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最寄り駅を出ると、グンと空気が冷えていて、せっかく温まった身体から容赦なく熱が奪われていく。そういえば、今朝のニュースで初雪の予報が出ていたような……。
マンションまでの一本道を白い息を吐きながら、どちらともなく寄り添って歩いた。
「栗姉、余り飲まなかったね。弱くないのに」
我々の一族は、親戚一堂が会すれば、夜の宴会は避けられない。成人を迎えた今年から、あたし達も酒の席に加えられた。『弱くない』は余計だが、桃より飲めることは、既に証明済みである。
「そりゃ、明日も仕事だもの」
「そっか」
赤信号で立ち止まる。
右斜め上に視線を向ければ、鼻までマフラーをグルグル巻いた桃の横顔がある。街灯の光を受けた長いまつげが、微かに白い。マフラーから立ち上った呼気が凍ったせいだろう。
そう言えば、あたし、30分待たせたお詫びをしていなかったっけ。
「桃、あんた引っ越したばかりなんだから、外食は控えたら? 明日の晩、用事がないなら、あたしん家に来なよ」
「いいの?!」
声のトーンが1段階跳ね、90度あたしに向き直る。
見詰めてくる視線の圧力が照れ臭く、あたしは正面の歩行者用信号から逸らさずに続ける。
「毎日は無理だけど、1人分も2人分も、作る手間は一緒だからね。たまに来るといいわ」
「うわ……栗姉、大好き!」
突然、ギュッと抱き締められた。
「わ、なっ、止めてよ、桃」
車も、人通りもない住宅街の交差点。誰にも見られていないけれど、誰かに見られるのは、恥ずかしい。
「酔ってんでしょ、あんた」
信号が変わったのに、彼の腕は離れない。
「このくらいじゃ酔ってないよ。栗姉、俺……本当に栗姉のこと好きだよ」
桃の吐息が額の辺りを掠める。ずらしたマフラーから顕になった頬が薄紅色で、本物の桃みたいだ。
「あたしも好き。ほら、帰るわよ」
動揺を悟られないように、あたしは努めて平然と返し、彼の背中をポンポンとなだめた。
「違うっ! そんなんじゃなくて!」
急に声を荒らげた桃は、グイッとあたしの肩を掴むと、真っ直ぐに見下ろす。
「俺、ずっと好きだったんだ。栗姉じゃなきゃ、ダメなんだよ」
冗談でかわせない、酷く真面目な表情を受け――あたしの心臓は、馬鹿正直に反応した。
「ま――待って、桃」
「待てない。俺、8年待ったんだ。20歳になったら、ちゃんと告ろうって」
どうしよう。これって、真剣な告白らしい。こんな桃、あたしは知らない。
「だって、あんた……ずっと彼女いたでしょ」
「俺から告ったことなんか、一度もないよ。俺が好きなのは、ずっと栗姉だけだ」
小5のもえみちゃん以来、途切れることがなかった桃の彼女の噂。耳に入っていたあたしは、一度も桃本人の気持ちを訊いたことはない。だって、あたしはイトコでお姉さんで――。
「俺が何で、隣町の中学に行ったか分かる?」
思考の混乱を更にかき回す、桃からの質問。もうあたしの頭の中はマーブル模様だ。
「え……おじさんの転勤先だったからじゃないの」
「違うよ。俺が父さんに頼んだんだ」
「どういうこと」
「俺、ずっと守られてばっかだったから。1人で強くならなくちゃダメだって思った。だから、両親が帰国したのを機に、栗姉から離れて頑張りたいって我儘通したんだ」
「桃……」
あたしの背中に隠れていた、あの細くて小さかった桃が、そんな風に思っていたなんて。
あたしに向く筈がないと思っていた、心。それが、8年間、ずっとあたしを見ていた?
「俺のこと、イトコじゃなく……これからは、男として好きになってよ」
見上げる視界には、至近距離の彼しか見えない。
ふざけている時の表情も、嘘を付いている時の小鼻がピクピクする癖も、よく知っている。そのどちらにも当てはまらない、熱い眼差し。
「――――無理」
あたしは、俯いて呟いた。肩を掴む桃の掌が、ピクンと動揺した。
「あたしはイトコで、あんたより、お姉さん」
そう思わなきゃ、他の女と付き合っている桃の前で笑えなかった。
「あんたを守っていたのは、一番近くに居られると思ったから」
「えっ……?」
「だって振られたら、あたしイトコでもいられなくなる――それが怖かったの」
年に数度の親族会で、気まずくつらい想いをするくらいなら、「イトコでお姉さん」のポジションでいい。
「名は体を表す」――あたしは、硬い殻の中に本心を閉じ込め、バレないようにイガを尖らせてきた。
「もうずっと、ずっと前から好きだった。これから好きになるなんて、無理」
8年前、おじさん達が帰国して、桃が家族と暮らすのは当たり前だと思った。けれど、同じ中学校に通うと信じていたんだ。
隣町に越して行くと聞いて、あたしがどんなにショックを受けたことか。
「――栗姉っ」
肩を掴んでいた掌が背中にスライドし、ギュウッとあたしを抱き締める。
熱を持ったあたしの頬は、冷えた桃のコートに包まれて心地いい。ううん。桃の腕の中が心地いいんだ。
「馬鹿桃。8年も、待たせ過ぎ」
「ごめん。俺、これからは栗姉を守るから」
「……仕方ないわね。守らせてあげる」
イトコでお姉さんで、彼女。このポジションは、誰にも譲らない。あたしはちょっと微笑んで、桃の背中を抱き締め返した。
ー*ー*ー*ー
「それにしても……」
漸く横断歩道を渡ったあたし達は、少し歩調を緩めて帰路を進む。
「あたし達が付き合ってるって、親達が知ったら驚くだろうね」
イトコ同士は結婚できるし、仲の良い両家だから、反対されないとは思うけど……流石に、ねぇ。
「あ、それ、大丈夫だよ」
「え?」
「俺が栗姉を好きなこと、引っ越した時に話してあるから」
サァ……ッと嫌な冷風があたしを通り過ぎ、足が止まる。
「引っ越した時って……」
「うん。8年前」
桃は、屈託ない笑顔で振り返った。タンポポみたいな、日だまりみたいな……それでいてちょっと得意気に瞳をキラキラさせて。
両家の親達は、桃が隣町に行くと決めた8年前から、彼の想いが成就するのを心待ちにしていたらしい。
「何なの、それ。馬鹿みたいじゃん、あたし……」
あたしだけが桃の気持ちを知らず、自分の気持ちがバレないように虚勢を張ってきたなんて――とんだ道化だ。全く、もう! 年末年始の親族会で、どんな顔すればいいのよ?
想像しただけで、火が出そうだ。いたたまれなくなって、思わず天を仰ぐ。
「ひゃっ」
ピチャッと冷たいものが眉間に触れた。
「あ、雪だ」
桃は無邪気に空を見上げてから、マフラーを解いてあたしの髪をフワリと包む。
「いいよ。桃、寒いじゃない」
「大丈夫。こうすれば、あったかい」
彼は、あたしの額に口づけて微笑んでから、熱の回った唇を重ねた。
天気予報通り、夜半からの初雪が街を染めた夜――あたし達それぞれの8年越しの想いが、甘くかけがえのない果実をつけた。
【了】