2 Hey diddle, diddle
Hey diddle, diddle
The cat and the fiddle,
The cow jumped over the moon;
The little dog laughed
To see such sport,
And the dish ran away with the spoon.
FOI日本支局の次の仕事は、本部からの依頼だった。
駐日A国大使夫人が主催するパーティーの警備で、招待される主賓の本国が政情不安のためだと言う。
依頼を受けた支局は、まず博の説明から始まるミーティングを行った。
「パーティー会場は、今回は大使館ではなく、Y市にある『旧M家住宅洋館』です。文化財に指定されている洋館ですが、パーティー会場などにレンタルしているようで、今の時期は秋薔薇が見頃を迎えているそうです。ですので庭園も警備対象になります。本来でしたらうちに依頼が入るほどの警備は必要ないのですが、今回は少し事情が違っているようです」
マランタ王国の第4王妃であるラセナテ殿下が来日していて、今回のパーティーは彼女が主賓となっていた。マランタ王国はその名の通り王制を布いているが一夫多妻制で、現国王ノクロン3世は第5王妃まで娶っている。太平洋上に浮かぶ小さな島国で、火山島だが近年領海内で海底熱水鉱床が発見され、レアメタルの産出国として注目されていた。
しかし内政面ではかなり危うい状態で、国王に対するクーデターが今にも勃発しそうな空気を醸し出している。それには、レアメタルの利権を入手したくて、水面下で暗躍する組織や大国の思惑もあるのだろう。
ノクロン3世は、政治的には無能の部類に入りそうだが、国庫は豊かで相当に贅沢な生活を送っているようで、その王妃たちも何不自由なく暮らしていた。
今回の第4王妃の来日も、贅沢な海外旅行程度のニュアンスらしい。取り立てて政治的な意図はないが、一応礼は尽くしておかなければならないのが政治的駆け引きというものなのだろう。
「そんな訳で、それほど堅苦しくはないけれどイブニングのパーティーになりますから、邸内に入るのはうちのメンバーのうち4人だけになります。あとの4人は庭園と洋館周辺の警備を、警察と協力してやって貰う事になります。それで、役割分担なんですが・・・」
博には支局長宛てで招待状が来ていて、こういう場合彼は視覚障碍者で通しているためアテンド役を伴う。当然ながら、それは空の役目だ。それ以外の2名の捜査官は、パーティースタッフとして邸内に入ることになっていた。
「スタッフの方は、エディとジーナにお願いします。他が皆A国人なので、その方が自然でしょう。エディが配膳スタッフで、ジーナはコンパニオンという役どころですね」
博の言葉に、ジーナは少しつまらなそうな顔になった。パーティードレスが着られないのが残念らしい。ハニートラップ要員を卒業して支局に来てからと言うもの、パーティーの類とは縁が無くなっているのである。
(でも、まぁ・・・空のドレス姿は見れるから、イイか)
アテンド役でもパーティーに参加している形なのだから、雰囲気を壊さない程度にはドレスアップするだろうと思い、自分を慰めるジーナだった。
そして捜査官たちは、昼過ぎには洋館に到着して準備を始めた。
ジーナはコンパニオンの制服に身を包むと、そそくさと空の控室に向かう。
化粧やドレスの着付けを手伝えれば、と思ったのだが、ドアの前には既に博が待っていた。
「・・・随分支度が早いのね。テールスーツじゃなくてイイの?」
正式なイブニングのパーティーでは、男性はテールスーツなのがマナーだ。
「ええ、肩書がFOI日本支局の局長ですからね。仕事中ですから、これで良いと大使夫人から許可を貰いました。お陰でとても楽です」
何となく嬉しそうに答える博は、高級そうではあるが黒のスーツ姿だ。背が高く姿勢が良いので似合うのだが、黒のサングラスと白杖でしっかりと視覚障碍者を表に出している。そんな彼を見て、ジーナはふと心配になった。
「ねぇ、まさかと思うけど、空もスーツじゃ・・・」
と言いかけたところで、控室のドアが開いた。
「すみません、お待たせしました」
そう言って出て来たソラは、濃い青のアオザイを着ている。胸に水色の刺繍が入っていて、髪をアップにしていた。
「・・・ああ、良かった。うん、似合ってるけど・・・露出度が低すぎない?」
アオザイは女性の身体を1番美しく見せる服だと言われているが、スラリとした空の体形にピッタリ合っていて一段と素晴らしい。けれど、長袖でハイカラーなので肌は殆ど出ていない。
「はい、ですので髪を上げました。多少は違うと思います」
空は優れた皮膚感覚で空気の流れを読み、聴覚障害の不利を補っている。そのための、髪型の変更なのだ。それで少し支度に時間が掛かってしまった。一応、礼儀として薄化粧をしルージュだけはちゃんと引いている。
(いや、そう言う意味じゃないんだけど・・・)
ジーナは空の、相変わらずの任務優先の思考に少し呆れるが、確かにその方が彼女らしくもある。
「あ~~、まぁ仕事だもんね。・・・目立っちゃ拙いわよね。でもそんなドレス、持ってたんだ」
それでも、美しい彼女の姿が見れたから良しとしよう、と思ったところでジーナは疑問を口にした。彼女は自分の服装にも関心が無かった筈だが、これは自分で選んだのだろうか。
「これは、以前アンジーがプレゼントしてくれたものです。任務でこういう服が必要になる時もあるから、と」
「アンジー・・・って?」
「アンジェラ・リッチモンド、本部の人事部長ですよ。知っているでしょう?彼女は空を、妹のように思ってくれているんです」
ジーナの質問に、博が変わって答えた。ジーナは、アンジーが博の元恋人だったことも良く知っている。日本に来る前、博に惚れて彼の事を調べた時からだ。
(・・・アンジェラかぁ・・・昔、惚れそうになったことがあったっけ)
凛々しくてカッコいいリッチモンド人事部長に、憧れた時期もあったジーナである。それにしても、世間は狭いと思いながら、ジーナはスタッフの集合場所に向かった。
博と空が、階下へ降りてゆくと大使夫人が待っていて、2人を別室に案内する。あまり人に聞かせたくない話があるらしい。壺や銅像、小さめの彫刻などの美術品が並ぶ廊下の奥の小さな部屋に3人は入った。
「幾つか、耳に入れておいて貰いたい話があるのよ」
A国駐日大使夫人は、気さくで明るい婦人だった。話し方も、きっと普段はこうなのだろう。
「主賓のラセナテ殿下だけど、彼女は元々平民の出で、振る舞いとかは王族っぽくないからそのつもりでいてね。事前にお知らせしたことで、変更があるのが2点あるの。招待客であるイギリスのミルズ氏は体調が思わしくないそうで、奥様とご子息が代理で来て下さるわ。後はコンパニオンが1人、急病で替りの人に来てもらっています」
コンパニオンの方はこの後自分で確認に行く、という大使夫人は行動力も責任感もある女性だった。
やがてほぼ定刻通りにパーティーは始まり、特に何事もなく予定通りに進んでいった。主賓の第4王妃は、大使夫人の言った通りの様子だったが、それなりにパーティーを楽しんでいるようだ。
暫くして、大使夫人が博の元にやって来て困ったように小声で話しかけた。
「この後、30分くらいしたらダンスタイムなのだけれど、コンパニオンが1人体調を崩しちゃって、女性パートナーが足りないの。もし出来るなら、そちらの捜査官さん・・・菊知さんって仰ったわね、貸していただけないかしら?」
ダンスタイムは短めにする予定で、曲もワルツくらいだから、と頭を下げる大使夫人に博は恐縮する。
「それは構いませんが・・・空、大丈夫ですか?」
傍らに控える空に問いかける博だが、懸念することは2つあった。先ず、彼女はダンスを踊れるのかと言う事と、男性と密着することが怖くは無いかと言う事だ。けれど空は、穏やかに微笑んで答えた。
「大丈夫です」
そして彼にだけ聞こえるような小声で、そっと付け加えた。
(訓練済みなので踊れます。短時間なら感覚制御で怖さも抑えられます)
「ありがとう。それじゃドレスもダンス用に着替えてね。コンパニオン用に準備したのがあるから」
大使夫人は大喜びで、空の手を引いて会場から出て行った。
制服からドレスに着替えたコンパニオンたちが会場に入ってくると、ダンスタイムが始まった。ご夫婦で踊る招待客もいたが、相手がいない男性たちはコンパニオンとダンスを楽しむ。それらの中には、空とジーナも入っていた。
ジーナは、彼女にしては大人しめなデザインの赤いドレス姿で、それでも生き生きしてと楽しそうだ。空の方は、多分本人は不本意なのだろうが、ふわふわとした薄い緑色のドレスに身を包み、髪とドレスに飾られた花を揺らして軽々と踊っている。
ジーナのコケティッシュな魅力と、空の羽のように軽く踊る慎ましやかな姿に、招待客は次々とダンスを申し込んでいた。けれど博は、彼女の表情が営業用の『穏やかな笑み』を張り付けているだけと解っているから、気の毒にしか思えない。そして同時に、いつか彼女とワルツを踊りたいという想いも芽生えていた。
ダンスタイムが終わると、人々はライトアップされた庭園に出たり、室内で会話を楽しんでいた。コンパニオンたちも、もちろん空とジーナも着替えに行き、再び元の仕事に戻る。
そしてそろそろパーティーも終わろうかとする時間になった時、大使夫人が慌てたように博を呼びに来た。廊下の奥に、招待客であるミルズ夫人が蒼い顔をして立っている。
「ミルズ夫人のご子息が、見当たらなくなってしまったんですの」
博と傍に控える空に向かって、大使夫人は困ったように言う。
「ダンスの後、いつの間にかいなくなってしまって・・・庭に出ているのかと思っていたのですが、探して貰っても、どこにも居なくて・・・」
ミルズ夫人は、眉をきつく潜めて唇を噛み締めた。幼い子供ではあるまいし、もう立派に成人している息子の姿が見えないからと言って、ここまで騒ぐこともないだろうと思われるが、どうやら何か事情がありそうだ。
「ご子息のお荷物などは、お預かりしているのでしょうか?それと、この警備の中、出て行くとしたら誰かに見られている可能性も大きいです。空、真と連絡を取ってください。それと、ジーナにもここに来るように、と」
博の落ち着いた発言に、ホッとした大使夫人は2階の控室へ博と空そしてミルズ夫人を案内する。幾つか用意されていた控室のうちの1つ、招待客の上着や私物を預かっている部屋につくと、連絡を受けたジーナがやって来た。
「何かありましたか?局長」
集まっている人々の雰囲気を察して、ジーナは捜査官モードに入る。博は簡単に状況を説明し、ドアを開けて室内に入った。
部屋の壁際には、名札が付いた上着がずらりとハンガーに掛かって並べられている。幾つかのバッグも、同様に棚に並んでいた。ミルズ夫人は、直ぐにそれらを調べてゆく。
部屋の中央には、テーブルがある。博と空は、そこに歩み寄ると、置かれているものを眺めた。
真ん中に大きな月の模様が描かれたスカーフが広げられ、その上に小さな牛の銅像が置いてある。
そしてその手前に、スプーン1本が乗った大きな皿が1枚あった。
「息子がさっきまで来ていた服があって、バッグがありません。小型のボストンバッグを持ってきていたはずなのですが」
ミルズ夫人の言葉に、博は頷いて彼女をテーブルに呼び寄せ、上に乗った品々を示すように黙って手を向けた。
「解りました。お騒がせして、申し訳ありませんでした。もう結構です」
やがてミルズ夫人は、その場にいた全員に頭を下げ、表情を引き締めるとまっすぐ前を見て部屋を出て行った。何か、困難なことに立ち向かうような、決意を秘めた表情だった。
やがてパーティーは無事にお開きとなり、招待客たちは帰ってゆく。捜査官たちは警備の後片付けなどでまだ忙しい。博と空は庭園の中で、彼らを待っていた。
そこに、早々と着替えて上手いこと片付けの場を抜け出してきたジーナと、ひと段落したらしい大使夫人がやって来る。
「お疲れ様でした。警備、ありがとうございました。ところで・・・」
大使夫人はお礼を言うと、先ほどのミルズ夫人の一件について説明を求める。博は、軽く肯いてゆっくりと口を開いた。
「マザーグースですよ。ミルズ夫人とご子息は、イギリスの方ですからね。あの月・牛・皿とスプーンは、ご子息から夫人へのメッセージでしょう」
そして彼は、歌を口遊む。
Hey diddle, diddle
The cat and the fiddle,
The cow jumped over the moon;
The little dog laughed
To see such sport,
And the dish ran away with the spoon.
優しいテノールが、静かな庭園に流れた。
「歌詞の中の、ran away with は、駆け落ちと言う意味もあるんです。ご子息は、このパーティーでそれを実行するために、品物や着替えの服を用意していたのでしょう」
そこで、ジーナが口を挟む。
「あ、そう言えばダンスの時、1組だけ雰囲気が違うカップルがいたわ。男性の方がご子息で、相手は今日交替で来たコンパニオンだったわ」
ダンスの相手をするのに忙しくても、ジーナはしっかりと周囲を観察していた。その2人は、想い合う恋人同士のように、優しく暖かく相手を見つめ寄り添うように踊っていた。
「そのコンパニオンが、駆け落ちの相手でしょう。おそらくその交代も、計画されていたのではないかと思います。コンパニオンなら、皿とスプーンを邸内で用意するのは簡単でしょう。ご子息は、あの月の模様のスカーフだけを持ってきたのではないかな。荷物になりませんからね。そしてあの牛の小さな銅像は、廊下に飾られていたものの1つです」
最初は、月・皿・スプーンでメッセージを作るつもりだったのだろう。他に牛・猫・バイオリン・犬などもあれば良かったのだろうが、用意するのが難しかったのではなかろうか。けれど、たまたま小さな牛の銅像を見つけたので、使わせてもらったのだと思う。
そんな彼の説明に、大使夫人は少し考えてから口を開いた。
「ミルズ夫人は、そんな予感があったのかもしれません。彼女がこれからどうするのか解らないけれど、それは私たちが口を出すことではないわ」
彼女はそう言って、少し寂しそうに微笑んだ。
警備の仕事を全て終えて、捜査官たちが帰局した時には、真夜中を過ぎていた。
皆かなり気疲れしているようなので、直ぐに解散しようとした博だが、警察と本部から連絡が来ていた。それほど緊急なものでは無かったが、博は一応全員にその内容を伝える。
先日A国で起きた2件の猟奇殺人事件、切り裂きジャックの再来とA国内で騒がれているそれらと同じような女性の遺体が、昼過ぎに都内で見つかっていた。
陰惨な遺体の状況は同じだが、女性の身元はまだ不明で、詳しい解剖結果などは後日警視庁から連絡が来るようだが、本部の方からはこの件に関して調査をするようにと言う依頼だった。
明日からは、その仕事に忙しくなるだろう。捜査官たちは、明日に備えて早々に自室に引き取った。
博は自室に入ると、早速着替えようとする空を止める。
「空、もう少しそのままで・・・」
服はアオザイだが、ダンスの前に追加されたらしい化粧のせいで、まるで別人のように見えている。女性の美と色気を前面に押し出したような感じだ。
「こういう姿も、新鮮です・・・」
博は彼女の腰に手を回し、正面から間近にその顔を窺った。
「・・・新鮮と言えば、私は初めて博の唄を聞きました」
吐息が掛かるような距離で、空の唇が囁きを漏らす。
「そうでしたか?・・・そうかもしれませんね」
唄に限らず、音楽の話もしたことは無かった。それは彼女の耳が障害を抱えていることを知っているから、無意識に避けていたのかもしれない。
「空は・・・音楽などは、どのくらい認識できるのですか?」
この際なので、ちゃんと聞いておこうと思った博だ。
「言葉や他の音と同じように、認識は出来ます。ただ、それを楽しむまでには至りません」
微妙な音色の違い、曲から与えられる様々な感情などを受け取って、それを楽しむことは出来ないのだという。
「音の強弱やリズムで、ある程度曲名は解りますが・・・それでも、博の唄は何となく気持ちが良いように感じました」
空は自然な笑みを浮かべて、そう答えた。
「ありがとう・・・君が自分で歌う事も無いのですか?」
博はこみ上げてくる嬉しさを笑顔に乗せて、更に問いかけてみる。
「はい・・・そもそも、自分が認知する自分の声と、それが人の耳に聞こえた時の声は違いますから」
自分の声は、発した時に生じる振動が頭蓋を伝わって耳から入る振動に加わるものだ。録音した自分の声を聞いて、どこか違うと感じることは多い。
「それに、知っている曲は耳が聞こえなくなる前の記憶しかありません。思い出して同じように歌おうとしても、それが正しいのか自分では判別できません」
そんな、自分でも正しく歌えているか解らない唄を、人前で歌うことなど出来はしない。そんな風に答える彼女に、無理に歌わせることは出来ないだろう。
「例え間違っていても、僕は聞いてみたいですけどね。でも僕は、僕だけが知っている、君の歌うような声をベッドの中で聞くことができますから」
だから今晩は、このままベッドに入ろう。
自分の歌声の魅力を知らずに唄う鳥のような彼女の声を、喜びと共に聞こう。
博はふわりと彼女の身体を抱き上げると、啄むようなキスを与えながら寝室へと入って行った。