第二十五話:中難易度の討伐へ
数日後。俺たちはギルドのロビーに集まっていた。
だが、今日の雰囲気はいつもと違う。
受付の職員さんの顔が、どこか青ざめている。
「……本気ですか、シエラさん」
「ああ」
「いくら昇級候補とはいえ、この人数で受ける依頼じゃありません。……全滅しても、ギルドは責任を持てませんよ」
シエラさんは無言で、震える職員の手から依頼書をひったくった。
そのまま、俺たちの前へと放り出す。
「今日の依頼はこれだ」
「え……内容が、これまでと全然違います」
俺は思わず、その紙を二度見した。
【特例依頼:巨大魔獣の討伐】
【推奨ランク:D(実質Cランク相当)】
「……巨大魔獣、討伐?」
「ああ。ランクこそD扱いだが、中身はC相当だ。ギルドが俺たちの実力を試すために出してきた、特例中の特例だな」
シエラさんの言葉は短かった。
だが、その重みはこれまでの依頼とは比較にならない。
ふと隣を見ると、ステファニーさんの顔から血の気が引いていた。
「……お姉さん。これ、本当に私たちがやるの〜?」
「怖いか、ステファニー」
「……だって、これって討伐隊を組むレベルの相手だよ〜。私、お姉さんの指揮で何十人もいた時にしか戦ったことないよ〜」
「今は俺がいる。それに……ライトもいる」
シエラさんの視線が、俺を射抜く。
俺の心臓が、ドクドクと不快な音を立て始めた。
「ライト」
「……はい」
「巨大魔獣は人型じゃない。お前のトラウマに邪魔されることはないはずだ」
「……それは、そうかもしれませんけど」
「だが、本能的な恐怖は別物だ。食われる、踏み潰されるという圧倒的な暴力。それに心を折られるな」
俺は拳を握りしめた。
女性恐怖症ではない。純粋な、生物としての死の予感。
「わかりました。……やってみます」
「よし。……行くぞ」
北の森へ向かう道中。
いつもなら明るいステファニーさんの口数が、極端に少なかった。
「……ライトさん、聞いてる〜?」
「あ、はい。……《アームド・ベア》の対策、ですよね」
「うん。……あいつの毛皮は、金属より硬いの〜。普通に斬っても、弾かれるだけだよ〜」
彼女は自分の震える指を隠すように、バックラーのベルトを何度も締め直していた。
「あいつが本気になると、さらに毛を逆立てて、関節の隙間を埋めちゃうの〜。……だから、あいつが攻撃してくる瞬間の『隙』を突くしかないの〜」
「ステファニーさんが、『崩し』を入れるんですよね?」
「……うん。私が盾で受けて、メイスで叩く。その一瞬だけ、装甲がほんの少し開くから〜。そこを逃さず、狙ってね……。お願いだよ〜、ライトさん」
「お願い」という言葉に、彼女の切迫した感情が混ざっていた。
かつて大規模な討伐隊で戦った経験がある彼女ですら、少人数で挑むことの異常さを理解している。
「ステファニーさん……大丈夫ですか?」
「……えへへ、バレちゃった〜? さっきから手が、全然止まらないの〜」
見れば、彼女の指先は小刻みに震えていた。
必死に明るく振る舞おうとしているが、瞳の奥には隠しきれない怯えがある。
「怖くない、って言ったら嘘になっちゃうね〜。……でも、私はライトさんの盾なんだもん。お姉さんに守られてた時とは違うから〜」
「……ステファニーさん」
「私は大丈夫だよ〜。ライトさんは、私の作った隙だけを見てて〜。絶対に……守るからね〜」
守られる。
その言葉が、俺の胸をチリリと焼く。
俺はいつまで、この人に震えながら守らせるつもりなんだ。
森の境界線を越えた瞬間。
空気の密度が変わった。
鼻をつくのは、強烈な獣臭と――鉄のような血の匂い。
少し進んだ場所で、俺は足を止めた。
「……なんだ、これ」
そこには、俺たちが数日前に命がけで倒した《ワイルド・ベア》の死骸が転がっていた。
だが、様子がおかしい。
まるで巨大なプレス機で押し潰されたかのように、体が無残に歪み、引き裂かれている。
「……一撃か」
シエラさんが低く呟いた。
「……あの《ワイルド・ベア》を、一撃で?」
「巨大魔獣にとっては、上級魔獣など餌にもならんということだ。……気を引き締めろ」
シエラさんの表情が、これまでに見たことがないほど険しくなる。
その直後だった。
――ズシン!
地面が大きく波打った。
遠くで何かが崩れるような音が響き、続いて、マッチ棒でも折るかのように、数本の巨木がなぎ倒される。
「……来る」
シエラさんが剣を抜く。
俺も震える手で剣の柄を握った。
木々の隙間から、それは現れた。
いや、現れたという表現は正しくない。
森の一部が、殺意を持って迫ってきた。
体長十メートル。
全身を覆うのは、漆黒の鉄鋼と化した毛皮。
赤く光る眼球は、こちらの頭ほどもある。
――オオォォォォォォォォォォンッ!!
咆哮。
ただの叫びじゃない。
衝撃波に近い風圧が、俺の体を押し戻す。
内臓が揺さぶられ、脳が「逃げろ」と絶叫を上げる。
「ひ……あ……」
足が動かない。
人型ではないから、パニックにはならない。
だが、この圧倒的な生命力の差。
踏み潰されれば終わりだ。食われれば終わりだ。
その根源的な恐怖が、俺の全身を縛り付ける。
その時。
俺の視界を、青い髪が遮った。
「大丈夫……大丈夫だよ〜、ライトさんっ!」
ステファニーさんが、俺の前に踏み出した。
後ろ姿でもわかる。
彼女の肩は、激しく震えている。
バックラーを持つ腕も、今にも力が抜けてしまいそうなほど、細かく揺れている。
それでも、彼女は逃げなかった。
「……私が、盾になるの〜! 討伐隊の時みたいに、絶対に負けないの〜!」
彼女の声は、微かに裏返っていた。
だが、その一歩は、俺の恐怖を打ち消すほどに力強かった。
「ライト! 意識を戻せ!」
「……っ、はい!」
シエラさんの声で、俺は我に返った。
剣を構え直す。
ステファニーさんの背中が、そこにある。
あんなに震えながら。
あんなに怖がりながら。
彼女は、俺のために盾を掲げている。
「……守られてばかりじゃ、いられない」
俺は、震える足で地面を蹴った。
《アームド・ベア》が地響きを立て、森を押し潰しながら突進してくる。
「いくよ〜、ライトさんっ! 私を、信じて〜!」
「……はいっ!」
中難易度の壁。
絶望的な巨大魔獣との死闘が、今、幕を開けた。




