第九十二話:次のターゲット
朝食を終え、俺たちはシエラさんの部屋に集まっていた。
テーブルの上には、大陸全土の地図が広げられている。シエラさんは、その地図の一点を見つめながら、静かに口を開いた。
「次の敵について、話をしよう」
その声には、これまでにない冷徹なまでの緊張感が宿っていた。
「ネクロアは倒したが、奴は死に際に『魔王三幹部の一角』と言い残した。漆黒の鎧を纏った魔族――名を『クロノス』。時を歪めると噂される処刑人だ」
シエラさんが、地図の最北部、白く凍てついた地を指で示す。
「ギルド経由でもたらされた北方騎士団の密書によれば、奴は今、北の要塞都市『フォートレス・ノール』付近に出没している。あそこは大陸最北端の防衛拠点だが……現在、異常なまでの膠着状態に陥っているらしい」
「異常な、膠着……?」
レイナさんが眉をひそめる。
「死亡が確認されたはずの兵が、翌日、五体満足で城壁の外に立っている。だが、彼らの精神は崩壊し、自らの名すら忘れている……。そんな報告が相次いでいるんだ。報告書には一様にこう記されている。『時の因果が狂っている』とな」
シエラさんの指が、地図を重く叩く。
「奴の力は――『結果の無効化』に近い現象を引き起こす」
部屋の空気が、瞬時に凍りついた。
「結果を、無効化……?」
アルトの眼が、朝日に鋭く反射する。
「ああ。かつて森で対峙した時、俺は一太刀も交えられなかった。踏み込んだ瞬間、景色がブレたんだ。気づけば、一歩踏み出す前の位置に引き戻されていた。思考だけが置き去りにされる、あの吐き気のする感覚……。俺が『斬った』という確信さえ、奴の手の中では『斬ろうとした』という未遂に書き換えられた。ただ――」
シエラさんは苦く唇を噛んだ。
「一瞬だけ、記憶の断片にズレが残る。自分が何をしようとしたか、その残滓だけが脳に焼き付くんだ。……奴は、敗北だけが巻き戻る戦場を支配している」
シエラさんの拳が、テーブルの上で微かに震えていた。
「つまり、奴は自分が不利になる事象を、何度でもやり直すことができる。……無限の再試行だ」
「それって……勝てるわけないじゃない……」
ステファニーさんの声が震える。だが、シエラさんの視線は、誰よりも蒼白な顔をしたアルトに向けられた。
「アルト。今のままの理屈の上では、お前が千の策を練れば、奴は千一回やり直して、そのすべてを瓦解させるだろう。お前の知略は、奴にとって最高の『最適解の写本』に成り下がる。お前が賢ければ賢いほど、俺たちの全滅は早まるんだ」
アルトが、椅子を鳴らして立ち上がった。自分の誇りである「知性」が、仲間を全滅させるための道標に変わる。その残酷な事実に、彼は奈落の底を覗き込むような瞳をしていた。
「だからこそ、お前の中に眠る『理』の外側――かつて禁じた、あの《特異点演算》が必要だ。……覚悟はいいか、アルト」
部屋が静まり返る。アルトは震える手で眼鏡を直すと、沈黙の果てに、奈落を凝視するような瞳で答えた。
「……分かりました。僕の演算が、奴の『再試行』を上回る壁にならなければ……僕たちが死ぬだけですね」
「よし。目的地はフォートレス・ノール。そこで、クロノスと決着をつける」
シエラさんが地図を巻き上げる。
「……概念ごと焼き切るしかないってことね。理屈が通じないなら、その不条理ごと灰にしてあげるわ」
レイナさんが杖を握りしめる指は、わずかに震えていた。
「時間は戻っても……癒やされた『心の痛み』までは戻らないはずです。私の光で、そのズレを突きます〜」
ステファニーさんも、必死に答えを繋ごうとしていた。
俺も、腰の剣の感触を確かめた。
「奴が何度やり直そうと、その連携の隙間を俺たちが埋め続ければ、いつか必ず『戻れない一撃』に届くはずだ。……行きましょう。北へ」
窓を開けると、冬の気配を孕んだ風が吹き込んできた。
吸い込んだ空気は、肺の奥が痛くなるほど冷たい。吐き出した息は白く、瞬間に霧散していく。
フォートレス・ノールへ。俺たちの旅は、因縁という名の吹雪の中へと、その第一歩を踏み出した。




