【Vol.11】
もう、形は憶えていないのだという。
それはこの島で賢一と散歩をしているときに見つけたという。
薄紫の、ちいさな花。
名前を知りたくてネットで検索したが、何も出てこなかった。
もしかしたら新種ではないか。
ふたりで大はしゃぎした。
東京に戻ったら植物の専門家に見せてみよう。
そう言ってスマホに写真を保存していた。
東京へ戻った、けれど忙しさにかまけて後回しにしていた、数日後。
忌まわしい事故が起きた。
写真を入れた賢一のスマホは粉々になった。
いまとなっては確かめようがないけれど、もしあの花が新種なら。
賢一の名を花の名前として残すことができるのではないか。
そんなことをぼんやり思った。
なるほど、と紅葉。
子供の宝箱を探すつもりで花を探すのもいいかもしれない。
二匹と一人で島の散策にでかける。
とはいえ雲をつかむような話ではある。
三日月の島。
峰に沿って石板が埋め込まれた道がある。あとは獣道すらない原生林で、シダ系の南国植物が好き放題に島を覆っている。まったく手入れはされていない原生林である。独自のガラパゴス進化をしていてもおかしくはないが、いまのところ見たことのある動植物しか目に入ってきていない。
石板の足元は修繕したばかりだが、ぬかるんで歪んでいる。左右から樹木や雑草がのびてきて通れない道もある。女性がサンダルで歩くところではない。静香はそれを、軍手のかわりに手にタオルを巻いて、枝を折りながら道を進んでいく。先発で紅葉が石板の道を探し、静香が枝を折って進み、そのうしろを蓮が歩く。頭上には小鳥がいる。静香が枝を折るたびに悲痛な声をあげる。それを蓮が、ごめんねごめんね、と、なだめながら進む。
たいして歩いてもいないのに道が塞がれる。
もしかしたら貴重かもしれない巨大な古木に野太い蔓がまとわりついて、幹を絞め殺したらしい。倒れた巨木のささくれた切り株からは全然違う種類の若木がのびている。自分は絞め殺されないようにと若木は皮を張り、からみつこうとする野太い蔓と戦っている。倒れた幹は石板を割って道に横たわっていて、重機がなければ動かせない。静香の腰ぐらいまで太さのある幹である。倒れた今もまだ小動物の住処らしい。ヤマネの一種らしい小さな子らが幹の洞で暮らしている。だが昨夜の台風で幹が崩れて洞が浸水し、体長三センチもないヤマネの一家が途方に暮れている。
小鳥が飛ぶ。
おいで。こっちが安全だよ。
空家の洞のある場所を知っているのだろう。小鳥の呼びかけに応じてヤマネの一家が引越をはじめる。
紅葉はすでに足がUターンしている。すぐに行き止まりになるとは思っていたよ、さっさとハンモックに戻ろうぜ、と。
蓮も紅葉のあとをついていく。小鳥の姿がみえなくなって、なだめずにすむことにホッとしている。
静香は、意を決した顔。
サンドレスの裾をたくしあげ、幹に両手をつく。
勢いつけて跳んで、幹の上に乗る。サンダルの足で。
ギョッとする紅葉と蓮。
静香は幹の上に立ち、むこう側へ降りてまた歩きはじめる。
あっけにとられている猫たちが、あわてて静香のあとを追う。
静香は勝ち誇った顔で意気揚々と。
「やっぱり視察にきて正解だったわ」
いつのまに休暇が視察にすりかわっている。
おそらく頭の中で、いかに安価に重機をあの場所へ運ぶかの計算をしているのだろう。
もしくは幹を生かしてアトラクションの一部にしてしまう方法か。
先導する紅葉の足がとまる。
道が陥没して水がたまり、二メートルはありそうな池になっている。
紅葉と蓮、顔を見合わせる。
静香のすることが予想できて、心配の顔である。
池の手前に立つ静香、考える。
どうやって飛び越そうかと。
水は濁っていて底が見えない。歩いて渡ろうとすると底なしの穴にはまるなどの危険がある。
静香は数歩下がる。助走をつけようとする。
あわてて紅葉が静香の前に立ちふさがって押しとどめる。ちょっと待て、と。
あたりを見回す。
みつけた木の枝をくわえてくる。
猫しか歩けない細い道の端をゆき、池のふちを掘る。
峰の道。くわえてきた木の枝を足で蹴ってシャベルのように使い、ふちを削っていく。
やがて池が決壊する。水が崖下へこぼれて、干上がる。
池の底からミズヘビがあらわれる。
もし池を飛び越えていたら、下から狙われて嚙まれていたかもしれない。
蓮が毛を逆立てて、ミズヘビを威嚇する。
三十センチほどの小さなヘビが、しかたないなといいたげに藪の中へ消えていこうとする。
いつのまに小鳥が頭上にいて、ヘビの心配をしている。
肉食のミズヘビが去りぎわにふりむいて、舌なめずりしそうな目で小鳥を見る。
小鳥は空高く飛んで逃げる。ゴハンになってあげられないけど君が好きだよと笑っている。
あるかもしれない、ないかもしれない、そんな花。
小鳥と同じ、薄紫の小さな花。
静香は道の両脇の藪をかきわけて原生林やその奥に目をこらす。歩きながら何度もくりかえして藪をかきわけ目をこらす。
だが見つからない。
それらしき花はいくつかあった。だがよく見れば、ありふれたスミレやナデシコで、新種ではない。
いつのまに道は途切れている。三日月の先あたりまで降りてきている。
目の前は海。入り江のすみ。
やっぱりないのかしらと肩をすくめて静香、入り江のむこう側の三日月の先へ行こうとする。
そして足をとめる。
岩場の陰に、花がある。
ちいさな花が数株、岩の割れ目に根を張っている。
ずっと前からそこにあるのに見えてなかった。
静香がしゃがんで花に顔をちかづける。
名前のわからない花。
遠い昔に一度だけ見た花に、よく似ている気がする。
スマホで写真をとってから、手をのばす。
岩の割れ目のわずかな土を掘って、根ごと採取しようとする。
蓮が、その手を噛む。
おどろいて静香が手をひっこめる。
「どうしたの?」
なぜ嚙まれたのか、彼が何を伝えたいのか、わからない。
おかしな子ね、と笑い、静香はまた花へ手をのばす。
蓮が噛む。
血が出そうなほど強く。
「……どうして?」
静香は傷ついた目をする。手は血がにじんでいるが、それよりも心が痛い。
蓮の気持ちがわからない。いままで体の一部のように感じていたものが急に失われて見えなくなって、裏切られたような感覚におちる。
「私、何か悪いことをした?」
自分が今していることは、島へ来たこと、しゃがんでいること、花を摘むこと。どれも法律にも反していない。財布や体に害をなすことでもない。
この子は何に怒っているのだろう。
もういちど手をのばす。蓮の顔を見ながら。
蓮がフシャーとうなって牙をむきだしにする。
静香の目に涙がうかぶ。
「花が嫌いなの?」
うなりながら蓮も、泣きそうな目になっている。
どうして伝わらないのかが蓮にもわからない。
紅葉がふたりのあいだに割って入る。静香の胸元めがけて、爪むきだしで手をなぎはらう。
きゃっ、と小さな悲鳴をあげる静香。
どうして紅葉にまで攻撃されるのだろう。
静香の目から涙がこぼれそうになる。
そして静香の胸元からペンダントが落ちる。紅葉の爪がチェーンを切ったから。
アメジストのペンダント。かつて賢一が選んでくれた。薄い紫の、葉脈、命をかたどったデザインの。
地面に落ちる瞬間、声がきこえる。空に賢一の幻影がうかぶ。
その姿はたしかに叫んでいた。
「お母さん、大好きだよ」
泣いて全身をふるわせながら、ありったけの力をこめて。
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