第百八話:時間遡行(リワインド・アクト)
アルトが血を流して倒れ、ライトが恐怖の泥濘に沈み、癒しの光さえも拒絶された戦場。勇者パーティという絆の環が、今まさに最後の一節まで砕け散ろうとしていた。
だが――その絶望の底で、一人だけ、まだ諦めていない炎があった。
「……ふざけ、んじゃないわよ……」
レイナの声が、地面を這うように低く響く。杖を握る拳は白く震え、指先からは制御しきれない魔力が火花となって弾けている。
「アルトを傷つけて……ライトを壊して……。三年間、あの子がどれだけの地獄を一人で歩いてきたと思ってるのよ……!」
レイナの瞳が、怒りと愛憎の混じった鮮烈な紅に染まる。
「――三年間、誰にも見せず、二度と使わないと誓ってきた。……でも、アンタだけは、私が焼き尽くしてやるわ!」
レイナの全身から、これまでにない密度の魔力が噴出した。その熱量は凄まじく、周囲の石畳は溶け出したマグマのように赤黒く変色していく。
「レイナさん……! その魔力、体が持ちませんっ!」
「おい、レイナ! まさか、アレを……この至近距離で使う気か!」
ステファニーとシエラの静止も届かない。レイナは悲痛な決意とともに、特級魔法の詠唱を開始した。
「炎よ、我が血と怒りを受け入れよ。天より降り注ぐ業火となり、理を焼く竜の咆哮となれ――《火炎竜撃》ッ!!」
空を裂く咆哮とともに、巨大な火竜がクロノスを呑み込んだ。広場には太陽が地上に降りたかのような白色の閃光が走り、衝撃波が瓦礫を塵へと変えた。
「……はぁ、はぁ……。やった、わ……」
レイナは膝をつき、炎の渦を見つめた。だが、炎が晴れたその中心に、漆黒の甲冑は煤一つ付かず立っていた。
「……嘘。そんな、ことが……」
『怒りと愛情を燃料にした、因果の焼却か。……実に人間らしい。だが』
世界の音が、ほんの一瞬だけ、逆に引き伸ばされた。
クロノスが、ゆっくりと大鎌を一振りする。
『――《時間遡行》』
その瞬間、世界が不気味な逆回転を始めた。爆炎が火竜の形へ収束し、逆再生の映像のようにレイナの杖へと吸い込まれていく。
「魔法が……戻って、いく……?」
『事象を遡行させ、発動前の状態へと強制帰還させる。お前が三年間温存してきた努力も、今この瞬間に遡行し、意味を消失した。……お前の切り札は、最初から存在しなかったのだ』
「……あ……、あぁ……」
レイナの杖が、乾いた音を立てて落ちた。自分の魂を削った一撃も、アルトを守るという約束も、すべては記述の中の誤字として消去された。
(これじゃ……アルトを守るって、誓った意味まで、消されちゃうの……?)
レイナの瞳から光が消え、大粒の涙が石畳に落ちて蒸発する。
勇者パーティには、もう何も残っていない――そう、誰もが確信した。
『これが、神の領域だ。お前たちの絆も、覚悟も、時間の流れの前では一滴の不純物に過ぎない』
クロノスが、倒れ伏したアルトへと歩み寄り、死刑執行の大鎌を掲げた。
「……やめて……殺さないで……っ!」
ステファニーの叫びも届かない。アルトは意識の混濁の中で瞼を閉じた。
(……ごめんなさい、みんな。やっぱり、未来は変えられなかったんだ)
大鎌が、アルトの首へと振り下ろされる。
死の刃が肌に触れ――その刹那だった。
地面に突き刺さっていたライトの白銀の剣が、太陽よりも激しく発光した。
『……!? 観測ログに、記述不能なエラーが再発。事象遡行の拒絶を確認。排除プロセス、未処理のまま保留される』
クロノスの仮面が驚愕に歪む。鎌の刃とアルトの肌のわずか数ミリの間。ライトの潜在意識が放った白銀の魔力が、「遡行」を受け付けない不動の歪みとして、刃を瀬戸際で止めていた。
その光を見たシエラが、死にかけたアルトの胸ぐらを強引に掴み上げた。
「アルト! 意識を戻せ! 目を逸らすんじゃねえ!」
「……ぁ……シエ、ラさん……? でも、演算が、上書き、されて……」
「黙れ! 理の適用外が発生してる。法則に、裁定不能な綻びが出た。ライトの剣が『遡行』の理を撥ね退けてる。……アルト、頭を止めるな! お前の無限魔力と、まだ消えていないステファニーの加護を直結させろ! 時間干渉さえ受け付けない絶対防御連携――《永護》で防げる可能性はどれくらいだ!? 考えろ!!」
シエラの怒号が、アルトの魂を深い闇から引きずり出した。
「……可能性……? 《永護》……?」
虚無に沈んでいたアルトの瞳に、再び蒼い火が灯る。止まっていた思考が、激痛を燃料にして猛烈な速度で回転を始めた。
(ライトさんの剣が作ったエラーログ。クロノスの『遡行』が及ばない空白の時間。……そうか。《永護》は本来、“守る”ための魔法じゃない。世界から座標ごと切り離し、固定する魔法だ。もし“時間”という外部干渉すら遮断できるなら、それはもう防御じゃない。“隔離”だ……!)
血を吐きながら、アルトは震える手でシエラの腕を掴み返した。
「《思考回路加速》――」
瞳の奥で、数式が奔流となって駆け抜けていく。それは勝ちの確信ではない。まだ“考えられる”という事実への、安堵による微笑だった。
(……もし、この瞬間を固定できるなら。たった一秒でいい。世界を“正常”に戻せるなら――!)
「……32万通り以上だ。シエラさん……いけます。僕の頭は、まだ、止まってません……!」
絶望を喰らい、演算は極点へ。
逆転の数式が、ついに完成した。




