第六十五話:戦術の評価と秘密の暴露
風狼の遠吠えが遠ざかり、代わりにエルトリアの街の喧騒と、魔石灯の柔らかな橙色の光が俺たちを迎え入れた。ギルドの重厚な扉を開くと、そこにはいつも通りの、しかしどこか温かいロビーの空気が漂っていた。
カウンターに立つルナさんが、俺たちの姿を認めて顔を綻ばせる。
「お帰りなさいませ、シエラ様、皆様。……風狼の討伐、無事完了ですね? 怪我をされた方はいらっしゃいませんか?」
「ああ。問題ねえ。最高の仕事だったぜ」
シエラお姉さんは、ずっしりと重い報酬の袋をカウンターで受け取ると、隣に立つアルトさんの肩を豪快に叩いた。
「坊主、初任務お疲れさん。お前の足止めは、俺たち前衛の命を繋ぐ『最強の守護』だったぜ。お前がああも完璧に盤面を固めてくれりゃあ、俺たちは踊ってるだけで勝てる」
「ありがとうございます。……でも、僕はただ指示通り、効率を求めて動いただけですから」
アルトさんは少し困ったように眉を下げて笑うが、その瞳の奥には、戦闘中のあの冷徹なまでの計算の余韻がまだ微かに残っているように見えた。
レイナさんは、帰還の道中からずっと、胸の内に燻っていた疑問と戦慄を抑えきれずにいた。彼女はアルトの前に立ち、その鋭い視線で彼を射抜くように問いかける。
「ねえ、アルト。……あんた、自分でもわかってるでしょ? あの完璧なタイミングでの五匹同時拘束。あれは初級魔法の範疇を、技術的にも論理的にも超えてるわ。構築速度も、魔法同士の干渉のなさも。普通の魔術師なら、あんな多重処理をしようとした瞬間に脳が焼き切れるわよ。あんた、戦場をどう捉えてるの?」
「どう、と言われても……ただ、敵の動線を物理法則に従って予測して、そこに術式を置いただけです。イメージを固定する手間を省いて、座標と事象を直接結びつける……そうすれば、初級魔法でもこれくらいの制御は可能です」
「それができないのよ、普通の人間には! 魔法は祈りや精神の具現化であって、そんなパズルのように組み立てられるものじゃないわ!」
レイナさんが声を荒らげる横で、シエラお姉さんが悪戯っぽく笑い、腰に手を当てた。
「ははっ、嬢ちゃん。まだわからねえか。アルトのすごさは、ただの『早撃ち』じゃねえんだよ。……ここに来る途中、森の外れに不自然にボコボコになった荒野があっただろ?」
「ええ……。大きなクレーターや、魔力の残滓でガラス化した地面。まるで大軍勢同士が、それこそ伝説級の魔法で激突したような不自然な地形……」
「あれ、全部こいつが、たった一人でやった戦いの跡だ」
シエラお姉さんが親指でアルトを指差した。
ロビーの空気が、一瞬で凍りついた。レイナさんが目を見開いたまま静止し、俺もまた、自分の耳を疑った。
「は? ……あの地形が、アルト一人で?」
「ああ。三年前だ。このエルトリアを数千の魔物が包囲したことがあった。当時の俺はまだBランクでな。街の冒険者たちは総出で迎え撃ったが、波のように押し寄せる数の暴力に防衛線が崩壊しかけた。絶望的な状況だった。……その時、こいつは一人で前に出て、初級魔法を数万回、数十万回と、数時間も休まずに叩き込み続けたんだよ」
俺は頭が真っ白になった。
数千の魔物を、一人で。
ライトの視界の中で、穏やかに微笑んでいるアルトさんの背中が、とてつもなく巨大な壁、あるいは世界の理を書き換える特異点のように見えた。
「数万回の……連射? そんなの、魔力が無限にでもなきゃ……それに、精神が持つはずがないわ。数万回も術式を編み続けるなんて……」
レイナさんの声が小刻みに震えている。彼女は天才魔術師だからこそ理解してしまったのだ。アルトが成し遂げたことの、論理を超えた「異常性」を。それはもはや魔法の才能ではなく、存在の在り方そのものがこの世界の住民とは決定的に異なっているという事実だった。
「あの時、アルトさんは……」
ステファニーさんが、潤んだ瞳でアルトをじっと見つめた。その眼差しには、驚愕よりも深い、慈愛と共感が混じっている。
「どれほど孤独に、たった一人で指先を動かし続けていたんでしょうね〜……。周囲の助けも求めず、ただ静かに、絶望的な数に対して魔法を編み続ける……。想像するだけで、胸が締め付けられます〜」
アルトさんは、その賛辞や憐れみを、まるで遠い国の出来事を聞くように受け流し、静かに答えた。
「大したことではありません。……僕はただ、街が落ちる確率を計算して、それをゼロにするために必要な『作業』を繰り返しただけですから。誰にでもできることを、回数こなしただけですよ」
その言葉こそが、彼が「異質」であることの最大の証明だった。数千の命のやり取りを「作業」と言い切る精神。それは傲慢ではなく、徹頭徹尾、冷徹なまでの合理性に基づいた思考。
「……わかったわよ」
レイナさんは深くため息をつき、乱れた赤毛をかき上げた。その瞳からは、先ほどまでの不満が消え、代わりに魔術師としての純粋な闘志が宿っていた。
「あんたが本物の『バケモノ』だってこと、魂に刻んであげる。……でも、納得はしてないわ。私は天才なの。いつかあんたの『計算』すら追い越して、私の火力が世界一だって認めさせてやるんだから!」
シエラお姉さんは満足そうに笑い、俺たちの顔を見渡した。
「いい顔になったな。……ライト、お前はどうだ?」
「俺は……」
俺は自分の、まだ震えが止まらない手を見つめた。女性が怖いとか、過去のトラウマに怯えている自分。そんな小さな殻に閉じこもり、足元ばかりを見ていた自分が、急に情けなく、そして同時にもどかしくなった。
「追いつきたいです。アルトさんの隣に立っても、恥ずかしくないくらいに。……いえ、必ず隣に立って、今度は俺がアルトさんの背中を守ってみせます」
アルトさんは、俺のその言葉に、今日一番の、人間味のある柔らかな笑顔を見せてくれた。
「期待していますよ、ライト君。君の盾があれば、僕はもっと計算に専念できますから」
この怪物たちの隣を歩く旅は、きっと想像を絶するほど過酷だ。凡人の俺が、天才や規格外の集団についていくためには、魂を削るような努力が必要だろう。
けれど、この異質な絆なら――この、お互いの異常さを認め合い、補い合う集団なら、どんな絶望が待つ世界の果てまでも、誰一人欠けることなく歩んでいける。
「よし、話は終わりだ! 今日は任務完了の祝杯だ! アルト、ステファニー、それにお前ら二人も、美味い酒とメシにするぞ! 俺の奢りだ!」
「わあ〜い! お姉さん大好きです〜! 美味しいお酒、いっぱい飲みましょうね〜!」
「……ふん、奢りなら受けてあげるわよ。最高級のワインを出させなさい」
俺たちはそれぞれの宿へと、そして夜の宴へと向かう。
エルトリアの夜空を見上げ、俺は胸の奥で静かに、しかし熱く燃える決意を新たにした。
アルトさんのように、誰にも真似できない強さを。
そして、ステファニーさんのように、迷いのない一撃を。
俺だけの「盾」を完成させるために、俺の修行はここから始まるのだ。
それは、俺たちのパーティーが真の意味で「一つ」になった、静かで熱い出発の儀式だった。




