第百三話:信頼の崩壊とレイナの怒り
因果の刃が、意識を失いかけたアルトの喉元に触れようとした、その刹那。
広場の空気を力技で塗りつぶすような、暴力的なまでの魔力の奔流が爆ぜた。
「――ふざけないでっ!!」
絶叫と共に放たれたのは、漆黒に濁った極光。本来、純白であるはずのレイナの魔力が、持ち主の制御を離れた激昂によって変質し、物理的な衝撃波となってクロノスの大鎌を側面から強引に叩いた。
死の軌道が、数センチだけ外れる。
首を跳ねるはずだった刃は、アルトの肩の鎧を削るに留まった。
「ふざけないでよ……! あんた、何なのよ……!!」
レイナの叫びが、広場の静寂を切り裂く。
杖を握りしめる彼女の手は、怒りと屈辱で白くなるほどに震えていた。
「三年間……。私たちが笑ってる横で、私たちが死ぬところを……何度も、何度も見続けてたっていうの……?」
レイナの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
「なんで一人で背負ったのよ……! 私たちは、あんたに守られるだけの無力な存在じゃない。戦士としてここに立ってるの! なのに、あんたの『隣』にいることさえ、私たちは許されなかったの……?」
その言葉が、アルトの胸を深く貫く。
「あんたが一人で地獄を見ている間、私たちは何も知らずに笑ってた……。それが、何よりも許せないのよ! あんたにとって、私たちは……ただ守るべき『弱者』でしかなかったの!?」
「違う……そんなこと……っ」
アルトが、掠れた声で否定しようとする。だが、言葉は続かない。
その横で、ライトが拳を石畳に叩きつけた。鈍い音と共に、彼の拳から血が滲む。
「……気づけなかった」
ライトの声には、勇者としての矜持を傷つけられた男の、血を吐くような悔恨が混じっていた。
「俺たちが必死に剣を振るっていた理由を、お前は……『知らないほうがいい秘密』として処理した。隣にいたはずなのに、俺は、お前の孤独に気づくことさえできなかったんだ……!」
ステファニーもまた、癒しの光を灯せないほどに震える手で、アルトを見つめていた。
「アルトさん……私、役に立ってましたか? 私の魔法は……あなたの心を、少しも救えていなかったんですか……?」
「違う……皆さんは、誰よりも強い……! ただ、秘密を知られたら、俺を……拒絶するんじゃないかって、それが怖くて……!」
「……馬鹿」
レイナが、絞り出すように言った。
「あんたは、本当に馬鹿よ……。拒絶する暇さえ、私たちにくれなかったじゃない……」
絶望的な沈黙が広場を支配する。
パーティの心には、目に見えるほどの深い亀裂が入っていた。
『精神的結合の崩壊。魔力暴発による再詠唱不能。……算定終了。次なる消去対象を確定』
クロノスの声が、感情の熱量を冷笑するように響く。
漆黒の大鎌が狙ったのは、動揺と魔力枯渇で完全に隙を晒したレイナの首だった。
アルトが反射的に魔力を練ろうとするが、すでに枯渇した回路からは火花すら飛ばない。
三年間見続けてきた悪夢が、今度こそ現実になろうとした、その時――。
一筋の閃光が、レイナの目前でクロノスの刃を真っ向から受け止めた。
キィィィィィィィィィィン!!
鼓膜を劈くような衝撃音。
シエラだった。かつて時属性の権能を持つ神格存在を屠ったとされる『対因果剣技』。彼女が黒い剣を構えただけで、狂っていた周囲の時間干渉が、物理的な圧力に押されるようにして一時的に静止する。
「……シエラさん……」
アルトが呆然と呟く。
シエラは振り返らず、ただ背中で語るように静かに言った。
「死人に口なしだ。言い合いを続けたいなら、あの世でやれ」
その声は冷徹だが、戦場に漂う混乱を一瞬で鎮める圧倒的な重みがあった。
シエラは、かつて何度も見た「独善的な英雄たちの末路」を、再び目の前の少年に見ていた。彼女は何も言わず、ただすべてを受け止めるかのように目を伏せる。
だが、その重心は微かに沈み、呼吸は鋭く整えられていた。
「アルト。お前もだ。一人で背負って勝てるほど、因果の番人は甘くない」
シエラは剣を引き、再びクロノスへと正対した。彼女の周囲だけが因果の束縛を脱したかのように透明に澄み渡る。
「お前たちが本当の仲間かどうか……証明する時間は、もう残っていないぞ」
彼女は仲間たちに、アルトの孤独を断罪するのではなく、その重さの正体を突きつけるために語り始めた。
「――お前たちは、まだ知らない。こいつが、お前たちに拒絶される可能性ごとすべてを背負って、三年間何度その『死』を代わりに見受けてきたかを」




