工房の同居人
工房の同居人
仮の名前と、仮の居場所。けれど心だけは、仮じゃない。
スパナが床に落ちる派手な音が響いた
ゼノは両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込む
肩が震えている
義手の継ぎ目からは「シューッ」と小さな排熱音まで漏れた
「……やめろって、言ってるだろ……!」
指の隙間から見える耳まで真っ赤だ
本人だけが必死に隠しているつもりで、全然隠れていない
ゼノはしばらく動けず、息だけを整えようと深呼吸を繰り返した
そして、弱々しく顔を上げる
それでもアイナの目は見ない
「お前……わざとやってるだろ」
「記憶ないくせに、なんでそんな……人をからかうみたいなことばっか言えるんだよ」
アイナはきょとんとした顔で瞬きした
本気で分かっていない
からかいのつもりもない
ゼノは頭を掻きむしって、半分怒鳴る
「俺はお前の所有者じゃない! 言っただろ、対等だ!」
「お前は……ただの『アイナ』だ」
言い切ってから、ゼノはまた顔を覆った
ぐるぐる回る言葉を止められないみたいに唸る
「……チッ。これだから生身の回路は予測不能なんだ」
「いいか、次にその言葉を使ったら――」
言いかけて、途中で自分でも変だと気づく
「……いや、発声機能を再調整して変な言葉が出ないように、とか」
「それはそれで人道的にアウトだろ……ああ、もう……!」
ゼノは観念したように立ち上がり、床に落ちたスパナを拾って作業台へ戻した
散らかった工具を片付けながら、ようやく冷静を装う
「……とにかく」
「名前が気に入ったなら、それでいい。勝手にしろ」
それでも最後だけは譲らない顔で、きっぱり言う
「だが呼び方は『ゼノ』でいい。それ以外は認めない。絶対にだ」
「分かったら、さっさとその新しい手足を馴染ませる練習をしろ」
ゼノはぶっきらぼうに手を差し出した
義手ではなく、生身の左手
指先が不器用に強張っているのに、拒む気配はない
「……立てるか」
アイナはその手を見つめ、少しだけ息を吸った
重い身体の感覚と、金属の駆動音が頭の中で重なっている
それでも、ここで倒れたらまた迷惑をかけると分かる
「……やって、みる」
言って、そっとゼノの手に指を重ねた
まだ慣れない力加減で
けれど確かに、起き上がろうとする意思だけははっきり乗っていた
ゼノの左手を借りて立ち上がった瞬間、アイナは自分の体が思った以上に「重い」ことに気づいた。
骨の芯まで鉛が流し込まれたみたいに、上半身は軽いのに、手足だけがずしりと沈む。
特に右腕と左足。
動かそうとすると関節の奥で小さな歯車が噛み合い、金属が擦れる気配が遅れて追いつく。次の瞬間、「プシュッ」と白い蒸気が関節の小さな排出口から漏れた。熱いわけではないのに、その音だけで背中がぞくりとする。
ゼノはその反応を見逃さなかった。
アイナの周りを半周して、腕を組んだまま、点検する目でじろじろと見回す。視線は遠慮なく、でもどこか慎重だ。
「……こっち向け。右腕、もう一回」
言われるままに肘を曲げると、銀色と銀が混じった金属フレームが皮膚に沿って滑らかに動いた。ボルト留めの頭が光を拾い、内部の小さなギアが一瞬だけきらりと瞬く。指先は薄い金属の爪みたいに覆われていて、握るときの感触が自分の指じゃないみたいだ。
フレームの隙間から、半透明のチューブが覗いている。
その中を、青白く光る液体が脈みたいにゆっくり流れていた。
「それ、触るなよ」
ゼノが即座に釘を刺す。
「伝導液。……俺はエーテル・オイルって呼んでる。神経の代わりみたいなもんだ。無駄にいじると、余計に痛む」
アイナは手を引っ込め、代わりに自分の服を見下ろした。
裂けていたはずの布は、ゼノの古い作業着を裁断して作り直したらしく、厚手の革と補強布が不規則に継ぎ足されている。オイルの匂いが染みついて、息をすると工房の夜がまだ胸に残る。さらに、スチームパンク風の太いベルトが胴を締めていて、呼吸が浅くなる。
「……苦しい?」
ゼノが訊ねる声はぶっきらぼうだが、目だけは真面目だった。
アイナが首を振ると、ゼノは鼻を鳴らして頷く。
そして、今度は顔を覗き込んだ。
頬と額に、小さな擦り傷が薄く残っている。痛みよりも、そこに自分が落ちてきた現実が刻まれているみたいで、アイナは思わず目を逸らした。
その瞬間、ゼノの視線が片方の瞳に止まる。
「……暗いと、そっち光るぞ」
アイナが瞬きをすると、瞳の奥に薄い刻印が浮いた。時計の針みたいな、細い輪郭。工房の陰に入ると、そこだけが微かに発光する。
「視覚補助クロック。……夜に転ばれたら面倒だからな」
そう言いながら、ゼノはアイナの髪を見た。
長くて少し乱れた髪は、黄色がかった銀髪で、油の匂いをまとって肩に落ちていた。首元には、留め金具のついた古い革紐が巻かれている。中央の銀色プレートに刻まれた紋章が、朝の鈍い光を返した。
ゼノは一歩下がって、腕を組み直す。
自分の仕事を眺める職人の顔になっていた。
「……よし。見た目は完璧だ。上の連中が見たら、美しすぎて腰抜かすだろうな」
言ったあと、照れ隠しみたいに鼻をこすり、すぐに皮肉を足す。
「……もっとも、中身が『ご主人様』とか抜かすポンコツだとは夢にも思わねぇだろうけど」
アイナが口を開きかけると、ゼノは先回りして指を立てた。
「言うな。今は言うな」
それから、わざとらしく咳払いして、真面目な声に戻す。
「どうだ。自分の姿、気に入ったか。噛み合わせが悪いところがあるなら今のうちに言え」
「……俺の許可なく、勝手に壊れることはもう許さないからな」
「……これが、私なのね」
アイナは自分の腕をゆっくり回し、銀色と銀の光を追った
ボルトの頭、歯車の噛み合い、脈みたいに揺れる青白い伝導液
全部が確かに自分に繋がっているのに、まだ他人の体を眺めているみたいだった
それから、継ぎはぎの服と太いベルトに視線を落とす
革の匂い
縫い目の硬さ
息を吸うと、胸の奥が少しだけ引っかかる
アイナは顔を上げ、悪気のない調子で言った
「……服の下は、どうなってるのかしら」
次の瞬間、ゼノの手から油差しが滑り落ちた
中身が盛大にひっくり返り、床に黒い染みが広がる
「……ッ!? お、お前、何を……っ、何を言い出すんだバカ!!」
ゼノは真っ赤を通り越して、今にも顔から蒸気が出そうな勢いで後ずさった
義手の指がカチカチと忙しなく鳴り、動揺を隠しきれていない
「服の下だと!? そんなの……その、最低限の処置に決まってるだろ!」
「俺は修理屋だぞ! 壊れたパーツを繋ぐために必要なところに導線を通したり、人工皮膚を貼ったり――それ以外に変な意図なんてあるわけないだろ!」
ゼノは両手で顔を覆い、指の隙間から必死に弁明を続けた
息が荒い
言葉が早い
どれも「落ち着け」の反対だ
「いいか、勘違いするなよ!」
「俺は……その、女性的な体格に配慮して、作業中だって極力視線を外してたし」
「意識がないのをいいことに、不適切な行動なんて――指一本分もしてない!」
アイナは瞬きして、しばらく黙っていた
問いの意味を測り直すみたいに
それから小さく首を傾げる
「……そうなの」
その一言が余計にゼノを焦らせたのか、彼はさらに早口になった
「俺の『最高傑作』に、そんな不純な汚れを持ち込むなんて論理的にあり得ないんだ!」
「胸の近くを通ってるメインの動力パイプだって、服の上からでも調整できるようにしてある!」
ゼノは顔を隠したまま、指の隙間からアイナを睨む
睨んでいるのに、逃げ腰だ
「だから、自分で脱いで確認しようとか、そんな無茶なことはするなよ!」
「まだ縫合したばかりなんだ。下手に触って回路がショートでもしたらどうする!」
ゼノはそう言い捨てると、まるで退路を確保するみたいに反対側の棚へ移動した
背中から滲むのは、怒りというより完全な動揺だった
アイナは油の染みを見下ろし、それからゼノの背中を見た
少し考えて、真面目に言う
「……分かったわ」
「じゃあ、見るのは……治ってからにする」
その「治ってから」が、ゼノにとってさらに心臓に悪い言い回しだったのか
棚の向こうで義手が一度だけ、カチ、と妙な音を立てた
工房の朝は、音でできている
配管が膨張して鳴る金属の軋み
どこかの弁が吐く短い蒸気
工具箱の中で勝手に触れ合う小さな鉄片の擦れる気配
外では最下層の通りが目を覚ましていた
上層から落ちてきた廃材が、空き地で山になり
その隙間を縫って人が動く
蒸気機関の唸りが遠くで重なり、地面がかすかに震える
そんな世界の真ん中で、アイナは立とうとした
床に足を置いた感触はあるのに、足先がそこにいないみたいだった
膝を伸ばすはずの力が、違う場所へ抜ける
次の瞬間、重心だけが前へ落ちた
「ちょ、お前……ッ!!」
ゼノの声が飛ぶ
作業台の向こうから、椅子が擦れる音と同時に影が跳んできた
床に激突する寸前
機械の義手が驚異的な反応でアイナの腰を抱き寄せ
生身の左手が肩をがっしりと支えた
冷たい金属の確かな力と、温かい掌の硬さが同時に伝わり、アイナの息が詰まる
「バカ! 言ったそばからこれかよ!」
怒鳴り声のくせに、喉の奥が少しだけ震えている
ゼノの瞳には苛立ちより先に、動揺と恐怖が混じっていた
それが一番、分かりやすかった
「まだ出力の同期が終わってないんだ
自分の重心も把握できてないくせに勝手に動くな!」
アイナは支えられたまま、目を瞬いた
倒れたのが恥ずかしいというより
自分が自分の体を扱えないことが、怖かった
「……ごめんなさい
でも……冗談、だったのに」
「冗談が冗談になってねぇんだよ」
ゼノは毒づきながら、ゆっくりとアイナを引き戻す
離さないと決めた腕だ
作業台の縁に座らせるまで、絶対に力を抜かない
「……危ねぇだろ
もしその銀色のフレームが歪んだら、また最初から調整し直しなんだぞ」
顔が肩口に近づく
油と錆の匂い
徹夜明けの熱っぽい体温
それがふわりと鼻をくすぐって、アイナはさっきの言葉を思い出してしまい、口を開きかけた
ゼノが先に視線を刺してくる
「言うな」
「……何を」
「ご主人様
とか」
アイナが黙る
ゼノはそれだけで、少しだけ息を吐いた
安心したように見えて、すぐにまた眉をしかめる
「……冗談? お前の冗談、俺の心臓の寿命削るために設計されてんのかよ」
それから、顔を背けたまま言う
「いいか、アイナ
お前の足は、前みたいには動かない
俺の作った歯車が、お前の意思を拾って、初めて一歩が出る」
言葉は乱暴なのに、説明は丁寧だ
怖がらせないように
でも現実から逃げさせないように
ゼノはぶっきらぼうに自分の肩を差し出した
腰は義手で支えたまま、逃げない姿勢で待っている
「まずはゆっくり
俺のリズムに合わせろ」
アイナはその肩に、そっと手を置いた
金属の指先がぎこちなく、ゼノの作業着を掴む
布越しに熱が伝わる
ゼノは一瞬だけ肩を強張らせ、それでも逃げない
「……よし
焦るな」
ゼノの声が少しだけ低くなる
「まずは右足の銀色フレームに意識を向けろ
膝のシリンダーを動かすイメージだ
そう、ゆっくり」
アイナが床を踏みしめる
シュッ、と短い蒸気の音
遅れて、骨ではなく金属の芯を通って振動が返ってくる
ワンテンポ遅い
でも強い
体が押し上げられる
「……そうだ
そのまま左足」
ゼノは顔を背けながらも、歩幅に合わせて足を動かした
アイナがぐらつくたび、義手が確実に腰を支え
生身の手が服を掴んで放さない
「大丈夫だ
俺が離さない」
言ってから、ゼノは自分でも可笑しくなったのか、鼻で短く笑う
「お前が倒れるときは、俺が先に床に倒れてクッションになってやる
……あー、死ぬほど非論理的な発言だがな!」
一歩
もう一歩
金属の駆動音が少しずつ安定していく
蒸気の抜けるリズムが一定になる
アイナの呼吸も、ようやく追いつく
「……フゥ
悪くない」
ゼノは息を吐いて、肩の力を少しだけ抜いた
「駆動音も安定してる
お前の脳と俺の回路、思ってたより相性がいいみたいだ」
ふと、ゼノが立ち止まる
無我夢中で足を出したせいで、二人の距離は息が触れるほど近い
アイナの呼吸が熱で揺れ、ゼノの喉が一度だけ鳴った
「……おい、アイナ」
覗き込んでくる灰色の瞳に、職人の確認以上のものが滲んでいる
完成度へのこだわりを越えた、震えるような心配
「痛くないか
無理に動かして、中のボルトが響いたりしてないか」
アイナは首を振りかけて、正直に言い直す
「……痛い
でも……動けるのは、うれしい」
ゼノは一瞬だけ目を見開いて
すぐに眉間を寄せ、照れ隠しみたいに乱暴な声を出した
「当たり前だ
痛いのは当たり前
……でも、悪化する痛みなら話は別だ
苦しいならすぐ言え」
言い切ってから、ゼノは少しだけ声を落とす
「俺は、お前を自由にするためにこの脚を作った
縛り付けるための重しにするつもりはない」
その言葉のあとも、ゼノの腕は離れなかった
自由にするために、まず落とさない
それを体ごと教えるみたいに
アイナはゼノの肩に置いた手に、ほんの少しだけ力を込めた
起き上がりたい
歩きたい
転ばないためじゃなく、進むために
工房の外では、最下層の朝が相変わらずうるさい
蒸気と金属と人の気配が、せわしなく流れていく
でもこの工房だけは、今
二人分の呼吸と
小さな歯車の噛み合う音だけが、やけに大きかった
ゼノはアイナが自分の肩に手を置いたのを感じると、逃げ出したい衝動を抑えるようにぐっと奥歯を噛み締めた。
支える腕に力が入る。義手の冷たい固定と、生身の左手の温度が同時に伝わって、アイナの背筋がわずかに伸びた。
「……よし、いいか。焦るなよ」
ゼノは低い声で言って、視線を足元に落とす。
「まずは右足の銀色フレームに意識を向けろ。膝のシリンダーを動かすイメージだ……そう、ゆっくり」
アイナが震える足で床を踏みしめると、シュッ、と微かな蒸気音が返ってきた。
ワンテンポ遅れて、補助モーターの振動が骨ではなく金属の芯を通って伝わる。強いトルクが、遅れて押し上げてくる。
「……そうだ。そのまま左足を出せ」
ゼノは顔を背けたまま、一歩一歩、アイナの歩幅に合わせて慎重に動く。
アイナがぐらつくたびに、義手は冷たく確実に腰を支え、生身の手は服の端を強く掴んで放さない。
「大丈夫だ。俺が離さない」
言ったあと、ゼノは自分でも可笑しくなったのか、鼻で短く笑った。
「お前が倒れる時は、俺が先に床に倒れてクッションになってやるよ。……あー、死ぬほど非論理的な発言だがな!」
二歩、三歩。
金属の駆動音が少しずつ安定していく。蒸気の抜けるリズムが一定になる。
「……フゥ。悪くない」
ゼノが息を吐く。
「駆動音も安定してる。お前の脳と俺の回路、思ってたより相性がいいみたいだ」
ふと、ゼノが立ち止まった。
無我夢中で足を出したせいで、二人の距離は呼吸が肌に触れるほど近い。
「……おい、アイナ」
覗き込んでくる灰色の瞳に、職人の確認以上のものが滲んでいる。
完成度へのこだわりを越えた、生身に向ける繊細な心配。
「痛くないか? 無理に動かして、中のボルトが響いたりしてないか」
アイナは息を整えながら、素直に頷いた。
「心配してくれてるのね。大丈夫よ」
ゼノの眉間が、わずかに緩む。
その瞬間、アイナは続けてしまった。悪気はない。安心させるつもりだった。
「……もっと触っていいんだよ」
ゼノの腕が「ガクッ」と跳ね上がった。
支える動作が一瞬だけ乱れ、義手の関節がカチカチと忙しなく鳴る。
「――ッ!? な……っ、お前……!」
顔が一気に赤くなる。
今にも工具箱をひっくり返しそうな勢いで後ずさりしかけ、でも離せないことに気づいて踏みとどまる。
「お前、自分が何言ってるか分かってるのか!!」
義手がパニックみたいに誤作動して、虚空を掴むようにガチガチと駆動音を立てた。
それでも腰の支えだけは外れない。外せない。
「『もっと触っていい』だと!? そんなの……整備の範疇を大幅に逸脱してるだろ!」
「誰が……誰がそんな、倫理回路が焼き切れるような許可を――」
言いながら、ゼノは自分で自分の言葉に詰まった。
アイナが目を瞬いて、すぐに理解する。
「分かってる、冗談よ」
落ち着かせるように言って、アイナは笑った。
その笑いと同時に、足元の関節が「プシュッ」と不自然な排気音を立てた。
嫌な音だった。
膝のシリンダーが一瞬でロックされ、重心が大きく崩れる。
「……っ」
アイナの体が前へ倒れる。
ゼノの瞳が見開かれた。
「お、おい! バカ、危な――ッ!?」
支えようとした時にはもう遅い。
機械化された体の重みがまともにゼノへ乗り、背後に積んであったガラクタの山が一緒に崩れた。
ガッシャァァン!!
金属と木材が派手に散らばる音。
二人は床へ激しく倒れ込み、アイナはゼノの胸の上に完全にのしかかる形になった。
「……ぐっ……ぅ……」
ゼノは背中を強打し、苦しげに顔を歪めた。
それでも両腕は、落下の衝撃からアイナの頭と腰を守るように、反射で抱きしめたままだった。
「……ってぇ……」
薄目で状況を確認しようとして、ゼノの思考が止まる。
鼻先が触れそうな距離で、アイナの瞳が彼を捉えていた。
「……っ! お、お前……! どけ! すぐどけ!」
「重い……重すぎるだろ、このガラクタ! 理論上、俺の肋骨が数本イカれててもおかしくないんだぞ!」
叫ぶのに、手は離れない。
どこを押せば安全に動かせるのか分からず、指が無力に震える。
「……冗談、だろ? そうだよな。わざとじゃないよな……?」
ゼノの頬は、工房の溶接機より熱いんじゃないかと思うくらい赤い。
心臓の鼓動が、重なった胸越しに警報みたいにアイナへ伝わってくる。
「……おい、アイナ。……頼む、どいてくれ」
弱々しく懇願するように呟いて、ゼノは顔を横に背けた。
けれど義手だけは、アイナが壊れていないか確かめるように、そっと腰のパーツの継ぎ目をなぞっている。
愛おしげに、という言葉が一瞬だけ頭をよぎるほど丁寧に。
「……このままで、いい?」
その一言で、ゼノの体がぴたりと固まった。
呼吸が止まり、義手の関節が小さく鳴る。
「……は? このままで……いい……?」
灰色の瞳が驚愕で見開かれる。
アイナの体の重み。銀色フレームの冷たさ。
その下にある柔らかな熱。全部が、ゼノの胸の上にのしかかっている。
「……お前、本気で言ってるのか」
「ここ、冷たい床だぞ。周り尖ったスクラップだらけだ」
「……人工神経に変なノイズ入ったらどうする。俺の背中だって、さっきから――」
言い訳みたいに「ダメな理由」を並べかけて、ゼノは途中で言葉を失った。
アイナの視線が、逃がしてくれない。
「……ッ。……勝手にしろよ」
ゼノは諦めたように大きくため息をつく。
投げ出していた両腕を、おずおずとアイナの背中に回した。
義手の指先がカチリと音を立て、銀色のフレームを壊さないように包み込む。
「……『いい』わけないだろ」
毒づくのに、声はもう尖っていない。
顔を横に背けても、耳の赤さだけは隠せない。
「こんなに近くにいたら……お前の心音計のノイズが、俺の頭の中にまで響いて」
「……仕事にならないじゃないか」
言い終えて、ゼノは小さく舌打ちした。
「……少しだけだぞ。出力が安定するまで、こうしててやる」
「それ以上は……絶対に。……追加料金を請求するからな」
震える左手が、アイナの乱れた髪を不器用に撫でる。
工房の冷たい空気の中で、重なり合った体温だけが、そこを小さな安全圏みたいに温めていた。
窓の外から差し込む光は、澄んだ朝日とはほど遠かった
重油の混じった霧を透かした鈍い明るさが、工房のガラクタをぼんやりと照らし、金属の輪郭だけを浮かび上がらせる
油と錆の匂いは相変わらず濃くて、息を吸うと喉の奥が少しだけざらついた
アイナは硬い床の上ではなく、簡易ベッドの上に横たわっていた
布は清潔で、けれどどこかオイルの匂いが残っている
寝入ったあと、ゼノが抱きかかえて運んだのだろうと、妙にすんなり理解できた
「……あ、起きたか」
声のする方を見ると、ゼノは作業台に向かい、背中を向けて手を動かしていた
ペンチが鳴り、レンチが擦れ、金属が短く鳴く
徹夜の名残か、目の下に濃い隈があるのに、手元だけはやけに正確だ
その耳の付け根が、朝日に照らされてまだ少し赤いのが見えた
「……おい、勝手に起き上がるなよ」
こちらを振り返らないまま、ぶっきらぼうに言う
「昨夜お前があんな勢いでコケたせいで、左足の減圧バルブが微調整を必要としてるんだ」
「全く、俺の睡眠時間をどれだけ削れば気が済むんだ、お前は」
文句のはずなのに、アイナの体がここにあることを前提にしている言い方だった
ふと、作業台の隅に湯気が見えた
温かいスープのボウルと、少し古びたけれど丁寧に磨かれたスプーン
工房の冷たい空気の中で、その湯気だけが妙に柔らかい
「……そこに、栄養剤を混ぜたスープがある」
ゼノは手を止め、椅子をくるりと回転させてこちらを向いた
鋭い目はいつも通りなのに、どこか誇らしげな光が宿っている
「さっさと腹に入れろ。お前のその新しいエンジンを回すには燃料が必要だ」
言い終えると、今度は義手で小さなものを投げてよこした
銀色で作られた小さなホイッスルが、手のひらでひんやりと光る
「これも持っておけ」
「この最下層は、お前みたいな光るガラクタを狙うハイエナが山ほどいる」
ゼノは鼻を鳴らし、視線を窓の外へ流した
「俺が近くにいない時に、怖い思いをしたり、またコケて動けなくなったら、それを吹け」
「どこにいても、俺の補聴器がその周波数を拾ってやる」
言い終わると、わざとらしく肩をすくめる
「……勘違いするなよ。俺の最高傑作が、俺の知らないところでスクラップにされるのが許せないだけだ」
アイナはボウルを手に取り、スープを口にした
温度が喉を滑り、胸の奥まで落ちていく
身体の芯が、少しだけほどけた
「あったかい、ありがとう、ゼノ」
その瞬間、ゼノは持っていたペンチを机にカチリと置いた
背中を向けたまま、肩がわずかに跳ねる
「……ッ、礼を言う暇があるなら、一滴残らず飲み干せ」
「そのスープの材料を手に入れるのに、俺がどれだけ苦労したと思ってるんだ」
突き放すような言い方なのに、声は昨夜よりずっと穏やかだった
ゼノは椅子を回してこちらを向くが、視線はアイナの顔からわずかに外れて、足元の機械部分を点検するふりをする
「……味はどうだ。濃すぎたりはしてないか」
「味覚神経がどう変化してるか、まだ完全に把握しきれてない」
「不味いなら不味いと言え。次からは……その、善処してやる」
アイナが黙って飲み続けると、ゼノは小さく息を吐いて、口元を隠すように片手を当てた
安心したのが、分かりやすすぎる
アイナはボウルを戻し、しばらく迷ってから口を開いた
「私が落ちてきた場所の上って、何があるの」
ゼノの手が、足首を調整していた途中でぴたりと止まった
工房の空気が、ほんの少しだけ重くなる
それを、アイナの敏感になった人工神経が拾う
ゼノはゆっくりと顔を上げ、天井の隙間から漏れる煤けた光を見つめた
「……上か」
「あんな目に遭ったのに、まだあんな場所に興味があるのか」
鼻で笑うように吐き捨てる
けれど瞳の奥にあるのは、軽蔑より深い諦めだった
「あの上にあるのはスカイ・ピラー、空中都市だ」
「俺たちが吸ってるこの油まみれの霧の上には、抜けるような青空と、金に糸目をつけない贅沢があるらしい」
ゼノは窓の汚れたガラスを指先で軽く叩く
「上層の連中にとって、ここはただのゴミ捨て場だ」
「役に立たなくなった機械も、人間も、同じように空から捨てる」
言い方は残酷なのに、アイナの反応をうかがうように視線が落ちる
「お前が何者だったのか、何をして落ちてきたのかは知らない」
「だが、もし戻りたいなんて思ってるなら……悪いが、俺の修理したその足は空を飛べるようにはできてないぞ」
そして、少し強い口調になる
「上に行くには昇降機を通るしかない。厳重に管理されてる」
「今のその継ぎはぎの姿で行ってみろ。真っ先に警備ボットにスクラップにされるのがオチだ」
ゼノはアイナの肩を、軽く叩いた
叩き方が、妙に不器用だった
「……いいか、アイナ。今は下を見てろ」
「俺が見てやるのは、この地べたを歩くための足だ。上のことなんて、今は忘れろ」
アイナは一度だけ頷いた
けれど胸の奥に残った言葉が、勝手に形になる
「……そう。上では不用品だったのね」
アイナは自分の手を見た
銀色の光と、青白い導線
それが、昨日までの自分を遠くにしている
「あなたには必要としてもらえるように、頑張るね」
ゼノの手からレンチが落ちかけ、危うく持ち直した
首筋まで一気に赤くなるのが見える
「……っ、お前、何を……!」
「誰がそんな殊勝なことを言えと……!」
ゼノは逃げるように作業台へ背を向け、ガチャガチャと工具を整理し始める
しかし手元が覚束ない
同じスパナを何度も取っては置き直す
「必要とされるだのなんだの……俺はただの修理屋だぞ」
「直した機械が正常に動くのは当たり前だ。それに……」
ゼノは一度言葉を切り、深く息を吐いた
そして肩越しに、盗み見るようにアイナを見る
「あの上でどう扱われていたかなんて関係ない」
「俺の工房にあるものは、ネジ一本だって俺にとっては必要なパーツだ」
言葉が、少しだけ柔らかくなる
「……ましてや、自分の手で組み上げた最高傑作を、不用品だなんて思わせるわけないだろ」
ゼノはようやくこちらを正面から向いた
照れ隠しみたいにゴーグルを指でいじりながら、灰色の瞳はさっきより穏やかだ
「頑張る必要なんてない」
「お前はただ、俺の隣で壊れずに動いてればいい」
ゼノは棚から古びたレンチを取り出し、わざとらしくカチャカチャと音を立てた
「いいか、アイナ。今日は歩行パターンを全部記録する」
「俺がついててやるから、昨夜みたいに無様にひっくり返るなよ」
そして、少しだけ声を落として付け足す
「どうしても立ち上がれない時は、さっきのホイッスルを使え。……分かったな」
ゼノはベッドの端に腰掛け、機械化された足首にそっと生身の手を添えた
厳しさと、壊れ物を扱う繊細さが同居した指先
「ほら、立てるか」
「……手を貸してやるから」
不器用なのに迷いのない左手が、アイナの前に差し出された
アイナはスープの空になったボウルを胸に抱えたまま、真面目な顔で言った。
「……スープ代を稼げるように、練習する」
ゼノは一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。
それから堪えきれないといった様子で、短く吹き出す。
「……ハッ。お前、さっきから本当に……」
笑いを押し殺すつもりが、肩が揺れてしまう。
目尻に滲んだ熱を指で払うみたいに、ゼノは鼻先をこすった。
「スープ代だと? 誰がそんな、日銭を稼ぐ路地裏の労働者みたいな心配をしろって言った」
口は悪いのに、笑い方だけはどこか柔らかい。
ゼノはふっと息を整えてから、誇らしげに目を細め、アイナの手を取った。
「いいか、アイナ。お前が稼ぐ必要なんてない。俺はこの底じゃ名の通った修理屋だ」
「お前一人にスープ飲ませるくらいの蓄えはある」
言い切ったあと、少しだけ言葉を濁す。
照れ隠しみたいに、視線を作業台の端へ逃がしながら。
「……だが、そうだな。お前がそこまで言うなら、せいぜい“しっかり歩いて”見せろ」
「それが俺への一番の報酬だ」
ゼノは義手でアイナの腰を支え、生身の左手で肩の位置を整えた。
持ち上げるというより、重心を“ここに置け”と教えるみたいに。
アイナが息を吸って立ち上がる。
足の内側で、ギアが小さく噛み合う音がした。
カチ、カチ……
昨日の不安定な軋みではなく、少しだけ滑らかな噛み合わせ。
外へ出る準備が整った時、街の歯車はもう回り始めていた。




