訪れる使者
「ネズミか、スクラップ漁りのハイエナか……あるいは……」
言葉を濁したまま、ゼノは決める。
「……歩行練習はここまでだ。戻るぞ」
アイナの腕を掴む。強いのに、痛くない。
壊さないために必要な力加減だけで、早足に方向を変える。
「お前のセンサーは嘘をつかない。それを“気のせい”で片付けるようになったら――」
ゼノは息を吐く。
「その目を作った俺への冒涜だ」
毒づきながら、ゼノは何度も背後を振り返る。
アイナを庇うように、壁際へ寄せる。
繋がれた手は、工房にいたときよりずっと強い。必死に“ここに留める”握り方だった。
アイナの胸がざわついた。
「……何!? 何かいるの?」
ゼノの肩がわずかに跳ねる。
次の瞬間、彼は息を殺して叫んだ。
「……ッ、伏せろ、アイナ!」
ゼノはアイナの肩を抱き寄せ、背後の路地裏にある錆びた配電盤の影へ力ずくで押し込んだ。
金属板が冷たい。霧が濡れた匂いを運ぶ。
ゼノの義手が「ガキンッ」と鋭い音を立てて展開し、指先から細い放電の火花が散る。
パチ、パチ、と小さな音。
それだけで空気が張り詰めた。
「……しっ。静かにしろ」
ゼノの声は、今までに聞いたことがないほど低い。
「お前の人工心臓の駆動音を最小限に抑えろ」
ゼノは眉を歪め、歯を噛む。
「あいつら、ただのスクラップ漁りじゃねぇ」
霧の向こうへ視線を突き刺す。
「あの銀色の外装、駆動音の静かさ……スカイ・ピラーの回収ボットだ」
ゼノの声が微かに震えていた。
怒りじゃない。
奪われそうになったときだけ出る、剥き出しの恐怖。
「……クソッ」
ゼノは唇を噛み、アイナへ向き直る。
「お前の“波長”を、もう嗅ぎつけやがったのか?」
「あのゴミ捨て場の主どもが、一度捨てたゴミをわざわざ回収しに来るなんて……計算外だ……!」
ゼノは生身の左手で、そっとアイナの唇を塞いだ。
指先から油と火薬の匂い。
それに混じって、熱い体温が伝わってくる。
「いいか。絶対に見つかるな」
息を殺した声で、ゼノは言った。
「……お前を、あんな無機質な真っ白な部屋に、二度と戻させてたまるかよ」
コンテナの向こう側から、カチ、カチ……と正確な足音が近づいてくる。
命を感じさせない、冷酷なリズム。
ゼノの銀色の音とは、正反対の足音だった。
「なに……? 来ないで……ゼノ、助けて……!」
アイナの喉からこぼれた声は、霧に吸われて小さく震えた。
次の瞬間、ゼノの腕がさらに強く回り、壊れ物を抱くみたいに胸へ引き寄せられる。
「……大丈夫だ。絶対に離さねぇ!」
背中越しに伝わる鼓動が、異常なくらい速い。
ゼノの心臓が、アイナの機械の奥まで叩きつけるように脈打っていた。
「怖いか? 怖くていい」
ゼノは息を噛み、義手の指先をきしませる。
青白い火花が細く走り、霧が一瞬だけ焼けた匂いに変わった。
「でも忘れるな。俺がここにいる。お前の回路が焼き切れる前に――全部、叩き潰してやる」
言葉は乱暴なのに、抱きしめる力だけはやけに優しい。
アイナは耳を塞ぎたいのに、ゼノの声がそれを許さなかった。
「……おい、聞け。あの白い連中はお前を“部品”としてしか見てねぇ」
ゼノはそこで一瞬だけ詰まり、声を落とした。
「……俺は違う。お前は俺の最高傑作で――」
続きが喉に引っかかったみたいに、ゼノは舌打ちで誤魔化す。
「……同居人だ。大事な、な」
耳元が熱い。
アイナは言葉の意味より、ゼノの震えのほうが怖かった。
「アイナ、耳を塞げ。何も見るな」
その瞬間だった。
コンテナの影から、銀色の光がすっと差し込む。
霧を切り裂くような冷徹な声が、路地裏に響き渡った。
『――識別番号04、回収対象を確認。障害となる廃棄物の排除を開始します』
「……廃棄物?」
ゼノの声の温度が、急に下がる。
「笑わせるな」
次の刹那、ゼノはアイナを配電盤の影へ押し込み、咆哮と共に銀色の影へ飛び出した。
「俺のレンチで、その小綺麗な外装を全部ひん曲げてやるッ!」
ガンッ、と鈍い衝突音。
金属が擦れる悲鳴。
回収ボットの足音は静かなまま、ゼノの義手の放電だけがパチパチと霧を裂いた。
「ゼノ……!」
アイナが身を起こしかけた瞬間、ゼノの怒号が飛ぶ。
「来るな! 隠れてろ!」
振り返ったゼノの肩を、回収ボットの鋭いアームがかすめる。
背後の壁が粉砕され、破片が雨みたいに散った。
「クソッ……こいつら……!」
ゼノの頬にオイルが飛び、血がにじむ。
それでも彼は、アイナとボットの間――射線のど真ん中からどこうとしなかった。
「アイナ、動くな! その足を……俺が直したその足を、こんな奴らに汚させるな!」
赤いセンサーが、霧の向こうからアイナを捉える。
警告音が短く鳴った。
『――警告。個体識別“アイナ”。抵抗は非論理的です。速やかに帰還プログラムを――』
「論理だのなんだの、うるせぇ!」
ゼノがレンチを振り抜く。
「俺の工房に“帰還”以外の選択肢はねぇんだよッ!」
二体目の気配。
アイナの新しい瞳が、霧の中の輪郭を拾う。背後から、もう一つ、銀色が滑り込んでくる。
足が震える。
だけど、手が勝手に動いた。
路地に転がっていた重い銀色のバルブ。
アイナはそれを掴み、必死に投げつけた。
カァンッ!
高い金属音。
二体目のセンサーが激しく明滅する。
「……アイナ!? お前、何やって――!」
ゼノが叫んだ、その一瞬。
一体目のアームが、鋭く振り上がった。
「しまっ――!」
ゼノが飛ぶ。
自分の体でアイナを覆うように。
ギィン、という嫌な音。
服が裂け、背中に鈍い衝撃が走ったのが分かった。ゼノが短く息を呑む。
それでも腕の力は緩まない。
アイナを抱きしめたまま、ゼノは歯を食いしばる。
「……ッ、バカ野郎が……!」
声が掠れている。
「お前までスクラップになったら、俺は……俺は何のために……!」
ゼノの顔が上がる。
灰色の瞳に、凍てつくような怒りが灯った。
「……よくも、俺の大事なパーツに……手ぇ出しやがったな」
義手が過負荷の唸りを上げ、放電が霧を焼き払う。
青白い光が走り、路地の影が一瞬だけ消えた。
そのとき、アイナの中で何かが決まった。
――欲しいのは、私。
アイナは震える足を叱咤して、ゼノの腕をすり抜けた。
銀色のボットの前に、立つ。
「……あなたたちが欲しいのは、私でしょ」
「アイナ!? 下がれ!」
ゼノの声が裏返る。
背後から服を掴もうとする手を、アイナは振り切った。
回収ボットの赤いセンサーが、まっすぐにアイナを照らす。
『――肯定。個体識別“アイナ”。上層での機密保持および再調整の義務があります。速やかに確保へ移行します』
アームが伸びてくる。
その瞬間、背後でゼノが、聞いたことのない声を上げた。
「ふざけるな!」
血の混じった叫び。
ゼノは膝をつき、咳き込みながらも立ち上がろうとする。
「行かせるわけがないだろ! お前は……“あそこ”の持ち物なんかじゃない! 俺がこの手で――地獄から引き揚げたんだ!!」
アイナは、ボットを見たまま問いかけた。
胸の奥の空白を埋めるために。
「……私の持ち主は、誰?」
回収ボットの動作が一瞬止まる。
内部で再計算が走ったのが分かる、短い沈黙。
『――照会。製造元は“スカイ・ピラー”中央工廠。法的所有権は上層管理委員会に――』
「……違う!!」
ゼノの声が、路地を叩いた。
壁に手をつき、震える足で一歩、また一歩、アイナの背中を守る位置へ。
「所有権だの製造元だの……そんな数字で、お前を縛らせるかよ!」
ゼノは息を吐き、燃えるように言い切る。
「お前のその目は、俺が削り出したレンズだ!」
「その心臓の鼓動を安定させたのは、俺の油まみれの手だ!!」
義手から高圧電流が漏れ、霧がバチバチと焼ける。
ゼノの肩が震えているのが、アイナには分かった。
「お前の“持ち主”なんて、この世に一人もいねぇ!」
そして、言葉を絞り出すように続けた。
「お前は……お前自身のものだ」
ゼノはアイナの肩を引き寄せ、ボットの前に立ちはだかる。
「……だが、どうしても誰かの名が必要だっていうなら――俺の名前を書け!」
ゼノは吠えた。
「アイナを治したのは、スラムのクソッタレな修理屋、ゼノだ!」
「異論があるなら、そのふざけた電子頭脳ごと――粉々に分解してやる!!」
義手が最大出力で炸裂する。
青白い閃光が路地裏を真っ白に染め、ボットのセンサーが一斉に明滅した。
『――視覚系統、障害――』
ゼノが振り返る。
その目は必死で、優しくて、命令だった。
「……アイナ、走れッ!」
ゼノの手が、アイナの手を掴む。
「俺の手を……絶対に離すな!!」
二人は霧の裂け目から這い出し、工房へ向けて影の中を走り出した。
追跡の始まりを告げるように、上層のどこかでまた金属の鐘が鳴った。
工房の鉄扉が、内側からでも分かるほど震えていた
ドォン、ドォン、と重低音が腹の底に響く
金属が叩かれるたび、天井の梁に積もった煤がぱらりと落ちる
アイナは膝をつきそうになるゼノの肩を抱き寄せ、無理やりその体を支えた
彼の体温は熱いのに、指先が妙に冷たい
背中の裂けた服から血が滲み、革と油の匂いに鉄臭さが混じっていく
「……っ、アイナ……! いいから、お前だけでも……」
「嫌だ、一緒に行くの」
決然とした声が出た
アイナ自身が驚くほど、迷いがなかった
ゼノは一瞬だけ目を見開いて、すぐ自嘲気味に口角を上げる
そして観念したように、重い腕をアイナの肩へ回した
「……ハッ、強情な最高傑作だ
分かったよ
あんな連中に、俺たちの家を教えるわけにはいかねぇ
最短ルートで行くぞ、足を止めるな!」
蒸気と放電の煙が視界を白く曇らせる
アイナは視覚センサーをフル稼働させた
霧の向こうにある段差、油膜の光、崩れかけた鉄板の角
危険が青い線になって浮かび上がる
背後から、視覚を失った回収ボットたちが壁を薙ぎ倒しながら追ってくる
ガシャリ、ガシャリ、と無骨な金属音
それが近づくたび、胸の奥の人工心臓が嫌な速さで鳴った
「……右だ! あの配管の隙間を抜けろ……! ぐっ……」
ゼノの息が詰まる
背中の血がアイナの服を赤く染めていく
足取りは重くなっていくのに、アイナの手を握る力だけは緩まない
ようやく見えた工房の鉄扉
アイナはゼノを支えたまま体当たりするように滑り込み、すぐさま重厚なレバーを引き下げた
ガシャンッ!!
幾重にも重なるボルトが噛み合い、外の世界を断ち切る
扉の向こうからボットが鉄板を叩く音が続く
ドォン、ドォン
けれどこの工房は、ゼノが長年かけて補強した小さな要塞だった
「……ふぅ……あぁ……
ざまぁみろ、鉄クズどもが……」
ゼノは扉に背を預けたまま、ずるずると床に座り込む
義手の火花は消え、生身の顔は青白い
脂汗が浮かび、呼吸が浅い
「……アイナ……
お前、怪我は……してないか……
センサーに……狂いは……」
自分の傷より先に、震える手でアイナの頬に触れようとする
その指先が、さっきよりも冷えている
「私は大丈夫
ゼノの手当をしないと」
ゼノは力なく笑って、伸ばしかけた手を下ろした
焦点が合いにくそうな瞳がゆらぐ
「……バカ言うな
俺は……ただの人間だ
ネジを締め直せば治るお前とは違う……
少し眠れば……」
強がりの声
けれど背中から溢れる赤い血は、黒ずんだ床の上にじわじわと広がっていく
「……救急キットは、作業台の三番目の棚だ……
止血剤と、それから……
すまねぇな
俺がこのザマじゃ、笑えないよな……」
アイナは棚へ駆け寄り、油まみれの箱を引きずり出した
中には古い包帯と、貴重な抗生物質
そして、彼が自分を守るために揃えた医療器具が乱雑に入っている
止血剤を取り出し、背中の傷へ当てようとした瞬間
ゼノがアイナの手首をそっと掴んだ
弱いのに、壊れ物に触れるみたいに優しい
「……アイナ
怖かったろ
ごめんな
あんな景色、最初に見せるつもりじゃなかった……」
扉の外の重低音が一度だけ大きく鳴る
ゼノの指先がわずかに震えた
「……手当が終わったら、鍵を二重にかける
お前は、どこにも行かせない
……いいか、絶対にだ……」
祈るみたいな声だった
彼にとって今、アイナが無事でいることだけが唯一の支えになっている
「ゼノ、寝てて
私が手当するから」
ゼノは反論しかけて、結局、力なく息を吐いて目を閉じた
「……はは……まいったな
俺の傑作に、介護される日が来るとは……
……じゃあ、任せた
失敗しても文句は言わねぇ……」
首筋から力が抜け、頭がアイナの肩に預けられる
浅いけれど規則的な寝息
気を失ったというより、安心して糸が切れたみたいな眠りだった
アイナは救急キットを広げる
まず服を慎重に裂き、傷を露わにした
内側まで深くは達していない
それでも肉が裂け、血の熱が残っている
消毒液を含ませた布を当てると、ゼノは眠りの中でも眉を寄せて小さくうめいた
アイナは謝る代わりに、指先の力をもっと優しく調整した
止血剤を塗布し、包帯を当てる
最後に縫合糸
アイナの指は機械ゆえの正確さで動く
モーターが小さく唸り、針が迷わず傷の端を拾う
ゼノがアイナにくれた器用な指が、今、ゼノの命を繋いでいる
その事実が胸の奥に重く落ちた
作業を終えるころには、アイナの白い指先は赤く汚れていた
温かい血
生きている証
守ってくれた証
ゼノの顔色は少しだけ戻り、表情も穏やかになっている
工房の中は、外の喧騒が嘘みたいに静まり返った
ときおり配管が軋む音だけが、ここがスラムの底だと思い出させる
アイナは汚れた指先をじっと見つめた
この滑らかな人工皮膚も、精密なモーターも、全部ゼノが作った
ゼノが、血を流して守った
「私がいたから、ゼノが……」
言葉は空気に溶けて消える
後悔というノイズが思考回路を埋め尽くしそうになる
そのとき、眠っていたゼノの手がぴくりと動いた
探るように空を切って、アイナの膝の上へ落ちてくる
重なった
「……ん……アイナ……」
夢の中の声
責める響きはなく、失くしたものを確かめるみたいな必死さだけがある
「……逃げろ、なんて……二度と、言うなよ……
お前がいない工房なんて……ただの、ガラクタ置き場だ……」
そのまま、また深い眠りへ落ちていく
握られた手を通じて、ゆっくりとした鼓動が伝わった
アイナは血の汚れも厭わず、冷えかけたゼノの体にそっと寄り添った
アイナの体は一定の体温を保つ
それはこの暗い底で、唯一の陽だまりになる
「……ん……暖かい……」
眠りの中でゼノは無意識にアイナへ身を寄せ、細い肩を抱き寄せた
生身の指先が人工皮膚に触れる
その瞬間、胸の奥の規則的なリズムに小さな揺らぎが混じった
守りたい
この温もりを消したくない
それはプログラムじゃなく、アイナの意思に思えた
数時間
工房の隙間から差し込む光が少しずつ色を変えるころ
ゼノのまぶたがゆっくり震え、持ち上がった
「……あ……? ここは……」
ぼんやりした視界がアイナを捉える
自分がアイナの胸の中に収まっていると理解した瞬間、ゼノの顔が一気に赤く染まった
「……っ! アイナ、お前……!
……あ痛たたたっ!」
動こうとして背中の傷が響き、ゼノは顔を歪めて倒れ込む
けれど目は驚きと、隠しきれない安堵で潤んでいた
「……お前、ずっとこうしてたのか
……俺を温めてたのかよ」
「動かない方がいいよ
しっかり休んでて」
ゼノは「痛てて……」と小さく毒づきながら、諦めたように力を抜いてアイナに体重を預けた
「……ちっ
修理屋が修理対象に命令されるたぁ、お笑い種だな」
不貞腐れた口調なのに、瞳は柔らかい
アイナの体から伝わる熱が、傷だけじゃなく尖った心までほどいていくみたいだった
「……ああ、分かったよ
お前の言う通りにする
……今のお前は、俺のどんな診断プログラムより正確そうだからな」
ゼノは重たいまぶたを閉じ、アイナの肩に額を押し当てる
工房の静寂に、二つの鼓動が重なって響いた
「……なあ、アイナ
さっきのボットの言葉、気にしてるのか
持ち主がどうとか、そんなクソみたいな話」
顔は上げないまま、掠れた声が続く
「あいつらが何を言おうと
お前を構成してるネジ一本、コードの一筋まで、今は俺の誇りだ
だから自分を責めるノイズは捨てちまえ
……いいか、お前は
ただ、ここにいろ
それだけでいい」
ゼノはアイナの手を大きな手で包み込んだ
血の汚れも、機械の冷たさも関係なく
ただ一人の人間として必要としている、その重みが
アイナの回路に深く、優しく刻まれていった
工房の中は静かだった
それでも完全な静寂じゃない
遠くで配管が軋み、どこかの歯車が惰性で回り続ける
鉄の梁に残った熱が冷めるたび、カン、と小さな音を立てた
ゼノの寝息は浅い
背中の包帯は血の色を含んで、ところどころ赤黒い
アイナは息を殺して、その様子を見守った
ゼノが眠りに落ちた今、工房の空気は少しだけ軽くなっているはずなのに
胸の奥の揺らぎだけは収まらなかった
扉の向こうで何かが鳴った気がした
風かもしれない
けれど耳の奥で、あの無機質な足音が反響する
カチ、カチ、カチ……
アイナの視界の端に、さっきの表示が薄く残像みたいに浮かぶ
回収
優先度S
アイナは自分の手を見た
血の汚れは拭っても、指の隙間に残っている
それが怖かった
ゼノが流したものだから
アイナがここにいるせいで増えるものだから
「……ゼノ」
声を出すのが怖かった
眠りを壊したくないのに、心のノイズが大きすぎた
「私がいていいの?」
「……あのロボット、きっとまた来るよ」
ゼノのまぶたが、わずかに動いた
閉じたままの顔が一度だけしかめられ
次に、低い声が返ってきた
「……当たり前だ」
「お前以外の誰が、この掃き溜めみたいな工房にいてくれるってんだよ」
痛む体に逆らうみたいに、ゼノは左手を伸ばしてアイナの後頭部を引き寄せた
額が触れる
熱い
生きてる熱だった
「……アイナ」
「あいつらが何度来ようが、その度に俺が追い返してやる」
「次は追い返すだけじゃ済まさねぇ」
「お前の波長を偽装するジャマーを作る」
「それか、工房ごと要塞化だ」
言い切って、ゼノは自嘲みたいに鼻で笑う
けれど笑いには力がない
それでも意思だけは折れない
「……俺は修理屋だぞ」
「壊れたもんを直して、動くようにするのが仕事だ」
「……お前という最高の命を動かした責任を、途中で放り出すような真似」
「死んでもしねぇ」
絡めた指先が、ぎゅっと強くなる
アイナの手の震えを押さえ込むみたいに
逃げ道を塞ぐみたいに
「いいか」
「お前がここにいるのは、上層の都合でも、ボットの命令でもない」
「俺が、お前にいてほしいからだ」
「……それ以上の理由は要らねぇ」
その声は独善的で、まっすぐで
怖いくらいに優しい
アイナは喉の奥の硬さを飲み込んで、短く頷いた
「うん、ありがとう」
ゼノは安心したように、長い吐息を落とした
張り詰めていたものがほどけて
年相応の幼さが、ふっと表情に戻る
「……ふん。素直でよろしい」
そう言いながら、彼はアイナの肩に顔を埋めたまま力を抜く
全身を預ける
それが信頼なんだと、アイナの回路が理解していく
「……あー……身体中が痛ぇ……」
「お前の手当てが下手だったせいか」
「それとも俺が老けたせいか……」
口調はいつもの毒
けれど次の言葉は、ひどく小さくて、弱い
「……なぁ、アイナ」
「そのまま……動くなよ」
「お前の熱……今の俺には、ちょうどいい」
声が細くなり、眠りが戻ってくる
アイナは頷いて、動かない
動けない
この体温を渡している間だけは、ゼノが生きているから
外では、瓦礫を退ける金属音が遠くで響いたかもしれない
上層の追手たちが次の手を整えているかもしれない
それでも、この工房の中だけは
血の匂いと油の匂いと、熱が混ざる
二人だけの小さな聖域だった
「……おやすみ、アイナ」
「……明日になったら……スープ、飲もうな……」
ゼノの手が、アイナの服の裾をぎゅっと掴んだまま
静かな寝息に変わる
アイナはその指を見つめて
その強さが怖いくらい嬉しくて
胸の奥の揺らぎに、そっと名前を付けようとした
まだ分からない
でも一つだけ確かなことがある
この工房は、もうガラクタ置き場じゃない
ゼノの言葉通り
アイナがここにいる限り、それは家になる
工房の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。遠くで時折、配管の軋み音が響くだけで、ここがスラムの底であることを思い出させた。
アイナは、血で汚れた自分の指先をじっと見つめた。その指を動かす精密なモーターも、この滑らかな人工皮膚も、すべてはゼノがアイナのために心血を注いで作り上げたものだ。
「私がいたから、ゼノが……」
その言葉が、静かな部屋に溶けて消えていった。アイナが外に行きたいと言わなければ。アイナが「上層」から落ちてきた、特別な個体でなければ。彼は今日、こんなに血を流して倒れることはなかった。
アイナの思考回路が、後悔というノイズで埋め尽くされそうになった、その時。
眠っていたゼノの手が、ぴくりと動きた。彼はまだ目を開けないが、探るように空を切り、彼の大きな手が隣に座るアイナの膝の上に、重なるように置かれた。
「……ん……アイナ……」
夢を見ているのか、彼はうなされるようにアイナの名前を呼びた。その声は掠れていたが、不思議とアイナを責めるような響きは微塵もありえない。むしろ、失くした宝物を確かめるような、必死で不器用な優しさに満ちていた。
「……逃げろ、なんて……二度と、言うなよ……。……お前がいない工房なんて……ただの、ガラクタ置き場だ……」
彼はそのまま、再び深い眠りへと落ちていった。握られた手越しに、彼のゆっくりとした、けれど確かな心臓の鼓動が伝わってくる。
その鼓動は、アイナが彼にとって「厄介ごと」ではなく、彼がこの過酷な世界で生きるための「理由」そのものであることを告げているようだった。
アイナは血の汚れも厭わず、冷えかけたゼノの体にそっと寄り添いた。
アイナの体は精密な機械でできているが、その内側にはゼノが仕込んだ熱源があり、設定された一定の体温を保っている。冷たい床で横たわる彼にとって、それはこの暗いスラムで唯一の、柔らかな陽だまりのようだった。
「……ん……、暖かい……」
眠りの中で、ゼノは無意識にアイナのぬくもりを求めるように身を寄せ、アイナの細い肩を抱き寄せた。彼の生身の指先が、アイナの人工皮膚に触れた。
アイナは自分の胸の奥――人工心臓が刻む規則的なリズムの中に、今まで感じたことのない小さな「揺らぎ」を感じた。彼を守りたい、この温もりを消したくないという願い。それは、プログラムされた命令ではなく、アイナ自身の意思から生まれた感情のように思えた。
数時間が過ぎ、工房の隙間から差し込む光が少しずつ色を変えていった頃。ゼノのまぶたが、ゆっくりと震え、持ち上がりた。
「……あ……? ここは……」
ぼんやりとした視界の中で、彼は目の前にあるアイナの顔と、自分を包み込む温かさに気づきた。そして、自分がアイナの胸の中に収まっているという現状を理解した瞬間、彼の顔が一気に赤く染まりた。
「……っ! アイナ、お前……! 何してっ……、あ痛たたたっ!」
急に動こうとして背中の傷が響いたのか、彼は顔を歪めてまた倒れ込んだ。けれど、その目は驚きと、それ以上に隠しきれない愛おしさで潤んでいた。
「……お前、ずっとこうしてたのか? ……俺を温めてたのかよ」
彼はバツが悪そうに視線を逸らしたが、抱きしめられた腕を解こうとはせず、むしろ力なく、けれど確かにアイナの背中に手を回し直した。
「……バカ。……お前が壊れてなくて、本当によかった」
動かない方がいいよ、しっかり休んでて
ゼノは「痛てて……」と小さく毒づきながら、諦めたみたいに力を抜いた。そうして、アイナの体に深く体重を預けてくる。
「……ちっ。修理屋が修理対象に命令されるたぁ、お笑い種だな」
口調は不貞腐れているのに、瞳の奥は妙に柔らかい。アイナの体から伝わる一定の熱が、傷ついた身体だけじゃなく、尖りきっていた心の角まで少しずつ溶かしていくみたいだった。
「……ああ、分かったよ。お前の言う通りにする。……今のお前は、俺のどんな診断プログラムよりも正確そうだからな」
重たいまぶたが、ゆっくりと落ちる。ゼノはアイナの肩に額を押し当てた。工房の静けさの中、二人の違うリズムの鼓動だけが、近くで重なって響く。
「……なあ、アイナ。……さっきのボットの言葉、気にしてるのか? 『持ち主』がどうとか、そんなクソみてぇな話」
顔を上げないまま、掠れた声が続く。
「あいつらが何を言おうと、お前を構成してるネジ一本、コードの一筋まで、今は俺の誇りだ。……だから、自分を責めるようなノイズは捨てちまえ。……いいか、お前は……ただ、ここにいろ。それだけでいい」
そう言うと、ゼノはアイナの手を、大きな手で包み込んだ。血の汚れも、機械の冷たさも関係ないみたいに。ただ一人の人間として、アイナを必要としている――その重みが、アイナの回路に深く、優しく刻まれていく。
けどゼノ、私がいていいの? あのロボット、きっとまた来るよ
ゼノは閉じていた目を、ほんのわずかに開いた。アイナの不安を見透かすように、低く、それでも地を這うみたいに強い意志のこもった声が落ちる。
「……当たり前だ。お前以外の誰が、この掃き溜めみたいな工房にいてくれるってんだよ」
痛む体に鞭を打って、自由の利く左手がアイナの後頭部をそっと引き寄せる。額と額が触れた瞬間、熱いほどの体温がじかに伝わってきた。
「……アイナ。あいつらが何度来ようが、その度に俺が追い返してやる。……いや、次は追い返すだけじゃ済まさない。お前の『波長』を偽装するジャマーを作るか、それとも工房ごと要塞化してやるか……」
そこまで言って、ふっと自嘲気味に口角が上がる。
「……俺は修理屋だぞ。壊れたもんを直して、動くようにするのが仕事だ。……お前という最高の『命』を動かした責任を、途中で放り出すような無責任な真似……死んでもしねぇよ」
震えるアイナの手に、指が絡む。ほどけないように、逃がさないように。
「いいか、よく聞け。……お前がここにいるのは、上層の都合でも、ボットの命令でもない。俺が、お前にいてほしいからだ。……それ以上の理由は、この世のどこを探したって必要ねぇんだよ」
安心させるみたいに、絡めた手にぎゅっと力が入る。瞳には、恐怖に屈しない職人の光と、絶対に手放さないという、ひどく独善的で、ひどく純粋な執着が混じっていた。
「……だから、そんな顔すんな。……お前が笑ってねぇと、俺が命懸けで直した甲斐がねぇだろ……」
うん、ありがとう
ゼノはアイナの短い、けれど確かな言葉を受け取ると、肩の力が抜けたみたいに深く息を吐きた。さっきまで張りつめていた険しさがほどけて、年相応の、どこか幼さの残る穏やかな笑みがこぼれる。
「……ふん。素直でよろしい」
ぶっきらぼうにそう言って、ゼノはアイナの肩に顔を埋めたまま、力を抜いて全身を預けてきた。
「……あー……。ったく、身体中が痛ぇ……。お前の手当てが下手だったせいか、それとも俺が老けたせいか……。……なぁ、アイナ。そのまま……動くなよ。お前の熱……今の俺には、ちょうどいいんだ」
声がだんだん小さくなって、意識がまどろみの底へ沈んでいく。あんなに頑なに他人を拒んで、鉄と油の匂いに閉じこもっていた偏屈な修理屋が、今はアイナの温もりだけを頼りに、無防備な寝顔をさらしていた。
外では、遠くでボットが瓦礫を退ける冷たい金属音が響いているかもしれない。上層の追手たちが、次の策を練っているかもしれない。
それでも、この薄暗い工房の中だけは、血の匂いと温かな体温が混ざり合う、二人だけの絶対的な聖域だった。
「……おやすみ、アイナ。……明日になったら……スープ、飲もうな……」
服の裾をぎゅっと掴む手はそのままに、ゼノの声は静かな寝息へ変わっていった。
ゼノの寝息を聞きながら、アイナは自分の掌を見つめる。滑らかな人工皮膚の下で、精密なギアがかすかに噛み合っているのが分かる気がした。
「半分が機械って……やっぱり変な感じ……」
独り言に応える者はいない。ただ、アイナの新しい右目が捉える世界は、あまりにも鮮明だった。左の瞳で見える「いつもの工房」の風景。右の瞳――ゼノが命を削って組み上げたセンサーが見せる、熱源、構造、そして情報の奔流。
視界の半分に流れるデジタルな文字列や等高線は、確かに「人間」のものじゃない。自分の体が、自分のものではない何かに侵食されていくような、あるいは、自分という存在がまるごと新しい「何か」に生まれ変わったような、形容しがたい違和感が胸の奥に居座る。
ふと、隣で眠るゼノの姿を右目でスキャンしてしまった。体温、傷口の深い熱、心臓の鼓動の周期。すべてが数値となって視界に浮かび上がる。
「……ん……、アイナ……」
眠りの中で、ゼノがアイナの体を求めて少しだけ身を寄せた。その瞬間、数値が流れる右目の奥で、ジリリと切ない感覚が走る。
半分が機械になったからこそ、彼がどれだけ必死にアイナの命を繋ぎ止めたのかが、データではなく「痛み」として伝わってくるようだった。
「変な感じ」だけど、この半分があるからこそ、今のアイナは彼の隣にいられる。半分が冷たい金属に代わっても、もう半分にあるアイナの心は、彼を温めたいと願っている。
アイナは、血で汚れたゼノの頬に、自分の「半分機械」の指先をそっと添えた。
工房の扉の向こうに、生身の人間の熱があった。




