第九十八話:道中の最終調整
馬車の外を流れる景色は、もはや白銀の地獄と化していた。
車輪が凍土を削る不規則な振動が、静まり返った車内に響く。アルトはステファニーさんの最小限に抑えられた維持光に包まれ、深い眠りの中にある。だがその寝顔は平穏とは程遠い。時折、眉間に深い皺が寄り、何かに耐えるように指先が痙攣していた。
その様子を、御者台で手綱を引きながら背後を伺っていたシエラさんが、重みのある声を投げた。
「ライト、レイナ。……お前たち二人、ここで最終調整をするぞ」
「最終調整……ですか?」
ライトが問い返すと、シエラさんは北への荒れた道を見据えたまま応じた。
「ああ。《原初爆ぜる一撃》を放つための下準備だ。……正確には、お前たち二人の魔力の『波長』を、可能な限り近づける訓練をする」
レイナが不機嫌そうに、細い眉をひそめる。
「何で今更? 繋ぎ合わせるのは全部アルトがやってくれるんでしょう? 彼はそのためにあんな無茶をして――」
「だからだ、嬢ちゃん」
シエラさんの声が、少しだけ厳しさを帯びた。
「アルトは天才だが、万能じゃねえ。お前たちがそれぞれ勝手なリズムで魔力を放り投げれば、アルトはその歪みを一つずつ、命を削りながら無理やり合わせなきゃならねえ。……このまま戦場に出れば、あいつは魔法を完成させる前に、脳が焼き切れて死ぬぞ」
その言葉に、ライトとレイナは息を呑んだ。
眠るアルトの蒼白い横顔。彼が背負っているものの重さを、改めて突きつけられた。
「あいつばかりに背負わせるな。お前たちが魔力の足並みを揃えれば、アルトが魔法を維持するための負担は桁違いに減る。……せめて、入り口の精度くらいは、自分たちの意志で整えてやれ。いいな」
シエラさんの言葉は重い。だが、その裏には「仲間を、これ以上傷つかせたくない」という、一人の大人としての、そして教導者としての深い慈愛が滲んでいた。
「……分かったわ。やるしかないわね」
「俺も、やります。アルトにこれ以上の負担はかけさせたくない」
二人は走行中の揺れる馬車の中で、狭い床を挟んで向かい合った。
剣士として鍛え上げたライトには、魔力を分割制御し、同時に複数の術を走らせる回路はない。だが、出力の「波長」を調整することなら、この集中力すべてを注げば可能なはずだ。これは段階詠唱ではない。ただの、泥臭い「波長合わせ」だ。
「よし。まず、お前たちの魔力を同時に放出してみろ。ただし、ぶつけるな。互いの魔力を一本の糸だと思って、平行に、滑らかに伸ばしてみろ」
シエラさんの指示に従い、二人が同時に意識を集中させた。
だが、その瞬間。
ライトの剣から鋭い光の粒子が逆立ち、レイナの杖から渦巻く闇の奔流が凝縮し、それぞれ無意識のうちに「攻撃の形」を成そうとしてしまった。
――バチィィッ!
馬車の中に不気味な火花が散り、空気がパチリと爆ぜた。まだ魔法にすらなっていない魔力の残滓が、互いを激しく拒絶して霧散したのだ。
「魔法を使うんじゃない。魔力を放出するんだ」
シエラさんが即座に指摘した。
「形を作るな。術式を編もうとするな。それはアルトの役割だ。お前たちはただ、純粋な魔力の『波』を流すことだけに集中しろ。ライト、お前の光は正義感が強すぎて融通が利かねえ。一定の形を保とうとして、レイナの魔力を無意識に弾き出しちまってる。レイナ、お前は逆だ。闇が流動的すぎて、ライトの光を包囲して食い潰そうとしてる。これじゃ、アルトにかかる負荷は比較にならねえぞ」
シエラさんは、再び魔力を散らした二人に、今度は包み込むような穏やかな声をかけた。
「焦るな。魔力を合わせるには、まず『心の静寂』が必要だ。……ステファニー、お前の出番だ。二人の魔力がぶつかりすぎないよう、拍動を数えてやってくれ」
「はい〜。お任せください〜。……一、二、……さあ、吸って、吐いて〜」
ステファニーさんが二人の間に手をかざし、穏やかなリズムを刻む。その補助を受けながら、シエラさんが再び教えを説く。
「レイナ、ライトの光を敵だと思わず、自分の闇を支える『芯』だと思え。ライト、お前はレイナの闇を恐れるな。それはお前の光が照らすべき、懐の広い『受け皿』だ」
二人は、シエラさんの助言を噛み締める。
何度も繰り返し魔力を放出し、調整を続けること数時間。
馬車の外では、時折キィィンという因果の軋む不快な音が響き、クロノスの圧力が強まっていた。
やがて、極限の集中の中で、ライトの魔力がレイナの闇の波長と、一瞬だけ重なった。
その刹那、ライトの脳裏に、魔力の断片を通じた感情の残滓が流れ込んできた。
(……え? レイナさんの、闇……?)
それは冷たいだけではない。
その奥底に、ひどく澄み切った孤独と、何かに怯えながらも凛と立とうとする、年相応の脆さが混じっている。ほんの一瞬、波長が深く寄ったその時だけ、レイナという一人の少女の隠した本音が伝わってくる。
レイナもまた、目を見開いていた。
ライトの光が、自分の闇の隣にピタリと寄り添った瞬間、眩しすぎると思っていた輝きが、驚くほど穏やかで、包容力に満ちたものに感じられた。
だが、馬車が大きな石を跳ねた衝撃で、重なり合っていた波長は無慈悲に引き剥がされた。
「……あ。……すみません、今の感覚を忘れないようにします」
「いいえ。私も……合わせるわ」
その後、何度も繰り返し魔力を放出し、二人は「重なり合う瞬間」を少しずつ増やしていった。
まだ完璧ではない。少し気を抜けば波長は乱れ、反発し合ってしまう、極めて再現性の低い、不安定な成功。
「……ライト、あんたの光、ちょっと温かいのね」
レイナが、ぽつりと呟いた。その声には、いつもの攻撃的な響きはなく、隠していた脆さが微かに覗いていた。
「レイナさんの闇も……思ったより優しいです。包まれていると、不思議と落ち着くというか……」
「……馬鹿言わないで。私の闇は、誰よりも冷たくて、禍々しいのよ。……馴れ合わないでもちょうだい」
レイナは少し照れたように、しかし突き放すように顔を背けた。だが、彼女の放つ闇の揺らぎは、波長が合うたびに、ライトの光を慈しむように寄り添っていた。
「……よし、そこまでだ」
シエラさんが、満足げな溜息を漏らした。
「よくやった。今はお互いの性質を掴みかけた、その段階で十分だ。だが、この精度で波長を合わせられれば、アルトの苦労は今の何分の一にも減るはずだ。……あいつ、起きたら腰を抜かすぞ」
「やった……!」
ステファニーさんが、嬉しそうに拍手をした。
「あとは戦闘中や奇襲時、俺が指示できない時、いつなんどきでも合わせられるようにするだけだな。……それができれば、本番でも勝ち目はある」
シエラさんの言葉に、二人は気を引き締め直した。
今はまだ、走行中の馬車の中で、数時間の調整を経てようやく辿り着ける、不安定な一瞬でしかない。それを実戦の極限の混乱の中で再現する。それがこれからの課題だ。
「……まあ、これくらいはできないとね。あいつに、全部任せっきりじゃ、寝覚めが悪いもの」
レイナが、不機嫌そうに言いながらも、その口元には満足げな笑みが浮かんでいた。
ライトもまた、膝の上の聖剣を握りしめ、前方の闇を見据えた。
吹雪の向こう側、ついにその姿がはっきりと見え始める。
空を覆い尽くす逆回転の歯車。そして、時を止められた死の都市。
「フォートレス・ノールだ。……お前たちは、最高の準備ができたぞ」
シエラさんの言葉を背に、馬車は因果の狂い果てた要塞都市の正門へと滑り込んでいく。
かつて栄華を誇った北の盾が、今、因果を失った巨大な剥製となって五人を迎え入れようとしていた。




