『虚無』
本を開けたらどこから出たのか男が立っていて、彼は自分を『悪魔』だという。
「それでなに? 『願いを叶える代わりに魂を寄越せ』とでも言うの?」
「残念ながら俺にそんな力はない。 ただアンタの傍にいさせてくれれば、アンタは今、アンタを縛り付けている嫌な気持ちからちょっとばかり解放されるだろう」
「悪いけど、持って回った言い回しはウンザリなの」
男と話すよりも大分前から持っていたどす黒い気持ちを、八つ当たり的にぶつける。
声を荒らげたりはしないものの、苛立ちを露にしつつ私がそう言うと、何故か、彼は笑った。
「アンタの怒りや憎しみはとても美味そうだ。 なあ……喰わせてくれよ。 俺は腹が満たされる、アンタは穏やかな気持ちになれる。 それだけさ。 悪い話じゃないだろう?」
「……いいわ、やってみなさいよ」
半信半疑でそう答えると、確かに胸に渦巻いていたモノが軽くなった気がした。先程までの苛立ちは、ない。
それから悪魔はなにをするでもなく、ただそこにいて、時折、私に話し掛けた。教会に礼拝にいく際もついてくるので「大丈夫か」と尋ねると「大丈夫」。
「悪魔も天使もそう変わらない」のだそう。
「ジェーン」
「司教様」
まだ若き司教様は、お貴族様の末子だというだけあり、地味だが高貴なお顔立ちと佇まい。
雰囲気はやや中性的だが、上背はあって意外にもしっかりした体格をなさっている。
真面目で優しく、些か浮世離れした彼はまさに神に仕える者、といった風情。
いつもの柔らかな低い声で、彼は微笑んだ。
「なんだか最近、空気が柔らかくなりましたね」
「……そうですか」
「貴女の祈りが、神に届いたのでしょう」
(悪魔のせいですけどね)
──ああ馬鹿馬鹿しい。
そう思った私は神に祈るのをやめた。
思い返せば欠かさず礼拝に行く私より、私のクソ家族の方が余程イイ思いをしているじゃないか。
「決まってるだろう、神や天使はドSだ。 なんせ、辛さに耐えて尚、誰も憎まず前を向く穢れなき魂が大好きなんだから」
「成程」
私だって、誰にでも優しくありたいと思ったことはあった。愚鈍と揶揄されようとも実直で、少しでも皆の役に立つように、と思っていた頃が。
しかし、明るく振る舞えば馬鹿にされ、優しくすればつけ込まれる。現実はそんなモノだった。誰も私のことなど信用してくれないし、なんなら真実なんて関係がない。
そこに中身などなくとも、真実味を以て上手く語れる者か力を持つ者が勝ち、周囲は勝ち馬に乗る為に口を開くタイミングを図る。
愚鈍な者に求められる賢さは、ただ黙ってやり過ごすことのみ。
沈黙への罪悪感や、ましてや不条理への憤りなどは不要なのだ。
「ねぇ、悪魔。 私アンタの正体がわかった気がするわ」
彼の名はきっと『怠惰』。
あらゆる思考を放棄して、そこに残るもの。
気が付いたら彼はいなくなっていた。
最早私からは感情の起伏などは起こらず、美味しいモノなど得られないのだろう。
(ああ、彼はきっと『怠惰』ではなかった)
今はそんな気がしている。
穏やかな諦念と共に、唯一残った彼の面影をひとことで表すなら、きっとこれが相応しい。
そう思って、重たい瞼を閉じた。