泥棒の幽霊
夜。とある豪邸。さっと塀を乗り越えたその黒い影は、素早い動きで窓に張り付いた。すると、まるで魔法のように窓が開き、影は屋敷の中に入った。
ニヤリと笑うのも、月明かりに身を晒すのも一瞬のことだった。彼は腕利きの泥棒。気を引き締め、足音を立てないよう慎重に家の中を進んだ。
物音は一つも聞こえない。家主は寝ているようだ。このままミスをしなければ、出くわす心配はないだろう。監視カメラの存在も警戒していたが、やはりなんてことはない。確かに、このような豪邸はほとんどが警備会社と契約しているが、それはどこか形式的なもので、一度侵入してしまえば、室内はほとんど無警戒と言っても過言ではない。とくに、一代で成り上がった成金やそれを引き継いだ二代目に多い。金の使い方がわかっていないのだ。
彼は下調べ通りに、金庫のある部屋に向かった。最近は、家の中をSNSなどで公開している人が多い。防犯意識の低さが窺えるというもの。この家はまさに狙い目だった。
よし……やるか。ここに来るまで、そして金庫を前にしても一言も発さない彼は、心の中でそう気合を入れた。彼は暗闇に慣れた目が痛まないようにと一度瞼を閉じた。そして、頭に装着してあるヘッドライトのスイッチを入れようとしたそのときだった。
「やめろ……」
心臓が跳ね上がり、彼は「ひっ!」と声を上げそうになった。どうにか耐え、体ごとその声がした方へ向ける。だが、目にしたものは想像を超えており、彼はさすがに声を出さざるを得なかった。
「ゆ、幽霊……?」
カーテンが閉められており、月明かりも通さない暗い部屋にぼんやりと浮かぶ白っぽい光。その光に彫り込まれたような生気のない顔と立ち姿。幽霊。そういう他なかった。
「…………そうだ。俺は幽霊だ」
「な、なんの幽霊だ? こ、この家の主の、せ、先祖か?」
彼は声を潜めてそう訊ねた。別にどこの誰か知りたかったわけではない。ただただ混乱し、こちらに向けられたその虚ろな視線に対し、何か言わなくてはと心を急かされ、口を突いた言葉だった。
「…………違う。俺は昔、この家に入った泥棒の幽霊だ」
「えっ、ということは、はははっ、同業者というわけか……。ん? じゃあ、どうして止めるんだ?」
「…………よくないことだからだ」
「溜めた割には普通のことを言うんだな……。よくないことなんて、分かった上で食うためにやってるんだ。あんたも泥棒だったのならわかるだろ?」
「…………本当はやめたいと思っているんじゃないのか?」
「泥棒をか? いやだから、そりゃ安定した職に就ければいいが、なかなかそうもいかないだろう」
と、彼はこんな話などする意味もないと呆れ、ため息をついた。そして、この幽霊はおそらくこの屋敷に盗みに入ったが失敗し、死後、未練がありここにいるのだと考えた。獲物を横取りされる気分でいるのだろう。
「…………頭から離れないのだろう。普通に買い物をしていても、テレビを見て笑っていても、人と会話していても、自分は泥棒、泥棒なんだって」
「わかった、わかった。あんたの気持ちはもうわかったから邪魔をしないでくれ。この金庫は少し時間がかかりそうだ。ああ、そうだ、あんたの墓に何か供えてやるよ。ここでの稼ぎでいい酒でも買ってさ」
「…………泥棒の人生だ。結婚はしているのか? これから先、したとして妻に何と言う? 子供には? 泥棒泥棒泥棒」
「はいはいはい。そういった普通の人生はとっくに諦めているよ」
「…………やめるなら今日がその時だ。それとも捕まるまで続けるのか? そうなってからやめても、報道されたらその顔と名前はずっと残るぞ。泥棒としてな。泥棒泥棒泥棒泥棒」
「そんなの今さら怖くない。いい加減、静かにしてくれ。集中できないだろうが」
「…………不安不安不安。この前の現場に、指紋を残してしまったかもしれない。防犯カメラがあったかもしれない。現場から離れるとき、隣の家の住人に窓から見られていたかも」
「うるさいな……」
「…………仕事道具を持って歩くのは不安だ。いつか警察官と出くわすんじゃないか。職質されたら一発でおしまいだ。その逆に昼間、手ぶらで堂々と歩くのは気持ちがいい」
「まあ、確かにそう思うときもあるが……」
「…………起きても泥棒。寝てても泥棒。もしかして、噂になっているんじゃないか。自分が泥棒であることを世の中のみんなが知っているんじゃないか。笑えない。人の目を気にし始めると、笑えなくなる」
「まあ、な……」
「ああ、泥棒なんてやめておけばよかった……まともに生きようとすればよかった……泥棒なんて……やめておけば……やめておけば……」
「わかった、もうわかったよ。はぁ……とりあえず、今日はやめにする。後ろでそんな風に言われ続けたんじゃ集中できないからな。……まあ、よく考えてみるよ。今のあんたのその姿を見てたら、本当にやめたくなってきたよ」
「…………それがいい、それがいい。帰るならここを出て右に。それから階段を降りて、一度地下室に行くといい……。そこに外に続く扉がある。その先の塀にはセンサーがない上に人けもない」
「おお、ありがとさん。あんたも早く成仏しなよ。じゃあな」
彼はそう言い残し、部屋を出て行った。その声はどこか明るく、明日の太陽の光を、日の当たる世界で生きる自分を想像しているようだった。
やがて朝が来て、目を覚ました家主の男は金庫がある部屋の警備システムが作動したことに気づくと笑みを浮かべ、電話をかけた。
「やあやあ、おはよう。いやぁ、どうやらおたくの警備システムがうまく働いたようだ」
『おはようございます。それはなによりでございます』
「今、部屋の防犯カメラの映像を見ながら電話しているんだがねぇ。ふふふっ、こりゃ全然気がつかなかったようだ。天井と床にプロジェクターが仕込まれていたなんてな」
『ええ、違和感なく施工させていただきました。AIの受け答えのほうもばっちりだったでしょう』
「ああ、まあ、受け答えが遅いが、はははっ、それもまた幽霊らしい。狙い通りというわけだ」
『はい。それで、お宅に侵入した泥棒のほうは……?』
「ああ、外の罠に引っ掛かったようだ。それもまた狙い通りだな」
『お客様とその資産の安全を守ることができ、なによりでございます』
「いやぁ、どうせなら珍しいものをと思い、そちらの会社にお願いしたが、しかしあまり期待はしてなかったんだがねぇ。なかなかうまく行ったようじゃないか。他のバージョンもあったりしないのか?」
『ええ、我が社は常により良いものを目指しております。それで、その泥棒は警察にはまだ? でしたら、こちらが引き取る形でよろしいでしょうか? 新製品の開発に役立てたいと思います。ええ、ひいてはお客様のため世のため人のために……』