第八十二話:アルトの足止めとタイラントの脅威
アルトは、必死に魔法陣を展開し続けていた。
しかし、その顔は既に蒼白を通り越し、額からは脂汗が滴り落ちている。ルナ師匠から警告されていた、魔力回路の「歪み」。無限の魔力を抱えながら、それを出力するパイプが歪んでいる今の彼にとって、魔法の行使は己の脳を直接焼くような劇毒となっていた。
「《影縛りの茨》!」
闇の茨がタイラント・ゾンビの足に絡みつく。だが、腐敗した巨躯はその束縛を嘲笑うかのように、力ずくで引きちぎった。
「くっ……!《泥濘化》!」
地面を泥沼に変え、その動きを封じようとする。
沈み込む巨体。足を取られ、動きは止まったかに見えた。
それでも、タイラント・ゾンビは止まらない。腐り果てた肉体に宿るネクロアの強化魔法が、物理法則すらねじ伏せる怪力を生み出し、力ずくで泥から足を引き抜いていく。
「……っ、頭が……」
アルトはこめかみを押さえた。激しい耳鳴りと眩暈。視界が真っ赤に染まり、思考の連結が断たれそうになる。魔力回路が、限界の悲鳴を上げていた。
「もう一度……《影縛りの茨》……っ!」
闇の触手が再び獣を縛るが、それはあまりに細く、弱々しい。
タイラント・ゾンビは、その糸のような拘束を容易く粉砕し、咆哮を上げた。アルトの拘束は、もはや時間を稼ぐことすら叶わなくなっていた。
「アルト! あんたの足止めが持たないわ!」
レイナさんが叫ぶ。彼女もまた、雑魚アンデッドの殲滅に追われ、魔力の消耗は激しい。この閉塞感を打ち破れるのは、機動力のある俺だけだ。
「ライト、前に出ろ! タイラントの注意を引きつけろ!」
シエラさんの指示に、俺は即座に応じた。光属性の魔力を、剣の芯へと凝縮させる。
「《光剣付与》!」
刃が淡い白光を纏う。俺は、地響きを立てて迫るタイラント・ゾンビに向かって地を蹴った。
狙いは、腕の関節だ。
(巨体ゆえに、再生には膨大な魔力が必要なはず。動くために必要な部位を削り続け、ネクロアの供給を上回る……!)
「はあっ!」
俺は最短距離で肉薄し、光を纏った刃を振り下ろした。光に焼かれる腐肉。タイラント・ゾンビが、生前には無かった濁った声を上げて俺を睨みつける。
『ほう……供給を削るか。効率的な判断だ。だが、それで間に合うかな?』
上空から見下ろすネクロアの、実験を観察するような冷徹な声。
タイラント・ゾンビには痛覚がない。斬られた腕をそのままに、反対の巨大な爪が、俺の頭上から振り下ろされた。
「くっ……!」
咄嗟に剣を交差させ、防御の姿勢を取る。
直後、凄まじい質量が俺を地面へと叩きつけた。振り下ろされた爪は俺を掠めて地面を深く抉り、その衝撃波だけで数十メートル先の木々がまとめて薙ぎ倒された。――直撃すれば、即死。その事実が、脳髄を震わせる。
「ぐっ……あ……!」
肺から空気がすべて絞り出され、全身の骨が軋む。
視界が明滅する。それでも、俺は立ち上がらなければならない。俺が倒れれば、俺の真後ろで立ち尽くす彼女が殺される。
「ライトさん! 《活泉》!」
ステファニーさんの温かい光が俺を包む。傷が塞がり、重い体が再び動く。
「ありがとうございます、ステファニーさん!」
俺は再び、絶望的な破壊を振りまく獣へと立ち向かった。《光弾》を眼窩に放ち、一瞬の隙を作ってはその足首を斬る。
致命傷にはならない。再生を阻害できても、決定的な破壊には至らない。じりじりと、こちらの体力が削られていく。
「アルト、もう一度拘束を……!」
シエラさんの声に、アルトが震える手をかざした。しかし、魔法陣は形を成す前に砕け散った。
「くっ……もう……持ちません……!」
魔力回路の限界。彼はそのまま、膝から地面に崩れ落ちた。シエラさんはアルトを背後へ押しやり、自らタイラント・ゾンビの前に立った。黒剣を構える彼女の表情にも、かつてない疲労の色が浮かんでいる。
『ククク……無駄だ、光の剣使いよ。貴様の仲間は、もう限界だ。あと少しで、全員が我がコレクションの糧となる』
ネクロアの嘲笑が、死の霧に満ちた森に響く。アルトは倒れ、レイナさんは疲弊し、シエラさんは一人で巨躯を食い止めている。そして、ステファニーさんは、ただ恐怖に震え、自分を狙う死神の視線に立ち尽くしていた。
このままでは――全滅する。
その確信が、冷たい泥のように俺たちの心を侵食し始めていた。
「……俺は、諦めない!」
俺は折れそうな心を、ステファニーさんの温かな魔力の残滓で繋ぎ止めた。光の魔力を、全身の細胞一つ一つに叩き込む。
この地獄を終わらせるために。俺は、ネクロアの喉元へと踏み込んだ。




