第二十七話:信頼の言葉
静寂が、森を支配していた。
十メートルを超える巨大魔獣――《アームド・ベア》の死骸から漏れ出す熱気が、冷え込み始めた夕闇に白く立ち上っている。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
俺は、その場に膝をついた。
右腕は痺れ、指先一つ動かすのも億劫だ。
ふと隣を見ると、ステファニーさんが泥だらけの地面に横たわっていた。
一分間の全魔力行使。……彼女は、もう限界だった。
「ステファニー、大丈夫か〜?」
シエラさんが歩み寄り、ステファニーさんの頭を乱暴に撫でる。
「……えへへ。お姉さん……私、やりきったよ〜……」
「ああ。一分間、一度も盾を揺らさなかったな」
シエラさんは満足げに頷くと、俺を振り返った。
「ライト。回収は俺がやる。……ステファニーは、お前が支えてやれ」
「え……俺が、ですか?」
「……今の、お前なら大丈夫だろ。……行け」
シエラさんの短い言葉。そこに込められた「信頼」のような響きに、俺の背中が押された。
俺はふらつく足で、ステファニーさんの横に膝をついた。
「ステファニーさん。……肩、貸します」
「……え? いいの〜、ライトさん……?」
驚いたような、不安そうな瞳。
俺は視線を僅かに逸らしながら、彼女の腕を、自分の肩へと回した。
――反射的に、手首ではなく「袖」の部分を強く握る。
布越しに伝わる、彼女の熱。
怖い。確かに怖いし、心臓がうるさい。
けれど、その鼓動以上に、彼女を支えたいという意志が俺の体を動かしていた。
シエラさんが素材を剥ぎ取り、俺たちはゆっくりと森を抜けた。
街への帰り道。沈みゆく夕日が、俺たちの影を長く引き伸ばしている。
「……ライトさん」
「はい」
「さっきの戦い……私、怖かったんだよ〜。あいつの爪が障壁に当たった時、腕が折れちゃうかと思ったの〜」
肩を預けている彼女が、ぽつりと呟いた。
「でも、後ろでライトさんが剣を構えてるのがわかったから……。絶対に、一秒も早く解いちゃダメだって、そう思ったら力が湧いてきたの〜。……役に立てて、良かったよ〜」
彼女は、疲れ切った顔で、けれど満足そうに微笑んだ。
……俺を、信じて。
一分という極限の時間の中で、彼女は俺にすべてを預けてくれたんだ。
街の門が見えてきた頃。
俺は、喉まで出かかっていた言葉を、ようやく絞り出した。
「ステファニーさん」
「うん〜?」
「俺……全部は、まだ分かりません。女性が怖いっていうのも、すぐには消えないと思います」
俺は、彼女の「袖」を握る手に力を込めた。
「でも……分かり始めた気がするんです。……ステファニーさんのあの盾の中なら、俺、前を向いて剣を振れる気がします」
確信じゃない。ただの予感だ。
けれど、自分一人の力では一生辿り着けなかったであろう、変化の兆し。
「仲間の背中……思ってたより、ずっと温かかったです」
言い終えると、猛烈に顔が熱くなった。
ステファニーさんは、驚きで固まっていた。
大きな瞳が、何度もまたたき、やがて――じわじわと、涙が溢れ出した。
「……ライト、さん……。……う、うわぁぁぁん〜!」
彼女は突然、俺の肩に顔を埋めて泣き出した。
驚いて体が硬直したが、彼女の涙が袖を濡らすのを感じて、俺は逃げなかった。
「嬉しいよ〜……。そんなこと言ってくれるなんて〜……。私、頑張って良かったよ〜!」
彼女の泣き声が、夕暮れの街に響く。
少し離れた場所でシエラさんが、「ふっ」と優しく笑ったのを、俺は見逃さなかった。
ギルドに戻り、シエラさんが《アームド・ベア》の素材をカウンターに叩きつけた。
一瞬、ロビーの喧騒が消える。
「……おい、まさか。《アームド・ベア》の爪だろ、あれ」
「嘘だろ……。あれは討伐隊が出るレベルだぞ……」
周囲の驚愕の声。だが、その中で一人のベテランらしい戦士が、震える声で呟いた。
「……生きて、帰ってきたのか……あの化け物の前から……」
称賛よりも先に、死の淵を覗いてきた者への畏怖。
その一言が、さっきまでの死闘の凄まじさを、改めて俺に突きつけた。
「……お疲れ様です。見事な完遂です、ライトさん」
受付のマリアさんが、震える手で素材を確認し、深く頭を下げた。
「実力、正当に評価させていただきます。……シエラさん、報告は別室で」
「ああ。……ライト、ステファニーを宿まで送ってやれ。……今の二人なら、もう心配ないな」
シエラさんのその言葉に、俺は小さく頷いた。
夜の酒場。
祝杯の席で、ステファニーさんはいつになく上機嫌だった。
「ライトさん〜! あの一撃、本当にすごかったんだから〜! お肉、もっと食べてね〜!」
「……ステファニーさん。さっきから俺の皿に肉を積みすぎです」
「えへへ、お祝いだよ〜!」
彼女の明るい笑い声が、心地よく響く。
先刻の涙が嘘のような、いつもの彼女だ。
俺は、ほんの少しだけ口角が上がるのを感じた。
「あ、ライトさん今、ちょっとだけ笑った〜!」
「……気のせいです」
「え〜、ケチ〜!」
そんなやり取りさえ、今は不思議と苦ではない。
女性への恐怖は、相変わらずそこにある。
けれど、ステファニーさんの存在が、その恐怖の波打ち際を一歩ずつ、押し戻してくれているような気がした。
俺は一人じゃない。
信頼の「兆し」を感じながら、俺は冷たいエールを喉に流し込んだ。




