第九十四話:シエラへの提案
深夜。宿屋の一室。
徹夜の演算による魔力枯渇で、現実の輪郭が滲むような重い足取りのまま、アルトはシエラさんの部屋の扉を叩いた。
「……シエラさん、少しお時間をいただけますか」
「……入れ。その乱れた歩法と、叩くまでの数秒の迷い――扉越しでも伝わるぞ、その焦燥が」
扉を開けると、シエラさんは窓際で剣の手入れをしていた。その赤い瞳が、蝋細工のように血色の失せたアルトの顔を射抜く。
「ノートの端が赤い。血の乾いた跡を見逃すほど、私は耄碌していない。……何を書きなぐった、アルト」
シエラさんは剣を置き、アルトと対峙するように座った。アルトは震える手で、世界法則という名の運命を書き換えるための理論を差し出した。
「《原初爆ぜる一撃》。レイナさんの最大火力を『闇』の特異点として定義し、そこにライトさんの『光』の聖質を正面から衝突させる理論です」
シエラさんはノートの数式を追う。一瞬、喉が鳴る音が聞こえた。
「正気じゃないな。……かつてのあの時、私は闇の芯に光を『被せる』ことで、どうにか《煌闇の紫矢》を成した。だがそれは表面を整えただけに過ぎない。お前がやろうとしているのは――」
「はい。コーティングではなく、開闢。相反する二つの魔力を僕の『超速演算』で無理やり一点に拘束し、因果が生まれる前の高エネルギー状態を発生させます。世界法則の壁を、その熱量で食い破るんです」
シエラさんは長い沈黙の後、深く椅子に背を預けた。
「……かつて、私もその領域を夢想したことがある。だが、仲間を失う未来しか見えずに剣を引いた。光と闇は本来、決して混ざらない。無理やり繋げば、結果は爆ぜるのではなく『消滅』だ。アルト、お前はこの代償の重さが分かっているのか?」
「……計算上、成功率は一割にも満たない。ですから今の僕には、その数値を弾き出すことすら恐怖で手が震える……。失敗すれば、仲間を巻き込むという未来だけが確定しているからです」
シエラさんは、アルトの震えを止めるような力強さでその肩を掴んだ。
「なら、謝るな。恐怖から目を逸らすな。アルト、お前に足りないのは強引な制御じゃない。相反する二つの意志を、一つの器に収めるための――『調和』だ」
「調和……?」
「ああ。争う二つの属性を慈しみで包み込み、暴走を食い止めるための心臓――【慈愛の楔】。かつて私が断念した、光と闇を繋ぐための失われた術理だ。本来ならステファニーのような『誰も見捨てない』という祈りに近い資質が必要だが、お前の演算能力なら、擬似的にその器を再現できる可能性がある」
アルトの脳内で、新しいソースコードが走る。
(……そうか。排他制御を強引に解除するのではなく、ステファニーさんの救済の性質をモデルにして、全属性を『許容』する例外処理を構築するのか。論理の拒絶反応を、慈愛の楔で繋ぎ止める……!)
「フォートレス・ノールに着くまでに、この『楔』の基礎理論を構築し、お前の演算に組み込め。光と闇を争わせるな。……一つにするんだ」
シエラさんの言葉に、アルトの瞳にようやく血の通った光が宿った。
「……はい。必ず、習得してみせます」
「明日から訓練だ。覚悟しろ、アルト。お前の脳を焼き切る以上の地獄になるぞ」
シエラさんは静かに笑い、再び窓の外の闇を見つめた。
絶望的な理論の端に、一筋の細い、だが確かな希望の糸が垂らされた。
アルトはその糸を、血とインクで汚れた手の痛みも忘れ、固く握りしめた。
その拳の震えは、もう止まっていた。




