タイトル未定2026/01/12 17:00
第八十三話:防御と回復の連携
死の霧が、森を呑み込んでいく。
ネクロアが杖を天高く掲げた瞬間、戦場を支配していた空気の質が決定的に変質した。それはどろりとしたヘドロのような重圧であり、肺に吸い込むたびに魂が削り取られるような生理的な嫌悪感を伴う紫の波動だった。
『《ソウル・ドレイン》――全域展開』
ネクロアの声は、地を這うような不気味な響きを持って戦場に染み渡った。
瞬間、俺の視界がぐらりと揺れた。全身の毛穴から、大切な何かが強制的に引き抜かれていく感覚。魔力だけではない。生命力そのものが、ネクロアが広げた見えない網に絡め取られ、吸い上げられていくのだ。
「くっ……あ、ああ……!」
レイナさんが膝をつき、杖を支えに必死に上体を保っている。彼女の燃え盛るような魔力ですら、この広域吸収魔法の前では風前の灯火に等しい。
ネクロアはこの隙を逃さなかった。いや、獲物が弱り切るのを待っていた蜘蛛のように、冷酷に次なる一手を繰り出した。
『ククク……逃がしはせん。まずはその「守護の乙女」の肉から、我が愛獣に捧げるとしよう』
ネクロアの指差し。それに呼応するように、タイラント・ゾンビが咆哮を上げた。生前の王者の威厳は失われ、ただ死の呪いによって突き動かされる破壊の化身。その巨大な爪が、ステファニーさんを標的にして振り下ろされる。
死を確信したその瞬間、震える、しかし決死の叫びが響いた。
「させません……っ、絶対に、させません〜っ!」
ステファニーさんが杖を突き出していた。
瞬間、淡い黄金の光が炸裂し、俺たちを包み込む半球状のドームを形成した。特級防御魔法《生護》。
直撃。
ドームにタイラントの爪が叩きつけられ、雷鳴のような轟音が響く。凄まじい物理衝撃。本来なら「完全遮断」を謳うはずの結界だが、今のステファニーさんはネクロアへの恐怖で精神が限界まで磨り減っていた。その不安が鏡のように魔法へ反映され、黄金の膜は彼女の乱れた鼓動に呼応するように、不規則に明滅を繰り返している。
「う、ううっ……!」
衝撃波を結界越しに受け、ステファニーさんの細い腕がミシミシと軋む。彼女が耐えているのはただの圧力ではない。タイラントに込められた怨念そのものを、彼女の精神が受け止めているのだ。さらに、結界の表面にはネクロアの紫の霧が粘りつくようにまとわりつき、黄金の魔力をじりじりと食い破り始めていた。
「ステファニーさん!」
倒れていたアルトが、泥に塗れながらも這い寄り、彼女の震える手を力任せに握りしめた。
「僕の《連結》で、魔力を送ります……っ! 僕を使ってください!」
だが、その光はあまりに細かった。
「……くっ、回路の、歪みのせいで……出力が、出ない……!」
アルトが歯を食いしばる。額の青筋が浮き、鼻からは再び鮮血が滴る。ルナ師匠の警告通り、歪んだ回路は思うように魔力を通さない。焼け付くような痛みがアルトを襲うが、それでも彼は手を離さず、必死に自分の命を分け与えようとしていた。
『ほう。その脆い殻にこもるか』
ネクロアが杖を振ると、紫の霧はさらにその密度を増した。
『だが、外の霧が貴様らを吸い尽くすのが先か、その小娘の心が折れるのが先か……楽しい実験になりそうだ』
結界の内側にいても、魔力が奪われていく感覚が止まらない。黄金の膜が透過し始めたのだ。物理攻撃は防げても、精神に作用する「呪い」の浸食を、今のステファニーさんの魔法では防ぎきれない。
俺は、無意識にネクロアに向けて手を突き出していた。
(――撃て! あの魔族を、攻撃して止めなきゃ、みんなが……!)
俺は、かつて訓練場でシエラさんに叩き込まれた「破壊」のイメージを必死に手繰り寄せた。光を弾丸に変え、あの忌々しい紫の瞳を撃ち抜く――そのはずだった。
だが、魔力を「攻撃」へ変換しようとした瞬間、俺の回路が拒絶反応を起こした。
「……っ、またか!」
練り上げられた膨大な魔力は、俺の意思をあざ笑うかのように、瞬時にして「守護」の構造へと再構築される。俺の性質は、呪いのような執念で防御に固定されていた。
「だったら、これでいい! 《光結界》!」
放たれたのは攻撃の弾丸ではなく、黄金の結界の内壁を補強するように展開された、もう一枚の白銀の膜だった。
かつて訓練場で暴発させた中級防御魔法。それは属性魔法を遮断し、呪いや毒といった負の状態異常を軽減する、聖なる領域。
黄金の膜を透過し、俺たちの魂を直接吸い取ろうとしていたネクロアの「呪い」が、俺の白銀の結界に触れた瞬間に光の火花を散らして霧散した。
「え……? 魔力が、吸い取られない……?」
レイナさんが驚愕に目を見開く。ステファニーさんの負担が、俺の《光結界》によって劇的に軽減されたのだ。
「ライト、さん……」
「お前は、誰よりも強い。お前の魔法が、俺たちの命を繋いでるんだ」
俺の後ろから、シエラさんの力強い声が響いた。シエラさんはステファニーさんの肩に手を置き、その揺らぐ心を支えるようにまっすぐに見据えた。
「信じろ、ステファニー! お前が物理を、ライトが呪いを防いでる。この二重の盾がある限り、俺たちはまだ戦える!」
シエラさんの力強い鼓舞が、ステファニーさんの背中に火を灯した。
恐怖で濁っていた彼女の瞳から、死の色が消える。代わりに宿ったのは、仲間を守り抜くという、かつてないほど強い使命感だった。
「はい〜! はいっ! 私……絶対に、みんなを守ります〜!」
ドームの光が、爆発的にその輝きを増した。
ステファニーの黄金の物理防御、そしてライトの白銀の魔力耐性。
二つの光が幾何学的な紋様を描きながら重なり合い、絶望を跳ね返す「難攻不落の城塞」を戦場に作り出した。
タイラント・ゾンビの次なる全爪撃が、二重の膜に叩きつけられる。しかし、今度は膜一つ揺るがない。黄金の光が、物理的な衝撃を完璧に外部へと逸らしていた。
「すごい……これが、本当の連携……」
アルトが感嘆の声を漏らす。
アルトが細い糸を繋ぐように魔力を供給し、俺が《光結界》で不可視の侵食を遮断し、ステファニーが揺るぎない覚悟で物理的な暴力を阻む。
それは、誰もが欠ければ一瞬で瓦解する、極限の総力戦だった。
ネクロアは、依然としてその浮遊感を保ち、底知れぬ余裕を崩してはいない。だが、その紫の瞳の奥、底の見えない闇のような瞳孔が、予想外に粘り強く抗い続ける俺たちの姿を捉え、わずかにだけ――興味と、残酷な好奇の色を帯びていた。
『ククク……素晴らしい。人間という種が、これほどの適性を見せるとはな。だが……』
ネクロアが、ゆっくりと指を一本立てる。
『外側が硬ければ、内側から壊せばいいだけのことだ』
不吉な言葉。
俺たちは、まだ知らなかった。
ネクロアの真の恐ろしさは、死体を操る軍勢でも、魔力を吸い上げる霧でもない。
人の心の隙間に滑り込み、もっとも深い絶望を呼び覚ます「精神の浸食」にあることを。
戦いは、物理的な殺し合いから、より深い、魂の領域へと足を踏み入れようとしていた。




