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9 Oranges and lemons

Oranges and lemons

Say the bells of St. Clements


I owe you five farthings

Say the bells of St. Martins

 FOI病棟に搬送されドクター・ヴィクターの処置を受けた空は、いつもの病室に移され、博も同じように付き添っていた。

 今までと違うのは、彼女の受けた凶行が彼の目の前で行われたと言う事だ。

 気が狂いそうな時間を過ごした彼は、彼らに拘束されてしまったミスと、彼女に対して何も出来なかったことで、ひたすら自分を責めている。

 麻酔で眠っている空の身体には、胸と腹に分厚く包帯が巻かれているのだろう。胸元まで掛けられた上掛けと着せられた病衣のお陰でその殆どは見えないが、自分で噛み破った下唇は腫れてしまっている。赤く傷が残るその唇が、彼女の受けた苦痛を物語っていた。


「一応、説明をしておく。右の乳房が半分、左が3分の1、上から切り込まれていたので縫合した。下腹部は長さが20cmだが深さが内臓まで達していないのでこっちも縫合だけで済んだ」

 追い打ちを掛けるようなヴィクターの言葉に、博は俯いたまま礼を言うが、いつもならサッサと立ち去る彼が何故かまだそこにいる。

 博は、空のひんやりした手を握ったまま、顔を上げて医師の顔を見た。何か言いたげだと思った時、漸くヴィクターは口を開く。

「・・・切り口だが、メスの使い方が見事というレベルだ。私は、こんな風にメスを扱える外科医をわずかしか知らない」

 それを聞いて、博は大切なことを思い出した。自分を責めるより、捜査官として先にしなければならない事がある。

「・・・ヴィクター、カイ・バセットとと言う人物をご存じですね?」

 彼の言葉に、医師は厳しい眼差しを投げて答えた。

「私が知っているそんな外科医の1人が、カイ・バセットだ」


 ヴィクターは、自分が知っていることを全て、博に伝えた。

 バセットは、現在日本で悠々自適の生活を送っているがどこに居るのかは知らない。ただ経済的には遺産相続のお陰で何も問題は無いらしい。

「バセットに遺産を残したのは、彼のパトロンだという事は聞いている。両親は既に亡く、そのパトロンの女性が学費から何から全て出してくれていた、と言う事を知っている程度だ」

 他人の過去になど興味など無いヴィクターがここまで話してくれるのは、彼は彼なりにRipperに対して憤ることがあるのかもしれない。


 博はそれを聞いて、直ぐに真に連絡を入れる。

 真は久保刑事にそれを伝え、FOIと警察はRipperことカイ・バセットとその相棒であるハロルドという男を指名手配して捜査に入った。


「いつもの事だ、こっちは任せろ。それより、さっさと浮上しろよ」

 と言う真のありがたい言葉に礼を言って、博は再び空の傍に戻って彼女の手を取った。

 やがて空は麻酔から覚めて目を開くが、博の顔を見て笑いかけようとした途端、キュッと眉をしかめた。胸と腹の傷が痛んだのだろう。そろそろ麻酔から覚める時間だと言って、既に病室に来ていたヴィクターは、むっつりとしながら必要な処置をすると、患者にしっかりと釘を刺す。

「鎮痛剤を処方したが、動くなよ。無茶すると、傷が開いて乳房が転げ落ちるかもしれないからな」

 物騒な台詞を吐きながら、表情も変えずに医師は出て行った、


(・・・落としたら拾っておかないと不気味ですよね)

 そんな場面を想像してしまった空は、つい言葉に出しそうになったが、博の顔を見て心の中に留めておいた。彼は、そんな彼女の心中には気づかずただ心配そうに様子を窺っている。

「・・・痛みますか?」

「いえ、それ程は・・・削がれている最中よりは、ずっと楽です。でも・・・ごめんなさい。博に辛い思いをさせてしまいました」

 空はすまなそうに言葉を続ける。

「我慢できると思っていたんですが・・・Ripperの作業が終わったら、彼に笑いかけるつもりで・・・それなのに、声は出てしまうし、気絶してしまうし・・・」

 この程度で屈服しないのだと、冷たい笑顔で彼の顔を睨みたかったと言う空に、博は苦笑いをするしかない。途中まで耐えたことだけども、彼女は凄いと思うが。


 しかし、実際に空がそれを実行出来ていたら、ホラーになっていただろうと思う。想像すると、なまじ顔が美人なだけに、夢に出てきたら悲鳴をあげて、飛び起きるというレベルでは無かろうか。

 怖い事この上なしです、と思いながら博はふと気になったことを問いかけた。

「もしかして、胸を削がれることは大したことじゃない、とか思っていませんか?」


「・・・はぁ・・・病気で切除する方もいますし、そのくらいで死にはしないと思いますし」

 あの場合、乳房や子宮などよりも、命の方が大事だと判断した空だ。

「実は、これって結構邪魔なものなんです。男性の方には解らないと思いますが、激しく運動すると揺れたり振られたりして、結構痛いんです」

彼女は、自分の胸元を指さして言う。

「・・・はぁ・・」

 博はポカンと口を開けてしまった。

 確かに自分には、その痛みは解らないけれども。

「基本的に、育児をするときの器官ですから、私には必要が無い物かな、と・・・」

 そんな事を淡々と言ってのける空だが、彼女を愛する博としては、子供に言い聞かせるように諭しておかなければならないだろう。

「空、僕にとっては無いよりもある方が嬉しいので、大事にしてもらえませんか?」

 ああ、そうでした、と空は改めて理解したように答えた。

「触り心地が悪くなりますよね。では、博のために大事にしておきます」

 彼女の言う事に間違いは無いのだが、何となくしっくりと来ない博である。

 それでも、彼女が自分の身体を大事にしてくれるなら、それでも良いかと思うしかない。


 鎮痛剤が効いてきたのか、空は少し眠そうな表情になるが、博の眼を見て真面目な口調で言った。

「我儘を2つ・・・言ってもいいでしょうか?」

「ん?・・・何ですか」

「1つは・・・逆の立場にならないようにしてください」

「逆?」

「はい、博にばかり辛い思いをさせておいて、こんな事を言うのは身勝手だとは思うのですが・・・私の目の前で博が傷つけられるような事があったら、私は自分がどうなるのか解りません。何か、とんでもないことをしでかしそうな気がします。想像するだけでも・・・怖い?ような気がします」

 自分に自信がないと言う空には、心の中に封印された何かを持っている。博にはそれが、よく解っていた。悲しそうな瞳で見つめてくる彼女に、博は穏やかに笑って答えた。

「はい、そうしましょう。でも、転んで擦り剥くのくらいは許してくださいね」

 空の瞳が、ふっと緩んで笑顔になる。


 犯罪捜査官という仕事を続ける限り、危険な状況は常について回る。どれほど望んでも、絶体無いと言う事はあり得ないのだから、これは空の我儘だ。

 けれど、彼女は言いたかったし、彼は答えたかった。

 叶えられない望みが運命だと言うのなら、それに抗うモチベーションになる我儘かもしれない。そしてそんな我儘に答えた、不誠実にも聞こえる不確かな言葉が、運命に抵抗する力になるかもしれない。

 どうすることも出来ず、もうこれが最後だと思った瞬間に、互いに掛け合った言葉とその時間を思い出すことができるように。

 そしてそれが、奇跡を起こすように。


 空は微笑んだ後で、今度は少し言いにくそうに呟いた。

「2つ目は・・・喉が・・・乾きました」

 水ですね、と答えた博が傍らの吸い飲みを手に取ると、空は軽く首を横に振って上目遣いで彼の顔を見た。嫌々をするような幼い仕草とねだるような視線に、博は「ああ」と答えてペットボトルを持った。

「こっち、ですね」

 嬉しそうな笑顔になった彼は水を口に含むと、彼女の傷ついている唇にそっと自分の唇を重ねた。

 ひと口分の水を飲ませ、彼はまた問いかける。

「もっと?」

 ボトルの水を見せながら言う博に、空はまた頭を振った。

「・・・水・・では無くて・・」

 彼は彼女の頬に掌を添えて、愛しそうな笑みを浮かべた。

「では、怪我に障らないように・・・」

 再び唇が重なり、2人は本当に久しぶりのキスで心を暖めた。


 数日後、空はベッドの上で上体を起こせるまでに回復していた。博は相変わらず甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いているが、病室にPCを持ち込んで仕事もこなしている。病室を執務室にようにしている彼だが、本人的には怪我人の世話が本業のような状態だ。


 Ripper事件の方は、カイ・バセットとハロルドの行方はまだ掴めていない状況だが、2人の素性については本部の協力もあり、だいぶ明確になって来た。


 カイ・バセットとという男は、空と同じようにA国のスラム育ちで、母親は売春婦であった。父親の解らない子供であったカイは、ネグレクトを受けて育った。それどころか、母親は綺麗な子供であったカイを、幼児ポルノやその手の趣味の人間に、男女構わず売った。母親は結局薬物中毒で死亡したが、カイはその時点で裕福な未亡人の養子となった。彼が10歳の時である。

 経済的には裕福な暮らしとなったが、養子とは名ばかりの、要は囲い者になったわけだ。教育は充分に与えられ、元々頭が良かったカイは順調に上の学校に進み、医学部を卒業して医師免許を取るまでになる。けれど養母となった女性が亡くなるまで、カイの立場は全く変わらなかった。

 人目を引く美しい容姿は子供の頃から変わらず、女性からのアプローチも多かったが、彼を知るクラスメイトは口を揃えて、彼は女嫌いだったと言っていた。また、人付き合いも徹底的に避けていたような節もあったので、親しい友人は皆無だった。


 ハロルドと呼ばれていた男は、フルネームをハロルド・バックリーと言い、若い頃は武術家として活動していた時期があった。FOIがスポンサーとして開催された武術大会に出たこともあって、その記録がFOIに残っていた。何度か本部に来たこともあるようだ。けれど、ある時期を境にハロルドは傭兵稼業に身を投じてしまう。それ以降の事は、まだ調査中だと言う。


 Ripper事件の主犯と従犯であるカイとハロルドに関しては、2人が出会った時期やその背景などはまだ解っていない。しかし主犯であるカイが、多重人格者であることはほぼ確定していた。


 そんなある日、病室に久保刑事が現れた。

 博はちょうど、空の毛布を捲り上げてその足をマッサージしている最中だった

「失礼します。会っていただけてありがとうございます・・・あっ、失礼!」

 入るなり頭を下げて挨拶の言葉を述べた久保は、頭を上げた瞬間、見えてしまった光景に狼狽する。看護士に許可を貰って入室したら、美人の生足を楽しそうに摩っている男が居たのだから、流石の久保も驚いてつい謝ってしまった。

「いや、もう終わりますので、少し待ってください」

 振り返りもせずに答えた博は、久保に対してあまり良い感情を持っていないようだ。大切な空を虐めた相手だと心の底で思っているのだとしたら、相当に子供っぽい態度かもしれない。

 博はマッサージの手を止め、彼女の足を元の位置に戻してやると、優しく毛布を掛けなおす。そして上体を起こして座っている空の頬に、軽くキスをした。

(・・・そう言えば、この人はA国育ちだったな)

 と久保は改めて思った。こう言うストレートな愛情表現は、あちらではごく普通のことなのだ。日本人感覚だと、イチャイチャしているようにしか見えないのだけれど。


「さて、ご用件は?」

 向き直った博は仕事モードに切り替え、穏やかな笑みを浮かべて尋ねた。

「あ、はい・・・その・・・お詫びに参りました。Ripper事件の犯人と疑ってしまいまして・・・」

 久保の言葉に、空の方が怪訝そうに口を開く。

「昨今の警察では、容疑が晴れた人物に謝罪に行くという規則があるのですか?」

「あ、いや・・・そう言うわけでは・・・手厳しいですな」

 初めて見るような久保のドギマギした様子に、博はつい吹き出しそうになる。

「今のは、嫌味じゃありませんよ。彼女の素なので、お気になさらず」

「はあ・・・それでは、その・・・これはお見舞いと言う事で」

 久保刑事は、持っていた花束と紙袋を差し出した。


「協力関係にあるFOI日本支局の捜査官を疑った上に、支局全体を侮辱したと大層叱責を受けました」

 それはそうだろうな、と博は思った。おそらくあちこちの上の役職から、呼び出されてこってりと絞られたのだろう。

「自分としても、反省しております。どうも自分は、1つの事に固執する傾向があるもので、A国での研修でも注意するよう指導を受けたのですが、なかな悪い癖は治せないようです」

 博は、彼を見直す気になった。間違いに気づいて、素直にそれを認めることが出来る人間は、これからも成長して行けるだろう。

 博と空は彼の謝罪と見舞いの品をありがたく受け取って、仕事に戻る久保刑事を見送った。


「これは、バラとカーネーションとトルコ桔梗ですね。優しい色で可愛いです」

 空は、久保が置いて行ったピンクと白の花のアレンジメントを、嬉しそうに見ながら言う。その指先は、1つ1つの花を撫でるように触れていた。

「多分、彼のポケットマネーで用意したんでしょうね。そもそも、こういう場合、経費では・・・」

 そこまで言って、博はハッと気づいたように手を額に当てた。

「ああ・・・しまった・・」

「え?どうしました?」

「今、気が付きました。僕はまだ、君に一度も花を贈ったことがありませんでした・・・」

 何故、思いつきもしなかったのだろう。彼女が、花を好きな事は知っていたのに。何だか、途轍もない失敗をしたような気分になる博である。

「・・・決めました。君が支局に戻る日は、僕たちの部屋を花でいっぱいにしておきましょう。そうですね、ベッドにも沢山花を散らして・・・」

 こういう時、博は目いっぱいロマンチストになるらしい。けれど空は、全く別の事を考えていた。

(その花の世話や、花を楽しんだ後の掃除は、支局の清掃スタッフがやってくれるのでしょうか)

 自分がやりたくないわけでは無いが、やるとしたら相当時間を取られる作業になりそうだ。けれど現実的な頭の中を言葉にはせず、空は取り敢えずニッコリと笑っておいた。


「それで、こっちの袋の中身は何でしょう?」

 博は久保が置いて行った紙袋を、ベッドの上に置いた。そこそこ重いので、彼女の身体の横に置くが、どうやら中身はフルーツのようだ。柑橘系の匂いがする。

「・・・オレンジと・・・レモン?」

 空は紙袋から、橙色と黄色の果実を1つずつ取り出した。紙袋の中には、まだそれぞれが数個ずつ入っている。

 病院へ見舞いの品を持って行く場合、花束や果物は定番だが、オレンジは解るとしても、レモンとはいかがなものだろう。

「・・・ビタミンCは豊富そうですね」

 博は取り敢えず、思いついた感想を述べてみる。

「食べた方が良いのでしょうか?」

 もうそれだけで、酸っぱそうな顔になる空だ。

「ビタミンカラーは元気になる色だと言いますから、飾っておいても良いかもしれませんね。それとも、花さんにこれで何かを作ってもらっても良いですね」


 それにしても、久保刑事は何故オレンジとレモンを持って来たのだろう。

 単なる予算の関係かもしれないが、今度会ったら聞いてみようと思う博だった。


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