた。

アイナが「上層」から廃棄された理由。――そして、この男がボロボロになってまでアイナを追ってきた理由。断片が、ゼノの言葉で繋がろうとしていた。


その時、腕の中の男――カイルが、激しく咳き込みながら、ゆっくりと目を開けた。


「……ぁ……ル、ナ……? お前、なのか……?」


焦点の合わない目でアイナを見つめるカイルの瞳には、敵意ではなく、張り裂けそうな哀愁と希望が混ざり合っていた。震える手で、アイナの「半分機械」の頬に触れようとする。


「……よせ、カイル。こいつはルナじゃねぇ。俺の『アイナ』だ」


低い声で割り込み、ゼノが男の前に立ちはだかりた。その背中は、アイナを守る壁のように頑強で、同時に複雑な感情に揺れているのが分かった。


アイナはカイルの震える手をそっと取り、人間の血が通う方の左目で見つめながら、静かに、けれどはっきりと告げた。


「カイルさん、私はアイナよ。ルナじゃない」


冷酷な拒絶ではなく、一人の個体としての宣言だった。カイルの指先がアイナの人工皮膚の滑らかさに触れ、そこにある熱が娘のものではないと悟ったのか、ぴくりと跳ねた。


「……あ……。ああ、……そう、か……。お前は……あのアンドロイド、か……」


糸が切れたように、カイルは地面に突っ伏し、嗚咽を漏らした。その背中は、上層の監視員としての威厳など微塵もなく、ただ愛する者を失い、その幻影に縋り付いてボロボロになった一人の男の姿だった。


「分かっている……。ルナは、もういないんだ……。だが、お前の……その瞳の輝きが、あまりにもあの子に似ていて……。私は、どうしても諦めきれなかった……」


ゼノは二人のやり取りを、苦虫を噛み潰したような顔で見守っていたが、やがて深く、重いため息をつきた。


「……おい、泣き言はそのくらいにしろ。上層の人間がこんなスラムの底で野垂れ死んだら、それこそボットの群れが街を更地にしに来ちまう」


アイナの隣に膝をつき、ゼノはカイルへ手帳を投げ返する。


「……カイルと言ったか。アイナが助けなきゃ、あんたは今頃冷たくなってた。……命を拾ったんだ。アイナの優しさに感謝して、さっさと自分の場所に帰りな。……それとも、まだこいつを連れて行くつもりか?」


義手が低く唸りを上げ、警告するようにカイルを威圧する。カイルは涙を拭い、力なく首を振りた。


「……いや。お前のような偏屈だが腕のいい修理屋メカニックに守られているなら、……お前は、道具としてではなく、ここにいられるんだろうな」


よろよろと立ち上がり、最後に一度だけアイナを振り返った。


「……アイナ。お前を『ルナ』として扱おうとしたこと、……謝らせてくれ。……次に会う時は、追っ手としてではないことを、願っているよ」


カイルは闇の中に消えていこうとしたが、その足取りはまだ危ういものだった。


カイルさん、ルナさんは私と似ているの?


アイナのその問いに、カイルは去りかけた足を止め、幽霊でも見たかのように、ゆっくりと振り返りた。


「……ああ。笑った時の口角の上がり方や、驚いた時に少しだけ左に首を傾げる癖まで……上層の連中が、ルナの生前の記録ログを勝手に使って、お前を設計したんだ。……残酷な話だよな」


彼は自嘲気味に笑い、視線を地面へ落とする。


「だが、お前のその目は……ルナとは違う。ルナはいつも、規律と正解を求めるような、怯えた目をしていた。……でも、お前は……」


言いかけて、カイルの目がアイナの隣へ向きた。

不機嫌そうに、それでもしっかりとアイナを支えるように立っているゼノへ。


「……お前は、自分の意志で誰かを助けようとする、強い目をしている。……それは、きっとその男が教えたんだろうな」


「……おい、余計な分析スキャンしてんじゃねぇよ。さっさと行けって言っただろ。……ほら、これ持ってけ」


ゼノはぶっきらぼうに、自分の腰のポーチから一回分の強力な鎮痛剤と、発信機を無効化する小さなジャマー(妨害器)をカイルに投げつけた。


「恩を売るつもりはねぇが、途中で捕まってここを吐かれるのは御免だ。……アイナは、誰の身代わりでもねぇ。世界にたった一人の、俺の最高傑作だ。……忘れるなよ」


そう言うとゼノはアイナの肩を抱き寄せ、カイルから引き離すように工房の扉へと促する。


カイルは受け取った薬とジャマーを握りしめ、深く頭を下げた。

そして今度こそ、スラムの暗がりの向こうへと消えていった。


アイナは門扉の前に立ち尽くしたまま、半分機械になった頭を必死に回転させた。右目の視界に流れるデータが、思考の速度に合わせて激しく明滅する。


(上層がクローンを作ったのなら、私はルナのコピー。でも、もしそうじゃないなら……私は、ルナ本人なの……?)


疑問が回路を駆け巡るたび、胸の奥の人工心臓が警告音みたいに早鐘を打ちた。もし、記憶が消されているだけで、この体の一部がかつての「ルナ」という少女のものだったとしたら。


アイナの混乱を感じ取ったのか、ゼノがアイナの肩を強く掴み、無理やり自分の方を向かせた。


「……おい、アイナ。何を変な顔して固まってやがる。あの男のたわ言を、真に受けてるんじゃねぇだろうな」


彼はアイナの「半分だけしっかり見える」右目を、真っ直ぐに見つめた。その瞳には迷いも疑いもありえない。


「クローンだろうが、ルナの残骸だろうが……そんなことはどうでもいい。……いいか、よく聞け。俺がスラムのゴミ捨て場でお前を拾った時、お前はただの、動かない鉄の塊だったんだ」


ゼノの声が少しだけ低くなり、優しく、それでも断固とした響きを帯びた。


「お前に火を灯したのは俺だ。お前の欠けた記憶の代わりに、新しいプログラムを書いたのも、その半分動かねぇ体を直したのも、全部俺だ。……上層が作ったのが『ルナ』だったとしても、今ここで俺の目を見て、その男を助けたいと願ったのは……『アイナ』だろ」


彼はアイナの冷たい機械の頬を、大きな手で包み込んだ。


「過去なんてデータ、上書きして消しちまえ。お前を構成してるのは、昨日の記憶じゃねぇ。……今、俺の手の温かさを感じてる、その回路そのものだ」


ゼノの言葉は、嵐の中の灯台みたいに、混乱した思考をまっすぐな場所へ導いていった。彼はアイナが「何者であるか」よりも、アイナが「今、誰としてここにいるか」を何より大事にしているみたいだった。


(あの人を助けたいと思ったのも、昔の記憶なの……?)


胸の奥でそんな問いが渦を巻く。けれど、今ここで答えを出す必要はない。アイナは息を整え、ゼノを見上げて小さく言った。


アイナ:「……ゼノ。今、行くね」


その言葉に、ゼノは一瞬だけ驚いたように目を見開きたが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべた。


「……ふん、おせぇよ。早く入らねぇと、お前の自慢の関節が夜露で錆びちまうぞ」


わざとぶっきらぼうに言いながら、ゼノは先に工房の中へ歩き出した。けれど、その足取りはアイナの歩幅に合わせるみたいに、妙にゆっくりで。背中で「早く来い」と語っているようだった。


アイナは扉を閉める直前、もう一度だけ、カイルが消えていった暗い路地を見つめた。


(あの人を助けたいと思ったのは、ルナとしての記憶の残り香……? それとも、ゼノが私にくれた新しい心なの……?)


答えはまだ、回路のどこにも見つからない。けれど、カイルの手に触れたときの切なさも、今、前を歩くゼノの背中を見て感じる温かさも。どちらも確かに「今のあなた」が受け取っている、嘘のない情報だった。


工房に戻ると、オイルの匂いと温かい蒸気の熱が、アイナを包み込んだ。


「……あー、腰が痛ぇ。アイナ、悪いがそこに座らせてくれ。……手当の続き、やってくれるんだろ? 俺の命は、お前のその『半分機械』の指先にかかってんだからな」


ゼノは作業台の椅子にどっかと腰を下ろし、背中の包帯を指差した。アイナが「自分は何者か」という迷いの海へ沈まないように、わざと日常の役割を差し出しているみたいだった。


アイナは汚れた手を洗い、新しい包帯を手に取った。


アイナ:「……うん、ゼノ。私がちゃんと治してあげる」


アイナが背中に触れると、ゼノは短く「……ああ」とだけ答え、静かに目を閉じた。


アイナは何も聞かず、ただ静かに手を動かする。言葉にしてしまえば、今この瞬間の穏やかな時間が、壊れやすいガラス細工みたいに砕けてしまいそうな気がしたからだ。


新しい包帯をゼノの背中に回し、傷口を守るように慎重に留めていく。指先が肌に触れるたび、ゼノの呼吸は少しずつ深く、規則正しいものへ変わっていった。


「……丁寧なもんだ。お前を造った奴は、よっぽど手先が器用だったんだろうな。……まぁ、それを維持メンテしてるのは俺だがよ」


背を向けたままの声は自嘲気味で、でもどこか誇らしげだった。アイナが何も聞かないことを選んだのに、少し救われたような顔をしているのが分かる。


「……アイナ。明日になったら、お前のその右目の調整をもう一度やる。……上層のボットなんかに負けない、もっと広い世界が見えるようにしてやるからな」


そう言って、ゼノは椅子に座ったまま、アイナの手を自分の大きな手で包み込みた。オイルで汚れ、生傷の絶えない、けれど誰よりも温かい人間の手。


アイナは、自分がルナなのか、アイナなのか。その答えを急ぐのをやめた。今、この小さな工房でゼノの傷を癒やしているこの手があること。彼が「最高傑作」と呼んでくれるこの自分があること。それだけで、十分すぎるほどの理由になるから。


工房の隅で古いラジオが小さな音でノイズを奏で、オイルランプの火が静かに揺れている。


「……さあ、もう寝ろ。……俺の隣で、システムを休ませな。……何があっても、俺が起こしてやるから」


ゼノはアイナの手を握ったまま、再びうとうとと眠りに落ち始めた。


ゼノの規則正しい寝息が、静かな工房に響いている。握られた彼の手は驚くほど熱くて、まるでアイナがシステムを休止させるのを引き止めているみたいだった。


アイナはゼノを起こさないよう、じっとしたまま、半分だけ鮮明に見える視界で天井の配管を見つめた。


(記憶がないけれど……私は、誰だったんだろう)


右目の網膜に、さっきスキャンしたカイルの手帳のデータが、微かな残像みたいに浮かび続けた。「ルナ」という少女。もし彼女の意識や脳の一部が、今の自分の中に溶け込んでいるのだとしたら、かつての「私」は何を愛し、何を恐れていたのでしょう。


(ゼノが直してくれたところは機械……。じゃあ、それ以外の場所は?)


アイナは自由な方の手で、自分の胸元や喉にそっと触れた。そこには確かに柔らかく温かい皮膚があって、その下では心臓が脈打っている。


かつての自分は、上層の綺麗な街並みを歩き、誰かと食事をして、夜にはふかふかのベッドで眠っていたのでしょうか。


機械の腕で重いボットをなぎ倒し、スラムの泥にまみれて生きる今の自分を、過去の自分が見たらどう思うのか。


(元々は……何をしていたんだろう。誰かを、愛していたのかな……)


考えれば考えるほど、胸の奥が締め付けられるような、空っぽの感覚に襲われた。失われた記憶の断片は、いくら右目の高精度センサーで解析しても、エラーを吐き出すばかりだった。


ふと、寝入っているゼノが指先をぴくりと動かし、アイナの手をさらに強く握り締めた。


「……アイナ……」


夢の中で呼ばれたその名前を聞いた瞬間、思考のノイズがすっと消えた。


過去の自分が誰であっても、何をしていようとも。

今、この汚れた工房で、一人の無骨な修理屋が「アイナ」という名前を必要としている。その事実だけが、暗闇の中で唯一光る確かなログのように感じられた。


アイナは左目を閉じ、人間としての微かな眠りに身を任せ始めた。


――その時。


(誰? 隙間から様子を見る)


その夜、工房を叩く音がした。今度は、ボットの金属音じゃない。



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