蛍
梅雨の長雨が一旦止み帳が降りた暗闇の中、蛍の光に照らされて浮かび上がる見慣れた顔に
「変わらないのね」
彼女は言った。
「私は年をとってしまったほら、こんなお婆さんになってしまった。貴方が日本に来てどの位経つのかしら?」
「戦後76年が過ぎたからね、君とは長い付き合いになる」
「もうそんなに経ってしまったのね。やっとここに来る事が出来たというのに」
老婆はそっと瞼を閉じて
「まだ私が尋常小学校に通っていた頃だものね。時間は確かに過ぎて行ったけれど貴方の時間は止まっている。あの頃から貴方は何も変わらない」
「君は今でも美しいよ」
「ありがとう、貴方はいつもそう言ってくれる。来年の春の桜はもう見る事は出来ないから……」
老婆の頬を優しくその手は包む。
「夜で良かったわ、貴方に見られるのが恥ずかしいもの」
老婆は目を閉じたまま呟く様に静かに言った。
「蛍の灯に照らされているから、私には、はっきりと君が見えるよ」
「……」
その声は彼女に聞こえてはいないだろう。
何故なら、彼女の心臓はもうその動きを止めてしまっている。
「そうか、君も私を置いて逝ってしまうのだね」
虫の音がその言葉をかき消して行く。
車の助手席に座っている彼女は、眠っているようだ。
「ここに来て下さってありがとうございました。祖母もきっと喜んでいます。蛍が見たいって急に言われて驚きましたが、眠ってしまったようです」
「蛍が見たいと彼女が言った時、場所もここを指定したのですか?」
「そうです。ここに彼がいると言っていました。貴方の事だったのですか? 祖母がいつも語ってくれた人が本当に居るとは思っていませんでした。祖母の知り合いのお孫さんですか? てっきりお爺さまだと思っていたので……」
沢山の蛍が舞う川岸には、蛍を見に来る為の車が並んでいる。彼女を連れて来ただろう女性も、蛍に見惚れている。
「そうか……聞いていたのですか」
「はい。『優しい外人さん』の話は良く聞かされていました。きっとその方の事が好きだったのだと思います。祖母はそんな事は言いませんが、話をする時は少女のように可愛いのです」
「そうか……きっと彼も彼女の事が好きだったんだろう」
「昔は国際結婚とか難しそうですものね。祖母も親が決めた相手と結婚したんだって話します。でも、祖父も優しい人でした」
「うん、知っているよ。優しい人だった」
女性は驚き
「祖父ともお知り合いだったのですね……すみません分かっていたらご挨拶に伺ったのに」
「いいえ、日本からは暫く離れていたので最近戻ったばかりなのですよ。だから、連絡は出来なかったでしょう。今日も偶然ここに来たのです。逢えるなんて私も思っていませんでしたよ。さあもう夜も遅い帰りましょう」
「そうですね。それではまた」
とお辞儀をして車を走らせる、その車を男性は見送る。
男性はひとり呟く。
「私はいつも見送る事しか出来ない。自分の周りの時間は過ぎて行くのに、私はいつも置いて行かれる」
蛍は美しく瞬くそれを大勢の人が眺める車内から、川岸から……いつの間にか男性の姿は見えなくなっていた。夜の空にこうもりが羽ばたき遠ざかる。