たとえ、残酷な運命が待ち受けていたとしても
暗闇の中を、あてもなく歩き回るという経験は、人間のみんなにはあるのだろうか。そう考えて、ぼくは昔凛紗が言っていたことを思い出す。
「人間は夢、というものを見るんだ。その役割は科学技術の進歩が進んだ今もなおはっきりとは分かっていないようだが、一説には昼間起きている間に頭に入ってきた記憶を整理するためのものらしい。私は人間ではないし、入ってきた記憶はその時点で整理されるから、夢と呼べるものは見られないのだが」
そんな夢を人間しか見られないのだとすれば、ざっくり言って宇宙人のぼくにも無理かもしれない。そう凛紗に言うと、
「いや、イユの場合は可能性があるぞ。宇宙人と一言に言ってもいろいろあるから難しいところだが、イユは傷を負うなど非日常的なことが起きない限り、かなり人間に近く見える。九條弓依という女の子に擬態し続ける限り、いつか夢を見る日が来るかもしれない」
少し、ぼくにとっては希望が持てるようなことを言い返してくれた。世の中には悪い夢もある。記憶を整理して定着させるためには、それも致し方ないことだ。ぼくは、人間として生きたい。これ以上、生きている人間たちに迷惑をかけるわけにはいかない。人間と一緒に、社会の中に溶け込んで生きていけるなら、どれほどいいだろう。ぼくたちにしかできない、並行世界の移動という技術を使って、何か世界を良くするための知識を持ち帰り、活かせたならどれほどいいだろう。
「あの……あの!」
「うん……?」
ただ、ぼくが夢を見られるようになるにはまだまだ遠いようで。真っ暗闇の中をあてもなく歩いているなと思ったら、女の子の声がして目が覚めた。倒れ込むぼくをのぞき込む、翡翠色の髪の女の子がいた。
「……ここは?」
「私がアルバイトをしている、喫茶店の前なのですが……あまり、ピンとは来ておられないようですね」
「ああ、うん。悪いね」
「ご気分が優れないのですか?」
「いいや、そんなことはないよ。ちょっと変な夢を見ていたみたいで」
「なるほど、そんなこともありますよね。……もしよければ、コーヒーなどいかがですか? あなたのことで、少し興味もありますし」
ふと、彼女がぼくの右腕を見ているのに気づいた。人間としての皮膚がはがれ、ともすればグロテスクと表現されるような緑色の真皮が見えていた。ぼくの地球外生命体としての、本来の姿によるものだ。慌ててそこを左手で隠すが、すでに遅い。ただ、人間でないことが露見したにも関わらず、特に彼女が驚いている様子はなかった。
「……そうだね。観念するよ」
「別に取って食べる気はないですよ?」
雪深い東京の街並みを後にし、次の並行世界へと向かうことになったぼくと凛紗だが、どうにも凛紗の姿が近くに見当たらなかった。前の世界で購入――もっとも、そこは人類が滅亡してしまった世界だから、正確にはお金を置いて交換に持ち出してきたものなのだが――購入した腕時計が狂っていることから、別の世界であることに間違いはなさそうだった。そして凛紗が元から暮らしていた世界というわけでもない。なぜならば、案内された喫茶店の壁にあったカレンダーの西暦が、およそ百年前だったからだ。
「(百年前に飛ぶなんてことがあるんだね……凛紗の言う通り、世界によって時間の進み方は大きく異なるらしい)」
その喫茶店はかなり年季の入った、どこか懐かしさを感じさせるような内装だった。明かりは落ち着いていて、いつまでもいたいような心地にさせてくれる。地球外からやってきたというのに、どうして懐かしさを感じさせるのだろう。その疑問の答えは、どうやらマスターと呼ばれる店主が老年の男性で、物腰柔らかだかららしかった。その割にはアルバイトとして働く店員がみな中高生くらいの女の子で、アンバランスな感じもあったのだけれど。
「……改めまして。翠条真織と申します。何があったのかは分かりませんが、ひとまず無事で何よりです」
「ぼくは九條弓依。よろしく。……ぼく自身もちょっと、何が起こっているのかよく分かっていなくてね。申し訳ない」
「何となく、雰囲気がひなのんさんに似ていますね」
「うん? 友達なのかい、その子は?」
「あ、はい。すみません、こちらの話でした」
真織、という彼女を一言で表すなら、可憐。弓依も女の子らしさというものはあったけれど、お嬢様ということもあってか、どこか浮世離れした感じがあった。それに対して、庶民らしさというのはこういうのを言うんだろうな、という印象を覚えた。ただ、それだけではない感じもある。できれば個人の事情にまではあまり深入りしたくないが、真織の雰囲気はそうしてくれなさそうだった。
「突然で申し訳ないけど、ぼくはこの世界の人間ではないんだ。……ああ、いや。人間でもないんだけどね」
「この世界の人間ではない……?」
「君たちの世界にそういう概念があるのかどうかは分からないけど、ぼくは並行世界という存在を知っていて。ぼくの友人いわく、世界によって時間の進み方や世界の様相はまるで異なるようなんだけれど。とにかく、そういうことなんだ」
「そんなことがあるんですね……」
「本来なら、もう一人も一緒に来ているはずなんだけれど。背は君と同じくらいで、肩くらいまで亜麻色の髪がある女の子を知らないかい。あいにく写真の類は持っていなくて、見せられないんだけれど」
「いえ……分かりませんね」
「そうか……何かの間違いで、別の世界に飛んでしまったのかな」
そんな現象が起こるという説明を凛紗はしていなかったが、どんな機械や装置でも完璧にはなりえないから、仕方ないだろう。ただ、今や普通の人間になってしまった凛紗の身が心配ではある。こうして倒れているところを助けられ、コーヒーをいただいているから、ぼくの方は全く問題なさそうだが。ただ、ぼくたちがいた世界に近い道をたどっているはず、という凛紗の言葉を考えると、話次第ではあまり良くない方向に向かうかもしれない。
「……その言い方だと、事故でこの世界にやってきたわけじゃなくて、目的があってってことになるけど。合ってるの?」
「うん、合ってるよ。……おっと、君はまだ名前を聞いてなかったね。よければ」
「遼賀薫瑠。真織のお目付役、兼バイトの先輩ってところね。あと、こっちは花宮香凛。私の相棒」
「ほう。相棒?」
「仕事を二人セットでやっててね。この世界の話にもなってくるんだけど」
どうやら薫瑠は、世界が違えば様々な出来事が起こったり起こらなかったりすることを、説明しなくとも理解したらしい。普通、自分の身の回りで当たり前のように起こっていることを、他の世界では起こっていないのだと理解するのは難しい。そもそも自分の生きている以外に世界が存在するという発想自体、通常はしないからだ。出会ったばかりの頃の弓依とそう歳は変わらないように見えるが、なかなか優秀なのかもしれない。
「ぼくがここへ来たのは、いろんな世界の記憶や出来事を、未来へ残していくためだ。この小さな手でもできることを……とね。だから、よければぜひ聞かせてほしい」
この世界にはアヤカシ、と呼ばれる存在がかつていた。それが今もどこかで人間の生活を見ているのか、それともすでにいなくなっているのかは分からない。が、そのアヤカシの血を引き継いだ半妖獣と四半妖獣がいることは確か。昔はいずれも人間を隠れて喰っていたが、やがて半妖獣は人間と協力することが得策と判断し、人間を喰うことをやめた。そしてアヤカシ由来の特別な能力を使い、人間を喰い続けている四半妖獣との戦いを続けている。
「……そういう話し方をするということは、君たちがその半妖獣なのだろうけど。どうも真織だけ、違うニオイがするね」
「……分かるのね、そんなこと」
「言っただろう、ぼくは人間じゃないって。それに、真織の反応がすごく分かりやすかったからね」
ぼくが薫瑠から話を聞き始めると、途端に真織がそわそわし始めたのだ。薫瑠の話は半妖獣は人間を喰わない、対して四半妖獣は人間を喰うということだから、真織はその枠に当てはまらないのだろう、ということはすぐに分かった。
「……私は四半妖獣なんですけど、性格のせいもあってか人間を食べなくて。それが、特別な血のせいなんだって、分かったんです」
「特別な血、ね。そもそも人間とは違う血なんだから、みんな特別なんだろうけど。それを言うのは野暮かな」
「ええ、野暮よ」
「……そう言われてしまうと少し辛いものがあるね。人間のジョークを、最近はなかなか覚えたつもりになっていたんだけど」
薫瑠がどうにも手厳しい。もう少し優しくしてくれてもいいんだけどなと思いつつ、話を続ける。
「それで、特別な血、というのは?」
「……私の兄は、世界をリセットする力を持っていたらしいのです」
「……急に話が壮大になったね」
「アヤカシの血が、四半妖獣の数が減りすぎないように調整するよう、本能に働きかける……ひなのんさんが、そう言っていたんです」
「なるほど。アヤカシそのものがまだどこかにいるかもしれないと言ったのは、それが理由か」
「はい。……私たちのことを、どこかで見ている存在がいるのかもしれない。そう言う人もいます」
「人類の滅亡を二度見てきたぼくからすれば、人間や世界を見守る神などいない、と言いたいところだけれど。そういう話があると、なかなか言い切れはしないね」
「……その力は、四半妖獣の数が減るたびに、誰かに宿るのだと言います。四半妖獣が人間を食べ、それを食い止めるために半妖獣の方たちが戦う限り、その歴史は繰り返される……と」
「……」
ぼくも地球にやってきて、それなりの知性は身につけたつもりだ。弓依に擬態することで得たもの以外に、たくさんのことを学んできた。だからこそ、そんな不幸な力を宿してしまった真織のお兄さんが、今どうしているのか――どうなったのか、想像できてしまった。
「……ぼくがかつていた世界では、人類が滅びた」
「……!」
「この目で見たわけではないんだけどね。ぼくもかつては、誤解によって人間を滅ぼそうとしていた側だった。今は偶然、別の世界で暮らしているけれど、二度とそんなことがないように、この手でできることをしたいんだ」
「救世主、なんですね」
「違うよ」
それだけは、否定しなければならない。一つ、人間を救えなかった世界を知るぼくは、救世主などではない。大きな責任を前にして逃げ出しているようにも聞こえるけれど。
「世界を救うなんて、そんな大層なことはできない。ぼくにできるのは……目の前にいる誰かを笑顔にすること。それができれば、御の字だと思うよ」
「……たとえ、絶望的な事態がいつ起こるかも分からない世界が、人が、目の前にあってもですか」
「……!」
ぼくは真織の顔を見る。その顔は決意に満ちていた。とても、弓依と同年代とは思えなかった。弓依だって、お嬢様だからこそか、どこか普通の高校生とは違う考え方をしている節があった。そんな弓依を見てきたぼくが、たじろぐほどだったのだ。真織はもしかすると、ぼくが想像するよりずっと壮絶なものを見てきたのかもしれない。高校生一人が、とても抱えきれないほどの。
「……ぼくがもう一度、この世界にやってこられる保証はないんだ。ぼくの友人が並行世界に行ける装置を作ってくれたのはそうだけど、まだまだ不完全だと思うし、本人もそう言ってる。どんな世界にも行けるわけじゃないし、飛ばされる世界はランダムだ。けれどいつかは、またここに来られる日が来るとぼくは信じてる」
「……そうやって言う時点で、あなたはすごい人ですよ」
「そうかい」
「他にもいろんな世界があって、しかもそれぞれでどんなことがあったか、どんな人が暮らしているのか、そんな記憶を集めようとしている人なんて、どこを探してもいないと思います。あなただからこそ、できるんだと思います」
「……会う人みんながそう言ってくれるなら、嬉しいんだけどね」
実際はそんなに単純ではない。この世界は自分たちだけのものだ、よそ者の好きにはさせない。そう主張する人がいてもおかしくない。それでも、これ以上悲しい目に遭う人間が出てほしくない。そんな単純な理由で動いてもいいんじゃないか。
「……私たちの世界に妖獣が、アヤカシが存在する限り、私たちはいつか来るかもしれない、滅亡と向き合い続けなければいけません。そして、妖獣やアヤカシそのものをなくすことは、できない」
「……」
「だからこそ、弓依さんが来てくれたことが、すごく嬉しいんです。だって、弓依さんの世界は、私たちの世界とは違う法則で動いているから」
「それは……」
「法則が違えば、同じものを見た時に感じること、発見することも違ってくるはずです。だから」
「……ぼくが、この世界のことをもっと知ればいい」
「そのためなら、私は多少の痛みなんて何ともありません」
「もしぼくが何もできなかったとしたら、」
「それは仕方ありません。どんな人間だって、完璧な人はそうはいません。弓依さんだって、たとえ人間じゃなくても同じことが言えるはずです」
まるで、もっと人生の先輩と話をしているようだった。凛紗も大概だけれど、ぼくの周りには達観した人間しかいないのか。それが少し、可笑しく思えてきた。
「……分かった。ぼくは、ぼくにできることを精一杯、やらせてもらうよ」
それから数日して、ぼくは真織たちの世界にいったん別れを告げることにした。いつかまた、戻ってこられるのを信じて。というより、戻れないと困る。ぼくの手には、この世界での普通の人間、薫瑠、香凛、そして真織の血のサンプルがあるからだ。
「幸い、医者の知り合いならいるからね。次に来る時は、いい報告ができるように頑張るよ」
「焦らなくてもいいですよ。……私たち、待ってますから」
「でも百年後と言ったら怒るだろ? だからなるべく時間をおかないようにするよ。次に来る時も道端に転がってるかもしれないけど、よろしくね」
「はい」
もしもぼくが次に来た時に、この世界の残酷な運命がどうにかなっているのなら、それで構わない。それはぼくという異世界の介入者がいなくとも、自分たちで何とかする力がこの世界にあったという証明になるのだから。でももし、この世界の人たちがどうやってもその運命から逃れられないと悲痛な叫びを上げたなら。その時は、ぼくがぼくにできることをやる。
「いつか、また」
ぼくはすぐに、自分が元の世界に戻ってこれたということを確認する。凛紗の姿は、周りにはない。
「……凛紗は今頃、どんな世界にいるんだろうね」
ぼくは生きていないめったに見つかることのないような、かけがえのない相棒の今に、そっと思いを馳せた。