第九十三話:《原初爆ぜる一撃(オリジン・バースト)》の理論
フォートレス・ノールへ向かう馬車の中で、アルトは深い思考の奈落に沈んでいた。現実の音が薄皮を剥ぐように剥がれ落ちていく。
窓の外を流れる雪景色など、もはや彼の目には映っていない。眼鏡の奥の瞳は、数式という名の呪文が蠢く、血の色の理論世界を凝視していた。
(クロノスの能力……それは戦場という限定された空間における『結果の断裁』だ。録画された映像の、都合の悪い一コマだけを切り抜き、破棄し、繋ぎ直すような行為。観測された因果そのものの加工……)
アルトの手が、ノートに複雑な図形と数式を書きなぐっていく。
(僕の『超速演算』でどれほど完璧な戦術を組もうと、奴は何度でも『破棄』を繰り返す。試行回数が無限なら、いずれ必ず僕たちの敗北という結末に辿り着く。理屈の上では、僕たちはもう、詰んでいるんだ)
アルトの指先が激しく震え、文字が崩れ始める。限界を超えた演算の熱で、思考の輪郭が焼け付こうとしていた。
(ならば、どうすればいい? 奴に『破棄』をさせないほどの出力か。……いや、違う。時間を巻き戻されても、なお残る『何か』が必要だ。シエラさんが言った、記憶の断片に残る微小なズレ。それは完全に切り取れなかった因果の削りカス――言わば『時間のゴミ』。奴が断裁を繰り返すほど、その摩擦熱は戦場に蓄積していく)
馬車の軋む金属音。周期的な振動。そして窓の外、凍てついた空で一筋の雷光が走った。
五感を刺す複数の刺激が、アルトの脳内で一つの特異点へと収束する。前世で学んだ宇宙物理の記憶が、異世界の魔力理論と最悪の形で同期した。
(――そうだ。そのゴミを、火種にする。時間を巻き戻されても消えない因果の残滓。これを燃料に、因果律そのものが生まれる前の無秩序な高エネルギー状態を人為的に引き起こすんだ)
アルトのペン先が折れ、鋭い音が響く。だが彼は構わず、折れた芯で紙を削るように新たな数式を刻んだ。
(レイナさんの魔力を、すべてを飲み込む『ブラックホール』として定義。それに対し、ライトさんの聖質をすべてを吐き出す『ホワイトホール』として激突させる。相反する二つの特異点が衝突する瞬間に生まれる――《原初爆ぜる一撃》。時間の概念すら存在しない開闢のエネルギーなら、奴の権能を根底から食い破れるはずだ)
だが、その数式を描き切った瞬間、アルトの視界が不意に赤く染まった。
眼球の裏側が焼けるような感覚。鼻から滴った赤い雫が、白紙のページを、先ほどの理論世界と同じ「血の色」に汚していく。
(……あはは。成功率は一割にも満たない。一瞬でも調律がズレれば、術者である僕はもちろん、二人の魔力回路もろとも半径数キロが地図から消える爆心点になる。文字通り、すべてが無に帰す)
ノートに描かれた図形は、もはや幾何学的な呪いにしか見えなかった。アルトはそれを、震える手で強く抱きしめた。
(伝えられない。こんな、心中を強いるような理論。……でも、やるしかない。僕の脳が焼き切れるのが先か、奴の時を壊すのが先か)
「アルト、大丈夫か?」
ライトの声が聞こえた。だが、今のアルトには、それが水底から響く遠い世界の音のようにしか感じられなかった。
「あ……ライトさん。……ええ、大丈夫です。少し……美しい数式が見えたもので」
ライトは一瞬、アルトの不自然な笑顔に言いようのない違和感を覚えた。冷たい汗と、隠しきれない虚脱感。そして何より――死を見据えた者だけが浮かべる、どこか諦めに似た微笑み。だが、ライトがその深淵の正体まで察しきることはできなかった。
「そうか。でも、顔色が悪いぞ。少し休めよ」
「はい……ありがとうございます」
アルトはノートを閉じ、そっと目を閉じた。
まぶたの裏には、自分が描いた数式が、美しい雪景色を虚無で塗りつぶしていく幻覚が揺れていた。
馬車の車輪が、凍った道を軋ませながら進む。
アルトの手には、世界を救う希望と、原初へと爆ぜる滅びの理が、等しく握られていた。
フォートレス・ノールまで、あとわずか。彼の孤独な戦いは、すでに始まっていた。




