4 Hush a bye baby
Hush a bye baby, on the tree top,
When the wind blows the cradle will rock;
When the bow breaks, the cradle will fall,
And down will come baby, cradle and all.
その翌日、博は午前中のデスクワークを急いで終わらせると、本部のヘンリー・ハイマン氏に電話を掛けた。教授と言うニックネームで呼ばれる彼は、博の師でもあり犯罪心理学について語り合う同士でもあった。昨日久保刑事からその名前を久しぶりに聞いて、意見を聞いてみたいと思ったのだ。
「お久しぶりです、教授。前回の研修では、大変有意義な時間をありがとうございました」
「やあ、博じゃないか。こちらから、連絡しようかと思っていたところだよ。例の、連続猟奇殺人事件のことだろう?」
挨拶の言葉も省いて、教授は単刀直入に会話を始めてくれた。
「はい、その通りです。こちらでの2つの事件については、もうそちらに報告が入っていると思いますが、教授はどのようにお考えですか?」
「ふむ・・・博は、どう考えているのかね?」
「そうですね・・・先ず、こちらで先に起きた女性の殺人事件に関しては・・・」
博は、口頭試問を受ける学生のような気分で、慎重に言葉を選んで答えた。
女性の殺人事件では、遺体に対する扱いがA国の被害者とほぼ同じであるため、同一犯では無いかと考えている。マスコミ発表されていない、卵巣を取り除いたことと、凶器が医療用メスであったことから、模倣犯ではないと考えられた。
「ただ、事前にかなり詳しく被害者の事を調べたようです。こちらでは、売春婦もいないわけではありませんが、A国のスラム程多くは無いんです。行き当たりばったりで、見つけるのは難しかったのかもしれません」
「そうだね・・・そうすると、犯人は土地勘も無くて、もしかしたらあまり日本語に慣れていない可能性もある。見た目も日本人離れしているとすると、そっちではそれなりに人目を引くのではないかな?」
教授の指摘に、博は成程と何度も頷いた。確かに人種の坩堝と言われるA国よりも、こちらの方が目立つかもしれない。
「後は、やはり誰もが考えるように『母性』に関する憎しみを感じます。或いは、狂的な崇拝でしょうか。膣口に差し込まれた医療用メスは、出産に対するものなのか、性交に関するものかは判断できませんが・・・そして、医療用メス・・・扱いに慣れている人間かもしれません」
博の答えに、教授は満足そうな声で答えた。
「今のところ、女性たちの事件に関してはその程度までしか言えないようだが・・・そうなると、昨日の男性の事件はどうなのか?という話だな。博はどう考えるかね?」
「先ず、同一犯かどうかです」
博は自分の考えを述べ始めた。言葉にすると、頭の中が整理されてゆくように感じる。
犯人は連続猟奇事件とは別人だとすると、模倣犯と言う事も考えられる。或いは、猟奇事件に触発されて、それまで抑えていた衝動が発現してしまったという場合もあるだろう。
同一犯だとすれば、新たに男性に対する憎しみが生まれた、としか今のところは考えられない。
「いずれにしても、まだデータが揃わない感じです」
ひと通り自分の考えを話すと、博は最後にそう言って締めくくった。
「君の言う通りだな。いずれにしても、まだデータが不足している。データを増やすには、今後の捜査に掛かっている。頼りにしているよ、局長」
ハイマン教授は、最後に笑みを含んだような口調で言う。
「はい、ご期待に沿えるよう努力します。ところで教授、昨日久保刑事に初めて会ったのですが・・・」
「ああ、久保明彦君だね。先日、こちらに研修で来ていた。真面目で勉強熱心だったな。犯罪心理学の中でも、小児期の虐待がもたらす犯罪について学んでいたよ。こっちの方が、それに関するデータは豊富なのでね」
「成程、こちらでの捜査では彼と関わることが多くなりそうです。ところで、教授。まだ少しお時間をいただけるなら、伺いたいことがあるのですが」
博は、ふと思いついて彼に聞いてみることにした。
「ああ、大丈夫だよ。何かね?」
「小児期にネグレクトを受けていた場合、感情に蓋をするように様々な事を感じなくなる、というケースですが・・・」
「ああ、確かにあるね。解離性同一障害を伴う事が多い。ただ、判断を下すのはとても難しい。まず最初に確認すべきことは、感じなくなるのに要した時間かな。ある時期を境に急に、と言う事なら2つの場合があると思う。1つはそうなる程の重大な事件があった場合、もう1つは強い暗示を掛けられた場合だ。暗示については、自己暗示とも考えられるが、その場合は小児の年齢や知能程度を考慮したければならない」
教授はそこまで話して、考えるように少し時間を置いた。
「参考になる資料を送ろう。様々なケースがあるから、勉強すると良い」
「それはありがたいです。よろしくお願いします」
博は教授の好意に感謝をすると、また連絡することがあるかもしれません、と言って通話を切った。
解離性同一性障害、いわゆる多重人格のことだ。
空に関しては、それは当てはまらないと思う。幼児期からずっとネグレクトを受けて育った彼女だが、一緒に暮らし始めてもう長いこと経っている。仕事上でも随分酷い目に遭った彼女だが、その間も後も、別の人格が現れるようなことは1度も無かった。そして殆どの時間、夜も傍にいて時間を過ごしている。
(空が多重人格である可能性は低いです。そうなると・・・)
博は、もっと彼女の事を知らなければならない、と思う。そして、教授から届けられる資料でしっかりと学ばなければ、と決意した。
その日の午後、警視庁の久保刑事から、詳しい話を聞きたいので、菊知捜査官に来て欲しいと言う連絡が入った。一応、遺体の第1発見者になるのだから、当然の事だろう。
「それでは、行ってきます」
昨日の体調不良はすっかり消えたようで、空は外出着に着替えると博に告げる。
「ああ、車で行くのですか?」
「いえ、お天気も良いですし、近いので歩いていきます」
微笑む彼女の表情は、穏やかで素のものだ。博は少し安心して、気を付けて行ってらっしゃいと言葉を掛けた。
取調室に通された空は、簡素なテーブルのパイプ椅子に腰を下ろす。目の前には、久保刑事が座った。昨日、彼が博に挨拶する様子は見ていたが、こうして対面で話すのは初めてだ。
「お忙しいところ、お呼び立てしてすみません。昨日の猟奇殺人事件について、お話を伺わせてください。先ずは、闇カジノの出入り口から離れて歩き出したところから」
淡々と無表情で話す久保刑事に、空はハイと答えて、詳しく且つ要領良く話す。
「・・・最後に、2人分の足音を聞いた、と。・・・確か、貴女は聴覚障碍者で、しかも体には遺体が覆いかぶさっていたはずですが?」
刑事が質問を投げる。
「耳で聞いたわけでは無く、地面を伝う振動を察知したと言う事です。2人分と解ったのは、足音の重さが違ったからです。走ってその場を離れてゆくようで、振動の間隔から歩幅を推定すると、男性2人ではなかったかと思います」
空の答えに、久保は考えた。
(振動だけで、そこまで解るものなのか?)
例えば、犯人が偽証をする場合、真実と真反対な事を口にする場合は多い。人数にしろ、性別にしろ。
しかも、あの事件現場で彼女を見た時、妙な違和感を感じた。確かに経験を積んだ捜査官なら、あれほど血まみれになっても落ち着いていられるのかもしれないが、それでも不思議なくらい彼女は平静を保っていた。まるで血ではなく水を浴びたくらいの様子で。
久保刑事の中に微かに生じた疑惑が、徐々に膨れあがってゆく。
遺体発見時は、まだ死後硬直も始まっていなかった。殺害後、臓器の取り出し時間を考慮しても、彼女には実行できる時間がある。1時間くらい歩いていたと言っているのだから。
「見回り中に、不審人物などはいなかったのですか?」
「いませんでした」
歩いた範囲内には、不審な人物も物体も発見しなかった。淡々と答える空に、久保刑事は疑いながら考える。他の見回りに当たっていた者や非常線を張っていた警官からも、不審者の情報は入っていない。彼女が犯人でないのなら、彼らはどこに消えたと言うのか。
そして彼は、A国での研修期間に親しくなった捜査官から、たまたま聞いた話を思い出していた。
「そうですか、ありがとうございました。先ほど解剖結果が出まして、支局にも報告はしましたが、ついでにお伝えしておきましょう」
久保刑事は、心中の疑惑を隠し、変わらぬ態度で話を続けた。
男性の身元は、直ぐに解った。近くの繁華街にあるゲイバーのホストで、近所でも評判の悪い男だった。性的被害に遭った若い男性が多いらしい。当日の足取りは捜査中だが、あの倉庫に呼び出されたのだろう。殺害現場は倉庫内で、直接の死因は胸部の傷だと言う事だった。
「頸部に絞められた痕跡がありまして、細いチェーン状のもので昏倒させられたようです。この痕跡は、その前の猟奇殺人事件の被害者である女性の首にあったものと一致しています。同一犯の可能性が高くなってきました」
被害者の性別は変わったが、内容的にはかなり似通っていると解ったのだ。
空は、特にそれに関する発言はせず、軽く肯くだけだ。
「そう言えば、研修先のA国FOI本部で、貴女の噂を聞きました。ご活躍の事や・・・それ以外にも。それについて、聞きたい事がありますが、良いでしょうか?」
空にとっては、それが事実なら何も隠すことは無い。今までもずっとそうで、それは現在も変わっていないのだ。
「はい、構いません」
空の返事に、久保刑事は単刀直入に質問を投げた。
「貴女が子供の頃、ネグレクトを受けていて、大学生の頃に父親からレイプされたと言うのは、本当の事ですか?」
「はい」
表情や態度、口調に僅かでも変化は無いか、と注意して聞いていた久保刑事だが、空は全く変わらない様子であっさりと肯定の返事をする。
そんな彼女の返事に、寧ろ久保は拍子抜けしてしまった。けれど、この機会を逃したら、次にFOI捜査官である彼女と話せる時間は、そうはないだろう。はっきり容疑者と断定できれば、話は別だが。
久保刑事は長い時間をかけて、彼女の過去に付いて質問を続けた。
気が付けば、すっかり夜になっていた。菊池空という人物に対する疑惑は、ますます膨れ上がるが、これ以上長く引き留めることも出来ない。
久保刑事は、空に型通りの礼を述べて、彼女を開放した。
空が廊下に出て通路を歩いてゆくと、博と真が駆け寄って来た。
帰りの遅い彼女を心配して、迎えに来たのだろう。2人とも難しい顔をしているところを見ると、詳しいことは何も聞かされないまま待たされていた事が解る。
「空、遅いので迎えに来ましたよ」
優しい博の言葉に安心して気が緩んだのだろうか、ふいに空が口元に手を当てて俯いた。
「・・・どうしました?大丈夫ですか?」
空の喉が、くぐもった音を立てる。吐き気を堪えていると解った真は、急いで彼女の身体を支えてトイレに向かい、近くを通りかかった女性警察官に付き添いを頼む。廊下に立つ博と真は、待つ以外ない。
「真っ青でした・・・発見時の話を聞くには、長時間過ぎます」
「・・・何があったんだよ。ちょっと、久保って奴に話聞いて来るわ」
真は怒ったような態度も露わに、奥に走ってゆく。丁度取調室の片づけを済ませた久保刑事と出会った真は、詰問するように話をしていた。
そこに漸く落ち着いたらしい空が、女性警官に支えられるようにしてトイレから出て来た。
「大丈夫ですか?」
「あの、医務室の方にお連れしましょうか?」
博の言葉に、親切そうな女性警官が提案するが、博は空の様子を窺うとそのまま彼女を抱き上げた。
「いえ、支局の医務室に連れて行きますから」
空は珍しく、強がりの言葉さえ出さずに大人しく抱かれている。それだけの気力も無いのか、と更に心配になる博は、真を呼んで急いで支局に戻った。
「すみません、またお手数をお掛けしました・・・何だか、病弱な人になった気分です」
支局の医務室のベッドで、大分気分が回復した空は申し訳なさそうに言った。
ふみ先生の話では、精神的ストレスでは無いかと言う事だったが、確かに彼女はこのところ体調不良になることが多い。
「真から聞きました。過去の事まで聞かれたのですね」
「はい、以前はそれを話しても何ともなかったのですが・・・今回は・・」
以前、と言うのはあの晩の事だろう。心神喪失に近い状態だった空を保護して、彼女の両親や幼い頃の事、そしてその両親が亡くなった時の出来事などを全て話してもらった時の事だ。
そしてそれは、彼女を初めて抱いた夜だった。
「あの時から、空自身が随分変わりましたからね。そのせいかもしれません」
博は起き上がった空の頭を撫でながらそう言うと、彼女の細い身体を支えて一緒に部屋に戻った。
「夕食はとりましたか?」
博の問いかけに、空は薄っすらと笑みを浮かべながら答えた。
「いいえ、その機会はあったのですが断りました。少しでも早く帰りたくて・・・でも断らなければ、何を食べさせてもらえるのかが解りましたね」
ドラマなどではカツ丼が出てくる事が多いそうだが、それを確かめるいい機会だったかもしれない。
そんな事を言う空は、大分気持ちも切り替えられたように見えた。
「そんなことかもしれないと思って、花さんに相談したら作って置いてくれたんですよ。生憎カツ丼じゃありませんけど、近頃あまり食欲がないようだから消化が良いものをと・・・」
お粥ですけどね。博はそう言って冷蔵庫から、小さめの丼を出す。
「今、暖めますから、少しでも食べなさい。吐き気は収まったのでしょう?」
正直、空に食欲は全く無かったが、少量なら食べられそうな気がしたのでハイと答える。
やがて空の前に、梅干しとほぐした塩鮭と佃煮が少量ずつ乗ったお粥とレンゲが置かれた。
「食べられる部分だけでも良いですから、ね?」
ホカホカと湯気を上げる夜食を、空は少しずつ食べ始めた。
ベッドの中でウトウトし始めた空を腕の中に囲いながら、博はその耳元で優しく囁いた。
「空・・・君の心の中は、どんな感じなのでしょう?」
「・・・心・・の中?」
「ええ、心象風景とでも言うのでしょうか。例えば部屋だとすると、どんなイメージになりますか?」
博は、ゆっくりと優しく、静かに言葉を紡ぐ。
「・・・部屋・・・・」
眠そうに途切れがちな声だが、それでも空は目を瞑ったままでイメージしているようだ。
少しして、彼女は呟くように単語を漏らした。
「容器・・・蓋・・・沢山・・・」
「蓋のある壺、みたいなものですね。それが沢山・・・どこに置いてありますか」
「・・・床・・・」
「他には、何かありますか?」
博は、カウンセリングを行うように問いかけてゆく。彼女が1番安心して無防備でいられる場所は、彼の腕の中しかないと解っていた。
「・・・扉・・・奥に・・」
「何色ですか?材質は何でしょう?」
「灰色・・・木の扉で・・・彫刻が・・・」
「何の彫刻ですか?」
「・・・鳥・・・」
博は、1つ疑問が解けたと思った。
「その扉を開けられますか?」
「・・・いいえ・・・開けては・・いけない・・・近づくのも・・」
空はそこまで呟いて、瞼を上げた。
半分寝ているような状態で、けれど視線は真っすぐに彼を捉えている。
「何故か、解りません。中に何があるのかも・・・でも・・・絶対に開けてはいけない・・・と・・・」
そこまで言って彼女はそのまま、ストンと眠ってしまう。
博はそんな彼女の額にキスを落とすと、いつものように優しく囁いた。
「空、おやすみなさい」
そして彼は考える。
(・・・『開けてはいけない・・・と・・』ですか。誰かにそう命じられたような・・・)
そんな開けてはいけない扉は、彼女にとって、灰色の鳥の彫刻がある扉のイメージなのだ。
(ビートが、彼女の扉としての存在でもあるのなら・・・)
ビートが撃ち落とされて死んだかと思った時の空の様子は、本当におかしかった。それは扉が無くなったと言う事なのかもしれない。扉が無くなることは、彼女にとって自分自身をシャットダウンさせるほどの重大な出来事なのだろう。
扉の向こうにある物は、いったい何なのだろうか。
それを知るには、まだまだ調べるべき事が沢山ある。
博は、腕の中で安心して眠る彼女を、もう1度そっと抱きしめた。
大丈夫、僕はここにいますよ、と。