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第四章: 境界の守護者と四つの異能『選ばれし者たちは、まだ互いを知らない』  作者: ぃぃぃぃぃぃ


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第百九十三話:無の侵蝕

 《原初爆ぜる一撃アブソリュート・ヴォイド》が中心点へと収束し、ことわりが臨界を越えて爆ぜた、その瞬間――玉座の間から、すべての「音」が剥奪された。

 衝撃波ではない。鼓膜が破れたわけでもない。

 熱量に空気が震えを失ったのでもない。

 ただ、呼吸の微かな擦過音も、石床が悲鳴を上げる軋みも、天を舐めていた魔炎の揺らめきも――本来この空間に在るはずだったあらゆる「音」が、消えたのではなく、そこに存在していたという前提ごと、この次元の記述から静かに剥がれ落ちた。

 残されたのは、鼓膜を内側から押し潰し、脳髄へ直接圧力をかけてくるような、不自然すぎる静寂だけだった。

 ライトの肺が、反射的に外界の酸素を求めて引き攣る。

 肺胞に冷たい空気が流れ込む。

 それは生を実感させる呼吸ではなかった。崩れかけた現実へ、硬直していた肉体だけが遅れて追いつこうとする、ぎこちない再始動の儀式に過ぎない。

 張り詰めていた膝から、誰かの力が抜けた。

 崩れ落ちるはずのその気配すら、この場の静寂に呑まれて輪郭を失う。

 レイナの肩が、一ミリだけ下がる。

 ステファニーの唇はまだ祈りの形を崩さぬまま、それでもその瞳の奥に、かすかな光だけを宿していた。

 アルトの指先が、冷え切った石床の上でわずかに痙攣する。

 届いた。

 ――そう、思ってしまった。

 その錯覚だけで、人は一瞬、救われてしまう。

 ほんの瞬きほどの間だけ、そこには「勝利」という名の甘美な残響があった。

 運命を変えたのだと、そう信じたくなるだけの手応えが、確かにあった。

 ――魔王が、動いた。

 派手な予兆は、何一つない。

 膝をつくこともない。苦悶を漏らすこともない。

 ただ、深く伏せられていた首が、重力に従うようにゆっくりと持ち上がった。

 それだけだった。

 それだけで、玉座の間を満たしていた空気の質が、根こそぎ別物へと塗り替えられた。

 傷がないのではない。焦げ跡がないのでもない。

 あれほどの一撃を受けたという「事実」そのものが、その躯体のどこにも定義されていなかった。

 アルトの瞳孔が、絶望的な速度で開く。

(……違う)

 脳裏に、冷徹な警鐘が鳴り響いた。

 痕跡が消えたのではない。

 あの一撃が届いたという因果の鎖そのものが、手元の帳簿から不要な一行を消し去るように、淡々と切り離されている。

 魔王の唇が、わずかに動いた。

 笑いではなかった。狂気でもなかった。

 その瞳には、勝利への執着も、敗者への侮蔑もない。

 ただ、目の前の現象が「存在してよいものか」を、無機質に照合しているだけだった。

 あるべき処理が、正常に完了したことを確認するための、感情を持たない目。

 最初に歪み始めたのは、この場の「見え方」そのものだった。

 玉座の奥に滲んでいた緋色が、水で薄めた絵具のように、少しずつ透けていく。

 色彩が「色」としての意味を失い、世界の優先順位から切り落とされていく。

 次に、熱だった。

 そこに炎はある。視界にも、はっきりと映っている。

 それなのに、もう「熱い」と感じるための理屈だけが、この空間から剥がされていた。

 熱が冷めているのではない。

 「熱」という概念そのものが、この世界の理から抜け落ちていく。

 ライトの足元へ落ちた血の雫が、赤として認識される前に、ただの“濡れた何か”へと曖昧に沈んでいった。

 アルトは、震える己の右手を見下ろした。

 視えている。

 指を曲げれば、それは動く。

 だが、自分の意志で動かしているという接続感は、もはや欠片も残っていなかった。

 そこに「指が動く」という結果だけが遅れて出力されている――そんな悍ましい乖離だけが、彼の神経を静かに侵食していく。

 もともと断ち切られかけていた接続が、今この空間では、まるで世界そのものに不要と判断されたように、さらに剥がれ落ちていく。

「……これは」

 声は出た。

 だが、その言葉が空間のどこにも“刻まれていない”感覚だけが残った。

 音が届かないのではない。届く前に、発せられたという記述そのものが削り取られている。

 アルトの思考が、処理能力の限界を超えて加速した。

 脳細胞を焼き切るような演算が、眼前の現象を必死に定義しようと足掻く。

 《原初爆ぜる一撃》が通じなかったのではない。

 通じた。確かに、あの瞬間、魔王は一歩だけ退いたのだ。

 だが、その「結果」への干渉すら、今はもう古い。

 今まで彼らが培い、信じ、通じてきたすべては、「起きたこと」への干渉だった。

 傷をつける。押し切る。削る。奪う。

 すべては結果の奪い合いに過ぎない。

 だが、あれは違う。

「……消してるんじゃない。もっと、手前だ」

 震える声だった。

 それでも、その一言だけで十分だった。

「やった」が消えるんじゃない。

「やろうとした」こと自体が、最初から成立しない。

 試みそのものが、世界に記述される前に切り落とされている。

 レイナの闇が、本能的な防衛反応によって広がった。

 だが、その闇が魔王の周囲に滲む「無」に触れた瞬間、彼女の全身が凍りつく。

 弾かれたのではない。打ち消されたのでもない。

 自分が何に触れようとしていたのか、その対象そのものを見失うように、闇の輪郭だけが静かに摩耗していく。

 レイナの喉が、ひゅっと細く鳴った。

 これは、戦うべき相手ではない。

 深淵の外縁ですら、まだ“何か”は返してきた。

 理解不能な恐怖でも、狂気でも、敵意でもいい。あちら側にはまだ、「向こう側の意思」と呼べる温度が残っていた。

 けれど、これは違う。

 怖がる相手ですら、ない。

 そこには悪意すらなく、ただ誤差を検出した機能だけが、正確に、自分たちを消去しようとしていた。

 レイナは構えを解かなかった。

 解いても意味がないと、もう理解していた。

 それでも剣を手放せば、自分まで「もう何もできない側」に落ちる気がした。

 その意地だけが、彼女をかろうじて立たせていた。

「……それでも、撃つしかねぇだろ」

 ライトの右腕が、軋みを上げながら魔力を練り上げる。

 勝ち筋は見えない。

 通じる保証も、もうどこにもない。

 それでも、彼は掌に集まるその光を、決して手放さなかった。

 自分が下がれば、次に前に立つのは仲間だ。

 自分が立たなければ、誰かが代わりに消される。

 その形だけは、もう二度と認めるつもりはなかった。

 たとえ、この一歩に意味がないと論理が告げていたとしても。

 意味がないから下がる――その選択だけは、彼にはもう許されなかった。

 光は生まれた。

 だが、その光が「届く」という手応えがない。

 空間を進んでいるはずの光が、魔王との境界にある空白へ触れた途端、形を保てず、霧のように崩れていく。

 弱いのではない。足りないのでもない。

 ただ、あの理の前では、光が「光として扱われていない」のだ。

 叫んでも、届かない。

 その事実だけが、喉の奥に冷たく張りついていた。

 アルトの喉が、引き攣ったように鳴る。

 解法は見えているはずだった。

 だが、その“見える”という行為そのものが、空白へ塗り潰されていく。

 導き出されるはずの答えが、答えになる前に消えていく。

 論理が通らないのではない。

 論理そのものが、この現象の前提条件から拒絶されていた。

 同時に、レイナの指先が、剣の柄を握る力を失いかける。

 魔王の指先に、虚無が凝縮し始めていた。

 形はない。

 色もない。

 ただ、世界そのものが内側へ畳まれていくような、静かな収縮だけがそこにある。

 それが解放されたとき、何が起きるのか。

 それを、この場で最も正確に理解していたのはアルトだった。

 そして最も本能的に理解していたのは、レイナだった。

 爆発ではない。

 破壊でもない。

 消去だ。

 その場にいる者が傷つくのではない。

 その場にいた者が「いた」という事実ごと、世界から取り除かれる。

 もし放たれれば、血も残らない。

 悲鳴も残らない。

 死体すら残らない。

 ただ、この場に誰かが立っていたという歴史だけが、静かに空白へと置き換わる。

「……防げない」

 アルトの声は、もはや震えてすらいなかった。

 それは恐怖の吐露ではない。

 観測者として導き出してしまった、冷酷な結論の読み上げに過ぎなかった。

 ライトが、震える足で一歩を踏み出そうとする。

 足を上げるという意志は、確かにあった。

 だが、世界そのものが、彼の座標を次の一瞬へ更新することを拒んだ。

 前へ出ることも、逃げることも、この空間ではもう「行動」として成立しない。

 世界そのものが、自分たちの選択肢を受け付けなくなっている。

 誰も動けなかった。

 動くための理屈を、誰も持てなかった。

 アルトの知性も。

 ライトの勇気も。

 レイナの闘争本能も。

 この「無」の前では、等しく意味を剥ぎ取られていた。

 その、死よりも静かな沈黙の中で。

 たった一人だけ、足音が鳴った。

 前へ向かう、迷いのない一歩だった。

 アルトの計算にも、ライトの闘志にも、レイナの警鐘にも存在しない、細い背中が、ゆっくりと視界を遮る。

 小柄なその背中は、決して頼もしくはなかった。

 肩は小刻みに震え、指先は今にも折れそうなほどか細い。

 恐怖がないわけじゃない。

 折れていないわけでもない。

 それでも、その背にはまだ、崩れていないものがあった。

 治せないと知りながら、なお手を離せなかった彼女だけが、この場でまだ“繋ぎ止める”という発想を捨てていなかった。

 理屈が尽きた場所で、なお人を救おうとする行為だけは、理屈の外に残る。

 世界が整合を求め、不要なものを削ぎ落とそうとする理法システムであるなら、彼女だけは、その整合の外側から、誰かを繋ぎ止めようとしていた。

 正しさではない。

 合理でもない。

 勝算ですらない。

 ただ、この場で“誰かが消えること”だけは、どうしても許せなかった。

 その祈りだけが、空白へ呑まれかけた世界の中で、まだ形を失わずに残っていた。

「ステファニー……?」

 ライトの声は、彼女の背中に届く前に、静寂へと消えた。

 呼びかけは届かない。

 けれど、その震える小さな背中には、理屈では測れない何かが、たしかに折れずに残っていた。

 もしこの絶望の中で、まだ世界の側へ手を伸ばせるものがあるとするなら。

 それは、力でも、理屈でも、正解でもない。

 ――祈りだけだった。

 仮に届いていたとしても。

 あの一歩は、もう誰の論理でも、止められなかった。

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