第二話:シエラの接触と旅の準備
あれから数週間が経ち、俺は少しずつこの王宮の生活に慣れてきた。
とはいえ、女性たちへの恐怖は全く変わらない。侍女が部屋に入ってくると体が反射的に硬直するし、廊下で女性騎士とすれ違うだけで、あの日の、木剣が骨を砕くような鈍い感触と、悲鳴の記憶が鮮明に蘇る。
周囲は、俺のこの態度に困惑しているようだった。
「勇者様は、本当に魔王と戦えるのか……?」
「女性に近づくこともできないのでは、仲間も組めまい」
廊下を歩いていると、隠しきれない小さな声が聞こえてくる。
(このままじゃ、まずい)
頭ではわかっている。魔王を倒すという大役を背負わされたのに、俺の体は過去に縛られて動かない。
そんなある朝、俺は王宮の謁見の間に呼ばれた。
重厚な扉を押し開けると、そこには王座に座る老齢の王と、宰相ヴァルディンをはじめとした数名の側近たちが、厳かな顔で並んでいた。
「勇者ライトよ、よく来た」
王が、穏やかな声で俺を呼ぶ。
「は、はい」
俺は緊張しながら、王の前に膝をついた。
「ライトよ。そなたがこの王宮で過ごした数週間、我々はそなたの様子を注意深く見守っておった」
王の言葉に、俺は息を呑む。
「そなたが抱える心の傷については、宰相より聞き及んでおる。無理に急かすつもりはない」
王の言葉は優しかったが、その次の言葉に、俺の心臓が激しく跳ねた。
「だが、魔王の脅威は日に日に増している。いつまでも訓練を待てる状況ではない。そなたには、速やかに強くなっていただかねばならぬ」
「……はい」俺は絞り出すように答えた。
「そこで、この国最高の冒険者を、そなたの指導役として任命する」
王がそう言うと、謁見の間の扉が再び開いた。
そこから、一人の女性が入ってきた。
銀色の髪を後ろで一つに結び、引き締まった体つき。腰には大剣を下げ、革鎧に身を包んだその立ち姿は、一切の隙がない、強者のオーラを放っていた。
(女性だ……)
俺の体が反射的に硬直する。全身の筋肉が強張り、冷や汗が背中を伝った。いつもなら、ここで視線を逸らし、後ずさるはずだった。
だが――不思議なことが起きた。
彼女が近づいてきても、いつものような「致命的な恐怖」が湧いてこない。むしろ、その堂々とした姿、射抜くような眼差しに、恐怖よりも「圧倒されている」ような、あるいは「見惚れている」ような感覚だった。
「紹介しよう。彼女はシエラ。この国が誇るSランク冒険者だ」
「……Sランク」
俺は思わず呟いた。Sランクといえば、魔王軍の幹部に匹敵するほどの、規格外の強さを意味する。
「俺の名はシエラだ。よろしくな、勇者殿」
シエラと名乗った女性は、俺の目をまっすぐに見つめた。低く、落ち着いた声。そして、どこか男性的な、サバサバとした口調。
(この人……)
不思議と、彼女の視線は怖くない。まるで、強大な自然現象を見ているような感覚で、そこに「守らなければならない」というプレッシャーが湧いてこないのだ。
「シエラには、そなたの指導と護衛を任せる。三日後より、王都内の訓練施設で本格的な訓練を開始せよ」
「はい、陛下」
シエラは王に一礼した。
「ライトよ。シエラはそなたの心の傷も理解している。無理な訓練を強いることはない。だが、確実に――そなたを強くする。これからの旅路に備えてな」
「……はい。ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。
「では、シエラ。ライトをよろしく頼む」
「任せてください」
シエラは自信に満ちた表情で答えた。
謁見の間を出ると、シエラが俺の横に並んで歩き始めた。その距離が近いのに、体が強張らないことに、俺は驚きを隠せない。
「なあ、勇者」シエラが声をかけてきた。
「は、はい」
「お前、俺のこと怖いか?」
突然の直球な質問に、俺は戸惑った。
「え……いえ、その……」
「正直に言っていいぞ。俺は女だ。お前の抱える事情も聞いた。お前、女が怖いんだろ?」
図星を突かれた。俺は観念して、俯きながら答えた。
「……はい。女性の、体が小さい人や、俺より非力に見える人が、どうにも怖くて。力が制御できなくなる気がして……。でも、不思議なんですが……シエラさんは、あまり怖くないんです」
「ほう」
シエラは興味深そうに俺を見つめた。
「なんでだと思う?俺だって一応、女なんだがな」
「わかりません……。でも、シエラさんといると、安心するんです。他の女性とは違う、何か、圧倒的な壁があるというか……」
「安心、か。まあ、いい。理由はどうでもいい」
シエラは腕を組み、歩みを止めずに言った。
「お前が俺を信頼できるなら、それでいい。これから三日間、王宮内で旅の準備をしろ。三日後から、本格的な訓練を始める」
「訓練……どんなことを?」
「とりあえず、お前の剣技を見て判断だな。お前の実家が古武術の道場だったことも聞いている。前世の剣術が、この世界の剣とどう違うか確認する。それと、お前が持つ光属性の魔法も教える」
「魔法……」
「お前は勇者だ。この世界では、勇者には生まれながらにして光属性の適性が宿る。それを引き出してやる」
シエラは自信たっぷりに言った。
「三日後、訓練場で待ってる。遅れるなよ」
「は、はい!」
俺は思わず背筋を伸ばして答えた。シエラはニヤリと笑い、そのまま大股で先を歩き出した。
(この人……すごい)
圧倒的な存在感。そして、頼もしさ。俺は、シエラの背中を見つめながら、少しだけ希望を感じていた。
その日の午後、俺は自室で一人、王宮の書物を見ながら考え込んでいた。
(シエラさんとは、普通に話せる)
他の侍女や女性騎士たちとは、未だに目も合わせられないのに。だが、シエラは違った。
(なぜだろう……)
理由はわからない。だが、この「例外」の存在が、俺にとって大きな救いになっていた。
コンコンと、扉がノックされた。
「入るぞ。嫌なら今すぐ言え」
「入ってください」
扉が開き――シエラが入ってきた。
「よう」
「シ、シエラさん!」
思わず体が強張るが、すぐにその緊張は霧散した。
「驚くな。ちょっと話があってな」
シエラは部屋に入り、椅子に座った。
「お前、さっき『シエラさんは怖くない』って言ったよな」
「は、はい……」
「お前が俺を信頼してくれているなら、それでいい。それで、話は変わるが、ライト。訓練の件なんだが、もう一つ、王から命令を受けている」
シエラは真剣な顔になった。
「命令、ですか?」
「ああ。三日間の訓練を経て、準備が整い次第、俺たちは王都を出る。王国のギルド支部を回り、仲間を集めながら魔王領に向けて旅をすることになった」
旅の言葉に、俺は一瞬息を止めた。
(旅……仲間、か。当然、女性もいるだろう……)
だが、シエラが隣にいるなら、と、不思議と前向きな気持ちになれた。
「はい。俺がお前の指導役であり、護衛役だ。お前はこれから、実戦の中で強くなる。そして、必要な仲間と出会う。それが王の命令であり、俺の役目だ」
シエラの言葉に、俺は顔を上げた。
「それと、ライト。これから訓練が始まるが、無理はするなよ。お前が怖いと感じたら、すぐに言え。無理に我慢する必要はねえ」
「……はい」
「俺は、お前のペースで進める。だから、隠さず正直に言え」
シエラの言葉に、俺は胸が熱くなるのを感じた。
(この人は……本当に、俺のことを考えてくれている)
「ありがとうございます」
「礼はいらねえ。それより、三日後からが本番だ。訓練と、その後の旅に備えて覚悟しておけよ」
シエラはニヤリと笑った。
「酒好きと聞いたから、いい酒場でも探しておけ。訓練が終わったら付き合ってやる」
「は、はい!」
俺は力強く答えた。
「よし。じゃあ、今日はゆっくり休め」
シエラはそう言って、部屋を出ていった。
俺は一人、窓の外を見つめた。三日後から、訓練が始まる。不安はある。だが、同時に――少しだけ、楽しみでもあった。シエラという、信頼できる人がいる。それだけで、俺は前に進める気がした。これが、俺のトラウマを克服する道だと信じて。




