第四章:第五十九話 シエラの偉業
白亜の時計塔が刻む鐘の音が、夕闇に沈み始めたエルトリアに響き渡る。ギルドロビーを埋め尽くした冒険者たちの熱狂は、その音さえも掻き消さんばかりの勢いで膨れ上がっていた。
ルナさんはカウンターを飛び出し、震える膝を支えるようにシエラさんの前に立ち尽くしている。
「シエラ様……本当に……本当にお戻りになられたのですね……」
「ああ、俺だ。少し留守が長すぎたか?」
「少し、なんて……。ずっと、ずっと探していたんです。あの日、あなたがこの街の救援依頼に応じ、隣街から独りで駆けつけてくださってから……一日たりとも忘れたことはありません」
ルナさんはその場に崩れ落ちんばかりに、深々と腰を折って頭を下げた。
「シエラ様。あの時は、十分なお礼も……称賛の言葉すら贈れずに立ち去らせてしまった。隣街の所属であるあなたに対し、我がギルドは大変な不義理をしてしまいました。本当に……申し訳ありませんでした!」
必死な謝罪に、シエラさんは困ったように後頭部を掻いた。
「おいおい、ルナ。顔を上げろよ。そんなに謝られる筋合いはねえって。隣街だろうがここだろうが、魔物が出るなら叩き斬る。それだけだ」
「いいえ! あの夜、エルトリアの防衛線は崩壊寸前でした。救援を求めた隣街のギルドでさえ二の足を踏む中、あなただけが真っ先に境界線へと向かわれた。そして独りで、夜が明けるまで魔族の軍勢を食い止め続けてくださった!」
ルナさんの言葉に、俺の背筋に冷たいものが走った。
(街の外の、あの荒野……。あの不自然な地形は、隣街から駆けつけたシエラさんが戦った痕跡だったのか)
抉り取られたような大地。焦げ付いたまま、三年間草木も生えない境界線。あれは単なる天災などではなく、彼女がこの街を守り抜くために刻み込んだ「決意の跡」だったのだ。
「……そうだ。あの夜、俺たちがようやく現場に辿り着いた時、森はすでに泥と炎、雷が入り混じる地獄のような光景だった」
一人の冒険者が、震える声で記憶を掘り起こす。
「隣街から来たあんたが、俺たちの街の少年と背中を合わせ、ボロボロになりながら、それでも完璧な連携で魔物の波を押し返していた……。俺たちは内側で震えていた分際で、後から来た癖にあんたたちに全てを押し付けたんだ。その礼も言えぬまま見送った。その負い目が、ずっと……」
次々と上がる声。それは英雄への賛辞であると同時に、自らの街を他人に、そして一人の少年に守らせてしまったという、冒険者としての誇りと後悔が混ざった懺悔だった。
シエラさんは溜息をつき、苦笑いを浮かべた。
「お前ら、三年前とちっとも変わってねえな。真面目すぎるんだよ。俺はただ、やるべきことをやっただけだ。……俺の大事なもんを、守りたかっただけなんだからよ」
シエラさんの視線が、一瞬だけ俺たちの方へ向けられる。その瞳の奥には、今の仲間を守るという強い自覚と、かつてこの街に「残してきたもの」への深い情愛が同居していた。
「……シエラ様。あなたはいつもそうです。あなたが、あの子――あの子をあのように導いてくださったおかげで、今のこの街の平和があります」
「坊主……」
シエラさんの瞳に、懐かしさと心配が混ざった色が宿る。
「はい。あの日、あなたの背中を追って外へ飛び出したあの子は……。不思議と、みんな“あの人がいると大丈夫だ”って思ってしまうんです。今やあの子は、この街の誰からも頼られる存在なんですよ」
シエラさんは鼻で笑ったが、その表情には隠しきれない慈愛が滲んでいた。
「いいえ。シエラ様がいなければ、あの子は己の力に飲み込まれていたはずです。他所の街の人間であるあなたが、あの子に『冒険者としての生き方』を示してくださった。だから、今度こそ……」
ルナさんが意を決したように声を張り上げた。
「今夜、エルトリアを挙げて歓迎の宴を開かせてください! あの日できなかった、本当の感謝を伝えるために!」
その提案に、ロビーは今日一番の歓声に揺れた。シエラさんは周囲の熱気に圧倒され、「仕方ねえな……」と降参するように両手を挙げた。
「じゃあ、遠慮なく飲ませてもらうぜ。だがルナ、勘違いすんなよ。俺はただ、今の俺の仲間たちに美味いもんを食わせたいだけだからな」
レイナさんが呆れたように、しかし誇らしげに呟く。
「シエラ……あんた、他所の街のギルド所属なのに、ここでこんなに『守護神』扱いされてるのね。あの地形を見て納得したわ。あれは、人間の技じゃない……」
「素敵です〜……。シエラさんの優しさは、街の境界線なんて関係ないんですね〜……」
ステファニーさんも瞳を輝かせている。
俺は、その熱狂の渦中にありながら、改めて自分の腰に差した剣を意識した。
隣街から救援に来て、独り戦い続けたシエラさんと、その背中を追ったという少年。
(一体、どんな人なんだろう。シエラさんの背中を見て、あの地獄のような戦場を共に越えた人は――)
その時だった。
「――呼びました? 随分と賑やかですね」
熱狂の絶頂にあるロビーの喧騒を、すり抜けるように。
いや、まるで最初からそこにいたかのような自然さで、柔らかな声が響いた。




