第百二話:孤独な三年の告白
漆黒の鎧――クロノスが、無機質な動作でその巨大な大鎌を再び振り上げた。
だが、放たれたのは物理的な斬撃ではない。鎌の刃が描いた軌跡が、歪んだ紫色の発光を伴い、広場の中央を奔る。
『《時間加速》』
その言葉が響いた瞬間、アルトを取り巻く世界が、猛烈な因果の濁流へと飲み込まれた。
一秒が数秒、数十秒へと跳ね上がる。外界の時を支配するクロノスの権能に対し、アルトは自己の思考のみを引き裂く《思考回路加速》を限界まで叩き上げた。
外界は狂おしく加速し、内界は極限まで細分化される。
過剰な代謝により魔力が体表から蒸発し、視界はどす黒い鮮血の色に染まった。脳を焼く劇痛に耐え、アルトは崩壊するまでの猶予を無理やり引き延ばす。
(まだ……まだ、終わらせない……!)
『無駄な算定だ。単一の個体に耐えられる因果の流量ではない』
クロノスの断定的な声が、脳内に直接響く。その冷徹な宣告に、アルトは膝を突き、石畳を掴みながら、血混じりの声を絞り出した。
「……そうだよ……。俺一人じゃ、勝てない。最初から……分かってた……」
これまで意識的に使い続けてきた、あの丁寧な口調――人格を律していた“僕”という仮面が、激痛によって剥落する。アルトは背後の三人に顔を向けられないまま、地を這うような独白を続けた。
「あの日――三年前、エルトリアが襲撃された日。あの地獄こそが、俺のすべてを壊した原点だった。俺は、ただの無力な子供で……。目の前で街が焼かれ、親しい人たちが塵のように消えていくのを、ただ見ていることしかできなかったんだ」
アルトの脳裏に、かつて一度だけ「観測」した地獄が蘇る。悲鳴。焦燥。そして、最後の一人が息絶えた瞬間の静寂。
『……観測済みの後悔だ』
クロノスが断じる。その言葉を遮るように、アルトは言葉を吐き出した。
「怖かった。何もできなかった自分が、嫌で、嫌で……狂いそうだった。だから、あの時、自分でも気づかないうちに……発動させてしまった。《タイムリープ》を。時間を数時間前に戻したんだ。当時はそれが、どれほど取り返しのつかない歪みを生むかも知らずに」
アルトの手が、石畳に爪を立てる。
「あの日から三年間……ライトさん、あなたたちに出会う前からずっと、僕は心を殺してきた。感情に任せて力を使えば、また世界が壊れるかもしれない。だから、全部計算することにした。
未来を見る力じゃない――。
ただ、起こり得る破滅を一つずつ潰していくだけの、地獄のような作業を三年間、一度も休まずに続けたんだ」
アルトの瞳から、熱を帯びた涙が地面に落ちる。
「皆が笑っている夜も……僕は隣で、皆が惨殺されるシミュレーションを何度も繰り返していた。ライトさんが斬り伏せられ、レイナさんが絶叫し、ステファニーさんが泣き叫ぶ……。そのすべての『失敗』を、計算の中で、僕は一人で見続けてきた!」
その悲鳴に近い告白に、ライトの剣が激しく震えた。それは裏切られた怒りではなく、アルトという少年が一人で見つめてきた「絶望の深さ」を想像し、圧倒されたが故の震えだった。
「ライトさんが、一歩踏み間違えれば死ぬのが分かっていたから。レイナさんの魔法が、少しでも遅れれば全滅するのが分かっていたから……! 皆を守りたかった。ただ、それだけだった。……でも、その方法が……。僕が、皆の覚悟を数字で管理していいはずなんて、なかったんだ……!」
アルトの身体が、時間加速の圧力に耐えきれず、その場に力なく頽れた。まるで、張り詰めていた一本の糸が、限界を超えてぷつりと切れてしまったかのように。
ステファニーは、魔力の反流による激しい眩暈に襲われながら、耳を塞ぐようにして震えていた。共感能力を通じて流れ込んでいるのは、もはや人一人が背負える量ではない、狂気的なまでの後悔と愛だった。
「アルト……」
ライトが、一歩踏み出した。
それは許しや和解ではない。アルトの独白を理解しきれたわけでもない。ただ、このボロボロになった少年の背中に負わせていたものの正体を知って――ライトの心は、理解を拒絶したまま、戦士としての覚悟だけを再点火させた。
シエラは、かつて何度も見た「悲劇的な選択の形」を、再び目の前の少年に見ていた。彼女は何も言わず、ただすべてを受け止めるかのように目を伏せる。
だが、その重心は微かに沈み、呼吸は鋭く整えられていた。
『算定終了。観測誤差を修正する』
クロノスの鎌が、限界を迎えたアルトの首元へ吸い込まれるように放たれた。
外界との認識が分断され、アルトの意識が、数千倍に加速した闇の中に没していく。
一拍の静止。
音のない世界で、死の刃が少年の肌に触れようとした――。
その瞬間、戦場に異質な「因果の揺らぎ」が走った。




