彼女の浮気に耐えきれず自殺しようとしたけど、脳裏をよぎる走馬灯がどこかおかしい
アネモネ 和名『花一華』(ハナイチゲ)
【全般】「はかない恋」「恋の苦しみ」「見捨てられた」「見放された」
≪赤≫「君を愛す」
≪白≫「真実」「期待」「希望」
≪紫≫「あなたを信じて待つ」
≪青≫「固い誓い」
「これ懐かしいね。確か去年一緒に買ったんだよね」
彼女の家に遊びに来た日。部屋に置いてある紫のマグカップを見ながら、僕に向かって僕の知らない思い出を語る彼女。
「そ、そうだっけ?」
何とか返事を返すが、内心の動揺が表れた情けない声がでてしまう。それが伝わったのだろうか、彼女は自分の失態に気付いたように体をピクリと震わせ、誤魔化すように言い訳をする。
「あっ。ごめんね!また友達と間違えちゃったみたい…」
友達。いつからだったか、誰かとの思い出を語る時に出てくるようになった人物。最初は彼女の言うことを疑わずに、素直に信じていた。だけど僕だってバカじゃない。その友達との思い出を語る彼女が、恋する乙女の顔をしているのに気付かない筈が無かった。
最近は特に酷くて、会うたびに僕と誰かを間違える。僕には彼女しかいないのに、彼女には僕ではない誰かがいる。その事実だけで僕の心は狂いそうになる。あの時から、僕にとって君が全てなんだ。だからもしも、もしも彼女が浮気をしてるのだとしたら。
僕にはもう耐えられない。
◇
死のう。
肌寒い空気が支配する部屋で目覚めた僕の頭に、何の前触れもなくその一言が思い浮かんだ。寝惚けているのか、ハッキリとしない思考のまま体が動く。思い立ったが吉日と言って良いのかは分からないけど、気分が変わらないうちに準備を始めよう。
どうせ死ぬのなら最後くらい、苦しまずに楽に死にたい。確か首吊り自殺が一番お手軽だと、どこかで聞いたことがあるような気がする。そう考えた僕は先ずはロープを買いに夜中でも開いているショップに足を運ぶ。
こんな夜中にロープだけ買いにくるなんて、自殺しますって宣言してるようなものだよなぁ。まぁすぐに死ぬし、関係ないか。店員もいちいち事情を聞いたりなんてしないから、何の問題も無く家に戻ってこれた。
えーと、首吊り用のロープの締め方があるんだったっけ。天井付近にロープをかけてネットで調べながら着々と作業を進める。やはりお手軽という評判は間違っていなかったのか、10分もかからずに準備が完了した。見落としが無いか最後の確認をした後、丁度いい椅子の上に立ってロープで作られた輪を首に掛ける。
こうやっていざ目の前にすると途端に死の恐怖が湧き上がって来るが、今の僕はそんなもの気にならない。なぜなら死よりも辛く苦しい時間を味わってきたから。死より希望の無い未来を垣間見たから。だから、僕はもう止まれない。
そして、一度深呼吸をして覚悟を決める。
「さようなら」
最愛の彼女に向けて別れを告げた僕は、思い切り椅子を蹴った。
◇
ああ、やっぱりネットって駄目だな。どこが楽なんだよ。自らの体重で勢いよく吊るされる首だが、ロープが上手く締まらなかったのか意識を失う事も出来ずにただ苦しいだけの時間が続く。
足りなくなっていく酸素を求めて、無意識に身体が暴れるが状況は変わらない。いくら心が死の恐怖を無視できても、身体は必死に生にしがみつこうと足掻き続ける。例え足掻くほど死に近づくとしても生きろと本能が叫ぶのだ。
そんな永遠にも思えた時間だったけど、とうとう限界がきたのか徐々に意識が薄れていく。やっと死ねる。そう思った時、不意に今までの記憶がフラッシュバックし始めた。普段なら振り返りたくも無い人生。だけど最期くらいは良いか…。
もう一度、君に会えるなら。
◇
僕の人生にはいつも不運が付きまとっていた。
まず僕が産まれた時、母が死んだ。原因は事故だった。夜に陣痛が始まった母を乗せた車が病院に向かっている途中、向かいから車が突っ込んで来たらしい。父は軽傷で済んだが、母はお腹の僕を無理に庇ったせいかその時点で意識不明の重体。その後警察や救急の助けで病院に付いた時には時すでに遅く、奇跡的に無事だった僕を託してこの世を去った。
突っ込んできた車は飲酒運転だった。
次に父がイカれた。僕が産まれてから数年の間は、祖父母の手も借りながら懸命に育ててくれた。しかし、最愛の妻を亡くしたショックで酒に溺れがちになっていた彼は、僕の成長に伴って張っていた気が緩むように自暴自棄になっていった。普段の父は真面目な人間だったが、酒が入った途端人が変わったように暴言暴力を振るうようになり、やがて僕は当然のように育児放棄をされた。
「お前のせいで…!」
そう言いながら僕を睨み付ける父の姿は今でも思い出せる。
そうして生きるのに必死になっていたある日。たまに様子を伺いに来ていた母方の祖父母が異変に気付いて、僕を無理やり父から引き離して迎え入れてくれた。
それからは祖父母の愛を受けながら、健康的に成長することができた。だが小学校に入学したくらいで、またしても状況は変わる。当時の僕は幼少の頃の影響で、周りよりも体格が小さく引っ込み思案で控えめな性格だった。何をするにも皆より一歩引いた所で息を潜めるようにしていた記憶がある。
小学生という生き物は、自覚なく無邪気に他人を傷付ける。声が小さいから、弱そうだから、何となく周りと違うから、そんな曖昧な理由で僕はイジメられた。
直接的な暴力は一切無く、内容も小学生らしい幼稚なもの。無視をしたり、物を隠したり、陰口を言ったり。だが内容がどれだけ大したものじゃなくても、悪意を向けられるだけで人間は傷付く。僕だけじゃなく、大人だって同じこと。子供ならなおさらだ。そして、当然そんな僕には友達なんていなくて、いつも教室の隅で縮こまっていた。
あの時の僕はイジメにあってる事を誰にも言えなかった。お世話になっている祖父母に余計な心配をかけたくなかったし、先生に言って事態が悪化するのも怖かった。だから黙って状況を受け入れていた。
罅の入ったガラス玉を鑢で削り続けられるような日々。いつ限界が訪れるかも分からない状況が暫く続いた、小学4年生の終わり。僕は初めて死のうとした。
幼少の記憶と長年に渡る精神的苦痛に耐えられなくなった心が、僕を屋上に連れてきて言うのだ「死ねば楽になる」。普通ならあるはずの心を守る何かが無くなっていた僕は、そんな甘美な誘惑に抗うことなど出来ず、ついにその身を投げ出そうとした…その時。
「こんにちは。風が気持ちいいね!」
彼女に出会った
◇
「私、立花一華っていうの。よろしくね」
フェンス越しに僕に話しかけてきた少女は、吹き付ける風によって靡く髪を抑えながら微笑む。自殺しようとしていた人間を目の前にしているのに、まるで気にしていないかのような態度だった。いきなり話しかけられた驚きで体が固まっていた僕だったが、彼女はお構い無しに話を続ける。
「実は最近こっちに引っ越してきてね、5年生になったらこの学校に転入するんだ」
「今日はその手続きとかで学校に来てたんだけど、君が屋上に入って行くのが見えたから気になって付いてきちゃった」
さっきまで死のうとしていた僕は、いつの間にか彼女の言葉を聞いていた。本当に死にたいなら無視すればいいのに。
「屋上って前から憧れてたんだ!漫画だと普通に入れるのに、どの学校も立ち入り禁止なんだもん」
それはそうだ。だって僕みたいな人間がいるんだから、開放なんてしたら死体で溢れかえっちゃうよ。
「だから屋上にこれて感動してる!何だかいつもより空が近くて、風が気持ちいいね」
空かぁ、下ばかり見ていた僕は気付きもしなかったな。言われてみれば彼女の言う通りかも。僕の頬を撫でる風が、春の気配を含み始めている事に初めて気付いたよ。
「私ね、お父さんの仕事の都合で今までたくさん転校してきたんだけど、こんな漫画みたいな出会いをしたの初めて」
そうだね、僕もこんな事が起きるなんて思わなかった。自殺しようとする少年の前に突然現れる少女。確かに漫画みたいな展開だ。
「それでさ、私こう思ったんだ」
僕が本当に欲しかったのは、死の安らぎなんかじゃなかったのだろう。
「貴方と友達になれたら、何かが起こるんじゃないかって」
だってその言葉を聞いただけで、僕は救われたから。
「きっと死ぬほど楽しいよ!」
この時初めて、僕は君に恋をしたんだ。
彼女との運命の出会いをきっかけに、僕の人生は一変した。転入してきた彼女は、その持ち前の明るさと人懐っこさ、可愛らしい容姿でクラス、学年の人達を魅了して瞬く間に誰からも一目置かれる存在になった。そんな眩い存在である彼女と正反対な僕だったけど、彼女はあの日の言葉通りに僕の友達になってくれた。
僕の事を気遣ってくれたのか直接的な助け船を出す事はなかったけど、いつも親身になって僕と話してくれたんだ。それが僕にもいい影響を与えたのだろう。以前まで下ばかり見て塞ぎ込んでいた僕は、徐々にだが前向きになって性格も明るくなっていった。
小学校の卒業式を迎える頃にはイジメられる事もなくなって、彼女以外にも話せる人が増えていた。まぁそこに辿り着くまでに色々な困難があった訳だけど、彼女の手も借りながら何とか人並みの生活を送れるようになったんだ。
「もう卒業かぁ…」
卒業式を終えた、放課後の屋上。最後だからと勝手に忍び込んだ僕らの思い出の場所で、彼女が感慨深そうに呟く。転入してきて2年も経ってない彼女からしたら、本当にあっという間の日々だったんだろうな。
「なんだか実感が湧かないや」
僕からしても、彼女と出会ってからはあっという間だった。それまでとは密度が違いすぎて、時間の感覚がおかしくなってしまいそうなほど。
「楽しかったね」
楽しかった。僕の人生で一番楽しかった。毎日がこんなに輝かしいモノだって初めて知れた。君と話せるだけで、死ぬほど嬉しかったんだ。
「そういえば、最近初めて知ったんだけどね」
いつかと同じように僕を見つめる彼女は、あの日よりも更に魅力的な女の子に成長していた。風で靡く髪を、僕が誕生日プレゼントとして贈った白い髪留めが抑えているのを見て、少しだけ嬉しくなる。
「ヤドリギの花言葉って『困難に打ち克つ』なんだって」
呼吸がとまる。取り留めの無いことを考えていた僕の頭にガツンと殴られたような衝撃が走った。そんな僕を気にも留めない彼女は、わずかに微笑みながら続けた。
「君にピッタリだね」
もう何年も会っていない父親。僕にとって恐怖の象徴だった彼から、唯一受け継がれたソレ。
『木宿 浬成』
いつまで経っても嫌いだった自分の名前。無意識に避けていたソレを、彼女は肯定してくれたんだ。涙で頬を濡らす僕を優しげに見つめる彼女に、2度目の恋をした。
そしてこの日から、少しだけ自分の名前を好きになれた。
◇
中学生になっても、僕たちの関係は変わらなかった。運良く彼女の父親の転勤が落ち着いたので、彼女も僕と同じ学校に入学した。中学校は付近の小学校からそのまま進学する人が大半なので、小学校の時にできた友人がいて良かったと思う。彼らを中心に自然と輪が広がっていき、僕もそれなりに充実した学校生活を送れた。
部活動にも入部した。相変わらず体が小さかった僕は運動も得意じゃなかったから、運動部以外を探して結果的に写真部に入ったんだっけ。あの頃から何だか物忘れをするようになったから、大切な思い出を忘れないように写真を撮ろうと思ったんだ。あとは活動が緩かったからね。
彼女は相変わらずの人気者で、男女共に彼女を慕っている人は多かった。しかし中学生にもなるとみんな色恋に興味が湧くのか、彼女が告白をされることも増えていった。以前より明るくなれたと言っても、まだまだ大人しい部類の僕とはまるで住む世界が違うように感じた。
彼女とはクラスも部活動も違ったから、残念ながら学校ではそんなに話せなかった。それでも当時買ってもらったばかりのスマホを使って、ほぼ毎日連絡を取り合っていた。話すことは大したことの無いものばかりだったけど、彼女と話せているだけで僕は十分だった。
だけど、そんな平和で何気ない日常は長くは続かなかった。つくづく僕は運が悪いと今でも思う。
中学二年生になったばかりの頃、僕の祖母が死んだ。原因は何てことのない風邪だった。些細な体調の変化で持病が悪化して、止める間もなくあっさりと逝ってしまった。そしてそれにショックを受けた祖父も、祖母の死から半年後に後を追うように亡くなった。二人とも70歳を間近にした年齢で、少しだけ早い別れだった。
母親を亡くし、父親に棄てられた僕に愛情を注いでくれた大切な家族。そんな二人が居なくなった事で生まれた傷は思いのほか深く、一時期はまともに返事が出来ないほど落ち込んでいた。幸い祖父母が遺してくれた遺産は、僕が大人になるまで安心していられる程にはあったから時間に追われる事はなかった。時間をかけてゆっくり傷を癒そう。そう考えていた僕に追い討ちをかけるように、ある知らせが舞い込んできた。
父も死んだ。
死因は自殺。妻の死による自暴自棄と、我が子に対する仕打ちから生まれた罪悪感と自責の念に駆られて自ら首を吊ったらしい。別に僕にとってはもう他人だと思ってたし、それを聞いた時は何とも思わなかった。だけど時間が経つにつれて、薄気味悪い感情が僕のからだを蝕んでいくんだ。
天涯孤独。もう僕には、頼るべき家族も血の繋がりも残されてはいなかった。顔も知らない父方の祖父母は当然他人だ。両親も愛すべき家族も失った僕は、自分を見つめ直す。そして思ったんだ。
『僕がみんなを不幸にしている』
気の迷い、自意識過剰、見当違いも甚だしい考えだったけど当時の僕はそれを信じて疑わなかった。だから僕に残された一番大切な存在である彼女を、突き放した。
◇
それから俺は、彼女を避けて生活し始めた。全てを自分のせいにしたからか、小学生の頃に戻ったように一人になることが多くなっていった。
彼女は変わらず沢山の人に囲まれていたが、ふとした拍子に悲しげな表情を見せるのが俺の心を抉った。
本当に俺のしてる事は彼女の為になるのだろうか。そんな疑問が俺の頭の中をグルグルと巡って、治りかけの傷が疼いた。
◇
彼女を意図的に避けて、連絡もせずに無視をする生活を続けて一年。始めの数ヶ月は僕を心配して声をかけてくれていた彼女だが、僕の態度を見て諦めたのか、その頃にはすっかり赤の他人になっていた。
大切な人を意図的に突き放すのは精神的にかなりキツかったが、自分の心を騙しながらもやり遂げた。いつまでも未練は残るだろう。もしかしたら一生他の人なんて目に写らないかもしれない。それでも彼女を失うよりはましだ。そんな事を考えて勝手に自己完結していたある日。
「いつまでウジウジしてるの、この馬鹿!」
突然彼女が家に乗り込んできた。なんで彼女がこんな所にいるんだろうか。そんな疑問を挟む余地すら許さず彼女は矢継ぎ早に言葉を投げる。
「心の整理をつけるのに時間がかかるだろうから、一年経つまでは大人しくしててあげようと思って待ってたのに。一年経っても全然立ち直らないし、いつまで私を避け続けるの!?」
初めて見た彼女の様子にびっくりして、毎度のごとく固まってしまった僕。まさに怒髪天を衝くといった様子の彼女は続ける。
「小学生の時から何にも変わってないじゃん!辛いこと一人で抱え込んで、誰にも言わずに勝手に傷付いて、少しは私の事頼ってよ!」
あぁ耳が痛いな全く。今自殺しようとしている僕の事まで知ってるみたいな口振りだ。また彼女に会えたらこうして同じように怒ってくれるのだろうか。
「ずっと君が話してくれるのを待ってたのに、遅すぎて我慢できなくなっちゃった」
本当に彼女は優しい人だな。こんな僕にここまで親身になってくれるなんて、普通ならあり得ないよ。
「だからもう待ってあげない。無理矢理にでも聞き出すから、さっさと吐き出しちゃいなよ」
彼女と出会えた事が僕にとっての幸運なんだろうな。
それからは良く覚えていない。多分彼女に向かって今までの事を全部話したんだったっけ。僕の心にこびりついていた、怒りとか不安とか悲しみとか、そういった澱みが涙と共に洗い流された気がした。
この日、「「僕」」にとって彼女は愛する存在になった。
◇
中学の卒業式を迎える頃には、俺は過去の出来事から立ち直っていた。俺はあの日から、彼女に相応しい人間になろうと努力し始め様々な事に挑戦をしていた。勉強はもちろん、運動もし始めたし、身嗜みにも気を使うようになった。小さかった身長もいつの間にか伸びていて、彼女が自分よりも頭一つ小さいことに気付いた日は、少しだけ男としての自信が湧いた。
そして卒業式が終わった後。
小学校の最後と同じように、思い出の場所へ彼女を招く。見つからないように忍び込んだ屋上に二人で並ぶと、心地よい風を感じながら無言で景色を眺める。ばれたら怒られるだろうけど、その時の俺には怖いものなど無かった。中学最後の日くらい許してくれるだろう。
「実は私さ、君と出会った時自殺しようと思ってたんだ」
彼女は目を細めながら、いつかの記憶を懐かしむように語り始める。
「私のお母さんも昔に死んじゃってね、お父さんが男手一つで育ててくれたの。でもお父さんの仕事が忙しくて、中々一緒にいる時間が無かった」
彼女から身の上話を聞かされるのは初めてだった。俺の事を信用して話してくれているのなら、こんなに嬉しい事はなかった。
「それに転勤続きで転校ばっかりしてたからさ、どれだけ仲良くなった友達もすぐに離ればなれになって。お別れの時は、みんなずっと友達だよとか連絡するねって言ってくれるけど、一年もしたら音信不通」
彼女は何てことのない様に言っているが、きっと幼かった当時は辛かったのだろう。小学生の友達なら、そんな感じが当たり前なんだろうけど何も感じないなんて事はありえない。
「家に帰っても誰もいないし、友達もすぐにいなくなっちゃう。こんな寂しくて辛いなら死んじゃおうかなって。そう思ってた時、君に出会ったの」
そして俺に向き直った彼女の瞳は眩しそうに細められたまま、おかしそうに笑う。
「ホントにびっくりしちゃった。何だかとっても辛そうにしてる男の子が、屋上から飛び降りようとしてるんだもん」
そりゃ誰でも驚くさ。俺が彼女の立場だったら、驚いたまま動けなくなってるだろう。
「それでね、君を見たらなんだか死ぬのが馬鹿らしくなっちゃって。知ってる?自分より辛そうな子が目の前にいたら、自分の悩みがちっぽけに感じるんだよ」
そうなのか。そっちの立場になることは一度もなかったから、初めて知ったよ。
「それになんだか放っておけなくなってさ。何でそんな辛そうなのかな。助けてあげられないかなって思っちゃったんだ」
ありがとう。君がそう思ってくれたお陰で、俺は生きる希望を見つけられた。死の恐怖を知れたんだ。
「だからあの時声をかけたの。君は私に助けられたと思ってるかもしれないけど、私も君に助けられた。君が頑張って変わろうとする姿を見て、勇気を貰った。なんだかこれって運命みたいだよね」
それはまさしく運命だったのだろう。自殺しようとしていた少年と少女が出会って、互いに支え合いながら成長していく。あの時言っていたような漫画のように良くできた話。
「だから、君が私から離れていこうとした時凄く悲しかったんだからね」
そう冗談まじりに言う彼女は再び前を向いて景色を眺め始める。かつての友達のように離れていくのが、怖かったんだろうな。彼女にそんな思いをさせてたなんてあの時の俺はどうかしてた。だから…。
「なら俺は、なにがあっても絶対に離れない。一華が嫌になるまでずっと一緒にいたいんだ」
これは俺の誓い。俺を救ってくれた君と、これからも共に過ごす為の宣誓だ。驚いたようにこちらに振り返る彼女はいつかの俺のように固まっていて、なんだか珍しい姿を見れたことに頬が緩んでしまう。
「出会ったあの日から、ずっと好きです。付き合ってください」
頭を下げて差し出した手。
俺からしたら永遠にも感じられた時間は、右手を包み込んだ温もりによって終わりを告げた。
「はい。喜んで!」
微かに震えた声が頭上から響く。
顔を上げた俺を迎えたのは、赤くなった頬に涙を流しながら笑みを浮かべる彼女。
それは俺が初めて見た彼女の涙で。
今までで最も綺麗な笑顔だった。
◇
高校は、確か少し離れた進学校に通うことにしたんだっけ。運動と違って勉強はそこそこ出来たから、彼女と頑張って入試に合格した。
部活は何だっただろう。運動は苦手だから、写真部に入ったような気がする。
確かこの頃からか、彼女が僕ではない誰かとの話をするようになったのは。当時は疑問にも感じていなかった。もし、この時点で話を聞いていたら何か変わっていたのだろうか。どちらにしろ無意味な考えだ。だって僕が彼女にそんなことを聞く度胸など持ち合わせていないのだから。
そういえば、どうやって僕達は付き合い始めたのだろうか。
◇
俺達が付き合い始めて2年が経った。
高校では彼女の恋人として恥ずかしくないように、さらに努力をしてそこそこの男にはなることが出来たと思う。苦手な運動も克服するために、部活は空手部に入部した。運動もできるし、少しでも強くなれそうだったから俺にぴったりだと思ったんだ。
「あっ、これとか良いんじゃない?」
彼女はそう言って紫がかったペアマグカップを、俺の顔の前に差し出して見せてくる。そんなに近づけなくてもちゃんと見えるよ。
今日は付き合った日から二周年かつ彼女の誕生日ということで、二人でプレゼントを選びに来ている。彼女に贈るプレゼントなのに二人で選ぶのはどうなのかと思ったけど、一緒に選びたいの。なんて言われたら頷くしかない。
ペアマグカップか、無難で良いんじゃないかな。彼女の家に一つ置いて、俺も片方貰えばいいか。
「あー、楽しかったー」
買い物が終わって帰路につき始めた俺達は、仲良く手を繋いで話しながら歩く。付き合い始めた頃は手を繋ぐだけでも相当な時間がかかっていたが、今ではもう慣れたものだ。
ただ、これ以上のスキンシップはまだ出来ていない。いざそういう雰囲気になっても、お互い気恥ずかしくなってしまってどうにも先に進めないのだ。
「それじゃあ、今日はありがとうね」
彼女を家まで送った別れ際、微笑みながら言われた言葉にハッとした俺はポケットから目的の物を取り出す。
「俺の方こそ、いつもありがとう。これは感謝の気持ちでもあるから受け取ってくれないか」
驚く彼女の様子を見てほくそ笑む。マグカップを選んだ後に、こっそりと買っておいたんだ。危うく本来の目的を忘れるところだったけど、渡せて良かった。
「わざわざ別にしなくても良かったのに。でもありがと。開けても良い?」
もちろん。彼女が小袋を開け中から出てきたのは、赤色の髪留め。
「これ、あの時の」
俺が彼女に贈った初めての誕生日プレゼント。彼女は今でもあの白い髪留めを大切に使ってるらしいが、大分前に贈った物でもあるから少し傷が目立つようになってしまっている。だから改めて俺からプレゼントしようと思ったんだ。
「ありがとう。大切に使うね」
彼女はプレゼントを胸に抱え、とても嬉しそうに微笑んだ。この顔が見れただけでプレゼントをした甲斐があった。
後日聞いたが、白い髪留めは普段使いはしないで大切に保管する事にするらしい。
◇
もしも、もしも彼女が浮気をしていたら。
僕にはもう、耐えられない。
◇
俺達はとうとう、大学生になった。
お互いに将来の事を考えた結果、大学は別の道を歩む事になった。今は俺は学校の教師を、彼女はカウンセラーを目指し勉強をしている真っ最中だ。大学は別だが、幸い遠距離になることもなくお互いに余裕を持って付き合えてると思う。
「うん。明日の朝にまた連絡するから。それじゃあおやすみ」
最近の日課になりつつある彼女との電話を終えた俺は、部屋の電気を消して目を閉じる。
いずれ彼女と結婚する為にも、頑張らないとな。
肌寒い夜の中、未来に思いを馳せながら眠りに落ちた。
◇
あぁ、そういう事だったのか。
走馬灯として脳裏をよぎった僕の知らない俺の記憶。彼女は浮気をしていたんじゃない。僕達を愛してくれていたんだ。僕は本当に馬鹿だ。こんなにも僕を大切にしてくれていた彼女を疑って、挙げ句の果てには彼を道連れに死のうとしてる。彼女の悲しむ顔なんて見たくないのに。
「「俺」」はあの日誓ったんだ。
絶対に彼女から離れないと約束したんだ。
だから、死んでも彼女の元に帰らないといけない。
神様、今まで散々僕の不運を見てきたでしょ?僕は死んでも良いから、彼だけでも救ってください。彼女は幸せにならないと駄目なんだ。だから、
どうか最期に幸運を。
◇
とある病院の一室。
窓際のベッドの横で祈るように目の前の青年を見つめる、一人の女性がいた。
昨日の早朝にふと目が覚めた彼女は、何故か嫌な予感を覚えてすぐに彼に電話をかけた。いつもなら少し待っていれば出てくれる時間なのに、いつまで経っても彼と連絡が繋がることはなかった。
その瞬間、彼女の頭に過ったのはかつて自殺しようとしていた彼の姿。最悪の事態を想像した彼女は真っ先に彼の家に向かいながら、救急車を呼んだのだ。
もし何事もなければ精一杯謝れば良い、だけど本当に想像通りだったらなにもしなければ手遅れになってしまう。何かに急かされるように彼の家にたどり着いた彼女が見たのは、千切れたロープを首に着けたまま倒れ伏す最愛の人の姿だった。
パニックになりそうになる自分を押さえ付けて、すぐに彼の容態を確認。かろうじて息がある事に安堵した後、ロープを外して彼の体を慎重に楽な体勢へ動かした。可能な限りの処置を施して、少しでも彼が無事に戻ってこれるように手を尽くす。やがて、救急車がつき彼は病院に運ばれた。
検査の結果、命に別状は無いがいつ意識が回復するかは不明。生きる気力が無ければ永遠に目覚めないかもしれない。全ては彼次第だった。
彼女は、彼を信じて待ち続ける。
◇
誰かに呼ばれている気がした。
僕のよく知る彼に突き動かされて、目を開ける。
知らない天井。ここは病室かな?
窓からは桜が覗いてるようだ。
視線を横にずらす。
そこには最愛の人が、泣きながら僕の事を見つめていた。
あぁ、彼女をこんなに泣かせるなんて。僕は最低だ。
「ごめんね」
掠れた声とも言えない音が出るが、何とか彼女に届いたようで怒りの籠った泣き顔が僕に向けられる。
「本当にバカ!どれだけ心配した思ってるの!いつまで小学生気分なの!?」
おっしゃる通りで、何の言い訳もできないや。
「いつもいつも、私を待たせすぎよ!」
だけどこうして彼女が怒ってくれてるというだけで生の実感が湧いてきて、思わず笑ってしまいそうになる。
「次やったら許さないからね!」
彼女にお説教を受けてるのに、なんだか楽しい穏やかな空気が流れる。出来ることなら、このまま時が止まってくれたらいいのに。
でもそんなささやかな願いは叶わない。
本当ならもっと話していたいけど、僕にはあと少ししか時間が無さそうだ。
「一華」
今まで全然呼んだことが無かった彼女の名前。こうなるならばもっと前から呼んでおけば良かったな。
「今までありがとう」
その言葉で彼女は何かを察したのか、涙を溢しながらも真っ直ぐに僕を見つめてくれる。
たぶんもうすぐ僕は消えて、彼と一つになる。いや、元々一つだったものが元に戻るんだ。
彼女は僕と彼の事を知っていたのだろう。知っていながら、なにも言わずに僕たちを愛してくれた。きっと僕は本当の事を言われても上手くは受け止められなかったんじゃないかな。
でも隠すなら、もう少し上手くやってほしかったよ。自殺しようとしたのは僕のせいだけどさ。
「最期に一つだけお願いしていいかな」
さっき願っちゃったばかりだけど、もう一つくらいなら神様も許してくれるよね。
これが本当の最期の願い。
「ヤドリギのもう一つの花言葉は知ってる?」
いつか彼女が教えてくれた言葉とは別の、もう一つの花言葉。彼は何回もしてるかもしれないけれど、僕にとっては初めてなんだ。
涙に濡れる瞳を大きく見開いた彼女は、優しく微笑んで僕の願いを叶えてくれる。そして震える声で、何かを堪えるように小さく囁いた。
「私こそ、今までありがとう」
一華。僕と出会ってくれてありがとう。僕達を救ってくれてありがとう。愛してくれてありがとう。僕はいなくなるけど、どうか彼と死ぬほど幸せな日々を過ごしてください。
愛してる
さようなら
◇
俺が目覚めてから1ヶ月が経った。
病室で目覚めた俺を、一華は涙ながらに迎えてくれた。俺にとっては何が起きたのかはさっぱり分からなかったが、余程大変だった事は分かる。
詳細を聞こうとしたが、彼女の様子をみて深くは聞かないことに決めた。もし彼女が自分から話してくれるようになったら、その時は真面目に聞いてあげようと思う。目が覚めて暫くは落ち込んでいたようだが、ある日を境に吹っ切れたように元気になったので俺も一安心だ。
そんな事を考えながら、久しぶりの我が家に帰ってきた。事件の日は結構散らかっていたらしいけど、一華が片付けてくれたみたいだ。まぁ元々散らかってたから大した違いは無かったと思うんだけどね。それにしてもなんだか随分片付いてるな。大掃除でもしたんじゃないかってくらい綺麗になってるぞ。
久しぶりに綺麗になった家を見回していると、リビングのテーブルに麗らかな春の日差しに照らされる一冊のアルバムが置いてあるのを見つけた。
なんだこれ?こんなものあったっけな?
一華の忘れ物だろうかと疑問を浮かべながら、何気なく手にとって中を覗いてみる。
そこには、幸せそうに笑う一華の写真が入っていた。
中学一年生の頃から始まり、最近のだと数ヶ月前に撮ったものが最後だろうか。どの写真もとても丁寧に一華を撮っていて、見ているだけで頬が緩んでしまうほど写真の中の彼女は幸せそうだった。
あぁ、そうだったな。中学の時は写真部に入ってたんだっけ。いつからか写真の事なんてすっかり忘れていたけど、不思議なもんだな。自分では撮った覚えがないのに、写真を見るだけで思い出が甦ってくる。どれも素敵で輝かしく、本当に幸せだった。
大切な思い出を忘れないように、か…。
「写真、また始めてみようかな」
アルバムの最初のページ。
桜が舞い散る校門の前で、初々しい制服姿の二人が照れ臭そうに笑い合っていた。
ヤドリギ (宿り木)
「私にキスして」「困難に打ち克つ」
よければポイント、感想を送ってくれると作者は嬉しくてニコニコしちゃいます
※活動報告の方に解説を載せたので、どうしても分からない方はご覧ください。できれば各々好きに想像を膨らませて欲しいです。