神羅万象愛せよ乙女
人類が月面に降り立った時、彼らが抱いていた希望とは何だったのだろう。大陸間を容易につないでしまう飛行能力を世界に誇示するためであったのだろうか?それとも、まだ見ぬ世界を夢見て探索する好奇心だったのだろうか?初めて月に降り立った人類の感じた興奮は、おそらく誰にも成し遂げられなかったことに成功した優越や、未だ誰も見たことがないものを見たという高揚感、人類が次のステージに踏み出したという達成感、その全てが溶け合い眼前に広がる白い不毛の大地と星の煌めく暗黒の空、そして自らの母なる大地が描き出す光景とともに深く彼らの心に刻み込まれたことだろう。
それも、今や語る人もいない過去の話。かつて不毛であった大地には、惑星間を繋ぐ連絡船の発着基地「アルテミス」が建設されていた。白銀のターミナルには四隻の連絡船が存在している。第一植民惑星「火星」行き直行便「ポルックス」、第二植民惑星「デミ・アース」行き長距離便「レグルス」、送迎用地球往復便「スピカ」、そして国連の一大プロジェクト「ガイア」によって生み出された人工惑星「トリトン」行き直行便「アルデバラン」。ワープ航法を用いて惑星間を自由に飛び回ることができるようになった人類は宇宙探索を進め。二つの植民惑星と人工惑星の創造まで達成してしまった。
しかし、これらの偉業の根幹をなす技術ワープ航法は重大な危険が伴うため宇宙技術のリーディング企業である「ニュー・コスモ」主導で専門教育機関がアルテミスに併設されることになった。空間潜航式高速移動法「S・H・M」の訓練校「アキレス」、ワープ航法を用いた星間連絡船のパイロット育成から各連絡船に指令・情報を伝達する管制塔機能および管制塔スタッフの育成を一手に引き受けた金色の格子を纏った尖塔が現在の月面における中心地である。
〜アキレス〜
地球で民間航空のパイロットをしていたときは、夜に出発して現地の夜に到着するという運行もこなしてきたが、ここは朝も夜も施設内の照明による区別があるだけで外を見ればいつだって星とその間を埋める闇とがいつ見ても広がっている。暖色系の照明と少し暖かな室温によっておそらく午前中であることはわかるが正確な時間は支給の標準時計を見なければわからない。今日は重大な訓練が入っているから寝坊はできないと目覚ましをかけたが、どうやらアラームが鳴るより早く起きてしまったらしい。針はちょうど九十度を指していた。パイロットは疲労が即ち乗客を危険に晒しかねない職業である。地球にいた頃は日頃から疲労を溜めないように生活し、朝は常に活力で満ち溢れるような生活を送ってきたが、今日はその中でも特に気が満ち満ちている。初の空間潜航によるフライトに興奮が抑えきれないようだ。緩い寝巻きを着替え、制服に身を包むと心なしか落ち着いた気がした。パイロットが浮き足立っていると、緊急時に冷静な対応ができずミスを生むことになる。月に来てから既に三年になるが、地球にいた頃の習慣が抜けずに残っていることに自らがプロフェッショナルであるという誇りを感じた。
自室を出て、管制塔のミーティングルームに向かっていると、
「おはようございます。アポロさん。もう朝食は取られましたか?」
「スプートニクさん、おはようございます。まだですね。ミーティングが終わってからいただこうかと。」
今日一緒にフライト行うスプートニクと会った。元は個人で貨物運輸の会社を経営しながら自らも運搬していたらしいが、一念発起して星間連絡船のパイロットを目指したらしい。青い髪にブラウンの瞳で落ち着いた印象を受ける面持ちだが、その行動力は凄まじいものである。私のように航空機のパイロットからの転向はキャリアとしてそれほど珍しくはないが、海上船からは私の知る限り聞いたことがない。おそらく彼がその第一号である。
「実は僕も何ですよ。本当は先に食べようと思ったのですが、緊張でどうも食べられなくて…。」
「気持ちはよくわかります。私も、初めてお客を乗せて飛ぶ日の朝は喉を通りませんでした。」
「お恥ずかしい限りです。今まで一度も人を乗せて運航したことはないものですから、不安でして。」
「そんなことないですよ、誰でも最初はそんなものですよ。長旅の途中で空腹になるのも大変ですから、あとでご一緒しませんか?」
「緊張の解き方も教えていただけると助かります。」
〜アルデバラン〜
「トリトン着いたらまず何しようか。」
「とりあえずホテル着いたら、夕食まで自由行動でしょ。だったら、定番だけどオパール海岸で夕焼け見たいよね。」
「それ名案、この前女優のキャサリン・ゴールドが写真あげてたよね。」
「見た見た、三人で真似して撮ろうよ。」
クラスメイトが通路を挟んだ隣の席で人目も憚らず大きな声で談笑してるのを横目に、マリー・テレジアは大きなため息を吐いた。アルデバランに搭乗するまでカリフォルニア州立セント・マルタ高校の学生たちは、団体客専用の待機ホールにいた。引率の教員たちがアルテミスの職員たちと打ち合わせを行なっている間、学生たちは浮かれた気分で自由な時間を過ごしていた。
「何で、三ヶ月も地球以外の惑星で生活しなきゃいけないのかしら。」
セント・マルタ高校では、年に三ヶ月間二年生全員を対象としてトリトンの学生と交換留学プログラムを行なっていた。人工惑星トリトンは出来上がって既に百五十年になり、トリトンに定住し生計を立てる人々が出てきてから、地球とは異なる文化圏を形成していた。元は、各国の開発使節団を対象とした市場であったが近年ではトリトン開発のコンセプトともいえる、地球環境の再現に焦点が当たり地域一帯を各時代の地球を再現した環境保全区の開発や、各国の文化を再現したモデル都市、そこに併設された大型の観光施設など一大娯楽惑星として発展をしていた。擬似的に作り出された海洋もその実超巨大な水槽であり、水平線が見えるほどの大きな池というのが正しい認識である。合衆国の最近の風潮として、体験型教育に力を入れておりセント・マルタ高校もその流れに乗ってトリトンに作った分校を活用して長期滞在教育を行なっている。
「またそんなこと言って、私たち結構楽しみにしてるのよ。」
「なかなか、惑星旅行なんてできるもんじゃないんだし体験しといて損はないじゃない。」
浮き足立っているクラスメイトに対して毒づくマリーの横でダイアナと金陶は美味しそうに瓶の炭酸飲料を飲んでいる。
「ダイアナに関してはしょっちゅう家族の用事で火星に飛んでるでしょ。」
「火星って本当に何もないのよ。外を見ても一面赤茶けた砂漠だし、風も強いから楽しいことなんてどこにもないんだから。」
ダイアナと金が瓶を空けると同時に引率の教員たちがクラスごとに移動を始めるよう指示を出した。マリーたちも列になってアルデバランに乗船していく。入ってすぐに大きな展望窓がついたデッキに通され各班の部屋わりとルームキーが手渡された。マリーたちはアルデバラン客室棟3階の313号室になった。長い廊下の一番突き当たりの部屋で、マリーは両側から隣室の馬鹿騒ぎを聞くことがないと感じて安堵の息を漏らした。
「本日は人工惑星トリトン行き直行星間連絡船アルデバランに乗船いただきありがとうございます。当艦は間も無くターミナル・アルテミスを出発しワープドライブサークルに向かいます。その後、ワープ航法によってトリトンの衛星トライデントに並走、一度ランディングしターミナル・オリオンから送迎船に乗り換えていただきトリトンに上陸となります。ワープサークルまで三時間、ワープ航法に入ってからは八時間を予定しております。ワープ中は高速航行による次元歪みからくる船酔い対策として入眠装置を利用することをお勧めしております。それでは皆さん、十二時間を超える長いフライトでございますがお付き合いいただけると幸いです。良い旅を・・・」
〜アルデバラン操縦室〜
久しぶりの機内アナウンスを終えて一息ついて、機器の再チェックをする。標準運行のスラスター、問題なし。ワープ航法中のバブルユニット、問題なし。操舵幹の油圧、基準値内・・・。一通りのチェックを済ませ、発進準備に取り掛かる。
「こちらアルデバラン、フライト可能です。アルテミス標準時間6に発進予定です。管制塔、発進許可をお願いします。」
「こちら管制塔アキレス・テンド、モニターしてる限り以上も見当たりません。発進予定通りで構いません。パイロット確認お願いします。」
「ありがとうございます。ファーストパイロットはアポロ・ケーニッヒ、セカンドパイロットはスプートニク・プルシチョフ。」
「確認取れました。監督官はセントール・ブレイクで間違いありませんか?」
「こちらセントール。問題なし、両パイロット共に気合十分だ。」
「了解しました。格納ハッチを開きます。初フライト無事をお祈りしております。」
「最終確認ありがとうございます。定刻となりましたので、発進します。」
スラスタースイッチを有効にして点火、その後に方向機を確認してワープドライブサークルの位置を確認。3、2、1テイクオフ。アルデバランはサークルに向けて大きな巨体を浮かせながら、快調なスピードで月面を離陸した。地球の航空機と違って宇宙空間においては揚力が発生しない。そのため、機体各部についたスラスターを調整しながらサークルを進行方向の中心に据える。
「よし、訓練通りの調整ができているな。緊張しなくてもいい君たちの腕は訓練生の中でも折り紙付きだ。自分の操縦に自信を持っておきなさい。」
監督役のセントールが声をかけてくれた。緊張が顔に出るほどであったのだろうか。肩の力を抜くためにコーヒーをいっぱい口に含んだ。ほろ苦い口当たりに自然と息をつくことができた。
「あとはサークルまで自動運転だが、この間に運転状況をモニタリングしつつ記録をつけておきなさい。自動運転にも癖がある。その癖を頭と体に叩き込んで、不測の事態に備えるようにしたらいい。」
〜客室〜
マリーは部屋についてすぐ、眠りについてしまった。ダイアナと金は部屋に荷物をおいてすすぐに映画館に行ってくると言っていた。まだ戻っていないところを見ると、映画の後どこかでお茶でもしているのだろうか。寝疲れした彼女は、船内を散歩してみることにした。ちょうどワープ航法に移るのだろうか、アナウンスが流れてくる。
「まもなく、ワープサークルに到達いたします。ワープ航法では非常に強い時空歪みが起こります。当艦は時空裏とのギャップ対策として、断層エネルギーによるバブルで包まれておりますが、時空酔いを完全に打ち消すものではありません。入眠装置を用いて睡眠に入ることをお勧めいたします。まもなく、艦内時間も夜に移行しますのでごゆっくりお休みください。」
アナウンスがおわると、艦内照明が薄紫色にかわり室温もやや低くなった。ちらほらと部屋へ帰っていくクラスメイトの中で、マリーは一人展望デッキに向かっていた。ワープ航法中は光速を超えた運行となる。光速を超えた時世界をどのように見えるのか。特に興味があったわけではないが、時間も有り余っていて入眠装置で寝るのももったいない気がしたマリーは誰もいない展望デッキに腰掛けてみた。展望デッキからは依然として光る星々の間を漆黒の闇が充填している。ワープサークルが展望窓を横切っていくと同時に段々と星が点から光り輝く線となって、そしてついには何もない一点の輝きもない闇が目の前に広がった。光速を超えたのだ。アルデバランは光を置いてけぼりにしたまま闇のなかを進んでいるようだった。宇宙の本当の姿はこんなふうに星々の煌めきも人の営みも何もかもが含まれているのに、見ることが叶わない闇の中でしかないと思ってしまうほどに神秘的な光景だった。
「マリー、ワープホール内は次元が違うらしいから私たちの知らない生き物もいるらしいよ。」
いつの間にか、ダイアナが隣に座っている。
「地球にもさ、海溝ってあるじゃん。あそこも光すら届かない真っ暗闇の世界だけど、住んでる生き物がいるんだって。だったら、ここにもいていいのにね。」
「仮にいたとしても、私たちには見ることも触ることもできないよ。」
「バブルの中に入ってくれれば見えるかもよ、一緒に移動してくれれば見えるかもしれないし。」
船内は薄明るいながらも、外にその光を反射する物体がなく、仮に反射しても反射光すら追いつかないスピードの中にいるはずなのに、その静寂の中でマリーは人生で最もゆっくりと時間が流れているように感じていた。それは決して冗長な時間でも苦しい時間でもなく、恐怖のない安らかな闇に自らがその闇に揺蕩い溶けていくようなそんな心地だった。
「さっきバーカウンターを見つけたのよ。」
「私たちはお酒飲めないじゃない。」
「ノンアルコールもあるみたいだったし、私取ってくる。二人とも何にする。」
「私は、カフェラテ」
「私も同じの」
「それじゃあ、カフェラテ三つね。行ってくる。」
ダイアナが展望デッキを出てバーに向かっていく。マリーがその背中を見送っていると、
「聞いてよマリー、ダイアナったら映画館行ったのに最初の十五分だけ見たらすぐ出ていっちゃたのよ。私は最後まで見てたんだけど、終わって出てみたら入り口のところで待ってるの。どうしたのって聞いたら、別にって言ってそこからは一緒に船内をウロウロしてたんだけど、今日のダイアナ変じゃない?」
「あの子はたまに気まぐれなとこがあるでしょ、どうせ退屈になって外で本でも読んでたんだよ。」
〜アルデバラン・コクピット〜
「時空裏内スピード安定しています。航行時間は予定通りで、およそ七時間後にはトリトンの衛星軌道上付近に到達できる見通しです。」
「パラメータセット確認、自動運転モードに切り替えます。3、2、1、スイッチ。自動運転に切り替わりました。」
自律運航人工知能の合成音声がコクピットないに響く。ふぅと少し重めのため息をついてしまった。初めてのフライトで想像以上に神経がすり減っていたようだ。残っていたコーヒーを飲み干し、昼飯をどうしようかと考えていた。
「忠告、進行方向に浮遊物を感知目視による確認ののち速やかな対処を要求します。」
報告内容とは対照的に冷静な声色で人工知能が注意を促してくる。言われた通りに前方を確認するが、それらしい物体は見えない。船底付近のカメラも確認してみたが、特に確認できるものはない。そもそも、時空裏は本来障害物があるような空間ではないし、仮にあったとしても我々が目視することは叶わないはずである。おそらく、この忠告音声は通常航行中に作動すべきセンサーが誤作動を起こしたと判断して問題ないだろう。
「警告、右方尾部に接触物体あり、直ちに取り除いてください。」
明らかな異常事態である。不自然な揺れもなく、運航そのものは問題なく行われている。しかし、報告箇所をモニターしてみると確かにわずかだがバランスが崩れている。船体が少し傾いているだけなら微調整を行えばよいが、万一外装に綻びが起きていたら重大な事故につながりかねない。
「監督官、船体表面に修理ポッドを使って確認に行きたいのですが、許可をお願いします。」
「確かに妙な反応を出している、確認が取れ次第連絡をしてくれ。」
「了解」
コクピットから出て船外活動装備室に向かう、本来なら光速を超えた船外に出るなど自殺行為に等しいが、バブル内にいれば普通の宇宙空間と同一の装備で作業を行うことはできる。簡易的な宇宙服に身を包み、修理ポッドに乗り込むと設定した場所までは艦体表面を滑るように移動し自動操縦で目的地に連れていってくれる。
「目的地付近に着きましたが、特に異物は発見できません。詳細な探索をするべきでしょうか?」
「そこはスラスターと体勢維持の装備でかなりゴチャゴチャしているだろう、一通り確認して異常がなければ帰還しなさい。」
「了解」
修理ポッドを手動操縦に切り替えてスラスター周りを探索してみる。特に異常はない。艦体を覆っているパネルが剥がれているわけでもなく、スラスターが整備不良で緩んでいるようにも見えない。スラスターを一周したところで、艦体表面に繋がっているジョイント部分の下に何か突起が見えた。本来あるはずがない箇所に近づいてみると、それは6メートルに少し足りないくらいの背をした黒いこより型の物体だった。太さは細いところで腰掛ける切り株と同じくらい、一番先の広がったところでは直径2メートル弱といったところだろうか。材質はおそらく金属製だが、詳しく調べてみないと合金であるかどうかはわからない。それは、艦体に突き刺さるようにして立っているが穴を開けた形跡が全く見当たらない。まるで初めからそのようであるかのように、艦体表面と融合している。ポッドから出て直接サンプルを採取しなければ組成がわからないため、グローブの電磁吸着をオンにして艦体表面を這うようにして物体に接触する。その瞬間、金属製であるかのように見えた物体の表面が蠕動し私の腕を引き摺り込んだ。抜こうとしても力が強く次第に体も飲み込まれてしまう。全身が飲み込まれると、外側から圧迫されるように上へ上へと押し出される。そして、広さは4畳半くらいだろうか。私は写真たてと机しかない粗末な部屋にいた。状況が把握できないので通信を試みたがつながらない。完全に隔離されてしまったのだ。とりあえず、出口を探して探索してみることにしよう。
〜展望デッキ〜
マリーと金が談笑していると、ダイアナが3つのカップを持ってやってきた。
「お待たせ、急いで持ってきたから熱いうちに飲もうよ。」
金は受け取るとすぐに口をつけて飲み始めた。マリーは熱そうに何度も液体面に向けて息を吹きかけている。金は満足そうに笑顔を向けて話し出した。
「このカフェラテ香りがすごくいい。何ていうか・・・こう・・・なんか体が包まれているような」
そういうと金はふらふらと前後左右に揺れて首をガクンと垂らした。
「ちょっと金何してんの、怖いよ。」
マリーは金の奇怪な行動に気を取られて、一口目を飲み逃した。
「いいから、早く飲もうよマリー」
「その冗談伝わってないわよ、そろそろやめたら」
そう言って金の肩を揺らすマリー。しかし、金は力なくソファに突っ伏してしまった。カフェオレがコップとともに床に溢れる。
「本当に冗談きついって、大丈夫具合悪いの?」
何度声をかけても応答がなく、金は完全に失神している。
「早く飲みなよマリー」
「何言ってるのダイアナ、金が気絶してるのよ。それどころじゃないでしょ。早く医務室に連れてかないと、ダイアナさっき艦内見たんでしょ医務室に案内して。」
「早く飲みなって、話はそれから」
「ダイアナ、あんたまで冗談言ってるの?金は本当に気絶してる。早く連れていきましょう」
微動だにしないダイアナに不穏な気配を感じ、一歩ずつ距離をとるように後ずさるマリー。
「ダイアナ、なんか変じゃない。あんたも、今気分が悪いってことないわよね。二人はさすがに運べないわよ」
「全然、むしろピンピンしてる」
そう言って、笑顔をこちらに向けるダイアナ、しかしマリーはその笑顔に今まで見たことも感じたこともない恐怖を感じていた。
「あんた、なんか危ない薬でもやってるの。明らかに様子がおかしいわよ。」
「薬なんてやるわけないじゃない、そんなものに頼るなんて心も頭も弱い人間だけよ。」
その一言はマリーが抱いていた一番ありえないと思っていた推測が現実のものであることを証明してしまった。そして、十分な距離をとってマリーはダイアナに語りかける。
「あんた誰、ダイアナは向精神薬を素面の時も使うよなジャンキーよ。口が裂けたって薬なんかしないとは言わない。」
「何者か聞かれても、私は間違いなくダイアナよ。この体も精神も間違いなくダイアナのもの。マリーあなたが想像しているような、擬態する人食い宇宙生命体や精神を乗っとる道の生命体でもない。間違いなくダイアナ自身の思考と肉体よ。」
「全部信じるつもりもないし、仮に信じたとして私の質問には答えてないよね。私はダイアナじゃないあなたは誰かと聞いたの。」
「名前はアンナ」
「何者よ」
「説明しようにも、呼称がないのよ。何せおそらく私しか成功していないし、私しか存在していない。」
「じゃあ、何が目的なの」
「簡単に言えば、こういうこと」
突然金が起き上がり話し始めた。
「私を増やすと言えばいいのかしら。」
「どうすれば、二人を返してくれる。」
「この場で交渉しようとするのは健気だけど、生憎その要求は呑めない。」
「増やすことが目的なら、この船内にいる私たち以外の全てにあなたが入れるように手伝いをするから、その二人だけは解放してくれない」
「それも、マリーあなたも私にしてからやればいいだけ、交渉になってない。」
〜謎の物体の中〜
この部屋の中には小さな女の子が自転車に乗っている横で微笑んでいる女性の写真と、小さな書物机、そして無造作に開かれた状態になった日記と思わしきノートのみで他に脱出に関係しそうな物品は見つからなかった。生物の痕跡はほとんどなく、食物すらおいていない。いたのは白いネズミ一匹、それもこのネズミが排泄した後や食事をした形跡も全く見当たらない。調べられるものと言ったらこの日誌くらいのものなので読んでみることにした。
13 August
「あの子を取り戻すたった一つの冴えたやり方を思いついた。今はこれを頼りに生きてみることにする。」
15 August
「理論上は、この世界は一つの泡のような膜に包まれている。泡といってもすぐ割れるようなやわな構造はしていない、本来この膜を透過するためには1:光速に達する推進エネルギー、2:入り口と出口を設定することで、膜と膜とを繋ぐ擬似的なトンネルとして定義する。3:膜の外側にある高速域に耐えることができる装備、の三点が必要となる。それだけ大掛かりなものは到底個人で用意することはできない。ましてや、ここをクリアしたとして私の計画にはまだ障壁がある。まだ道は長い」
9 December
「膜を突破する方法は見つけた。膜そのものに入り口と出口を設定できるなら、そこに隙間を見出すことも可能であるということになぜ気づかなかったのだろう。私がこの一年行ってきた実験は無駄だったのだろうか。」
24 December
「主よ感謝いたします。このような天啓を与えてくださり、私はこれで報われそうです。」
25 December
「世界の膜をすり抜けるほど小さくすれば、ある程度の加速で十分突破できることがわかった。そして、幸運なことに高速域もこの小ささでは大破するほどのダメージは受けず、風に流される重りのついた釣り針のようにゆらゆらと揺れてそのエネルギーを受け流すことができる。」
3 March
「最後の壁が未だ突破できない。理論上この世界は独立した時間と空間とを有した存在であり、他の要素によって侵されることはまずない。膜はその第一防壁であり、膜と膜の間に流れる乱気流が第二の防壁である。そして第三の防壁が、因果である。独立した時間の中で原因と結果が連続する以上、外部からの存在もその因果が存在しなければならない。すなわち、外部からの侵入には侵入する世界に対して何らかの方法で自らが存在したものと定義できなければ存在することができない。仮に私が生身で進入しようとしても、機体ごと第二の膜を透過した途端に霧散してしまう。残るのは私の世界においての私の記録だけ。」
19 April
「この三年間、どうしても決心がつかなかったが、これで問題ない。この世界のありとあらゆる私の存在情報を集めて、それを私の記憶と統合する。これは肉体としての存在を媒介にあらゆる私を構成する要素を凝縮し私の意識がすなわち私自身であり、私という存在の全てを時空間穿孔錨に同期する。存在の固定のために必要な最低限の因果を錨内におかねばならないが、私の因果などあの子を失ってからとうに決まっている。明日、この錨を射出してあの子のいる世界へ、あの子が生きている世界へ私はいく。」
ここで日誌は途切れている。もう一つの世界とは、時空間穿孔錨とは、聞き慣れない言葉に困惑していたがそれよりも気になったのは、この母親の執念だった。何らかの不幸で幼い我が子を失ったのであろうが、我が子の死を乗り越えるのではなく我が子と再会するために何年もの月日をかけて計画を練り、ついに計画を実行したのだろう。私に子はいないが同じ立場になったときに、自らも同じ執念を持ち得るだろうか?失ったものを再び手に入れることは、本来叶うことのない願いの一つである。仮に手に入れたとしてそれは本当に自分が求めていたものと同一の存在だろうか?それなら、いっそのこと未練を捨て新しい一歩を踏み出した方が遥かに楽である。未練を捨て去ることはもとより難しいが、苦しい未練を抱いたまま生き続けられるほど人間の精神は強くはないのではないか。
「いけない、出口を探さなければ。」
〜展望デッキ〜
「それなら、この星間連絡船はトリトンって惑星に向かっているの、そこにはここに乗っている人の数十倍は人がいるはずよ。それを一人一人取り込んでいくのは骨が折れるでしょうから、そっちも手伝ってあげる。だから二人を解放して。」
マリーはどうすれば、この得体の知れない怪物と交渉できるか悩んでいた。元来ダイアナや金以外とは、家族でさえろくに会話をしたことがない。そもそも、アンナと名乗っているこの存在がどうして私の意識を奪わないのか理解できず警戒以外に気を回す余裕がなかった。実際、金に接触せずとも支配下に置いているので、距離をとっているのが果たして正解であるのかさえマリーは疑問に思っていた。
「あなた、どうして私の意識をすぐに奪わないの」
「奪おうと思えばいつでも奪える、いろいろ考えているだろうから、ネタバラシをすれば無意識状態にさえなればこの距離ならいつでもあなたの中にも入れる。」
マリーにとって彼女が想定した中でも最悪の回答だった。少しでも気を緩めればすぐにでも支配下に置けると言われて余計にアンナに対して注意を向けざるを得ない状況になってしまった。マリーはなす術がないと考え絶望するよりなかった。交渉の余地はなく、自身が支配下に置かれれば二人を奪還するチャンスはなくなる。こうなったら自ら支配下に置かれることがマリーと彼女たちが一緒にいられる最善の策に思えるほどに、マリーは神経をすり減らしていた。
「マリー、交渉の余地はないわ。あなたも、私に体を委ねなさい。」
「断る、何としてでも二人だけは解放してもらう。それまで、一秒たりともあなたから視線を外さない。」
「そこまでこの子たちに執着する理由は何?」
マリーは突然の質問に意表をつかれた。慌てて意識を集中させ、睨み返す。
「それが、あなたに関係あること?」
「ただ気になっただけ。あなたは他の誰かを犠牲にすることに躊躇がない。まるで、犠牲になってほしいと思っているかのように迷わずこの子たちの代わりに他の人々の自由を差し出した。あなたにとってこの子たちはそれほどにかけがえないものなのかしら」
「あなたに話すことはない。」
「話さなくても、あなたの思考は筒抜けになってる。この体になってから対面した人の考えは手にとるようにわかるの。あなたの思いは感じられる。けれど何故かはわからない。」
「話せば、二人は解放される?」
「検討はする」
マリーはこの言葉にかけるしかなかった。
「私の家族は地球ではかなりの資産家なのよ。うちのひい爺ちゃんが宇宙開発に先鞭をつけた実業家で、この船だってうちのグループ会社が製造してる。だから、私はどこに行っても一族の長女でマリーじゃない。お金持ちの娘として見られるばかりで私をちゃんと見てくれたのはこの二人だけ。ダイアナはたまにラリってるけど、寂しい時にいつもタイミングよく私の隣に来てくれる。でも、他の人みたいにご機嫌とりをするんじゃなくてただ一緒にいてくれる。金はダイアナを通じて知り合ったけど、私をお金持ちの娘として扱うんじゃなくて、一人の友人として接してくれる。放課後にアイス食べたりただ公園でお喋りしたり、そんな毎日をくれるの。だから、私にとって、マリーであるためには二人が必要なの。」
「・・・傲慢なお嬢様だね君は。結局この子たちのことも自分の欲を満たすために必要な要素としか見ていないじゃないか。」
「人間ってそういうもんじゃないの、どんなにきれいなこと言ったってどこかで他人のことをドライに都合よく考えて、それでも他に大切なものがあるから大切にしたいと思うんじゃないの?二人は私が生きる意味だし、私にとって私の存在そのもの。それで何が悪いっていうの。」
〜謎の物体の中〜
大きな揺れが私のいる空間を襲った。この物体がというよりも、機体そのものが大きな揺れを起こしたようだ。まだ、到着には早い時間である。ということは、何か問題が沖田に違いない。早くこの部屋から脱出しなければ。
「チュゥ」
一匹の白ネズミが日記の上からこちらを見ている。よく見ると首のところに小さなプレートがつけられている。
「アルジャーノン」
「チュゥ」
アルジャーノンは一声なくと私のすぐ横を走り去り背後でクルクルと回り始めた。ちょうどそこは私がこの部屋に入ってきたところと全く同じ場所であった。
「ここで何をすればいいんだ?」
そう言ってアルジャーノンに手を伸ばすと、また黒い床が蠕動し私の体を一瞬で飲み込んだ。入ってきたときとは逆に下に向かって押し出されていく感覚がある。そして、外に吐き出された私は、さらに驚愕の光景を目にすることになった。
「星塵龍・・・」
船体に大きな羽を持ち白銀に発光した斑点を持った巨体でのしかかっている龍の姿が眼前に飛び込んできた。噂で時空の裏側には生物がいると聞いたことがある。おとぎ話や都市伝説の類いとばかり思っていたが、実際に目にすることがあるとは思わなかった。その体はまさに星が渦巻く銀河の中心のような輝きで、星屑の龍という名をつけた先人の気持ちがわかったような気がした。
「応答しろアポロ。応答しろ。」
「はい、こちらアポロ」
「何をしていた。全く通信がつながらなかったぞ。」
「不測の事態に巻き込まれました。それより、船体に巨大な龍が乗っています!」
「こちらでも確認できた、小惑星群ようのインパルスを使う、至急コクピットに帰還せよ。」
「了解!」
〜展望デッキ〜
突然眩い光とともに展望窓一面に丸いオレンジ色の球体に縦の黒い線が入ったものが映し出された。黒い線は終始拡大と縮小を繰り返していて、それはまさに大きな爬虫類の瞳孔のような見た目だった。
「第四の防壁、いや世界の防人といったところかしら。」
アンナが平然している横で、マリーは足に力が入らなくなったようにへたり込んでしまっていた。
「あれは何?」
「世界と世界の間に流れる、高速のエネルギーで生きる龍。私はこれを観測したときに銀河蛇と名付けた。」
「銀河蛇?」
「名前なんてどうでもいいの、それよりこの船はもうすぐ大破するかもしれない。」
「何で?」
「光速を超えるスピードで船体がこれほどバランスを失えば、本来走るはずの流れを外れて世界の障壁に激突、運が悪ければ全員霧と化す。」
「冗談じゃない、それでもあんな巨大なのどうすればいいの。」
「・・・」
アンナは沈黙するしかなかった。本来の目的では射出された錨はそのままもう一つの世界に突き刺さって私の情報を拡散する手筈だった。しかし、不幸にもこの連絡船が遮り突き刺さる形になってしまった。完全なる事故で、このダイアナという少女も巻き込んでしまった。目的は達成しなければならない、しかしこのままでは私も巻き添えを喰らう。逃げようにも、錨は片道切符戻る方法もない。
「冗談じゃない、冗談じゃない、変なやつに友達まで奪われて、楽しみでもない学校の行事で死ななきゃならないなんて、私の人生あんまりじゃない。「
憐れに思った。アンナの心に飛来したのは何ということはない憐みの情であった。理解の及ばない存在たちに振り回されて死ぬだけでも悲惨だが、それ以上にこの娘が自らの人生に絶望してばかりで、やっと希望見出してきたところでこの仕打ちである。幾ら憐れに思えても、この娘のために計画を放棄するわけにもいかない。そのジレンマはあんなの中で一つの回答を生み出した。
「マリー、あなたにとって人生ってどんな意味がある?」
「・・・今から人生終わろうとしてるのにそんなの考えられるわけないでしょ。」
「いいから、考えて。どんな生き方をしたい。」
「ダイアナと金ともっと仲良くなりたい。一緒にもっとたくさんの時間を過ごしたい。」
「それだけ?」
「・・・本当はもっと色んな人と仲良くしたい。だけど、私は素直になれない。こんな私じゃ一緒にいられない」
「そう・・・」
そういうと、ダイアナと金から淡い黄色とも金色とも取れるような光が浮かび、展望窓に浮かぶ瞳の中に消えていった。その場で崩れ落ちるダイアナと金。それに駆け寄るマリー。
「ダイアナ!金!大丈夫?」
「あれ?マリーどうしたのこんなところで、私確か映画館から出てトイレ行こうとしたんだけど・・・その後がよく思い出せないな?」
「うーん、私もしかして寝ちゃってた?」
「そうだよ、二人ともこれは夢だった。夢だったんだよ・・・。すごく悪い夢。」
〜機体表面〜
修理ポッドに乗り込んで五分経った頃だろうか、突如龍がのそりと羽ばたき闇の中に消えていった。
「こちらアポロ、突如龍が離脱。繰り返す龍離脱。」
「こちらも確認した。インパルス中止、期待のバランス維持を手動で調整。アポロはそのまま帰還せよ。」
「了解。」
不思議な光景だった。ほんの数分の間の出来事だったが、龍と目があった気がした。その目はつい先ほど見た龍の猛々しい目つきとは違い、穏やかなものだった。そしてその輝きにどこか懐かしい思いがした。手に持ったまま持ってきてしまった日誌を開いてみる。よくみると最後の見開きの裏にもう一つ記述があった。
Memo
「私は娘を探しにいくつもりだったが、隣接する世界において必ずしも私の娘がいる保証はない。そもそも、その世界における私自身が存在しているかさえ怪しい。しかし、希望を捨てるわけにはいかない。いないのならその時また考えよう。もし仮に、娘でなく息子でも私は必ず見つけ出せるだろうか。可愛らしいあの瞳を隣の世界で見つけることができるなら、おそらく私の子は見つかるだろう。どんな世界であっても、あの子は私の可愛い子供なのだから。」
やはり、何度読んでも理解することができない。この文章が持つ熱量から妄言であるとも思えないが、しかしまるで夢物語のような内容で到底信じることはできない。しかし、間違いないこの母親に愛されていた子は短いながらも幸せな人生だっただろうことは容易に想像できた。
〜アルデバラン〜
「まもなく、惑星トリトンの衛星軌道に入ります。長い宇宙の旅お疲れ様でした。トライデントにランディングまでもう少しお時間がありますのでごゆるりとおくつろぎください。本日は星間連絡船アルデバランをご利用いただきありがとうございました。」
機内アナウンスが終わると、マリーはそっと炭酸飲料の瓶をおいた。彼女は炭酸が苦手だけれど、昨晩酷い目にあった二人が大好きな飲み物があったので、買っておいたのだ。幸い二人の命や意識に別状はなく、今はただ極度の疲労で眠っている。昨晩のことは当分忘れることはできないだろう。こんな思いをするくらいなら、入眠装置で早くに寝て了えば良かったと後悔した。
「そういえば、まだ一緒に写真撮ったことないんだよな。」
少しだけ、トリトンでの楽しみができた気がした。