ウルズの泉
天に伸びた木というか新芽はこちらに都合よく成長を止めてくれた訳ではなかった。そんなのもあり僕等がしがみ付いていた場所は空の大地を通過して更に100メートル程上の高さだった。随分と高い。
そこから見える景色は、地上のそれとは少し趣が違っていた。
空の大陸には地上と同じように平原があり、山脈があり、森林があり、大きな湖があり、大地を分けるように走る太い川があった。よく見ると町や道らしきものもある。
ただ平らな土地の為なのか地平線が確認出来ず、遠いものは霞んで見えている。
「ね、ねえ、祖母ちゃん、この空の上の大陸って、一体どの位の広さがあるのかな?」
僕は周囲を見回しながら問い掛ける。横に見える景色も正面の景色も相当な広さを感じる。
「何でもヨーロッパ全域と同じぐらいの広さがあるみたいだよ」
「えっ、そ、そんなに広いの?」
「ああ、前に来た時にそう聞いたわね」
「そ、それはやばいね……」
空の上にそんな巨大な物が浮かんでいるなんて……。
「さてと、下に降りて空の大地を踏みしめようじゃないか」
「あっ、うん」
祖母ちゃんに促され、僕は木を伝い下へと降りていった。
木と空の大地の高さが同じになっている所まで降りていくと、雲のような上部に、土というか大地があった。
その大地には草や木も生えていて、そこへ移ってみると普通に地上の森にいるような感じだった。
「さてと、じゃあ、どこかの王国にでも行こうかね」
「王国?」
「ああ、この上には、あたしらが住んでたヨーロッパと同じように幾つもの国や幾つもの王国があるんだよ」
「へえ~」
「一応、王都とか人の暮らしている場所は比較的平和だけど、それ以外の場所はかなり無秩序地帯なんだよ、森とか林なんかは特にね。なんで油断は禁物だからね」
祖母ちゃんはそう説明しながら厳しめな表情を作り上げる。
「わ、わかったよ、祖母ちゃん……」
伝って降りた大地は高い木々が眼前の視界を塞ぎ、欝蒼感が強かった。100メートル上の豆の木から見る景色とは大分違かった。ちょっと怖さも感じる。
「と、とにかく、早く、その王国だかに進もうよ!」
僕は不安な気持ちになり先を促す。
「そうさね、明るいうちには着きたいね」
そんなこんなで、しばらく森を掻き分け進んで行くと、岩肌から水が染み出し、その下に泉が出来ている場所に至った。とても澄んだ綺麗な泉だった。
「おや、こんなところに泉があるよ、折角だから、ここで水分補給をしようかね。それと水筒に水を足しておこうじゃないか」
確かにヨトゥンヘイム山登山の後半ぐらいから、水の補給も出来ず、余り水を飲んでいなかった。
「そうだね」
僕は泉の淵に近づき水を手酌で掬い喉を潤す。
水は水なのだが何やら清涼で高貴な感じの味がした。さすが空の大陸の水だ。
「祖母ちゃん、な、なんか、僕、元気が出て来たよ」
五臓六腑に水が染みわたったせいか、疲れが消え、何やら元気が湧いてくる。
そして、ほぼ空になっている水筒にもその水を汲んでいく。
「さてと、あたしも喉を潤しておくかね」
僕の横で祖母ちゃんも手酌で水を口にする。
「ん? あら、この感じ…… なんか変だわね…… 若しかして、これ…… あら、あら、あら……」
なにか様子が変だ。祖母ちゃんの声が段々と甲高くなっていく。
「ど、どうしたの祖母ちゃん?」
僕は横をみて唖然とした。
「おっ、おわああああああああああああっ! ど、ど、ど、どうしたの祖母ちゃん! 何なの! その姿は一体?」
赤かった。白髪だった髪の色が赤くなっていた。そして、肌がぷりぷりになっていて皺が消えている。
「こ、これは……」
「ば、祖母ちゃん! どうしたんだよ、若返ちゃってるよ!」
正直二十代の年齢だ。髪や肌が若返っているだけじゃなく、線も細くなり若い女性の体付きになっていた。胸もかなり豊満で立派だ。
「あら、あら、あら、これはウルズの泉だったみたいだね」
「な、なんだよ、そのウルズって!」
僕は余りの変化に声が上擦ってしまう。
「ウルズの泉は強力な復活浄化作用があって、体力とか怪我を回復させてくれる効果があるんだよ、そして稀に若返り効果も……」
「若返り?」
マジか。その作用で祖母ちゃんが若返った。二十代位に。
凄い……。いや、とんでもないぞ。
僕は唖然としたまま祖母ちゃんを見詰める。
「あら、良いわね、あたし若返っちゃったわ、ラッキー! うふふふふ」
本気で若いぞ、もう婆ちゃんではない。完全に若い娘だ。
「確かに、良かったね。祖母ちゃんって、若返ると綺麗だったんだね」
「ハンス! あたしゃ、若返る前から綺麗だったでしょ!」
切れ気味に言ってくる。
「う、うん、一応、綺麗だったかな、年相応にだけど……」
僕は取り繕う。
「とにかく儲けものね、若いと動きとか体のキレも違うから……」
体力も回復し、更に祖母ちゃんは若返るというとんでもないことが起こったが、僕らは先を進んで行く。
木々を掻き分けつつ更に一時間程歩くと、次第に薄暗い森の中、何やら視線のようなものを感じ始める。偶にカサっという音が聞こえてきたりするのだ。
「……ん、妙だね」
「なにか感じる? 妙って?」
「……いつの間にか何かにとり囲まれちまってるかもかもしれないよ……」
ゆっくりと足を止めた祖母ちゃんは周囲の木々の隙間に視線を送る。
森の隙間を探っていると、低い唸り声を発しながら、体の大きな狼が姿を現した。
4匹程いて四方から迫ってきていたのだ。
「フェンリル狼か…… 狙われちまったね。ハンス、ピッケルを取り出しな」
「えっ、ピッケル?」
「武器になりそうなもんはピッケルしかないだろ、追っ払うにしても身を守るにしても必要だろ?」
「そ、それはそうだけど、あの狼は敵なの? フェンリル狼って呼んでたけど……」
「敵というか、こっちを獲物として見てるね、フェンリル狼ってのは魔獣だよ、元々は神の一種みたいな存在だったけど、今は理性や知性が失われた獣だ。倒すか逃げるしかないね」
「じゃあ、逃げようよ!」
「いやいや、都合よく逃がしてくれると思えないけどね……」
僕はリュックからピッケルを取り出して取り敢えず構える。
低い唸り声をあげながらフェンリル狼は距離を詰めてくる。そして、僕の死角から一匹が襲い掛かってきた。
「う、うわあああああああああああっ!」
僕はピッケルをぶんぶん振り回す。が、当たらない。襲ってきた一匹に気を取られていると、もう一匹が隙を狙って襲い掛かって来た。
「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」
ヤバい! 何てことだ、空の大陸に着いてすぐに僕は死んでしまうのか! 祖母ちゃんの話に興味を引かれてこの世界にやって来たけど、すぐ死んじゃうなら来なかった方が良かったんじゃないか?
そんな心の声を発していると、突然、炎の渦がぶわりと僕のすぐ横を通過した。そして、その炎の渦は僕の死角を狙っていた狼に当たり、その体を焼き尽くした。
「えっ、な、なに? 何が?」
僕は唖然として炎の出所を確認する。
「えっ、ば、祖母ちゃん!」
炎の出所は手の平を向けている祖母ちゃんだった。
「ふん、久しぶりだけど、ちゃんと魔法が使えたね……」
「えっ、ま、ま、魔法?」
僕は唖然とせずにはいられない。
「だから、あたしゃ魔法が使えたって言っていただろ。地上に降りたら使えなくなっちゃったけどさ……」
「あっ、いや、確かに言っていたけど…… それって本当の話だったの?」
「ああ、あたしゃ、結構色々な魔法が使えたんだよ、いや、使えるんだよ」
「はあ……」
何て言えば良いかよく解らないぞ。
「とにかく、奴らを追っ払うよ!」
祖母ちゃんは手から放つ炎でもう1匹の狼も焼き尽くす。
そんな祖母ちゃんの炎に恐れをなしたのか、残りのフェンリル狼2匹は尻尾を巻いて逃げ出した。
「ふん、上手く追っ払えたみたいだね」
祖母ちゃんはふうと息を吐いた。
焼け焦げたフェンリル狼の遺体はしばらくすると煙のように消え去り、宝石のような物が残った。
「ば、祖母ちゃん、死骸が無くなって宝石みたいなのになったよ!」
「ああ、魔宝石が残ったんだよ、魔獣だからね」
「魔宝石?」
「ああ、魔獣の核みたいな物だよ、それ拾っときな、後でお金に換えられるから」
「はあ……」
僕は正直この世界の常識に付いていけない。何だかとんでもない世界に来てしまったようだ。
しかしながら思考が追い付かない僕であったが、心に少し安心材料が追加されていた。それは祖母ちゃんが自分の想像以上にこの世界に詳しい事と、祖母ちゃんが若返った事、そして、魔法を使える事だ。正直かなり頼もしい存在だった。