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暗い澱みの中に少女が一人。
長い髪を切ることもなく、小さな海が出来ている。長い前髪を雑多に切りそろえ、あるいは髪留めでぐちゃぐちゃにまとめている。髪の毛の量に対して小さすぎる体は、ともすれば海の中で見失いそうになってしまう。それでも俺が彼女を見失わないのは、彼女がにっこりと笑いながら、俺を見てくれるから。
「おはよう」
昼の13時30分。遅いおはようのあいさつを交わしながら、澱みの中に足を踏み入れる。澱みの中には、本や、教科書や、彼女が描いた絵。そして、よくわからないビニール袋にティッシュやペットボトル。コンビニの弁当の袋や、菓子の袋が、モザイク柄の絨毯のように敷き詰められている。
そういったゴミを掃除するのはもっぱら俺の役目だった。
「今日はずいぶんと早起きだな」
いつも綺麗な俺の椅子に座る。彼女は地べたでパソコンに向かっていて、俺のその声に不思議そうに首をかしげる。時計を読み上げてやると、わかったように顎を上げて、しかしすぐに画面に目を落とす。
画面の中は色鮮やかな世界が広がっていて、しかし対照的に彼女は色褪せて見える。小さな顔。白い肌。不健康そうな細い腕に、太ももの辺りから切り落とされた足。今は、どういった体勢なのだろうか。足が失われている彼女の姿勢を、正しい意味で文章にすることは難しい。
「薬はちゃんと飲んでるか?」
楽器のようにキーボードを演奏する彼女に、問う。彼女はしばらく首を傾げたかと思うと、ぽいと薬を投げて来た。ずらりと錠剤が並ぶPTPシートの、空きを数える。どうやら何回か忘れてはいるものの、基本は飲んでいるらしい。飲まなければ、彼女はしばしの痛みに悶えることになる。切り落とされた足はまだたまに痛むようで、それを抑えるための薬で、その薬のせいで彼女はいつも眠たげで、無気力だ。
「ビタミン剤は?」
首を振る。面倒で飲んでいないらしい…うかつに値段を言ったことが悔やまれる。一箱10,000円の高い高いビタミン錠だ、それこそ数は多いけれど、それでも一粒に換算すると50円はする。それを、毎日6錠飲みこと。最初の頃こそ彼女は何も気にせず飲んでいたけれど、面倒で飲み飛ばしていた。
今は、単純にその値段で飲みたくないのだろう。
シートから3つの錠剤を取り出すと、彼女の口の前までもっていく。彼女は顔を錠剤から逸らし、横目で俺を睨む。それでも飲んでもらわないと困る。彼女には、栄養が絶望的に足りていないのだから。
「飲まないなら口移しで飲ませるが」
「………」
無言の抗議。
面倒くさそうに錠剤を見ると、手の上に乗ったそれを彼女は舐め取る。目をつぶって飲み込むと、いつ開けたのかはわからないが冷たそうなペットボトルの中身で押し流す。
「口移しする度胸なんてないくせに」
掠れがちな声で彼女はそう言う。ケホケホと喉を鳴らして、またパソコンに向き合う。数年前の明るい凛とした声と違って、今の彼女の声はどろりと溶けた、チョコレートのように絡んでくる。その変化に戸惑ったのは最初だけで、今はこの声の方が良く聞いている気もする。気もするだけで、喋る機会は昔の方が絶対多かった。
「じゃあやってみるか? お?」
立ち上がり、ゴソゴソとビニール袋をかき集めながらそう言う。言いながら彼女も俺も、そういうことをする相手が居ないから仕方なく。手近なところで色んな事柄を済ませる間柄であり、そういうこともしたことはあるのだが。今しらふでそういうことをしろと言われると、かなり難しい。
………あまりに腕も、体も、足も。細いがため、折ってしまわないか。壊してしまわないか不安になる。
そのため満足したことはあまりない。彼女も同じなのだろうが。
「ふぬけ」
「ごもっとも」
皮肉に皮肉で返す。
文字通りの腑抜けをしているわけだから何とも言えない。どうせ彼女はその笑えないジョークに今更気づいて、内心オロオロとしているのだろう。BackSpaceを押す音が増えたのがその証拠だ。打鍵の音はテンポを上げて、まるで集中しているかのようなふりをしている。無理なテンポで打つ文字は、間違えているようで、何度も消しているのだから余計に間抜けに見える。
ゴミをまとめると、部屋の外に運び出す。1週間でゴミ袋の中は埋まっていた。明日はゴミの回収日なので、出しにいかねばならない。消臭スプレーを何度か吹きかけたそれらをまとめると、口を縛る。
いつか彼女が死んだとき、このゴミ袋の中に死体が一つ収まることになるのか。それとも、きちんど彼女は火葬されることを望むだろうか。その時はきっと、背中に彼女を背負って、近くの山奥まで行くことになるだろう。この手で彼女を燃やすことなど吐き気がする笑えない妄想だが、いつかはそうなる。
「ねぇ」
彼女の隣に座り込むと、彼女が話しかけてくる。パソコンの画面をパッと見せると、そこには桜が舞っていた。素直な感想で綺麗だと言うと、彼女は少し笑って、それを何やら小さなウィンドウの中に落とし込む。ウィンドウの中には一人の少年が居て、その少年の周りに先ほどの桜が舞い始める。
その少年はどこか俺に似ていた。
「モデルが近くにいるとやりやすい」
俺の右の頬を触りながらそう言う彼女は、しかしすぐに画面に目を落としてしまう。
澱みの中に桜が舞っている。いたずらに綺麗と言うことはできない。それは彩度が高すぎて、ゲーム画面には不向きだ。それでも、映像作品としてなら言うことはない。でも、結局彼女が作ったゲームを俺が遊ぶことはないのだと思う。彼女の作る世界は、俺には眩しすぎるし、彼女が欲しいのは画面の中の俺であり、求めるのは肉体だけなのだろうから。
「好きな人、出来た?」
画面に顔を向けたまま彼女が言う。できてないと端的に答えると、鼻で笑ってくる。
「出会いが沢山あるのに勿体ない」
まるで私ならもっと上手くやるとか言いたげな顔だ。憎たらしい……。好きな相手なら目の前にいるのに、それを言い出せない。少なくともやはり彼女はそれを望まないだろうから。喜びはしても、嬉しいと思っても、満たされたとしても。彼女はきっと、自分と同じ澱の中に俺が入らないことを祈っている。
ぐっとこらえた。彼女は俺がそうやって好いていることを、形として伝えてしまうことを恐れている。きっと、俺が好いていることにも気づいているのだろう。だけど、それを形にされてしまうことを恐れている。
だからずっと俺は一人だ。檻の中にいる小さな彼女にずっと心を縛られている。
「私なんかに構ってないで」
「構わなかったらお前死ぬだろ」
「死んでもいいよ。ずっと死んでるような気分だから」
自嘲気味な笑い。
「足、切り落としてから数か月だっけ。ずっと痛いし、痛み止め飲むと気分悪いし、眠いし」
いい事ないよ、ずっと死んだ気分だ。彼女が切れた足に触る。断面には、小さな綿の入った布で隠されている。断面にはもう皮膚も出来ていて、しわがあるだけで綺麗なものだ。それでも彼女は、断面を見たくないらしい。その気持ちは、わからないものでもなかった。そこに足がないということを見たくないのだろう、自らの肉の断面を、見たくないのだろう。確かにそれは、想像することも憚られる恐ろしいものだ。
「それでもお前に生きていてほしい」などとそんな綺麗ごとは言えなかった。
ただ代わりに、お前に死なれると葬儀が面倒だと。そう一言だけ呟いた。それにどこか悲し気に彼女は微笑み、パソコンの電源を落としてしまう。
「今日はもう終わり」
呟いて、俺の頭の上に頭をのせる。髪の毛の感触と、少し遅れて柔らかな感触が膝に落ちる。幾度か頭の位置を変更すると、そのたびに髪の毛の海がざわめいた。
澱の中に彼女が沈み、すぐに寝息が聞こえる。
頭を撫でようと伸ばした手は空を切り、彼女から零れた雫を掬い取った。