第百十一話:神を繋ぎ止める楔(ステイシス・アンカー)
黄金のドーム《永護》の内側。外界の時間から隔離された、体感上の静寂の中で――勇者パーティは、思考するためのわずかな猶予を得ていた。外界ではクロノスが攻撃を止め、冷徹な「観測」に回っている。それは獲物が弱り、自ら檻から出てくるのを待つ死神の所作だった。
「……みんな。僕は、僕の中で――あいつを倒す方法を『確定』させます」
アルトが静かに告げる。その瞳の奥には、再び蒼い演算の火が灯っていた。アルトは躊躇なく瞼を閉じる。
「《思考回路加速》」
呟きとともに、アルトの意識は数万倍に引き延ばされた情報の深海へと沈んでいく。無限の魔力が脳細胞を強制駆動させ、数式が奔流となって意識を埋め尽くす。
三十二万四千通り――それでもなお、有限でしかない未来。情報の波に自分自身が飲み込まれていく中で、アルトは絶望をなぞり続けた。
ライトが斬りかかる。だが、一秒後に時間は戻され、心臓を貫かれる。
レイナが極大魔法を放つ。だが、着弾の直前に時間は戻され、彼女は自分の放った熱の向こう側で、消えていく。
そのどれもが、あまりにも淡々と、機械的に「処理」されていた。計算機のように振る舞ってきた彼が出した答えは、死という一文字の終止符だった。
(……ダメだ。どれだけ計算しても、勝てる未来が見えない)
アルトの思考が、絶望という重圧に軋む。その時――。
シエラが、無言でアルトの額に指を当てた。
冷たいはずの指先が、不思議と温かかった。
「……お前、また一人で『数式』に溺れてやがったな」
「……すみません。でも、勝てる未来が、どこにもなくて」
「謝るな。お前の計算は完璧すぎるんだよ。だがな、アルト。あいつは――計算できる側の神じゃねえ。計算されることを嫌い、書き換えられるのを何よりも嫌う側の神だ。整合性で勝てるわけがねえ」
シエラはドーム越しに外界を見据えた。
「だがな、あいつには明確な『縫い目』がある。レイナの魔法を認めた瞬間の癇癪……あいつは神のくせに、人間に感情を挟みやがった。合理性を捨てて意地を張った瞬間、あいつの記述に『二重書きのインク』が滲んだんだ。修正しようとした痕跡そのものが、汚点になって残っている」
「滲んだ……縫い目……」
「そうだ。あいつは完璧な神じゃない。執着のある、ただの『傲慢な敵』だ。だったらアルト、計算で勝てねえなら――執念で、勝て」
アルトの脳裏に、火花が散った。
正解を探すのではない。自分の「意志」という名のインクで、世界を上書きする。世界が、まだ乾ききっていないインクのように揺れた。
アルトは再び、深く意識を沈めた。脳裏に浮かぶのは、三年間――数え切れないほどのループの中で見てきた、ライトが振り返る途中で途切れる光や、レイナが自分の名を呼ぶ最期の声だ。
(……もう、二度と。誰一人、奪わせない)
それは計算ではない。二度と誰にもこの時間を汚させないという、純粋で、剥き出しの「わがまま(エゴ)」だった。
アルトの魔力が変質する。蒼い光が深みを増し、逃げ場のない静謐な圧力へと変わる。
「これは……」
「解放したのは力じゃねえ。お前がずっと持っていた『時の断片』を、正しい位置に並べ直しただけだ。……調停は、俺が指示する」
アルトの脳裏に、そのスキルの名が刻印される。
「――《ステイシス・アンカー(停滞の錨)》」
刹那、ドーム内の空気がガチリと“噛み合った”。逃げ場のない「今」へと、世界が釘付けにされる。それは神の遡行を許さない、絶対的な停滞の楔。
「計算は、終わりました」
アルトが立ち上がる。
「ここからは……僕のわがままです。神様の書いたシナリオなんて、僕が、この場所で動かなくしてやります」
「わがまま、上等じゃない。私も、あいつを灰にするまで絶対に引かないわよ」
「俺もだ。アルト、君が止めるなら、俺はそこを突き進むだけだ」
「……行きましょう。ステファニーさん、ドームを解いてください」
黄金の光が消えていく。外界の冷たい空気が流れ込み、クロノスがゆっくりと、死の鎌を上げた。
『ようやく出てきたか。……ほう、その瞳、先ほどまでとは違うな』
「来てください、クロノス。僕の執念で――あなたを、この瞬間に縫い付けてやる」
神の時間を――
たった一人の人間が、世界に楔を打ち込み、止める。
真の逆転劇が、今、フォートレス・ノールに幕を開けた。




