私の可愛い弟分は、今日も泣いている
泣き虫王子とその幼馴染のお話。
私の可愛い弟分は、今日も泣いている。
正確に言うと、顔面国宝である第三王子が、泣きそうな顔で、私の前に立っている。
「……マリエル。今日、あの人たちに会うの、ちょっと……怖い」
淡い金色の髪が、春の光を溶かしたみたいに揺れる。
その下で、光の加減で色を変えると言われるアレキサンドライトのような瞳が、今は青緑色に近い柔らかな色で、不安げに潤んでいた。
――泣きそう。
というか、もう半分泣いている。
「大丈夫よ。ちゃんと公務でしょ? リオネル」
私は、いつの間にか少し高くなった彼の瞳を、下からそっと覗き込み、昔と変わらない距離で視線を合わせた。
「今日はグレンも一緒だし。何かあったら、すぐ助けに来てくれるわ」
「……うん」
こくん、と小さく頷く第三王子――リオネル。
この国で一番美しいと噂される王子様であり、私にとっては、ずっと“可愛い弟分”みたいな存在だ。
***
リオネルが七歳だった頃。
王城の裏庭で、彼は泣いていた。
ぽろぽろ、ぽろぽろと、まるで宝石をこぼすみたいに涙を落としながら、双子の兄であるグレンの背中にしがみついていた。
「……やだ……もう、外、出たくない……」
「はいはい。わかったから、ちゃんと息して」
グレンは苦笑しながら、リオネルの頭をぽんぽんと撫でていた。
その日の昼、王子が誘拐されかけたのだ。
あまりにも整いすぎた美貌は、時に“災い”になる。
「……リオ、怖かったわね」
私がそう言うと、リオネルは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、こくんと頷いた。
「……でも、マリエルがいたから……」
「うん?」
「……ちょっと、頑張れた」
その言葉が、なぜだか胸に残った。
――守らなきゃ。
この綺麗で泣き虫な弟分を。
私は、あの頃からずっと、そう思っている。
それから、ゆっくりと、時は流れた。
リオネルの乳母だったのは、グレンと私の母だ。
だから私たちは、物心つく前から、泣き虫な王子のそばで一緒に育った。
泣くたびに背中を貸す兄と、その横で手を握っていた私。
そして時が経ち、兄は護衛騎士になり、王子が心配でたまらなかった私は、王城付きの女官になった。
立場も、役目も、少しずつ変わったけれど――
それでも私は、今も変わらず、この人の一番近くにいる。
***
そして現在。
リオネルは大人になった。
背は伸び、声も低くなり、顔立ちはさらに整い、もはや“顔面国宝”という言葉すら生ぬるいほどの美貌を手に入れた。
それでも。
「……今日の人たち、ちょっと……」
「しつこそう?」
「……うん」
今も変わらず、私の前では、こうして不安げな顔をする。
「また囲まれたら、グレンを盾にしていいからね?……あなたは、守られる側なんだから」
「……うん」
そこへ、扉の向こうから足音。
「行くぞ、リオ」
低く淡々とした声。
護衛騎士であり、双子の兄でもあるグレンが現れた。
「時間だ」
「……え、ちょっと、早くない……?」
「遅いくらいだ」
ぐい、と容赦なく腕を掴まれ、引きずられるリオネル。
「ちょ、ちょっと……! マリエル……!」
「大丈夫よ、頑張ってきてね!」
私は笑って手を振った。
――大丈夫。
グレンがいる。
それに、何があっても、私が守る。
そう、信じて疑っていなかった。
――この時までは。
***
訓練場の裏手にある回廊は、午後になると人通りがぐっと減る。
マリエルは抱えていた書類を腕に抱え直しながら、軽く息をついた。
急ぎの届け物を終えたあと、ついでに王子の執務室へ顔を出そうと思っただけだった。
扉は、少しだけ開いていた。
「……リオネル?」
声をかけながら中を覗き――
次の瞬間、思考が止まった。
上半身裸のリオネルが、そこにいた。
日差しを受けた肌は、白磁のように滑らかで、しかし線ははっきりと男のそれだった。
浮き上がる鎖骨、締まった腹筋、しなやかに盛り上がる胸元。
「…………」
マリエルの脳が、静かに爆発した。
「……っ!? ご、ごめんなさい!!」
反射的に顔を伏せて、扉を閉めかけた、その時。
「……あれ?」
やわらかな声が、引き止める。
「マリエル?」
聞き慣れた泣き虫王子の声だった。
恐る恐る顔を上げると、リオネルの瞳は昼の光を含んだ宝石みたいに、青緑色にきらめいていて、そのまま少しだけ困ったように微笑っていた。
「今、グレンと訓練してたんだ。汗、すごくて」
言いながら、彼は汗でしっとりと濡れた淡い金色の髪をかき上げて、無防備に一歩近づく。
「……ほら」
何を思ったのか、リオネルは自分の腹筋を、ぺし、と軽く叩いた。
「結構、頑張ってるだろ」
マリエルは、反射的に目を逸らした。
「が、頑張ってるのは知ってるけど……っ」
「触ってみる?」
あまりにもさらっと言われて、マリエルは真っ赤になって叫んだ。
「だ、だめ!!」
リオネルは、くすっと笑う。
「ごめんごめん、冗談だよ」
柔らかな声。
子どもの頃と変わらない、安心する笑顔。
でも――
その体だけが、もう全然、昔の“泣き虫王子”じゃなかった。
(……あれ?)
胸の奥に、小さな違和感が落ちる。
(この子、こんな……だったっけ)
マリエルは書類を胸に抱えたまま、しばらくその場から動けなかった。
***
数日後。
夜会で王城の大広間は人で溢れていた。
リオネルの周囲には、いつも以上に人が集まっている。
視線、囁き、あからさまな期待と欲望。
そのすべてを、グレンが完璧な距離感でさばいていく。
「……第三王子って、ほんとうに人間なのかしら」
「噂じゃ、あの瞳を“まともに見たら”最後、恋をするって」
「だから護衛が、あれほど厳重なんでしょう?」
「“昼はエメラルド、夜はルビー”ですって……宝石みたい」
ひそひそと交わされる囁きは、憧れというより、どこか熱を帯びた信仰に近い。
「申し訳ありません。王子は次のご挨拶の予定がございます」
「こちらの件は、後日あらためて」
穏やかだが、隙のない声。
マリエルは少し離れた場所から、それを眺めていた。
――と、その時。
人混みの隙間で、リオネルがふと視線を上げた。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、その瞳の色が、ろうそくの火に照らされた宝石みたいに、昼とは違う、赤い光を帯びて、ひやりと変わった。
胸が、きゅっと鳴る。
(……え?)
でもすぐに、彼はいつもの“泣き虫王子”の顔に戻り、困ったように微笑んだ。
「……ごめんね」
その場をやり過ごすような、小さな声。
何事もなかったように、夜会は続いていった。
***
自室に戻ったリオネルは、扉を閉めた瞬間、ふっと息を吐いた。
マリエルは、お茶の準備をしながら、その様子を見ていた。
「お疲れさまでした」
そう声をかけると、リオネルは、ふわっと肩の力を抜いて、微笑った。
「……うん」
誰にも見せない、安心した微笑。
それだけで、胸の奥が、きゅん、と音を立てて鳴る。
(やっぱり……私が、守らなきゃ)
マリエルは、そう思ってしまう。
でも、その“守られている側”の王子が――
このあと、何をするのかを、彼女はまだ知らない。
***
夜会が終わり、王城のざわめきも遠くなった。
人の気配が薄れた回廊で、どこからともなく現れたひとりの客が、ふらつくように裏手へと入り込む。
足取りは覚束ないが、視線だけは妙に粘ついていた。
「……やっぱり、噂どおりだな」
誰もいないはずの回廊で、ひとりごちる。
「昼はあんな顔して、夜になると……」
くぐもった笑い声が、石の床に落ちた。
「宝石みたいな目で見られるとさ、どうしても――」
その続きを言い切る前に。
男の足元の影が、ひとつ、伸びた。
次の瞬間、男の身体は床に伏せていた。
音はほとんどなかった。
ただ、視界が反転し、息が詰まるほどの圧が背中にかかる。
背後に立つのは、リオネルだった。
――最初から、そこに“いた”かのように。
相手の腕を捻り上げ、動きを封じ、床へ押さえ込む。
躊躇はなく、声もなく、ただ“処理”だけがある。
「……気持ち悪い」
低く、冷たい声。
怒りでも嫌悪でもない。
“それ以上、ここに存在する価値はない”と告げる声だった。
ろうそくの残り火に照らされた瞳が、宝石のように赤く滲む。
触れるな、と静かに命じる光。
そこへ、足音が近づく。
「……またか」
現れたのは、グレンだった。
床の男を一瞥し、ひとつ息を吐く。
「満足したか」
リオネルは、答えなかった。
「片付ける。お前は戻れ」
そのグレンの声に、リオネルはただ静かに立ち上がり、手袋を外す。
まるで“汚れを払う”ように、指先を軽く振った。
***
その夜。
リオネルの私室で。
「相変わらずだな」
グレンは、ため息混じりに言った。
「猫かぶるの、上手すぎだろ」
「だって」
リオネルは、ベッドの縁に腰掛け、静かに微笑う。
「こうしてると、マリエルが構ってくれるから」
「お前も面倒くさいやつだな。うちのマリエルも悪くないが、もっと美人で可愛い女なんているだろ」
ずばずばと遠慮なく口にするグレンに、リオネルは目を細めて小首をかしげる。
「マリエルはかわいいよ?」
グレンが、呆れたように肩をすくめる。
「男女関係なく寄ってくる"その"見た目、もっとうまく使えばいいだろ。マリエルのやつ、いつまでたってもお前の気持ちに気が付かないぞ」
「……意味ないよ」
リオネルは、淡く笑った。
「マリエルには意味ない。この顔も、この立場も――奪いたい相手に効かないなら」
ふっと、目を細める。
「意味ないでしょ」
グレンは、しばらく無言で王子を見つめてから、小さく言った。
「……マリエル、気づいてないよな」
「うん」
リオネルは、とろけるように優しく微笑った。
「まだ、全然」
その笑顔は、あまりにも静かで、あまりにも確信犯だった。
***
それは、偶然ではなかった。
夜会の翌日。
マリエルは、女官長に頼まれた書類を届けるため、王城の回廊を歩いていた。
午後のこの時間帯は、人通りが少ない。
遠くから聞こえるのは、風の音と、靴音だけ。
角を曲がろうとした、その時――
低い声が、耳に刺さった。
「……調子に乗るなよ」
聞き覚えのない、冷たい声。
「王子だからって、何しても許されると思うな」
「その綺麗な顔も、俺たちの前じゃ、ただの――」
言葉は、途中で途切れた。
数人の男の声。
マリエルは、思わず足を止めた。
半開きの扉の奥。
そこにいたのは――リオネルだった。
数人の男に囲まれている。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「リオネル……!」
思わず、声が零れた、その瞬間。
リオネルが、動いた。
音もなく一歩踏み込む。
腕を取って体勢を崩し、床へ叩きつける。
背後から掴みかかった男の鳩尾を肘で打ち抜き、壁に押し付ける。
逃げようとしたもう一人の足を払い、床へ転ばせる。
ほんの数秒。
あまりにも、静かで、正確で、容赦のない動き。
床に転がる男たちを見下ろしながら、リオネルは、低く言った。
「……触るな」
翳りの中で、昼間の青緑とは違う色を帯びた瞳が、ひやりと赤く滲む。
まるで、値踏みする視線そのものを、叩き伏せるみたいに。
そこへ、足音が近づく。
「……終わったか」
現れたのは、グレンだった。
倒れている男たちを一瞥し、淡々と言う。
「部屋に戻れ。あとは俺がやる」
「……頼む」
リオネルは、それだけ答えて、マリエルの方を見た。
目が合う。
一瞬だけ、空気が止まった。
――見られた。
マリエルに。
すべてを。
彼の表情が、ほんの少しだけ、固まった。
「……マリエル」
呼ばれた声は、もういつもの、柔らかな声だった。
でも、もう、わかってしまった。
彼が、“守られている存在”ではなかったことを。
***
その夜。
リオネルの私室の前で、マリエルは足を止めていた。
ノックをする指先が、わずかに震える。
「……入って」
中から聞こえた声は、いつもより低い。
扉を開けると、リオネルは窓辺に背を向けて立っていた。
夜の光を背負った背中は、ひどく静かで、張りつめている。
しばらく、言葉がなかった。
先に口を開いたのは、彼のほうだった。
「……今日、見せたのが、本当の俺だ」
それだけ言って、少し間を置く。
「囲まれるのも、見られるのも……好きじゃない。
“きれいだ”って言われるのも。勝手に触れられるのも。全部、嫌だった」
声は低く、淡々としていて、感情を挟まない言い方だった。
ただ事実を並べるみたいに。
「だから、強くなった。伸ばされた手を――叩き落とせるように」
一瞬の沈黙。
「誰かが来るのを、待つつもりはなかった」
そこでようやく、リオネルは振り返った。
逆光の中で、表情は影に沈んでいる。
けれど、その視線だけが、まっすぐマリエルを捉えていた。
「……君が思ってるみたいな、“泣き虫の王子”はいない」
その言葉を聞いた瞬間、マリエルの胸の奥が、理由もわからないまま、きゅっと縮む。
怖い、とは違う。拒絶とも違う。
ただ、知らなかった彼が、はっきりとそこに立っている。
「……でも、君の前では……泣いてた」
一歩近づこうとして、けれどすぐには踏み出さずに、ほんの少し困ったように微笑う。
「君は、いつも変わらずに俺を見てくれたから。顔でも、立場でもなくて。ちゃんと“俺”として。
……それが、嬉しかった」
言葉を選ぶように、続けてから、小さく息をつく。
けれど、彼はすぐに、少しだけ視線を逸らした。
「でも同時に……少しだけ、ずるいって思ってた。
君も、少しくらい惑わされてくれてもいいのに、って――思ってた」
声が少しだけ低くなり、ほんの一瞬、言葉を探すみたいに視線が落ちる。
「……嫌われたくなかった。怖がられたくなかった」
低く、抑えた声。
「でも、本当の俺を見せて……それで離れていかれるのは、それ以上に、怖かった。だから……弱くて、頼りない俺でいた」
その言葉の意味をまだ掴みきれないまま、マリエルの胸が、理由もなくきゅっと鳴って、なぜか視線を逸らした。
「……マリエルのことが、好きだから」
低く、確かな声で。
「ずっと、子どもの頃から」
それでも、まだ距離は詰めない。
――その言葉が、胸の奥に落ちるまで、ほんの一拍、時間がかかった。
マリエルは、すぐに言葉を返せなかった。
じわり、と胸の奥が熱を持つ。
それが嬉しさなのか不安なのか、まだ、自分でもはっきりしない。
ただ――
その言葉を向けられた理由が、まだ、胸の奥でうまく形にならなかった。
目の前にいるリオネルを、もう“弟分”として見てはいけない、そんな予感だけが、確かにあった。
「……嫌いに、なった?」
その問いに、マリエルは息を吸い、静かに答えた。
「今まで私の知ってたあなたも。今のあなたも……どっちも、リオネルよ」
一瞬の沈黙。
それから、リオネルの肩から、ふっと力が抜けた。
張りつめていた糸が、ほどけるみたいに。
「……ありがとう」
そう言って、ほんの少しだけ笑う。
その笑顔は、泣き虫王子の安堵の微笑みに似ていて――
けれど、その奥には、もう隠していない“熱”が灯っていた。
張りつめていた糸はほどけた。
でも代わりに、別の何かが、静かに目を覚ました。
マリエルは、まだ――それが何なのかを、知らない。
***
沈黙が、部屋に落ちた。
マリエルの胸は、まだざわついていた。
頭の中を占めているのは、あの冷たい瞳と、静かな動きと、
知らなかった彼の姿ばかりで。
(……本当に、今までのリオネルと……同じ、なのよね……?)
その沈黙を破るように、リオネルが静かに言った。
「……じゃあ」
一歩、近づく。
マリエルは、無意識に半歩、後ろへ下がった。
「これからは」
さらに、もう一歩。
距離が、近すぎて。
「ちゃんと、捕まえにいっても、いい?」
「……え?」
意味が、追いつかない。
「さっき、言ったでしょ」
低く、囁く声。
「マリエルのことが、好きだから」
その一言に、胸が跳ねた。
リオネルの指が、そっと顎に触れる。
拒む力もないまま、顔を上げさせられる。
――その距離で、初めて気づいた。
リオネルは、笑っていた。
泣き顔でも、困った微笑でもない。
彼女が一度も見たことのない、静かで――とろりとした笑み。
逃がさないと決めた人だけに向けるような、
熱を含んだ視線が、まっすぐにマリエルを映している。
「……そんな顔で見られたら」
低く、喉の奥で笑う。
「意識しないほうが、無理だと思うけど」
唇が、ほんのすぐそこまで近づいて――けれど、触れない。
そのまま、耳元へ。
「……意味、わかってくれた?」
吐息が、くすぐるように落ちる。
胸の奥が、どくん、と鳴った。
(……え、待って。それって……そういう、意味……?)
顔に、熱が集まる。
視線が定まらない。
息の仕方が、わからない。
そのまま、背中がゆっくりと壁に当たった。
影に沈んだその瞳の奥で、アレキサンドライトが、ろうそくの火を映して静かに赤く滲む。
「これからは」
低く、絡め取るような声。
「ちゃんと、俺を意識して」
心臓が、痛いほど鳴る。
声が、出ない。
唇が、かすかに開く。
リオネルは、ほんの少しだけ、顔を傾けた。
「……覚悟してね」
その声はもう、泣き虫王子のものじゃなかった。
逃がす気のない、男の声だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも、この物語に目を留めていただけたなら嬉しいです。
※ アレキサンドライトについて
光源によって色が変わる宝石で、昼のエメラルド、夜のルビーとも呼ばれています。
双子座の守護石のひとつで、石言葉は、秘めた思い/魅力/情熱/高貴など。
リオネルの瞳には、近づいたときにだけ見えてくる本心と、見る角度で変わる人の姿を重ねました。




