第百十二話:勇者の再起
黄金のドーム《永護》が、役目を終えた光の粒子となって晴れていく。外界から隔離されていた静寂が解け、フォートレス・ノールの冷徹な大気が流れ込んだ。
クロノスは、塵を払うかのような無慈悲な所作で大鎌を振り上げる。
『ようやく出てきたか。……排除を再開する』
大鎌が禍々しい紫の光を纏い、神の意志が世界に「やり直し」を命じる。
『《時間遡行》』
刹那、視界が歪んだ。景色が、因果が、逆流しようと悲鳴を上げる。だが――。
「――《停滞の錨》」
アルトの声が響いた瞬間、世界が“噛み合う”感触が走った。
ノールの広場――戦闘が成立する範囲だけが、逃げ場のない鉄の如き「現在」として固定される。巻き戻ろうとする世界が、不可視の錨に繋ぎ止められ、一ミリも動かさずに静止した。
『……否定だ。時間が固定される事象など、存在しない』
クロノスの仮面の奥で、戸惑いが爆ぜる。
『《時間遡行》――強制発動!』
空間がミリミリと引き千切れるようなノイズを上げる。無理やり過去へ書き換えようとする神の力。だが、その度に世界に打ち込まれた「楔」が蒼い放電を放ち、逆流を撥ね退ける。
『……いや、違う。存在している。“許可されていない現在”が、私の記述を拒絶しているというのか……!?』
「無駄です……! 誰が許しても、僕が許さない。この一秒は、もう誰にも渡さない……!」
叫びたい言葉より、声が半拍遅れて喉を突き破った。思考と肉体の同期が、明確にズレ始めている。アルトは瞳の焦点が定まらないまま、鼻から鮮血を垂らして叫ぶ。その演算負荷は肉体の制御すら奪いかけていたが、ただ「執念」だけが世界を縛り付けていた。
その震える背中を、ライトはただ見つめていた。
(時間が、巻き戻らない。あいつが……止めてくれている)
脳裏に過るのは、友人の腕を折った前世の苦い記憶。やり直しがきかない残酷さは、しかし今、この一秒を命懸けで守る価値のあるものに変えていく。
(アルトさんは、一人で戦っているんだ。なら、俺は――)
ライトが剣を構える。白銀の剣は、主の迷いを映すように淡く明滅していた。本来、ライトの魔法適性は「中級」が限界だ。それも剣を介して、ようやく形になる程度の。だが、今は違う。
「完成してない。教わってもいない。――それでも、今、この一秒なら振れる!」
アルトが固定した不変の空間が、ライトの未完成な魔力を逃がさず、一点に凝縮させる。不安定な中級魔法が、時間の停滞によって「維持」され、本来到達し得ない高みへと押し上げられていく。
――光が、剣に“留まった”。
「《聖光剣:ホーリー・セイバー》ッ!!」
ライトの姿が光の奔流と化し、石畳を砕いて肉薄した。
「……怖くないわけじゃない。それでも――神だろうが関係ない。俺は、あいつの一秒を守る!」
渾身の一撃が、クロノスの大鎌に叩きつけられる。
キィィィィィィィンッ!!
衝撃波が広場を震わせる。今までは、遡行によって衝突の衝撃すら「軽く」されていた。だが今は、逃げ場のない純粋な物理衝突が神を襲う。
『……っ、この私が、力負けしているだと……!?』
遡行で受け流すことも、やり直すこともできない。ライトの放つ「一秒の重み」を正面から受け、神が、後退した。
「何度も“やり直された”三年間は、無駄じゃなかった! 固定された今なら――燃やし切れる! 《流星炎舞》!」
レイナの放った火球が炸裂し、爆風が死神の外套を焼く。
ステファニーはアルトの背中に手を添え、祈りを捧げる。その光が、崩れかけたアルトの“自己”を、かろうじて現実に繋ぎ止めていた。
クロノスは炎の中からゆっくりと立ち上がる。その佇まいからは、管理者としての余裕が消え失せていた。大鎌を構え直す。それは“修正”の構えではない。世界を壊す者の、純粋な殺意だった。
『……算定外のエラーだ。ならば、塵も残さず排除するのみ』
一瞬の静寂。その中心で、黒い剣が鳴った。
「いい流れだ。……待たせたな。ここからは、俺がこのバラバラな力を一つの線に並べてやる」
シエラが不敵に笑い、一歩を踏み出す。
勇者とは、やり直せない世界で立ち上がる者の名だ。
時間が巻き戻らない世界で――
勇者たちは、初めて「前へ進む戦い」を始めた。




