右隻の愛 左隻の憎しみ
「右隻の愛 左隻の憎しみ 」
(1)
20畳ほどの大広間の障子戸を開けると、手入れのされた枯山水があって、白壁の向こう側に、高層マンションが2棟、にょっと突っ立っている。
今朝から急に降り始めた雨が、酷くなってきて、障子戸を閉めようかと考えている。
湿ったというより、微細な雨粒の混じった空気が部屋の隅にまで広がっていた。
僕は、なにも模様のない白い屏風を前に座っている。
右わきには、たっぷりの墨と、如何にも恰幅の良い坊さんが一気呵成に禅語でも書きそうな太い筆が用意されている。
僕は、いつ知り合ったのか心当たりのない住職に、屏風に適当に字でも書いてくれと頼まれたのである。
知らない住職なのに、僕は何の遠慮する気持ちも起きない。
それにしても、紙に書いたものを表装するのが普通だろう。
それをいきなり、まっさらな屏風に書いてくれとは、困ったことを頼まれたものである。
住職は、僕の左横に座って僕を見ている。
「屏風なんてものは、こうエイヤッと、字の形なんぞを考えずに書くのがコツなんですってね。」
そう言いながら、ニヤニヤと僕の様子を窺っている。
30分も屏風を前に考えていただろうか。
こんなものは考えたって仕方がない。
たとえ、失敗したとしても、それは僕だけの失敗というものではないだろう。
こんなことを頼んだ住職の方に責任の半分はある。
意を結して、筆にたっぷりと墨を含ませた。
住職は、いよいよかと、膝で立って身を乗り出す。
微細な雨粒が、僕のカッターシャツの襟を濡らして気持ちが悪い。
太い筆を、墨が滴らないか注意しながら持ち上げて、4曲に折り目の付いた右隻の屏風に、「無事如意」と、これでもかというぐらいに勢いよく書きなぐった。
「ほう。」と住職が低く唸る。
なにが、「ほう。」なんだか。
この「無事如意」というのは、僕の造語だ。
ある時、僕は「百事如意」と書かれた額を、どこだったか、確か京都の東山のどこかのお寺で見たことがあった。
その伸びやかな言葉の響きが、どうにも気に入って、どこかで書いてみたいと思ったいたのだ。
でも、時がたつにつれて、その百事如意という言葉が、どうにも歯がゆい言葉に感じて仕方がないようになってきたのである。
そんな伸びやかさは、今の僕には絵空事でしかない。
自分の思うようになるものなんて、何一つとしてないのだから。
そんな思いで考えたのが、「無事如意」である。
「百事如意」に掛けた「無事如意」は、僕流のジョークである。
そのジョークに、住職は「ほう。」と来たのである。
しかし、いま屏風に書いた字を見ていると、なかなか妙味のある言葉である。
ただ単に、如意なるものは、何もないという意味だけじゃなく。
この「無事」という言葉自体が持つ意味と掛け合わされて、「無事」が「如意」であると解釈も出来るじゃないか。
無事には、日常生活で使う事故がない、元気だという意味の他にも、何もしない、求めない、あるがままという意味もある。
なかなか、僕の造語も深いじゃないかと思っていると、住職が、真剣な表情で「成るほど。」と言った。
何が成るほどなのか、もともと僕のジョークなのだから、意味がないはずである。
これなら、「百事如意」をもじって、「百事尿意」とでもしてやったら、どんな反応をしただろう。
「百事尿意」を見て、「ほう。」と言った住職を想像したら、笑ってしまった。
「あなた。」と怜子が言った。
怜子とは、僕の奥さんである。
「あなた、また変な事妄想してたでしょ。今、あなたどっかの世界に飛んでたよ。」
「いや、そんなことないよ。この料理が美味しいから、どんなレシピかなと思って考えてただけだよ。」
そう、僕も解っていた。
これが現実ではなくて、僕の頭の中で勝手に展開されるストーリーであることを。
最近、どういう訳か、普通にしていても、勝手に色んなことを考えだしてしまうという癖が出るようになってしまった。
こんな屏風に字を書くなんてのも、まったくの妄想である。
それでも、妄想と現実が、どちらも溶け合って、僕の思考が成立している。
妄想だけを止めることが出来なくなってしまっているのである。
とはいうものの、生活に支障が出る訳じゃないし、ただ、頭の中で考え事をするだけのことである。
問題ないじゃないか。
「レシピを考えてたって、あなた、おかしいでしょ。だって、笑ってたもん。レシピ考えて、笑いますか。」
「笑ってたかもしれないけれど、覚えてないし。レシピ考える他に、何考えるの。」
「それは、あたしは知らないわよ。でも、笑ってた。」
「そうなんだ。笑ってたこと忘れるなんて、僕ももう年なのかな。」
「ふうん。何だか分かんないけど、そうしといてあげる。」
そういって、怜子は目を細めてスープを飲んだ。
怜子に妄想を指摘されたら、これ以上妄想を続けるのは難しい。
とはいうものの、屏風の右隻だけに文字を書いて、左隻の屏風は何も書かないで終わるのは気持ちが悪いだろう。
たとえ、それが妄想でもである。
そこで、怜子が料理に気をとられている間に、そっと妄想を続けた。
急いで左隻に字を書き込まなきゃいけない。
とはいうものの、こんな時に限って字が思いつかない。
何しろ、ジョークで書いた右隻の「無事如意」である。
もう、それだけで、字としては完結してしまっているじゃないか。
なので、左隻には、何を書いたって蛇足というか、2隻の屏風としてバランスの悪いことこの上ない。
とはいうものの、あれこれ考えている暇はない。
すぐにでも妄想を離れて現実に戻らないと、また怜子のツッコミがくる。
仕方なく、半分ヤケクソ気味に、左隻の4つの折り曲げの、1番左端に、思いっきり筆を振り下ろして、「、」チョンと点を書き入れた。
右隻には、「無事如意」の文字。
左隻には、「、」だけが、3面の余白の次に書き入れられている。
余白の大きさが、妙にバランスが悪いが、これもまた味というものだろうと、自分勝手に決め込む。
横にいた住職が、「いやはや。」と言って腕組みをした。
その姿を妄想して吹き出しそうになったが、これは必死に堪えなきゃ、また怜子に笑ったことを指摘されそうである。
怜子を見たら、そんな僕の心配など知らぬかのように、目を細めて僕を見ていた。
テーブルに置かれれた小さなキャンドルの炎が揺れていた。
妻の怜子は、嬉しそうに見ている。
僕は、テーブルにセッティングされているナイフのニッケルシルバーの刃についた無数の小さな傷が、光の反射で浮き上がるのが気になって仕方がない。
レストランの証明が、蛍光灯でないので、助かった。
安食堂の蛍光灯の白いライトの下で、その無数の傷を見たら、舌の先に金属の違和を感じていただろう。
僕は、どうもニッケルシルバーであっても、あの金属が口の中に入る感じというか、味が大の苦手なのである。
目の前のキャンドルの温かいライトに浮かぶ傷は、鉄の味よりも、その傷がつくのに掛かった時間の長さを僕に言いたげである。
このレストランを訪れた人が、このナイフを握って食事をする。
男性、女性、若い人、年老いた人、或いは、出会いの瞬間であり、別れの瞬間であり、何百人もの人が、このナイフを、握ったり、離したりしてきたのである。
握る。
離す。
握る。
離す。
このナイフは、明日もまた、このテーブルにあって、誰かに、握られ、離されるのだろう。
物には、それを使う人の魂が宿るという。
たとえ一瞬でも、指から握った人の何かが伝わっていてもおかしくはない。
僕は、そっと人差し指でナイフに触れる。
今まで、このナイフを握っては離してきた人たちの魂を感じることは出来なかった。
いや、僕には、ハナから霊感なんてものは、持ち合わせてはいない。
ただ、前に使った人の体温ぐらいは感じるのではと、漠然と思って触ってみただけだ。
勿論、ナイフもフォークも、金属の冷たさと滑らかさを感じただけだ。
ただ、ニッケルという材質は、それでもやや、その金属の表面に柔らかさを感じさせる。
このニッケルを含んだ合金の耐久年数は、どれほどの長い年月なのだろう。
その間、ナイフは握ぎられては、離されてを繰り返すのだろうなと思うと、やがて擦り切れて消滅してしまうぐらい薄っぺらなナイフになって、捨てられてしまうのだろう。
薄っぺらなナイフがヒラヒラとゴミ箱に捨てられることを想像したら、僕の顔が笑っていた。
怜子は、少しはしゃいだ声で、「ねえ、何年ぶりかしら。コース料理なんて。結婚してから食べに行ったことなかったよね。」と言った。
「そうだね、でもここ高かったんじゃないのかな。茉莉子のボーナスなくなっちゃうんじゃないか。それに、茉莉子も一緒に来れば良かったのにね。」
茉莉子とは、私たちの一人娘だ。
「もう、その話はいいの。せっかく茉莉子が、あたしたちの結婚記念日にプレゼントしてくれたんだからさ、今日は茉莉子に甘えちゃおうよ。」
「そうだね、じゃそうしますか。それじゃ、茉莉子に乾杯!」
「バカ。何で茉莉子に乾杯なのよ。あたしたちの結婚記念日に乾杯でしょ。」
怜子は、目尻を思いっきり下げて笑った。
今、気がついたが、今日の怜子のつけまつ毛は、やや太めで目尻の部分を下に向けて付けている。
だから、さっき笑った時も、思いっきり目尻が下がって見えたのだ。
ただ、僕は女性が笑った時に、目尻が下がるのが好きなのである。
怜子は、昔はそんな笑い方はしなかった。
或いは、僕がそんな笑い方が好きだと言うことを知って、そんな風に笑うように笑い方を変えたのであろうか。
こんな事を、例えば仕事帰りに居酒屋で同僚に話したら、何をいい年してバカなことを言っているんだと、その日は、そのネタで大笑いすることだろう。
結婚して20年も過ぎた夫婦では、まあ普通には考えられない。
しかし、怜子の場合は、そう思っても不思議でないような事が、つまりは結婚して20年も経った嫁が夫の好みに合うように変わろうとしていると思える節があるのである。
「あ、このお肉美味しーっ。」怜子が手に持ったナイフとフォークをギュッと握りしめて真っ直ぐ立てて、目を細める。
「あのねえ、そんなナイフとフォークの持ち方は、子供の持ち方だよ。」
「あたし、子供だから。」そう言って、また笑う。
「でも、美味しいね。僕は、もうちょっと味が濃い方が好きだなあ。」
「あんまり濃い味ばっかり食べてたら、身体に悪いよ。」
「何で身体に悪いの?」
「それは知らないけど、そんな気するじゃない。」
「そんな気がするって、何も根拠がないんだ。」
「あ、そう言えば、どこかのテレビでやってたよ。」
「どんな番組?」
「忘れた。」
「あのねえ、、、、。」
僕も怜子も、噴き出すように笑った。
怜子はいつもこうである。
ただ、そんな部分が、僕も娘の茉莉子もストレスを溜めずに暮らしていけるところなのかもしれない。
20卓ほどある、大阪の淀屋橋の近くにある古いビルの7階にあるレストランには、まだ早い時間のせいか客もまばらで、夜の始まりを感じる空間にケダルイ空気が流れていた。
「ホント、喋らないね。」怜子が物足りなそうに言う。
「そうかなあ。」
「ほら、またそうかなあで、すましちゃってる。」
「じゃ、何かしゃべりますか。」
「いえ、結構です。」
いつもこんな会話になるのだけれど、このぐらいの会話の方が安心できるというものだろう。
僕が怜子相手に、ベラベラと喋ったら、きっと言うよ。
「どうしたの?今日のあなた気持ち悪い。」ってね。
僕の後ろのテーブルに若いカップルが座る。
「窓際でよかったね。」
若いカップルの女性が言った。
窓際の席がいいなんて言う女性は、自分勝手な女に違いない。
僕は年々高所恐怖症がひどくなっているのだけれど、それを差し引いても、この窓際という席は、怖くて仕様がない。
この窓の壁の外側は、何もない空間だと思うと、座っていられるものじゃない。
だって、壁1つ隔てた外は、スカスカではないか。
非常に不安定な、頼りない位置にいるのである。
それを窓際だと喜ぶのは、空間の感覚の把握が出来ない人間である。
空間の把握が出来ない人間というのは、そこに居る他の人をも把握できない人間であり、自分しか見えていない人間である。
即ち、自分勝手なのである。
これは僕の20年前からの持論だ。
「ちょっと聞いて。今日のあたしのラッキーメニューは、肉だったのよ。」怜子が身を乗り出して言った。
「へえ、それがどうしたの?」
「今、あたし食べたじゃない。」
「でも、今日はもう数時間しか残ってないよ。」
「もう、ネガティブやねえ。後数時間でも何かいいことあるかもしれないじゃない。もっとポジティブに考えようよ。」
「ポジティブかあ。そう言えばさ、いつも思ってたんだけど、あの朝のテレビの星占いって不親切だよね。」
「どうして。」
「だってさ、ラッキーアイテムとかラッキーメニューとか言われてもさ、あれ朝の8時ぐらいにやってるし、その時点でもう、その日1日は、3分の1過ぎちゃってるんだよ。1日は、24時間だからさ、そうなるだろ。まあ、僕は占いを信じないけれど、どうせなら前の日に次の日の占いをやればいいのにと思うんだなあ。だって、朝起きて、いきなり今日の、ラッキーメニューは、すき焼きですなんて言われてもさあ、どうしようもないよ。」
「あなたって、ヒネクレテルよね。」
「ありがと。」
「褒めてません。」
こんな感じの会話でも、僕にとっては楽しいのではあるのだけれど、怜子には物足りないもののようである。
コース料理を食べた後は、普通はそれで終わりだけれど、僕はパンを追加して、バターをたっぷりと塗って、それをアテにして飲み続けるのが好きだ。
コースで頼まないときは、最後に前菜を注文して、それで飲み続ける。
前菜というものは、メインの前じゃなく、後に食べるのが、美味いんだな。
「あなた、もうそれ4杯目よ。」
「そうか、4杯か。それは縁起が悪いなあ。」
そう言って、ウエイターにティオペペを頼んだ。
ティオペペも、普通なら食前酒だ。
でも、最後にパンとバターで飲むのには、気分なのである。
「あなた、飲み過ぎです。」怜子が強めに言うのだけれど、下がった目尻が優しく僕を包む。
僕はティオペペのグラスを持ち上げて、中に注がれた液体を見つめて、この中にいくつの原子が入っているんだろうと考える。
でも、考えたって分かる筈はない。
しかし、この数字というものは、実体があるものなのだろうかと考えてしまう時がある。
人間は、毎日、この数字に振り回されて生きているけど、実際に数字を目の前に見たことがない。
頭の中だけのものじゃないか。
そんなものに、この世界を任せてしまって良いものだろうか。
勿論、物を数える時には、無くてはならない。
でも、何も10進法で数えなくてもいいのじゃないかと思う。
11進法や12進法で数えても良い筈だ。
12進法なんて、案外便利なものかもしれない。
僕の大学時代の友人に、数字が気になって仕方がないというある種のノイローゼになっているやつがいた。
数字を何度も何度も数えなきゃ気持ちが落ち着かないと、僕に話してくれた。
翌年僕が電話をすると、母親が出て、彼は亡くなったと告げられたのである。
その死因については、訊ねる勇気はなかった。
そんな彼は、或いは数字という実体の分からないものに取り憑かれていたのだろうか。
個で表現するのなら簡単だ。
目の前にあるリンゴはいくつありますかって聞かれても、簡単に答えることが出来る。
でも、物差しを持って来て、テーブルのここからこの場所まで何センチありますかって問題を今作っても、答えられないだろう。
この場所までは、154・7386902、、、、、、正確に表そうと思ったら、無限に時間が必要である。
無限に時間が必要と言うのは、即ち不可能だということである。
僕の友人は、無限の数字を、最後まで心の中で数え続けていたのだろうか。
小数点以下は切り捨てろ!
そう友人に進言してやりたいが、彼はもう死んでしまったのである。
「もう、これでお酒は終わりよ。」怜子が釘を刺した。
そして、「5杯は、縁起がいいでしょ。」とすぐに付け足した。
5杯は、縁起がいいか。
しかし、5を分解すると1プラス4である。
「1番に死ぬ。」
僕もまた、数字の実体のない魔に取り憑かれ始めているのかもしれない。
4は、死を暗示すると思われているが、詩であり詞である。
そう考えると、少しばかりロマンチックだ。
詩や詞は、人に思いを伝えるものであり、言葉の糸を紡いで作られてゆく。
そして、新しい縁が始まるのだ。
僕は、どんな詩を書こうとしているのだろう。
恨み節。
それじゃ、演歌である。
それとも、僕の挽歌だったりするのかもしれない。
「縁起の良いところで、ご馳走様にしますか。」
「それが、あなたのためよ。」怜子は目尻を下げた。
「じゃ、今日のメインイベントだ。」
「メインイベントって、もう食事は終わったわよ。」
「普通の夫婦じゃ、結婚記念日には プレゼントを奥さんに贈ったりするんだってね。」
「何よ、その意味ありげな話し方は。あたし、プレゼントなんていらないわよ。」
「いらないわよって、今までプレゼントなんてしたことなかったし。」
「だから、いらないって。いらない。いらない。」
「いらないって言ったって、もう買っちゃったんだからさ。」
「もう、勿体無いな。でも、ありがとう。」
「安物だよ。」
「えー。安物なの。」
「今まで、こんな僕に尽くしてくれて、本当にありがとうね。こんなこと今まで言ったこと無かったけど、今日はちょうど良い機会だから、言葉にして言いたいんだ。これからの僕の残された時間を怜ちゃんにあげるから、怜ちゃんの残された時間を僕にください。一緒に歳をとっていこう。」
「いいわよ。今までの時間だって、あたしの時間なんて考えたこと無かったもの。だって、それが家族なんだもの。でしょ。」
「ありがと。そんな時間を一緒に刻みたくて、買ったんだ。安物だけど、腕時計。ペアでね。」
「ペアルックなんだ。ちょっと恥ずかしいな。あ、でも可愛い。」
「そうだろ。文字盤がピンクっていうのが気に入ったんだ。」
怜子は、すぐに時計をはめて、天井の暖色系の光にかざして見ている。
僕も、腕時計を箱から出して、ゆっくりと腕にはめる。
「こうやって、あなたといるのが不思議だわ。」
「どうして。」
「だって、あなたが新入社員で入って来た時は、あたしは高卒で会社にいて、どちらかというとお局さん的な存在だったでしょ。今思うと、あたしもそんなに知らなかったんだけど仕事の事、でも、その時は何でも知ってると思ってたのね。だから、何も知らないあなたに、キツク当たってたと思うの。」
「そうそう、キツイこと言われたよ。何でこんな事分からないのって。帰り道でいつも泣いてたんだからさ。」
「えーん、えーん。」怜子は、甘えた声でからかう。
「だから、絶対に私のこと嫌いだと思ってた。」
「そう言えば、初めて飲みに誘った時の戸惑った顔、今でも覚えてるよ。」
「もう嫌だ。どんな顔だった。」
「可愛い顔だったよ。」
「嘘ばっかり。」
それにしても、今日は久しぶりにレストランで食事をして、怜子もいつもより、よそ行きの楽しさを感じているようだ。
いつもは、居酒屋でメニューの話しかしていないからね。
「そうだ、少し歩くかもしれないけど、心斎橋まで行ってみない。」
「心斎橋のどこ?」
「心斎橋の橋。」
「あ、引っかけ橋でしょ。」
「いや、それは道頓堀。心斎橋の北の方にあるんだ。」
「えっ。そんなのあったっけ。」
「橋はもう無いんだけどね。長堀のところに昔、心斎橋の橋があったんだって。それでね、そこはもう川が埋め立てられて普通の道になってるんだけど、そこに昔のガス灯が今でも残ってるらしいんだ。ちょっと見てみたくなってさ。」
「へえ、そうなんだ。あたしもガス灯って見たことない。」
レストランから淀屋橋まで歩いて、地下鉄で心斎橋駅まで出ると、さすがに人が多い。
若者や最近は外国からの旅行者が特に多いそうだ。
心斎橋通りの長堀の横断歩道の両脇にガス灯が設置されていて、ガラスの板で囲まれた中に暖い火が灯っている。
「あれ。これなの。なんか暗い。」怜子が言った。
それは僕も思った。
昔の小説に出てくるガス灯は、明るいというイメージがあったんだ。
でも、今実物を見ると、怜子の言うように暗い。
その理由は考えなくても誰だって分かる。
周りの店の照明やネオンが明るすぎるのだ。
このガス灯の火が明るいと感じる当時のこのあたりは、どんなに暗かったのだろうと想像してみたくなったが、この明るい光の中では無理である。
「でも、あたしこの火の色が好きかもしれない。」
そう怜子が言うと、僕の腕にしがみついて続けた。
「あたしね、たまに、あなたの帰りが遅い時にね、部屋の電気を消してみることがあるの。真っ暗だと怖いから、豆球にするんだけど。そしたらね、何か落ち着くのね。このガス灯の火って、それに似てる気がする。」
「えっ、なに。一人で部屋の電気消して、じっとしてるの?怖いよ、そんなの。気持ち悪いよ。」
半分笑えたけれど、半分驚いたよ、そんなこと知らなかったから。
「でもね、部屋の電気を消すと面白いのよ。家の外って以外と明るいってこと知ってた?」
「考えたことないけど。」
「あのね、暗い部屋から家の外を見るとね、家の前の道もね、明るいのよ。向かいの家も明るいしさ、そのお隣のお家も明るいし、そのお隣も明るいんだよね。そしたらね、思うんだ。私たちの家って明るいのかなって。それでね、思いついたの。あなたが家に帰ってくる瞬間は、思いっきり明るくして、お帰りなさいを言おうってね。」
「ふうん、そうなんだ。でも、お向かいさんから、あの家、夜でも電気消して生活してるようなんだ。大丈夫かなって思われてるよ、きっと。」
「あの家、気持ち悪いって?」そう言って、怜子は僕の胸を叩いて笑った。
心斎橋のガス灯は、これだけの人の中にあって、誰にも気付かれずに、ただ暗い光を灯し続けている。
或いは、周りのお店の電気が消えてくれることを願っているのか。
或いは、誰にも気付かれないことに安堵しているのか。
ここに設置された単なるオブジェがそんなことを思うはずはないのだけれど、毎日同じように暗い火をともしていることが、僕の毎日にシンクロをして、そう思わせたのかもしれない。
「そうだ、折角だからさ、美味しいケーキでも買って帰って、茉莉子と一緒に食べよう。」
「賛成 !ねえ、ローソクつける時は、部屋の明かりを消すでしょ。」
「それは、誕生日。今日は、ローソクはつけません。」
「何でー。いいじゃん。」
そう言って、怜子は目尻を下げた。
僕と怜子は、誰にも気付かれることのないガス灯に背を向けて地下鉄の駅に向けて歩き出した。
道を照らすほどの光をも持たないガス灯に存在価値はあるのだろうか。
そして、誰にも気付かれることのないガス灯を作る意味があるのだろうか。
「ねえ。ガス灯、面白かったね。」怜子が小さな声で笑った。
(2)
「こんなに早く帰ってくるんだったら、もっと違う料理作ったのに。」
「予定していた残業がなくなってさ。えっ、今日のおかずは何なの。」
「いつ帰って来ても大丈夫なようにと思って、おでんにしたよ。」
「そうなんだ。でも美味しそうじゃない。」
「でも、おでん、そんなに好きじゃなかったでしょう。」
「それほど好きじゃないって知ってながら、わざわざ作る奥さんがいるんだね。」
「はーい。ここにいますよー。」
僕は、おでんという食べ物に、いささかの疑問を常々抱いている。
それぞれの具材は、煮込むという作業をすることなく、そのまま食べた方が美味い。
具材の例で言うと、ゴボウ天は、その傾向が顕著だ。
そのまま食べる方が、甘みも弾力もあって美味いことは、誰でも思うだろう。しかも中のゴボウに至っては、その歯ごたえは生でなくっちゃ意味がない。
しかるに、おでんという料理は、それらを全部煮込んでしまう。
つまり、おでんという料理は、素材の本来持っている良さを破壊してしまうという不条理な食べ物なのである。
ただ、どうせ煮込むなら、とことん煮詰めて、具材本来の持ち味を、そのおつゆの味が染み込んで、見た目もクタクタになるまで煮込んで欲しいのである。
中途半端が一番いけない。
そんなおでんを、怜子は僕がその調理法に疑問を抱いているのを知りながらつくるのである。
それこそ不可解だ。
「あ、それから。あと、サラダと酢だこも作ってあるよ。そえからね、出来合いだけど、焼き豚もあるし。他に何か作ろうか。」
「それだけあれば、十分だよ。」
怜子は、僕が毎日晩酌をするものだから、おかずは少なくとも3品、余裕があれば、5、6品用意してくれる。
パートから帰ってから、これだけのことをするのは大変だとは思うのだけれど、毎日作ってくれるのである。
友人に言わせると、尽くされているというのだけれど、おかずを沢山作るのがイ
コール尽くされているということではないだろう。
とはいうものの、僕には料理以外のことをも考えに入れてみると、やはり尽くされているのかと思う。
それにしても、尽くされるというのは、どういうことだろうか。
自分のことはさておいて、僕のために時間も割いて、僕のためになるであろう事をやってくれるということであるとするならば、怜子は僕に十分尽くしてくれている。
しかも、そうすることを、怜子は喜んでいるようにも見えるのである。
そう思うと、僕は本当に幸せな夫であり、幸せな家庭を怜子のおかげで持つ事が出来ていると思うのである。
「怜ちゃん、いつも僕に尽くしてくれて、ありがとう。」
「そうだよ、毎日尽くしてるんだよ。でも、どうしたの、そんなこと急に言って。気持ち悪いよ。」
「いや、別に。」
「止めてよ、もう。明日死んじゃうみたいなこと言うの。」
「でも、本当に感謝してるんだ。大変だろう、僕のために色々やってくれるのって。疲れてる時もあるだろう。」
「なによ、だから気持ち悪いって。でも、あなたが喜んでくれると嬉しいから。」
「あれ、怜ちゃんも気持ち悪いこと言いだしたね。もう夫婦で気持ち悪い話の仕合っこしても気持ち悪いから、この話は止めよう。でも、これからもよろしくだよ。」
「はーい。はは、でも、それは約束できないかもよ。だって私の方が1個年上なんだからさ。」
「ダメだよ。健康で長生きして、僕の介護してくれなきゃ。」
「そうだね。そんな風に出来たらいいんだけどね。」
そう言って、怜子は笑ったが、僕にはどうしてだか切ない顔に変わったように見えた。
いや、気のせいなのだろう。
「茉莉子は、まだ帰ってないの。」
「うん、今日は会社の飲み会があるそうよ。」
「そうなんだ。」
「心配ですか。」
「いや、別に。でも今の会社に好きな人とかいるのかな。」
「そりゃ、いるんじゃないの。さては心配ですか。心配だ、心配だ。ねっ。」
怜子は、からかうように嬉しそうな顔で言う。
「別に心配じゃないよ。でも、怜ちゃんは聞いてるんだろう、彼氏とかいないんだよね。」
「やっぱり心配なんだ。どうなんだろう。いないと思うよ。」
「そうか。」
「でも、もうそろそろ彼氏ぐらい作らなきゃね、茉莉子も。」
「それは、そうだけどね。」
僕は、茉莉子に彼氏ができることに反対ではない。
僕が、こんな風に頼りないから、茉莉子を助けられる人は多ければ多いほどいい。
いざとなった時、そして僕がいなくなった時に、茉莉子に辛い思いをさせたくない。
いや、辛い思いをさせた時に、支えになってくれる人がいなければいけないのである。
それは、怜子もいるのだけれど、出来れば家族でない人間の方が僕にとって安心できる。
それに、その場合は、異性の方が親身になってくれるだろう。
怜子がからかうような、茉莉子の恋愛対象の相手へのヤキモチの感情というか、茉莉子を束縛しようという気持ちもないわけではない。
しかし、その感情以上に、僕自身が僕自身を不安定で危うい存在だという考えから逃れられないでいる。
そのうちに、どうにかなってしまいそうな自分がいるのである。
こんな僕には、茉莉子は守ることができない。
だから、茉莉子を助けることの出来る人が必要なのである。
「私たちも、若い時は楽しかったよね。ねえ、覚えてる?通天閣に行った時のこと。」
「覚えてるよ。確か帰りに串カツ食べてさ。地下鉄の階段で転んで左手の小指を折っちゃったんだよね。でもそのままデート続けたんだ。」
「あー、そうそう。あの時はびっくりしちゃったわよ。それにその時、小指が折れてるなんて言わなかったもの。次の日に聞いて何で言わないのって思ったわよ。」
「だって、あの時は怜ちゃんといる時間を大切にしたかったんだ。ずっと一緒に歩いていたかったんだ。」
「うん。次の日、それを聞いて本当に嬉しかったんだ。あたしって、本当にあなたに愛してもらえてるんだって思って。」
「あの時は、必死だった。」
「それまではね、あなたの気持ちを疑ってるところがあったのね。あたしの方が年上だし、そんな美人じゃないし、それに仕事ではキツかったでしょ。あたしなんか好きになってくれるはずないって、デートしながら、そうどこかで思っていたの。でも、あの小指事件から、あなたの前で自然なあたしでいられるようになったのよ。」
「今でも思うよ。小指折って良かったってね。」
そう言って笑うと、怜子は目尻を下げた。
「あーっ。違うの、違う。あたしが言いたかったのは、通天閣に上った時のことよ。あなた高いところが怖いって、あたしの腕にしがみついて、足を小刻みにしか動かせなくて、おじいさんみたいだったのよ。あの時のこと思い出したら、今でも可笑しくって、、、。あははは、、、。」と、のけぞりながら笑う。
「そんなに可笑しいの。」
「だって、ペンギンみたいだったのよ。ペンギンよ。」とまた、大笑いをする。
「どうも、あんな高いところはダメだな。それにしても、あんな塔みたいなものって必要なものじゃないだろう。存在の理由が極めて短絡的だ。ただ、単に高くて眺めが良いところを作ったら、あんまり物事を深く考えないバカな人間が喜んで上るだろうっていう安易な考えで作ってるだけじゃないの。無意味だよ、あんなものは。」
「でも最近は上りもしないものね。東京タワーの下まで行って上らないって言った時はびっくりしたわ。折角下まできたのに。」
「下まで行ったんだから、それでいいじゃない。」
「もう、ほんと、あれだわ。もし、あたしが東京タワーの上で何か事故があって『助けてー。』って叫んだら、助けに来てくれるの?」
「僕は東京タワーの上には上らないから、怜ちゃんがいくら叫んでも僕には聞こえないよ。」
「冷たいな。」
「だって、聞こえないんだもん。」
「じゃ、あたしが東京タワーから落っこちて死んじゃってもいいんだ。」
「だから、聞こえないんだから、仕方ないでしょ。あ、そうだ。怜ちゃんが落っこちても、気がつかないかもしれないよ。まさか、落っこっちゃってるなんて思わないもの。それで、ずっと下で待ってるわけ。いつまで景色見てるんだろうって思いながらね。遅いなぁなんて思いながらアイス買って食べるね。」
「ひどーい。あたしが落っこちて死んでるのにアイス食べるんだ。」
「だって死んじゃったの知らないから。」
「でも、人が東京タワーのテッペンから落ちてきたら、さすがにみんな騒ぐでしょ。だったら気づくんじゃない。」
「でも、まさか怜ちゃんだとは思わないでしょう。だから、下で待ってる。」
「でも最終的には分かっちゃうんだ。あたしが落っこちて死んだこと。」
「いくら僕だって、怜ちゃんが死んじゃったら、僕は東京タワーに上っていくよ。高所恐怖症なんてクソクラエってね。」
「あたし、落っこちて下にいるのよ。何で上っていくのよ。」
「本当だね。じゃ、もう東京タワーとか高いところには僕も怜ちゃんも上らないことにしようよ。」
「いいよ。そうしてあげる。いつも、あたしがあなたに合わせることになるのよね。」
「それにしても、茉莉子の帰り、遅くない。」
「もう、子供じゃないんだからさ。ひょっとしたら通天閣でも上ってるのかな。」
怜子は、そう言って、僕の備前焼のジョッキにビールを注いだ。
でも、僕は、怜子の通天閣のフリには無視を決め込む。
備前焼にビールを注ぐと、きめの細やかな泡が立つ。
とはいうものの、僕はこのビールの泡が飲む時に邪魔になって仕方がない。
「この泡、要らないんだけどなあ。」
そう言うと、「じゃ、グラスにすればいいじゃん。」ときた。
それは、最も至極でございます。
まだ製造日から日にちの経っていないのだろう、柔らかさのある香りを鼻の奥で楽しむ。
僕はビールを飲む時は必ず瓶の製造年月日を見る。
世間ではあまり気にしないようだけれど、ビールは製造年月日の新しいものが断然にウマイ。
「やっぱり、新しいビールはウマイね。」
「またやってる。そんなの同じよ。」
「それが違うんだなあ。まあ味覚の鈍感な怜ちゃんには分らないだろうけれどね。」
「じゃ、こんど目隠しして古いビールと新しいビールを当てっこしたら絶対に分るんだよね。」
「そんなの簡単だよ。」
「じゃ、間違ったら、もう一生ビール飲まないことにする?」
「なんで一生なの。間違っても飲みます。一生飲みますよ。」
「なあんだ。やっぱり分んないんだ。」
こんな他愛のない日常が続いてくれることが、幸せなんだと怜子の目尻を見ながら考えていた。
(3)
「いやあ、よく来たね。」
僕と、怜子が、出迎えた。
平君は、僕と同期で、明子さんは、1つ下の後輩だ
「お邪魔します。今日は、茉莉子さんは、いるんですか。」
いきなり、平君が言う。
「いや、いないけれど、どうして。」
「あはは。やっぱり。平先輩は、茉莉子さんのファンなのよね。」と明子さんが、大きな口を開けて笑った。
「おいおい、僕の娘だよ。年齢を考えてよ。というか、君も奥さんいるんだから、内の茉莉子に、絶対に手を出すなよ。」
「ねえ、平君。うちの人、普段は、パパしてるでしょ。」と怜子も笑う。
「そうですね。でも、恋愛に年は関係ないですからね。」
「いやいやいや。だから、お前は結婚してるから、絶対に近寄るなって。」
「だからさ、平君。奥さんと別れてからにしてよ。」と怜子が、話を続ける。
「だから、平は、絶対にダメ。」
平君も、明子さんも、半年に1度ぐらいは、我が家に押しかけてくるようになった。
今日も、理由はないけれど、やってきては、僕の秘蔵のウイスキーを飲もうって算段だろう。
怜子も、パーティとまではいかないが、そんな手料理を作るのが楽しいようで、昨日から、準備をして待っていた。
「奥さんの手料理、美味しいですよね。いつも。」
平君は、お世辞でもないような言い方で、怜子に言った。
「そうでしょ。私、結構、料理上手いのよ。」
「これなら、お店を出しても、流行るんじゃないですか。」と平君も、これはお世辞だろう。
「そうかしら。私、お店だそうかしら。」
「そうですよ。奥さん、才能あるんだから、それで稼がなきゃ。」
「そうよね。ねえ、あなた、私、お店だそうかな。」
怜子は、本気なのか、冗談なのか、僕には解らない笑い顔を見せる。
「別に、お店出す必要なんてないさ。」
「そうよね。私にはできないわよね。」
そう言って、笑って見せた。
「奥さんは、良いですよね。才能もあって、働く気持ちもあって。うちの娘なんて、才能もない上に、学校卒業したのに、まだ就職もする気なんて、これっぽっちもないんですよ。毎日、遊んでばっか。」
平君が、ため息をもらした。
「その内に、遊ぶのも飽きてくるわよ。」と怜子が言った。
「でも、働かないなんて、ダメよね。平先輩も、もっと娘に、強く言わなくちゃ。」明子さんが、平君を責めるように言った。
「だって、社会に出て、働いてこそ、一人前でしょ。」
「厳しいね、明子ちゃん。」怜子が、その口調にびっくりしたように言う。
「でも、そうでしょ。ね、先輩。」
僕は、こんな理屈にもならない話には、どうも反論をしたくなる性格だ。
あることについて、よく考えもせずに、持論を押し付ける。
あたかも、それが正論のように。
「危険だな。それは、危険な考え方だよ。明子ちゃん。」まずは落ち着いた言い方で説明をしよう。
「えっ、どうしてですか。」
「君は、働くことが善で、働かないことが悪だと思ってはいないかい。」
「そうですけど。えっ、違うんですか。」
「うん、大いなる間違いだなあ。そんな発想をしていたら、非常に危険だよ。」
明子さんは、僕の危険だという言葉に、ビックリしたようだ。
「先輩、どうして、危険なんですか。」平君も、理由が気になるようだ。
「それは、人間選別につながるからさ。」
「人間選別って。」平君が、呆れたように言葉を繰り返す。
「じゃ、平君。君は、どうして働いているんだい。」
「食べるためです。お金が必要ですもん。生活するには。」
「そうだね。それは正解だ。お金が必要だから、働く。でも、それじゃ、働かなくてもいいお金があったら、どうだ。」
「それは、でもやっぱり。働かないといけないと思います。」と明子さんが、途中から言葉を挟んだ。
「何故、働かなくちゃいけないと思う。」
「だって、そうじゃなきゃ、この社会が回っていかなくなるじゃないですか。」「そうだね。でも、1人ぐらい働かなくても、社会は回っていくよ。働いてない人を見て、私も働かないようにしようなんて思う人はいないし。」
「でも、みんな働かなくなったら、みんな死んじゃいますって。」
「いや、誰かが、これじゃだめだと思って、働き出すよ。社会が回らないなんて、そんな心配いらないよ。それにさ、誰も働かないで、みんなが死んじゃうんだったら、それもまた人類の運命だよ。」
「運命って。」怜子がつぶやいた。
納得のいかないような明子さんに、僕は、続けた。
「それにさ、働くことが、社会を回すことだなんて言っちゃうとさ、そこに職業の貴賤が発生しちゃうんだなあ。解るかなあ。解んないだろうなあ。ははは。知ってる。ねえ、このギャグ知ってる?」ここで少し昔流行ったギャグを挟む。
全員、ポカンとした顔である。
「いいかい。解るかなっていうギャグは、解んないとしてさ。働くことが、社会を回すという理由で必要だなんて、言ったらさ。そこに善悪が発生しちゃうよ。働くことが善で、働かないことが悪。まあ、明子ちゃんは、そんな考えだだったよね。それに、良い仕事と、悪い仕事の差別が出来ちゃう。優劣も出来ちゃうな。それと、貢献度にも差が出てきちゃう。そんでもって、その基準が、これ、人によって判断が違うしさ、結構ややこしいよ。医者は、良い職業だと思うかな。明子ちゃん。」
明子さんは、何かの引っかけがあるのじゃないかと、一瞬答えを戸惑ったけれど、言った。
「ええ。いい仕事だと思います。」
「そうだよね。医者は、人の命を救ったりするもんね。良い仕事だよね。」
「じゃ、風俗嬢は、どう?社会を回す良い仕事だと思う?」
「えーっ。そんなの、引っかけだよ。でも、風俗嬢も社会を回すっていう意味では、必要なのかもですよ。」
「そうだよね。じゃ、医者と風俗嬢は、同じだということだよね。子供が風俗嬢になるって言っても、大歓迎するんだよね。」
「あのねえ。無理やりやな。」と、怜子が口を挟む。
「まあいいや。じゃ、働くって、いろいろあるけれど、貴賤は無いとしてさ、社会を回すのに必要だとかになったら、そこにまた差別が出てくるよ。だって、普段、僕も明子ちゃんも平も、サラリーマンしてるけれど。1日に8時間働いている人がいるとするね。というか、あの8時間という数字が一般的な物差しになってるけれど、あの数字って、誰が決めたのかな。その理由ってなんだろう。まあ、それは置いておいてさ。1日に、4時間働いている人もいるし、パートとかね。1日に12時間働いている人人もいるよね。働いている時間が違うけれど、これは同じなのかな。」
「それは、違うけど。同じぐらい偉いと思います。」
「へえ。じゃ。1日に5分だけ働いている人は、どう?」
「また、無理やりが始まりますよー。」怜子が言った。
「全く働いていない人と、5分働いている人と、そんなに違うかなあ。5分働いている人が、働いてない人に向かって、お前は、働いていてないから、悪人だ。なんて、言っても、その理屈は正しいのかな。」
「先輩、話が極端すぎます。でも、そういわれたら、困ります。」
と言いながら、明子ちゃんは唐揚げを口に放り込む。
「だって、1日に4時間働く人と、8時間働く人は、社会を回すという意味では、4時間働く人は、8時間働く人の50パーセントしか、社会を回していないよ。
だから、その人は、半分善人で、半分悪人ということになるよ。じゃ、私は、1日に24時間働くって言ったら、もうそれは、全身善人だ。」
すると、平君が口を挟む。
「そういえば、そうだね。確かに24時働く人は、善人ですね。」
「いや、そっちかい。」怜子が笑った。
「奥さん、でも、やっぱり、働くことが善としたら、そこに時間の長さで、善悪のポイントみたいなのが、違ってきますよね。」
「そうかなあ。」怜子は、納得をしようとはしない。
「というかさ。働くことが善だと考えたら、時間もそうだけれど、自分の仕事を振り返ったらさ、そんな24時間も働いてないし、それほど社会に役に立つことばかりしてきたと自慢できるほどのこともしてないし。社会に貢献している他の人の事を考えたら、恥ずかしくて、こんな風に、呑気にしてられないよ。それ解ってて、今もまだ、のんびり食べているって、それは、少し悪人なのかな、、、。あ、このシャケのグリルも美味しそうですね。」
明子さんも、平君も、そんな話よりも、目の前の料理の方に興味があるようで、僕の話は、さっきから上の空である。
「さあ、平君も、お酒飲むでしょ。明子ちゃんもね。」と怜子が話を止めさせようと口を挟んだ。
「頂きまーす。」平君も明子ちゃんも、やけに明るい声で答える。
「それにさ、、、。」
「あなた、もういいです。食べましょうよ。」
「了解。でも、平君とこの娘さんも、働かなくても、大丈夫だよってことを言いたかったんだ。」
「ありがとうございます。」と、サンドイッチを口に入れながら答えた。
人は、何故、働くのか、それはお金が必要だからというのは、これは間違いがない。
しかし、それだけでは、説明が付かない。
たとえ、暮らすに十分なお金があったとしても、人は、働こうとする。
詰まりは、働きたいのだ。
その理由は、怜子を見ていれば、解るような気がする。
認められたいのである。
自分という存在を認めて欲しい。
その渇望が、人をして働かしめているのである。
昼間から酒を飲むという行為は、楽しいものである。
いや、朝から飲むというのも、これもまた、楽しい。
勿論、夜の酒も美味い。
とはいうものの、朝や昼の酒は廻る。
「それにしても、平君は、よく食べるね。」
「いやあ、奥さんの手料理が美味しいですからね。」
(4)
あれは、茉莉子が小学校に上がる年だった。
怜子が、茉莉子の手もかからなくなったから、何か仕事をしたいって言いだしたことがあった。
僕は、そう思うのも無理はないと思ったよ。
怜子は、僕と結婚するまでは、キャリアウーマンとしてバリバリやっていたからね。
怜子は、働くことが好きだったし、働きたいと切に思っていた。
結婚してからも、まだ働きたいという女性は、最近は多いだろう。
でも、その理由については、さまざまだ。
単純にお金がないから働かなくちゃいけないという人がいる。
これは、仕方がない。
自分の住む場所を確保しなきゃいけないし、食べるものを確保しなくちゃいけないし、寒さをしのぐ服を買わなきゃいけない。
やりたいこともあるが、その前に、まず生きることだ。
しかし、そんな理由で働くのは、辛い。
自分のやりたいことが目の前を通り過ぎて行ってしまうのを、横目で見ながら生きなくちゃいけない。
友人たちが、そのやりたいことの流れに易々と乗っかって滑り去っていくのを、見て見ぬふりをしている自分自身に気が付かないように、目をつぶって固まっていなくちゃいけない。
時間だけが、過ぎていく。
お金がないということは、そういうことだ。
もし、人生を楽観的に考えられる薬が発売されたら、きっと売り切れる店が続出するだろう。
何故なら、僕だって欲しい。
とはいうものの、ただ、生きるために働く。
本当は、それが正解なんだろうな。
そんな風に生きることしかできない僕なんかは、その理由にこころ落ち着くものを感じる。
理由が単純で、これが本来の本当の労働ということなのかもしれない。
そんな、働く理由もあるのだろうけれど、怜子の場合は、そうじゃない。
勿論、僕もそれほどの収入がる訳じゃないけれど、ただ食べていくぐらいのものは、毎月貰ってはいるのである。
女性が働きたいと思う理由に戻ると、もっとゆとりのある考え方もある。
自分の時間が欲しいから共稼ぎをするという考えだ。
ただ、日々を生きていくだけじゃ詰まらない。
旅行もしたいし、美味しいものも食べたいし、自分の時間だって欲しい。
そんな考え方をする若い人は増えているのじゃないだろうか。
生活設計から見ても、ダブルで働くのは、将来の計画も立てやすい。
でも、怜子の場合は、そういうのでもない。
或いは、こういう理由もある。
自分のお店がやりたいから、だから働きたいという理由だ。
もともと、雑貨やスイーツが好きで、自分でそんなお店が持てたらなあと考えていて、結婚して、少し余裕が出て来たから、この機会に、夢を叶えたいという訳だ。
いいじゃないか。
そんな風に、自分のしたいことを出来るというのは、素晴らしい。
生きていく手段として働くことにガンジガラメになっている僕からみたら、羨ましい限りだ。
生活と夢の両方を手に入れようなんて、それが出来ると信じて疑わない人は、そこから、その人の素性の良さが見て取れる。
普通の人なら、現実世界を見て、いや、見せつけられてと言う方が正解か、そんなの夢だなと、計画する前から、諦めてしまう。
周りの人が、そうだからである。
でも、出来ると考える人の周りには、それが出来てしまう人が自分の周囲に集まっているのだ。
だから、出来ると最初から疑わない。
育ちが違うのである。
とはいうものの、怜子の場合は、そういうのでもない。
別に、これという趣味もないのだから、こんなお店を持ちたいなんてこともない。
だから、自分で何かをしようとは考えていないのである。
或いは、こんな理由の女性もいる。
ただ、身体を動かしたいという女性である。
所謂、貧乏性というやつだ。
じっと座ってテレビを見ているなんてできない女性である。
動かなくても良いものを、動いてしまう。
ただ、それだけなら良いのだけれど、人が動いていないと、それを批判しだしたりするようになると、これは厄介なことになってくる。
すべてが自分を基準にして考えるからだ。
考えてみれば悲しい女だけれども、本人は案外幸せなのかもしれない。
とはいうものの、怜子は、これにもあてはまらない。
怜子が働きたいと言い出したころのことを考えていたら、ベランダに鳩が飛んできて、ポポと鳴いた。
僕は、鳩を追いやろうとベランダの戸を開ける。
わざと大きな音をたてて開けたのだけれど、いっこうに逃げる様子もない。
ただ、鳩はそこにいる。
僕は、さて、どうしたものかと、鳩を見ているのだけれど、鳩も僕を意識しているのかどうなのか、ただそこに居る。
困った。
足音を立てて脅かしてみようか。
2、3度、スリッパで、パタパタと音をさせてみたが、1メートルほど後ろへ下がったはいいが、そのままだ。
そうだと気が付いて、排水溝に木の枝を運んできていないかを確認した。
以前、ベランダの排水溝に鳩が卵を産んで、さてヒナが生まれるかと見守っていたら、ついに孵らずに、そのまま鳩は、どこかへ飛んで行ってしまったことがある。
鳩が産み落とした卵を新聞紙でくるんでゴミ箱に捨てるときは、何か大切なものを捨てているという罪悪感にかられて、捨てた後も、ずっと卵のことを考えていたことを覚えている。
鳩のせいで、そんな罪悪感は、また味わいたくない。
当の鳩に至っては、孵らないと分かったら、すぐに卵を捨てて、どこかへ飛んでいった。
いい加減なものである。
でも、それが本来の生き物の在り方なのかもしれない。
そもそも、未練なんて感情があるから、身動きが出来なくなってしまうのである。
愛する人への未練、夢への未練、やりたい仕事への未練、生きることへの未練。
そのどれもが、生きることを窮屈にしている。
それらの未練をすべて捨て去ったときに、人は鳩のように空を自由に飛べるようになるのかもしれない。
そして、最後に残った、人に愛されたいという未練を捨てた時に、人はこころも自由になれるのだろう。
「まあ、いい。」
排水溝に、巣をつくってなければ、鳩がベランダに居るのは、まあ、いいことにしよう。
諦めてベランダの戸を後ろ手に締めたら、ポポと、また鳴きやがった。
いつまで居る気なのかねえ。
黒いマグカップにインスタントコーヒーの粉をスプーンに2杯入れる。
家には、インスタントコーヒーと本格的なドリップ用の豆があるのだけれど、僕が1人で飲むときは、インスタントコーヒーで済ませることが多い。
済ませるというと、どうもインスタントコーヒーの方が劣っているように聞こえるが、そうではない。
とはいうものの、そんなことを言う僕も、始めはインスタントコーヒーを馬鹿にしていた。
馬鹿にしていたというよりは、安物扱いしていたというほうが正解か。
それまでは、自分1人で飲むときも、ご丁寧にも、豆をお店で挽いてもらってドリップで淹れていた。
香りを比べたら、インスタントの比ではない素直さがある。
美味しいことは間違いがない。
それが、最近は、独りの場合は、インスタント一辺倒である。
あれは、たしか10年ぐらい前だろうか。
京都のある美術館に学生時代の友人が勤めていて、用事はなかったのだけれど、京都へ来たついでに訪ねてみたときのことだ。
突然の訪問に、僕の相手などしてはいられなくて、待つことになった。
友人の仕事が一区切りつくまで、事務所の中の応接用のソファに座っていた。
広い事務所に、職員は2人だったか。
何気なく置かれた図録を見ていると、シルクロードの壁画だろうか、大きく見開きの写真があった。
その壁画の赤い色が、京都の祇園のお茶屋の壁の色のようでもあり、どこか四方を山に囲まれた閉鎖された空間に広がる夕焼けのようでもあった。
この赤を、どうやって言葉で表現したら、この色を知らない人にも通じるのだろうかと考えていた。
勿論、ベンガラ色とか、血を感じさせる茜色だとか、そういう言葉はあるだろう。
でも、それだけでは、このシルクロードで砂や風に耐えて来たこの赤を表現できていないのである。
まあ、不可能だろう。
もともと、目に見えるものを、言葉にすることなどは、不可能なことなのだ。
それは、言葉だけに限らない。
今見ている図録だってそうである。
本物を、そのまま写し取るカメラだって、それを正確に紙に描く印刷だって、実物と見比べると、全く違うものであることに気づかされる。
僕は美術館に行くと、何が嫌だと言って、あの最後にあるミュージアムショップが嫌なのである。
折角、素晴らしい絵や彫刻を見て、感動をしたのにも拘わらず、出口で売っている展覧会の図録や絵葉書を見せられると、一瞬にして、今までの感動が陳腐なものにすり替わってしまって興醒めてしまう。
あれは、最新の技術を駆使したって、本物の10パーセントも写し得ないものだろう。
そんなものは、見たくないのである。
詰まりは、写真だって、本物を正確に表現できないのであるから、言葉で何かを正確に表現するなどということは不可能なのである。
ある対象物を、言葉を使って、或いは、筆を使って表現をすることは可能だ。
でも、その言葉や絵から、もとの対象物を、ありありと感じることは、不可能である。
どんな天才が言葉や絵で伝えようとしても、無理な話だ。
ただ、それは読み手の想像に任せるしかない。
一旦、言葉や絵にしてしまえば、それは潔く世に放ち捨てなければならない。
見る者の技量の前には、作者の技量の大小なんて、意味のない話であるからだ。
ある時、僕は写実絵画というものを知った。
千葉にある写実絵画専門のホキ美術館だ。
そこで衝撃を受けた。
今まで、写実絵画なんて、見向きもしなかった。
写真と言う技術がある現代において、見た目をそのまま写すなんていう行為に、果たして、どれだけの意味があるのかと思っていたのだ。
どんなに巧妙に描いたって、写真には敵わないのは明白だ。
絵画とは、自分が見たものをキャンバスに描くのだけれど、そこに対象物の内面を描きこんでこその絵画だ。
そういった試みが、今までの絵画の流れになって発展してきた。
あるいは、今見えている部分だけでなく、その裏側や、側面も含む、見えている1部ではなく、見えていない部分も組み入れた全体を描こうとする試みが、絵画である。
そんな試みが、ある表現では、極端にデフォルメさせていたり、抽象的になったりと、見ている物を迷わすような表現になってしまうのである。
でも、それが求めるということだ。
そんな絵画に対する考えが、このホキ美術館に行った時に、まったく覆されてしまった。
中でも、生島浩さんの作品を見た時に、これは写真を超えていると、ハッキリと感じたのである。
写真は、あくまでも、その見えている物を、忠実に写し取るものである。
なので、完全に写し得たとしても、コピーの範疇を出ることはできない。
でも、生島浩さんの「5.55」を見た時は、その絵の前を動くことができなかった。
対象物の素材の女性の美しさもあるけれども、その絵の中の女性に恋をしてしまったのである。
ずっと立ち尽くしていた。
僕にとっては、その絵の中の女性は、間違いなく実在していたのである。
いや、本物のモデルの女性以上に、実在であった。
そして、その絵の中の女性を、生身の女性を愛すると同じ感情で見つめていた。
写実絵画には、写真などでは表すことのできない実在感がある。
というよりも、実在そのものだった。
変な話だけれど、僕には実在を超えてしまっているようにも思えたのである。
そう考えると、目の前のものを、言葉で表現するには、まだまだ可能性も残っているのかもしれない。
写実言語のようなものだ。
言葉で、そのストーリーにいるような実在感を表すこともできるのかもしれない。
それも超えて、言葉で実在以上の実在を表現することができるのかもしれない。
というか、話が脱線してしまったが、京都の美術館にいる友人を訪ねた時のことである。
そして、インスタントコーヒーの話をしていたっけ。
今みたいなことをソファで考えていたら、女性の職員が、コーヒーを持ってきてくれた。
美術館にいる女性と聞いたら、普通は、化粧などに気を遣わない痩せた女を想像するだろう。
メガネを掛けて、どこか理屈っぽいというイメージは、少しステレオタイプであるか。
果たして、そんな陳腐な想像通りの女性ではあったのが、その時は面白く感じた。
年齢は、40歳ぐらいだろうか。
細身でX脚なのが、僕の好みではある。
「インスタントですけれど、良かったら。」
藍の花柄の染付に、口のところを金で焼き付けしてある昔風のコーヒーカップが、どこか美術館という場所に似合っているなと思った。
そのコーヒーを1口啜ると美味い。
僕の好みも聞かずに持って来たコーヒーは、既に、砂糖とミルクが入れられていて、それがまた、僕をお客として特別扱いしていない心地良さがあるのだけれど、どういったものか、美味いのである。
本格的なコーヒーではないけれども、なんというかインスタントコーヒーの本来の面目を十分に果たして、ここにある。
そこまで気を遣っては淹れてはいないだろうけれども、どうも美味いのである。
人の味の好みは、これは僕の想像だけれど、たぶん小学生ぐらいまでに決まるのじゃないだろうか。
それまでに、食べた味や香りが、その人の好みになって、また味の評価の基準になる。
僕は、小学生の5年までは、父方の祖母と暮らしていた。
その祖母が淹れてくれるお茶は、いつも出がらしで、色は黄色についていたけれど、もう味も何も残っていなくて、何か酸っぱい薄い液体だった。
そんなお茶を飲んでたものだから、今でもそんな味のお茶が好きなのである。
まあ、それもあるけれども、今のお茶は、美味すぎていけない。
少し湯冷まししたお湯でじっくりと淹れたお茶は、旨味もたっぷりで、まあ美味いには美味い。
高級なお茶菓子と一緒に、ゆっくりと楽しむのにはいいだろう。
でも、お茶なんてものは、そう御大層に飲むものじゃない。
適当なお茶のハッパを、適当な急須に入れて、適当に熱いお湯をザアと入れて、そのまま湯飲みに、これまた適当に注いで、ちょこっと飲むのが良いのである。
そこで、インスタントコーヒーである。
かの女性職員が淹れてくれたコーヒーは、そんな僕の過去の味の嗜好を、どこか無意識にくすぐるのか、どうにも美味いのである。
或いは、女性が僕の好みだからか。
それもあるのかもしれないが、そのコーヒーを飲んで以来、僕は、どうにかして、あのコーヒーの味を再現できないものかと、かれこれ10年ぐらいを、独りで飲むときは、インスタントコーヒーで過ごしているのである。
しかし、いまだに、あの味の再現は出来ていない。
今日、僕が淹れたコーヒーは、ややインスタントの粉が多かったか。
さて、怜子の話だ。
怜子が、仕事をしたいと言い出した話である。
女性が、結婚をしても働きたいという理由のことだ。
だいぶん要らないことを、あれこれ考えてしまったが、そこに戻ろう。
人、それぞれ、さまざまな理由があるが、怜子の理由は何だろうと考えていた。
そこで思い当たったことがある。
ひょっとしてであるが、これは他の女性にも、こういう理由が当てはまるのかもしれない。
詰まりの理由は、人に認めてもらいたいという気持ちである。
自分のことを他人に認められたいという欲求。
他人に認めてもらいたいものとは。
それは、自分の才能なのかもしれない。
或いは、自分の頑張り。
或いは、自分も役に立つんだという気持ち。
そういう自分を誰かに認めて貰いたい。
或いは、他の人に置き去りにされたくないという焦りなのか。
それは、よく解る。
僕も、誰かに認めてもらいたいという欲求がある。
それは、何も才能というのでもない。
僕に、取りたてて挙げるような才能なんて無い。
勿論、もし仮に才能もあれば、才能もそう認めて欲しいけれど、そんな1部よりも、僕という人間を認めてほしいのだ。
僕という人間が、今も生きるために頑張っているんだということを他人に認識してほしい。
或いは、もっと低レベルな認めでもいい。
僕が、今、取り敢えずは、生きていて、それでいて、生きていてもいいんだという認め。
才能が無くても、頑張れなくても、役に立たなくても、それでも、僕という人間が、この世界に生きていることが、他人にとって、或いは、特定の人にとって、歓迎すべきことなんだよという認め。
いや、認めというよりも、もっと低レベルな、許し。
生きていて良いという許し。
いや、それじゃ、悲しいか。
僕も一緒にいて良いよという周囲の人との合意なのか。
そんなことを考えて、僕自身、可笑しくなって笑った。
怜子は、そんな女じゃない
どうも、最近の僕はネガティブになっている。
怜子は、いつももっとポジティブに考える女性だ。
自分を、イキイキとさせることを考えている。
いつだって、そうだ。
茉莉子が生まれて、1年ぐらいの時だったかな。
子育ても大変な時期だ。
その時の、怜子は、良い母親になろうと、育児の本を読んだり、人に話を聞いたり、そんなことを一所懸命していた。
睡眠不足で、いつもウトウトしていたっけ。
それでも、通信教育の英会話の教材を申し込んだ。
僕が、どうしてそんなものを、今しなくちゃいけないのと聞いたら、「今から、茉莉子に英語を勉強させるのよ。これからは、英語が必要なの。それでさ、茉莉子が大きくなったら、一緒にアメリカに留学するの。」なんて笑って答えたけれど、あれは、茉莉子の為じゃなくて、怜子自身のために勉強をやりたかったんだよね。
怜子自身が英語を勉強したかったんだ。
育児や、生活のせいで、自分というものが失われたくない。
そんな状況でも、自分はイキイキとしていたい。
そう思っていたのだろう。
いや、怜子がポジティブに考えるというのは、違うのかもしれない。
育児や、生活の中でも、イキイキとしていたいというよりも、或いは、もっとネガティブであったのかもしれないと、僕は気づいていたのかもしれない。
育児や、生活の雑多なことに、紛れ込んでしまって、他の人から、置いてけぼりにされているのではないかという焦りを感じていたのかもしれない。
自分は、今、ここにいるのよと、大声で叫びたい気持ちだったのだろう。
勿論、怜子には、僕も茉莉子もいる。
だから、毎日の生活のなかで、寂しさを感じることはなかっただろう。
でも、寂しさを感じなくても、孤独感を感じていたのかもしれない。
家庭では、存在を認められても、社会では、存在を認めて貰えてないのではないかという孤独感。
怜子の友人の中には、まだ独身で働いている女性もいた。
そんな、友人と話をするのが、気が付いたら減っていたね。
自分から孤独になろうとして、どうするのよ。
そう考えると、怜子が買った通信販売の英会話の教材も、別に英会話でなくても良かったのかもしれない。
何かの資格の教材でも良かったのだろう。
資格があれば、次の就職にも役に立つ。
それに、資格があれば、それだけで、自分というものは、何の能力もない女性なんかじゃなくて、社会に必要とされている人間なんだという自信が持てる。
それにしても、人に認められたいという気持ちは、男性よりも女性の方が強い。
僕の会社の仕事では、色んな会議もあるけれど、女性だけの会議というかミーティングがあった。
女性社員だけが集まって、会議をするのだけれど、何気なく聞いていると、相手に対する攻撃が、すこぶる激しいのだ。
誰の、どういうところに問題点があるということを、延々とやっている。
どういう問題点があって、それをどう解決していくという全体的な話には、とうていならない雰囲気が、こぼれてくる声からも解る。
男性の会議では、ああも激しく口論にはならない。
どこかで妥協がある。
女性って、よっぽど自分に自信があるのだなと、怖くなった。
その会議は、大きな部屋の片隅をパーテーションで区切った場所で行われていたのだけれど、ある時、頻繁に若い声だけれど、強めの口調で喋る声が聞こえてくることに気が付いた。
1年ぐらい前に入社した新人である。
いつもは、タータンチェックの膝上のスカートに丸い襟のブラウスというような、学生が着るような若い格好をしている子だ。
いつも明るく、その服装のように可愛い仕草なので、男性社員の誰もが目を掛けたくなるような雰囲気を持っている。
あ、あの子の声だなと思ったら、「そーなんですけど、、、、あーだこーだ。」と、相手の言う言葉に対して、反論をしているようなのだ。
それに気が付くと、気になって仕方がない。
「そーなんですけど、、、あーだこーだ。」
「そーなんですけど、、、あーだこーだ。」
よっぽど自分の意見を通したいんだなと、すごいなと彼女を評価しつつも、普段の彼女の仕草とのギャップに、少し引いてしまうのを感じた。
自分が認められたいのか、或いは、自我が強いのか。
まあ、認められたいというのも、自我のなせる業ではある。
その時に、女というものは、自我によって生きる生物だと悟った。
怜子が仕事をしたいと思う理由は、そんな感じだろうというのが僕の推測だ。
違うのか、いや、たぶん、そんな感じだろう。
それで、怜子が僕に、仕事をしたいと言ったときの話だ。
また、少し脱線をしたが、話を戻そう。
怜子が僕に仕事をしたいと相談したときの話だ。
いや、話を戻すというより、その時の僕と怜子の話である。
茉莉子に手が掛からなくなってきた時で、怜子は仕事をしたいと僕に訴えたのだ。
でも、ここで僕は、自分の考えと違うことを怜子に、あえて強いなければならなかったのである。
ある理由のために、、、。
話をしている間に、怜子が仕事をしたいという気持ちが、社会から取り残されていくんじゃないかという焦りや孤独感から来ているということが解った。
そういうことだと思う。
そして、その切なる願いというか、僕に助けを求めているような気持ちは、話しぶりで、ストレートに伝わってくる。
僕は、胸が締め付けられたよ。
そんな怜子に、僕は、その必要はないと言った。
でも、怜子は、僕に話を続けたね。
何度も僕に仕事をしたいということを繰り返す怜子を見ていた。
そして、怜子の「私、ここにいるの。誰か、私を見てほしい。」というこころの悲鳴を聞いていた。
怜子の寂しさが痛いほど解った。
怜子の焦りが苦しいほど伝わってくる。
それを見ている僕も、同じように辛かった。
今にも、「好きなようにしていいよ。」と言ってあげたかった。
抱きしめて、「大丈夫だ。」と言ってあげたかった。
でも、僕は、それを、その気持ちを、押さえつけるのに必死であったのだ。
「怜子、愛している。」
そのことを、僕は、何度も何度も、心の中で叫びながら、怜子の話を聞くことに耐えていた。
「もう、茉莉子も小学校だから、少し時間もあくじゃない。だから、その間だけでも、何か出来る仕事あるんじゃないかって思って。」
「そうなのかなあ。でも、他のお母さんは、働いてないんだし、PTAとかの活動もしなきゃいけないんじゃないのかな。」
「それはそうだけれど、それもちゃんとやるからさあ。お願い。」
「いや、それはなかなか難しいよ。口では言うけれどさ。」
「あたしだったら、出来るよ。それにさ、収入も増えたらさ、みんなで旅行にも行けるじゃん。楽しいことも増えるよ。だからね。」
「でもさ、、。僕の夢も言っていいかな。僕は、子供の頃、親が共働きだっただろ。だから、いつも寂しい思いをしていたんだ。だから、もし僕が親になったら、僕が働いて、奥さんは、いつも家にいて、子供が学校から帰って来た時は、お母さんが優しく迎えてくれる。そんな家庭を築きたかったんだ。それが僕の夢なんだ。」
「そうなんだ。でも、あたしが働いても、茉莉子のことを優しく迎えてあげられるよ。あなたのことも、優しく迎えてあげるからさあ。」
「そこまで言うなら、好きにしたらいいよ。でも、怜子は僕の夢を破っても、自分の仕事をしたいんだね。僕よりも仕事なんだね。」
そういったら、しばらく黙っていたけれども、「分かった。じゃ、あたし、仕事はやっぱりやめる。家にいるよ。」とニコリと笑った。
どれだけ悔しい思いをしただろうね。
それを思うと、僕は、その場で泣きそうになった。
自分で言っておきながら、僕の話した言葉が、僕の首を絞める。
今からでも、仕事をしたらいいよと、言ってあげようと、何度も思ったが、僕は口を開かなかった。
何故、笑うの?
僕は、その笑顔を今でも忘れることができない。
自分の夢を諦めて、相手に夢を譲る。
それは、自分自身を捨てることでもある。
自分自身を捨てたら何が残るのか。
残るものは、自分以外の物である訳で、それは、怜子の場合、僕と言うことになるのであろうか。
いや、こんな仕打ちをする僕は、残る権利なんて、毛頭ないのである。
それにしても、こんな無理やりな理屈の僕の言葉に、心の中では、反発をしながらも、笑顔で納得してくれた怜子のことを考えると、自分がどうにも情けなくなって、思いっきり自分の頬を殴った。
でも、力が入らない。
なんて、ダメな男なんだ。
怜子に、仕事をさせてあげたい。
そして、毎日、イキイキとした、本来の怜子であってほしい。
怜子が、みんなに認められて、自信のある怜子であってほしい。
そんなことよりも、怜子が喜んでくれたらそれでいい。
怜子が、笑ってくれたらそれでいい。
今からでも、イエスと言ってやりたい。
でも、ダメだ。
どんなに辛くても、僕は怜子に仕事をさせてはいけないのだ。
怜子にイキイキとした毎日を送らせてはいけないのである。
怜子を笑わせてはいけないのである。
僕は、唇を噛みしめて耐えるほかはなかった。
「怜ちゃん。ごめん。僕が無理を言っていることは、僕自身、よく解っているんだ。でも、僕は、いつもそばに君がいなくちゃだめなだ。」
「何、変な事言ってるの。だから、今の話は、もうお終い。」
「本当に、ごめん。これだけは言いたいんだ。僕は、怜子も、茉莉子も、愛している。だから、怜子も、茉莉子も、いつも笑って暮らせる家庭にしたいんだ。」
「だから、それは、解ったって。いつも、あたしは笑顔だよ。」
「そう、いつも怜子の笑顔に、僕は救われているよ。だから、怜子が家に居てくれるなら、いつも僕は、家庭で幸せを感じていられるし、茉莉子だって、嬉しいに違いないよ。」
「分かったって。でも、茉莉子も私に、家にいて欲しいのかなあ。」
「欲しいに決まってるじゃない。好きな人には、1秒でも長くそばにいて欲しいと思うのが普通でしょ。それが、夫婦だし、それが家族なんだよ。」
「そうかなあ。でも、茉莉子は知らないけれど、あなたが、そういうなら、あたしの仕事の話は無しでいいよ。家にいるよ。」
「ありがとう、、、、悪いな。」
「何が、悪いの?」
「いや、なんでも。」
「でも、珍しいね。こんなに、私の事、反対するなんて。」
「だって、愛してるから。」
「ふーん。あほみたい。」
また、怜子が笑った。
でも、僕が、何か言えば言うほど、理屈がおかしくなってくる。
こんな話で、本当に、怜子は納得したのだろうか。
でも、それを怜子に確かめてはいけない。
今の話で、怜子がどういう風に、僕の話を受け取ったのかは、考えちゃいけない。
兎に角だ、怜子に、仕事をさせては、いけないのである。
その仕事が怜子を、本来の怜子にするものであるなら、それはさせてはならない。
怜子に、イキイキとした生活をさせてはいけないのである。
そういう風に、僕が考えていることを思うと、怜子が可哀想でたまらない。
本当は、怜子にイキイキとした毎日を送らせてあげたい。
どうにも、不憫でならないのである。
でも、怜子が幸せになってはならないのである。
そういう風に考えていることを、怜子が知らないことが、可哀想でならなかった。
(5)
京阪電車は、京阪地区にあっては地味な存在だ。阪急ほど山の手じゃないし、阪神ほど下町でもないし、近鉄のように長く線路を引っ張ってもいない。
滋味さで言うなら南海電鉄に似てはいる。
ただ、大阪から京都に繋がっているだけ、南海よりも都会的か。
そんな地味な京阪電車だが、テレビ電車や、ダブルデッカーなど、短い区間だけれど、京都への旅を楽しむ工夫は、大いに評価に値する。
淀屋橋からの区間急行のロングシートに座っていると、茉莉子が乗り込んできた。
「あ、パパ。」
「今、仕事の帰りなの?」
「うん。」
向かいのシートが空いていたので、茉莉子と移動する。
「あー、もう疲れた。今日さ、会議があったの。それでさあ、石田君がね、今度のさ。」
と茉莉子の話が始まる。
僕は、また始まったかと思うのだけれど、努めて聞いているふりをしなきゃいけないことに、ややうんざりなのである。
こんな話を延々と人に聞かせようとするところは、茉莉子も大人になった証拠なのだろうか。
というよりも、怜子に似てきたということである。
怜子も、仕事をしている時は、まだ僕も同じ職場なので話の内容は分かるが、結婚をして仕事を止めたら、今度は、近所の奥さん連中の話や、茉莉子の学校の話や、そんな自分の周りの事を、帰った瞬間から始めるのだが、怜子の周りの人間関係も、その人たちの性格も、置かれている状況も知らないまま、聞かされるので、何がどうなのか、全く理解できないまま怜子の話を聞くことになる訳だ。
まだ、結婚したての時は、その誰々はどういう人なのとか、話の内容を理解しようとはしていたのだけれど、ある時に、怜子は僕に話の結論や感想を求めているのでは無いと悟ったときに、話を理解することはやめて、ただ聞き流すだけにした。
とはいうものの、ただ聞き流すだけではエライことになる。
僕が少しでも聞き流している素振りでも見せたなら、「あなた、あたしの話を真剣に効いてる?」とくる訳だから、見た目は真剣に聞いているふりをしなきゃいけないのである。
しかも、たまに「へー。」とか「ほー。」とか、そんな単語を入れるだけではダメなのである。
「それは大変だね。」とか、そんな変化も必要だ。
そして、重要なのが、「あなた、どう思う。」ときたときには、全面的に怜子の一方的な立場に立った意見を言わなきゃいけないのである。
「それは、怜ちゃんの言うことが正しいよ。でも、みんな違うっていうのはオカシイな。」なんてことを言わなきゃいけない。
これを毎日続けるうちに、僕は聖徳太子とまではいかないが、僕の脳の半分を怜子の話を聞くことに使って、もう半分を違うことを考えることに使用できるようになった。
有り難いことである。
そんな怜子の話と同じような話を、今、茉莉子が喋っている。
僕は、「ふーん。そうなんだ。」などと、習得した技術で茉莉子に相槌を打つ。
まだ、茉莉子が未熟ものなのは、僕の相槌に気が入ってないことに気が付いてないことである。
とはいうものの、僕も親である。
こんな風に、素直に育ってくれて、僕に話をしてくれるというのは、幸せなのかもしれないと思う。
すると、茉莉子が急に僕の脇腹を、チョンと突いた。
そして、僕の耳元で囁くように言った。
「見てたでしょ。」
僕は、何のことか分からないので、「何が?」と聞いた。
すると、また囁くように、「赤い服の女の子の脚。」
見ると、前のシートの斜め前に、赤いミニのワンピースの女の子が座っていた。
20歳ぐらいだろうか。
そういえば、真っ赤なミニの裾から、にょっと出た棒のような脚は、ろうそくのような透けた白色で、そのコントラストが妙に、艶めかしい。
幼い顔と、若く見える年齢には、どうにも似合わない脚である。
「バカ。見てないよ。」僕も声を少し抑え気味に答えた。
「いや。絶対に見てた。あたしの話聞いてなかったもん。」
「だから、見てないって。」
「絶対に、視線が脚にいってたよ。顔も向こう向いてたし。」
「顔は向いてかもしれないけれど、脚は見てないよ。だいたいね、電車に乗ってる時はね、そんな真剣に人を見てないの。普段は、ぼんやりと見てるだけだからね。今も、ぼんやり向いてただけで、見てないのっ。」
「でも、イヤらしいい顔してたもん。あ、ママに報告しようっと。」
「バカ。だから見てないっての。」
こんなところも、怜子そっくりである。
それにしても、茉莉子に言われてみると、なかなか色っぽい脚である。
気が付いたら、見てしまう。
なかなか、茉莉子も変なことを気が付かせてくれたものだ。
とはいうものの、ここ2年か3年、女の人の脚を見ても、脚だと思えないという妙な現象が僕に起こっているのである。。
脚と思えないどころか、人間にすら見えない時があるのだ。
不思議である。
目の前に、女の子がいる。
でも、その女の子が人間には見えない。
いや、それも正確じゃない。
目の前の女の子を見て、人間って、こんな形をしている物だったのかと思うのである。
目の前にいるのは、若い女の子である。
普通なら、ちょっとイヤラシイ眼差しで見てもオカシクナイ対象物だ。
でも、そんな男性の異性に対する目で、目の前の女の子を認識することが出来ないのだ。
女の子の着ている服を、想像で剥ぎ取る。
すると、素っ裸の女の子がいるだろう。
その姿かたちが奇妙だ。
こんな形だったのかと、不思議でしょうがない。
脚が2本地面に立っていて、その上に胴体がある。
胴体の下部は、やや膨らみを持って出っ張っている。
お尻だ。
そして、腹があって、胸はオッパイが出ていて、その上に、また細くなって首が乗っかっている。
頭には、口、鼻、目があって、頭の上から髪の毛という黒い糸のようなものが生えている。
そう順番に見ていくと、結滞じゃないか。
奇妙な存在でしかない。
どうみたって、美しくはないだろう。
観察を深めると、イビツな肉の塊にしか見えないじゃないか。
その肉の塊の中には、カルシュウムで出来た骨が、これまた奇妙な組み合わせになって潜んでいて、その間を、胃や腸といった管のようなものが、クネクネととぐろを巻いている。
気持ちが悪い。
肉だって、それを切り刻んだら、汁のようなものが滲み出てくる。
血だ。
その血が、肉の塊の中を、グルグルと回っている。
女の子の肺を手のひらに乗せたところを想像した。
生暖かく、ずっしりと重い。
肺の中は、空気なのに、どうしてこんなに重いのかと首をひねった。
右目を引っ張り出して、僕の目の前にもってくる。
僕の目と、女の子の目と、見つめ合っても気持ちは動かない。
こんなものにドキリとしていたのだろうか。
こんな気持ちの悪いものを見て、今まで欲情をしていたのかと思うと、何とも精神が屈折していたとしか思えないのである。
もっと、奇妙なのは、このそれぞれの器官を分解していくと、この肉体でさえ無くなってしまうことだ。
この肉片を、分解したら細胞になる。
その細胞を分解したら、タンパク質とかの分子になるだろう。
それをさらに分解したら、原子だ。
原子を分解したら、原子核と電子になる。
こんなことは、中学生でも解るだろう。
その原子と電子が、今は何かの縁で引っ付いているから良いものの、これが、その縁が切れてバラバラになったら、もうイケナイ。
この肉片すら存在しなくなってしまうのだる。
スカスカの空間である。
色即是空。
或いは、昔の偉い坊さんも、女性の肉体を見ても、原子と電子にしか見えかなかったのかもしれない。
そんなことを考えると、この女の子の原子と電子の縁が切れずに繋がっていることに感謝しなさいと、女の子に進言してあげたい気持ちなのである。
それにしても、この縁は不思議である。
いや、縁というよりも、何かの義理でつながっているのかもしれない。
何と義理堅い原子と電子であることか。
「ほら、また見てる。」茉莉子がまた、横腹を突いた。
「だから、見てません。」
今目の前にいる茉莉子を見て、茉莉子が、人間として、僕の娘として、見えていることに気が付いた。
怜子や茉莉子といる間は、僕も精神的に冷静でいられるのかもしれない。
「もう、見てないから。」
茉莉子は、話すのを止めて、おかしさをこらえているのか、そんな表情で僕の顔を覗き込んでいた。
「ママには、内緒にしておいてあげる。」
そう言って、笑った。
(6)
僕は、今、本当に怜子のことが好きで堪らない。
好きだというよりも、愛おしいと言った方が正解だろうか。
結婚をして、怜子が僕に尽くしてくれた、純粋に尽くしてくれた、その姿を見てるだけで、胸が締め付けられるような気がした。
しかし、僕は怜子に、知られてはいけないある思いがあった。
だから、僕の気持ちというか、計画を知らずに、けな気に尽くしてくれる怜子が、可哀想だったんだ。
ひょっとしたら、僕は、何もせずに、ただ怜子と暮らしているだけで、怜子の事を愛していたのかもしれない。
それほどまでに、僕は怜子に愛されていたし、尽くされていた。
でも、僕はある目的のために、意図的に怜子を愛さなければならなかったのである。
どうしても怜子は僕に愛されなくてはならなかったのである。
そして、怜子が僕に愛されていると思い込むように、いつも優しく接してきた。それは意図的にだけれど、そうやって、怜子を愛しているというそぶりをしていた。
いつも仲の良い夫婦だったのだ。
でも、苦しかった。
始めは、僕のこころには、怒りと恨みしかなかったのだけれど、一緒に生活をする中で、怜子の本当の姿を知ったのである。
明るくて、優しくて、思いやりのある怜子であることを。
そんな怜子に作為的な笑顔で接するたびに、僕の中に罪悪感が芽生えてきたのである。
怜子に、嘘の笑顔を送るたびに、怜子に、彼女の気持ちを否定するような意見を言ったりするたびに、どこか苦しい気持ちが僕の胸を締め付けた。
怜子に対する罪悪感。
僕自身に対する嫌悪感。
そんな嘘を繰り返すたびに、怜子が可哀想でならなかった。
その可哀想が、いつの間にか、少しずつ愛の感情に変化して行っているのを僕自身も気が付いていた。
こころから怜子に笑ってあげたい。
こころから、怜子がイキイキと生きることを応援してあげたい。
そう願っていた自分がいた。
でも、実際は、それと逆のことをしなければならなかったのである。
それは、仕方がないことだ。
ある目的を達成するために結婚をしたのであるから、その目的を達成するまでは、実行をしなければならない。
なのだけれど、試練はここからだった。
本当に怜子に愛されるには、僕自身が怜子を本当に愛さなければならない。
嘘の愛なんて、すぐに見破られてしまう。
怜子は、賢い女だ。
それを見破るぐらい簡単だろう。
だから、僕は本気で怜子を愛した。
ただ、始めは努力して愛するつもりだったけれど、怜子を見ていると、自然と好きになっていく自分が見えた。
でも、これでは不完全だ。
まだ、もっと怜子を愛さなければいけないのである。
こころから怜子を愛さなければならない。
いや、もう十分に怜子を愛し始めている。
僕には、無くてはならない存在になってしまっていた。
とはいうものの、まだ僕は怜子を愛さなければならないのである。
怜子を愛して、愛して、愛さなければならないのである。
それは、怜子が僕に愛されていると思い込むまで。
生半可な愛し方では不完全なのである。
とことん、怜子を愛してしまう。
それが必要だった。
それは、もう完全に心の底から、怜子を愛していると確信したときに、ある計画を実行に移すために。
僕は、怜子に嫌な思いをさせるたびに、可哀想で堪らなかった。
そして、それでも、僕に尽くしてくれる姿をみて、少しずつ、愛するようになっていった。
怜子を可哀想な状況に置くことによって、僕の怜子への愛が深くなるのである。
そこで、僕はさらにあることを怜子にした。
こんなことまで、しなくても十分に怜子を愛していると思ったが、仕方がないのである。
仕方がなかったのである。
完全に愛するために。
僕と怜子は、週に2回ほど、食事が終わってから、映画のDVDを見るのが楽しみだった。
お互いに映画が好きで、とはいうものの見る映画の趣味は違った。
怜子は、ラブストーリーだ。
僕は、何が嫌かと言って映画のラブストーリーほど嫌なものはない。
あんなのを見るぐらいなら、B級のオカルト映画を見る方が、よっぽどか気晴らしになる。
僕の趣味は、香港映画である。
中でも黒社会と言われる香港の裏社会を題材にしたものは、お気に入りだ。
特にジョニー・トー監督の映画は、何度も見るものだから、いつも怜子が呆れていたっけ。
でも、怜子は、香港映画は嫌いだ。
なので、怜子と見る映画は、ほとんど2人の共通の趣味であるサスペンスと決まっていた。
そんな時は、僕がコーヒーを淹れた。
怜子と飲むときは、インスタントでなく、本格的に淹れる。
わざわざ豆を、挽かずに買ってきて、ビデオを見る前に、僕がコーヒー豆を挽くんだ。
コーヒーは、あの挽くときの香が一番良い匂いがする。
コーヒーの命は香りだ。
豆を挽くときに香りを楽しんだら、それで十分で、改めてコーヒーを淹れる必要はないと言ってしまえば、身もふたもないか。
ゆっくりと豆を挽きながら、部屋中に香りが充満するのを楽しむのが、醍醐味なのである。
そして、ネルドリップで淹れるのが、僕のこだわりだ。
怜子は、ビデオの準備をしながら、ソファで待っている。
コーヒーを淹れるときに、僕は毎回、何かしらの異物を怜子のコーヒーに入れることにしていた。
それは、何も毒物という大それたものじゃない。
何かの薬というか、たとえば下剤であったり、意味のない頭痛薬であったり、何かを混入させていた。
薬品と言っても、味が変化しない程度の極少量である。
コーヒーだから、香りも気づかれにくい。
クスリと言ったって、ごく微量だ。
何もない時は、キッチンの隅にあるホコリを入れたこともあったか。
あの時は、さすがに飲んだ後に口にホコリが残りはしないかと思ったけれど、怜子は気が付かなったね。
身体には影響がない。
でも、異物である。
でも、それを普段通りに、美味しそうに飲む怜子が、たまらなく可哀想なんだ。
異物の混入に気が付かずに毎回飲んでいた。
先日も、ビデオを見ながら、両手でマグカップを包むようにした持って、「美味しいね。」って、僕を見ながら笑ったよね。
可哀想だった。
そんな怜子の横顔を見ていると、愛おしくてたまらない。
「何見てるの?」怜子が言った。
「いや、今日のコーヒーはどうかなと思って。」
「そういえば、少し香りが、イマイチなような、、、、ウソー。」って笑った。
可哀想だ。
あんな笑顔で飲んでいるコーヒーには、僕の嫌がらせが入っているのに。
どうしようもない、罪悪感と自分に対する嫌悪感が、沸き起こる。
でも、仕方がないのである。
怜子、ごめん。
怜子、許して欲しい。
怜子、どうして、そんなに笑うの?
可哀想だ。
可哀想で堪らない。
でも、怜子を愛するためには、やらなければならないのである。
怜子を愛するために、仕方がないことなのである。
僕は、怜子のコーヒーに週に2回、異物を入れるという意地悪で、自分自身に罪悪感と嫌悪感を感じさせるようにしていた。
そして、怜子を可哀想だと感じるように、自分で仕掛けていた。
それは、怜子を可哀想だと思うために。
そして、怜子を愛するために。
ある時は、こんなこともした。
怜子が寝ている時だ。
僕は、怜子が、すっかり寝入っているのを確認してから、怜子のお尻を思いっきり蹴り上げた。
「ギャー。」って言いながら、怜子は飛び起きた。
勿論、僕は計算通りに偶然を装って怜子の上にコケタ振りをした。
「あ、ごめん。痛かった?寝ぼけてて、怜ちゃんにつまずいちゃった。痛かっただろう。ごめん。本当にごめんね。」
怜子は、突然の衝撃に、何が起きたのか分からない様子で目を丸くして僕を見ていたね。
「ああ、ビックリした。何が起きたのかなって思ったよ。」と、ややあって怜子が喋った。
「ごめん。本当にごめん。痛かった?」
「うん。痛いけど。それより、あなたは、大丈夫なの。」
「僕は、怜ちゃんが下敷きになってくれたから、大丈夫だよ。でも、怜ちゃん、僕のせいで可哀想だったね。」
「いいよ。あなたもケガしなかったんだし。わたしもケガしてないし。もう、寝ましょうよ。イテテ。でも、寝れないかな。ははは。」
「ごめんね。」そう言ったのだけれど、怜子は気が付いていないのである。
ただ、そんな大胆なことは、そうそうやれるものじゃない。
普段は、もっと小さな嫌がらせだ。
靴の中に、小さな石を入れてみたこともある。
そんな中学生がやるようなレベルのことを繰り返していた。
いや、中学生でもやらないか。
まったくもって、小学生レベルだ。
いろんなことをしては、罪悪感が増すようなことをしていたのである。
すべては、怜子を可哀想だと思うためだ。
そして、怜子を愛するためなのである。
ただ、こんなことをしなくても、怜子を愛していただろうけれども。
こんなことを1年以上続けただろうか、僕は、完全に怜子を愛することに成功したのである。
(6)
怜子の寝顔を見ると、どうしようもなく愛おしい気持ちになる。
愛しているのだろう。
この僕に、無防備な姿を見られても、何も気にはしていない。
今、僕が、怜子の首を絞めたなら、確実に怜子は死ぬだろう。
そんな危険に気が付かないのだろうか。
怜子は、僕の事を愛しているに違いない。
長い時間を掛けて、僕は怜子に接してきた。
それは、怜子に愛してもらうためである。
そのために、僕は、怜子を愛した。
始めは、意図的に愛そうとしていたけれども、今は、心の底から愛してるという自信がある。
怜子は、僕の事を愛してくれているだろう。
そうでなきゃ、結婚もしないだろうし、第一、怜子ほど僕に尽くしてくれる人はいないだろう。
毎日、僕のために、家事もやってくれている。
それに、僕のために、怜子自身の夢も諦めた。
自分自身、何かをやりたい、人に認められたい、輝きたい。
そんな切実な夢を僕は諦めさせたのである。
怜子のこころの悲鳴が聞こえるような気がしたよ。
でも、僕は、その悲鳴を聞かない振りをしていた。
その可哀想だという気持ちが、僕をして怜子を愛し始める理由にもなっていったに違いない。
可哀想から、愛しているに変わっていったのである。
もし、怜子が僕の夢を諦めさそうとしたら、どうだろうか。
理由もなく、僕の夢に反対されたら、或いは、怜子を嫌いになるのかもしれない。
まあ、嫌いにはならなくても、毎日が心地良いものではなくなるだろう。
そう考えると、僕に夢を諦めさせられても、僕に尽くしてくれる怜子の方が、僕を愛していると言えるのかもしれない。
きっと、そうだろう。
僕の怜子に対する愛は、可哀想から始まった。
怜子に夢を諦めさせた。
そして、怜子に異物を飲ませ続けた。
それらの行為の罪悪感と、可哀想だと思う気持ちと、僕の気持ちというか、計画をしらないで僕に尽くしてくれて、愛してくれている怜子に対する哀れみが、僕をして怜子を愛させしめたのだろう。
可哀想だということから始まった愛。
その可哀想だという気持ちが高まれば高まるほど、愛する気持ちが増大してくる。
極めて相対的な愛だ。
可哀想だという気持ちや、他の感情の変化に応じて、その愛の大きさも変化する。
いうなら、あやふやな、捉えようのない愛だ。
それに対して、怜子の僕に対する愛はどうだ。
始めっから、僕を愛して、そして、今も愛し続けてくれている。
たとえ、怜子に犠牲を強いても僕を愛してくれる。
どんな苦しみや、悲しみにも、変わらない気持ち。
或いは、絶対的な愛なのだろうか。
とはいうものの、愛に絶対的はないだろう。
そんなものがあったら、苦しくて仕方がない。
僕は、いっそ怜子が僕に見返りを求めてくれないかと思う時がある。
怜子が僕を愛してくれる替わりに、何かを僕に求めて欲しい。
それは、僕に犠牲を強いるものであっても構わない。
いや、犠牲を強いるものであって欲しい。
でなきゃ、どうにも怜子を愛し続けることが苦しくなるのだ。
犠牲とまではいかなくても、何かの見返りを求めて欲しいのである。
何故なら、見帰りを求める愛の方が、僕は人間的に美しいと思うからだ。
見返りを求めない愛なんて、所詮は、博愛でしかない。
八方美人。
真剣には愛してはいないということだ。
ひょっとしたら、博愛の思いで愛している方は、案外楽なのかもしれない。
裏切られたときに楽だから。
愛していても、見返りを求めない。
しかし、それじゃ、この人間世界に生まれて来た面白味がないというものである。
相手に見返りを求めて求めて、そして愛する。
その見返りに答えようとして、苦しみながら悶えるのを見て、また愛する。
見返りが得られたら、また新しい見返りを求める。
蛇のように相手に巻き付いて離れない。
執念深い愛。
それこそ、人を愛するということなのじゃないだろうか。
勿論、それで見返りを得られるとは限らない。
激しくののしられて捨てられる。
そんなことの方が多いだろう。
でも、それが人間世界だ。
結局は、博愛なんて、少しも自分を犠牲にしていないのである。
あれは、数年前だったか、札幌に旅行に行った時のことだ。
散歩をしていて、確か藤女子大学だったか、その前を通りかかった時のことだ。
校庭にマリア様の像があった。
少し頭を傾げたその姿は、誰でも救いを求めてくる人を受け入れてくれると思える優しい表情を浮かべていた。
そして、静かに両手を少し開いて立っている姿は、僕を抱きしめてくれるのではないかと思った。
クリスチャンでない僕も、しばらくそのマリア様の前に立って祈った。
マリア様の愛を感じたのである。
でも、ひょっとしたら、マリア様だって、全ての人に見返りを求めない愛を与えているということは、それは、真剣に相手を愛していないのかもしれない。
全ての人を愛する。
それは平等であって、誰をも真剣には愛してはいない。
僕のような意地悪な思いで考えるなら、相手に捨てられるのが怖くて、相手に裏切ら得るのが怖くて、博愛を通しているのかもしれない。
あの慈しみ深いマリア様の微笑みには、裏切られることを拒絶するバリアのようなものがあるのかもしれない。
相手に、とことん付き合って、泥沼に落ちていく、そんなマリア様を見てみたいものだ。
マリア様は、1人だけを愛することは出来るのだろうか。
神を捨て、イエスを捨て、何もないまま、誰かの胸の中に飛び込むことができるのだろうか。
出来ないだろうな、マリア様には。
怜子の寝顔を見ていると、どうも僕の方が怜子を愛しているのじゃないかと思えてきた。
怜子の寝息を静かに聞いていると、この寝息に、ため息が入っていないだろうかと、心配になった。
僕に見られていることにも気が付かずに、寝ている姿は、僕をして、また怜子の愛が深くなっていくのを感るのである。
このため息が、安らかな寝息であってくれ。
そう祈りながら、ずっと、寝息に耳を傾けていたのである。
(7)
僕は怜子を愛している。
でも、今まで、酷いことをしてきたのである。
怜子の夢を諦めさせ、毒を飲ませ続けた。
夢を諦めさせるということは、人生の面白味を捨てるということだ。
人生は、ただ生きているだけで、それだけで良いというのが、僕の考えだけれど、でもそこに面白味がある方が、はるかに人生をイキイキとしたものにしてくれる。
悲観的な人なら、夢を諦めるということは、絶望を意味する場合もある。
怜子の場合は、ポジティブなところもあって、それを受け入れるだけの器量があった。
なので、僕に夢を諦めさせられても、僕に尽くしてくれている。
でも、その行為は、間違いなく罪である。
毒を盛るなんて、言語道断である。
僕は、怜子に対して、とてつもなく大きい罪を犯した。
そもそも、そんな行為もそうだけれど、そんな行為をしようと思う、そのこころの発生が罪であるはずだ。
或いは、怜子を愛さないまま結婚をしたことが罪である。
僕の気持ちを偽ったまま、怜子と結婚生活を続けて来たことが罪である。
この罪の報いは、いずれ受けなければならないだろう。
受ける筈である。
僕は、このごろになってようやく、家の宗旨である浄土真宗の教えを素直に聞くことが出来るようになってきた。
学生時代は、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、救われるなんて、そんなことあり得ないとバカにしていた。
自分自身を救えるのは、自分自身でしかないと思っていた。
でも、今は違う。
僕が、僕自身を救うなんて、そんなの出来る訳がないのである。
自分で、お経を何万遍唱えたって、自分も救われないし、先祖の霊だって、僕の唱えたお経で成仏するなんて、いくら妄想のレベルでも無理である。
でも、親鸞聖人は、そんな僕でも、阿弥陀如来様が救ってくださると説いているのだ。
こんな開放的で、柔らかい教えがあるだろうか。
ただ、歎異抄を読むと、親鸞聖人さんも、本当に、こころから阿弥陀様が救ってくださると信じていたのかな疑う個所もある。
でも、それがまた、人間的で、信用できる理由でもあるのだ。
それにしても、歎異抄は、面白い。
思わず、吹き出してしまいそうになるような個所もあるのだ。
人間親鸞の日常が良く解る本である。
でも、その元となる理屈を考えだした法然上人さんもスゴイと思うのである。
よく無量寿経と言うお経を取り上げて、そのまた1部を探し出して、南無阿弥陀仏と唱えると阿弥陀様が救ってくださるという理屈を考えだしたものである。
ある時、柳宗悦さんの書かれた「南無阿弥陀仏」という本を読んだことがある。
その本によると、法然さんは、南無阿弥陀仏と唱えると阿弥陀様が救ってくださると説かれた。
そして、親鸞聖人が、それを発展させて、浄土真宗をつくられた。
僕の家の宗旨だ。
親鸞聖人は、唱えなくても信じれば良いと説かれたそうだ。
しかも、全ての人を、罪を犯したものでも、お救い下さると説かれた。
そして、一遍上人が、それを更に発展させたそうである。
一遍上人さんは、たとえ信じなくても、お救い下さると説かれたそうである。
ここまで行くと、詰まりは、全員が、そのままで、救ってもらえるということになるのである。
誰も、何も、心配いらないのである。
救ってもらえるということにおいて、何の縛りも条件もない。
究極の救いである。
そんな話を読んで、僕は、どうにか、その理屈を信じようとした。
というより、信じて、救われると信じ込もうとしたのかもしれない。
僕が怜子にした罪。
そんな大きな罪を犯した僕でも救われる道があるということであるからだ。
罪を犯した僕でも、阿弥陀様が救ってくださると親鸞聖人さんは、おっしゃったのである。
こんな罪深い僕を救ってくださる。
僕は、その理屈を何度も、頭の中で繰り返して、自分が救われるのだということを信じたかった。
こんな伸びやかな理屈が他の宗教にあるだろうか。
無い。
この理屈は、仏教の因果律を超越してる。
他の仏教の宗派なら、因縁果報という、自分のした罪が、自分に帰ってくるという理屈で、僕は救われないことになる。
その他の、キリスト教や、外国の宗教でも、そんな理屈で救われたりはしない。
地獄に落ちるか、天国に召されるか、必ず線引きがある。
全員が救われるなんてことは、聞いたことがない。
僕が、浄土真宗を信じようと思ったのは納得がいく話だろう。
とはいうものの、僕は、それで良いのだろうか。
救われて良いのだろうか。
救ってもらって良いのだろうか。
怜子にした罪を、その報いを受けるべきじゃないだろうか。
僕は、怜子を愛し始めてからは、そんな思いを抱くようになっていった。
救われるのは、有り難い。
でも、それで救われて良いのだろうかと。
怜子に可哀想な思いをさせて、それでいて救われるというのは、それじゃ、怜子が可哀想だ。
怜子が味わった苦痛と同じだけの苦痛を、僕も受けるべきなんだ。
いや、怜子以上の苦痛を、僕は受けなければならないのだ。
一体、僕は、救われるのだろうか。
一遍上人さんの理屈によると、信じなくても救われるのだから、僕も救われてしまう。
どうにか、救われないでいる理屈はないものだろうか。
そんなことを考えることが多くなった。
でも、きっと報いは受けるだろう。
でなきゃ、怜子が可哀想だもの。
あえて、受けなきゃいけないのである。
(8)
「随分と、新しい店が増えたね。」
そう話しながら、清水寺から八坂神社の方に抜ける石段を歩く。
ただ観光旅行者だけを相手にしたような感じじゃない洒落た店構えのお店を見ていると、不思議と京都らしさを感じない。
ここが金沢だっていえば金沢だし、鎌倉だっていえば鎌倉にいると勘違いしても違和感がない。
そんな奇妙な感覚で歩いていると、高台寺あたりに来て視界が開けると、右手に山が急に迫ってくると同時に、ここが京都であることを思い出した。
京都は、街中を歩くのも楽しいけれど、何と言っても東山の裾の南北に続く道を、ゆっくりと歩くのが楽しい。
「そういえばさ。あたしの学生時代の友達の旦那さんが、先週に、亡くなったんだって。それほど親しくなかったから、お葬式には行かなかったんだけれど、まだ若いのに可哀想だよね。」
「へえ、何歳だったの?」
「たぶん、55歳ぐらいだよ。若いよね。」
「病気か何かで?」
「うん、心筋梗塞で、急にだそうよ。」
「それは、大変だね。」
「だよね。でも、子供がいたから、少しは心強いよね。あれで、子供がいなかったら、立ち直れないよ。うちも、茉莉子がいてくれて良かった。」
「おいおい、それじゃ、僕が死んでも、茉莉子がいるから悲しくないってことなの?」
「そうよ。あなたが死んだら、茉莉子と楽しくやるわ。」
「まあ、楽しくやってくれるなら、いいけどね。」
「はは。冗談よ。でも、あなた、本当に死なないでよ。」
「そんなこと知らないよ。人間いつ死ぬかなんてわかんないだろ。」
「あたしも、いつ死ぬか分かんないもんね。」
怜子は、ペロっと下を出して見せた。
「そうだ、今、終活って流行ってるそうね。2人で、やってみようか。」
「終活って、聞いたことあるけど、何するの。」
「たとえばさ、お葬式はこうして欲しいとかさ。遺産はこうして欲しいとかさ。そんなこと決めておくんじゃない。」
「ふうん。無意味だなあ。」
「何で無意味なのよ。」
「無意味というより、嫌いという方がいいかな。だって、死んじゃった後のことだよ。どうでもいいじゃん。」
「でもさ。後に残った人の事を考えたらさ、自分の気持ちを残しておいた方がいいんじゃないの。お葬式だってさ、簡単にするとか、盛大にするとかさ、あたしも迷うじゃん。どうしたらいいかって。」
「まあ、不安なのは分かるけどね。でもさ、嫌なんだなあ。もう死んじゃったんだよ。それじゃ、もうこの世は諦めなきゃ。死んじゃって、この世にいないのに、あの世からさ、この世の人に、あーせー、こーせーって、指図するのって、どうなんだろう。死んでも人を束縛したいのかって話なんだ。残された人もさ、もうこの世にいない人に、自分の行動を強制されたくないと思わない?」
「ええっ。そんなの寂しいじゃん。あなたも意外と薄情なのね。もう、あたしなんか、ずっと泣いてるんだよ。あなたが死んで、あたし泣いてるのに、知らんぷりなんだよね。あなたって。」
「だって、死んじゃったんだから仕方ないでしょ。って、まだ死んでないでしょ。」
「だから、もしだよ。もし死んじゃったときの話だよ。あなたって、冷たいって言ってるの。」
「じゃ、怜ちゃんは、もし、怜ちゃんが死んだら、僕にどうして欲しいわけ。」
「そうねえ、、、もう死んじゃってるわけだしさ、、。財産ももってないもんね。そうだ、お葬式はさ、うーん。ちっさなお葬式でいいや。あなたと茉莉子がやってくれればいい。そうだ、茉莉子と2人で泣いてくれればいい。」
「へえ。僕も泣かなきゃいけないんだ。」
「ちょっと待ってよ。あたしが死んでるのに、泣いてくれないわけ。」
「いや、たぶん泣くよ。でも、それは怜ちゃんが泣いてくれっていうから泣くんじゃない。自然に泣いちゃうんだ。たぶん、泣くと思う。たぶんね。自然の事だから断言できないけど、普通は泣いちゃうだろ。」
「何か、気に入らないなあ。でも、泣いてくれるんだからいいか。それじゃさ、みんなね、終活でエンディングノートって書くんだって、それやる?」
「もう、それは何なの。」
「あのね。日ごろの感謝の気持ちとか書いておくんだって。それでね、死んだら、それを開封して読むの。どう?感動するでしょ。」
「感謝の気持ちは、生きてる間にした方がいいんじゃないの。死んでから言われてもさ。」
「だから、死んでから、それを読んだら、ぐっとくるのよ。こんな風に、あたしのことを思ってくれてたんだってさ。」
「でも、その書いた手紙って、本当のことかどうか分かんないよ。大体、そんなのは、良いことしか書かないし。わざわざ、気分の悪くなること書かないもんね。普通はさ、ありがとうとかさ、あなたと結婚できた良かったとかさ、書くんだろう。そんなことで感動するかな。」
「もう、本当に、天邪鬼だよね。女はね、それで感動するの。でも、そう言われれば、生きている間に、感謝の気持ちとか言った方がいいかもね。あなた。ハイ、どうぞ。」
「ハイ、どうぞって、何なの。僕はいつも感謝してますよ。」
「ホントかな。それも、手紙と同じじゃん。本当かどうか分かんない。」
「もう、兎に角ね、就活は要らないよ。エンディングノートも作らない。僕が死んだら、後は好きにやってくれ。」
「もう、詰まんないな。そんなに真剣に考えなくてもいいじゃん。楽しいかなって思っただけだもんね。」
そう言って、すぐに「今、あなた、好きにやってくれっていったよね。それって、好きにやれっていう強制じゃない。ねえ、それって、あたしに強制してる?」
「あはは。怜ちゃんも、ひねくれものになったもんだね。これは僕の負けかな。」
「そうでしょ。まだまだこれから、ひねくれちゃいますよ。」
と言って、笑った。
そんな他愛もない話だけれど、僕がもし、エンディングノートを書くとしたら、何を書くのだろう。
怜子への恨みだろうか。
怜子への感謝の気持ちだろうか。
本当のことなんて書けないし、本当の気持ちが、今の僕にはわからない。
突然、終活なんて言い出したけれど、怜子にしてみても、果たして突然だったのだろうか。
普段から、何かの不安を感じて、そんなことを考えていたのかもしれない。
僕がいなくなってしまうことへの不安。
漠然としか考えられないだろうが、実際に起こりうる別れに対する不安を感じているのかもしれない。
それなら、方便にでも、終活に付き合ってあげるべきだったのだろう。
たとえ、本当のことを書いてなくても、怜子への感謝をしたためた手紙を書いてあげるべきだったのだろう。
或いは、死んでからも、束縛されることで、僕と繋がっていたいという感情なのか。
それは、愛というものじゃないだろう。
おそらくは、僕との別れの寂しさを紛らわす代用薬に近いものだろう。
だけれども、終活なんて、やればやるほど虚しくなるだけだ。
いくら死んだ後のことを約束したって、いくら死んでから感謝の気持ちを伝えたって、いつかは空っぽの自分に気が付かなきゃいけないのである。
独りぼっちであることに気が付かなきゃいけないのである。
丸山公園を抜けて八坂神社まで来た。
参拝なんてそっちのけで、スマホで自撮りをやっている女の子たちが、はしゃいでいる。
不思議なことに、その声が心地良く聞こえるというのは、こんな年でも僕が男である証拠なのだろうか。
それにしても、今時のスマホときたら、もうパソコンと同じ機能が、あんな小さなもののなかに詰まっているんだもの、スゴイねと思う。
今の子供は、ダイアル式の電話の掛け方を知らないという。
このテクノロジーの進歩って、尋常じゃない。
電話だって、僕の小さいときは家に無かった。
でも、今は1人に1台のスマホだ。
これから、どうなっていくんだろうか。
そんなことを考えると、今この文明の利器を使えているということが不思議で仕方がない。
進歩が、ここに来て、加速している、そのスピードが急過ぎるのだ。
例えば、今から100年前を考えたら、大正の頃だ。
スマホどころか、電話は裕福な家庭にはあったかもしれないが、庶民には手の届かないものだっただろう。
テレビも冷蔵庫も、なかったに違いない。
100年といったら、僕のおばあちゃんが90歳まで生きたから、彼女の一生分の時間の長さだ。
その時間でスマホまでたどり着いた。
これが200年前だと、どうだ。
江戸時代だ。
まだ、チョンマゲで、電気だってないし、ガスもない。
僕のおばあちゃんの一生の2回分とプラスの20年だ。
たったそれだけサカノボッタら、もうスマホの影も形もない。
東京へ行くんだって、安藤広重のような風景の東海道を歩いて行かなきゃいけなかったんだ。
そんなことを想像すると、この進歩のスピードは、普通じゃないと思うのだ。
果たして、これから僕のおばあちゃんの一生分の未来になったら、どんなテクノロジーの世界になってるのか、楽しみで仕方がない。
とはいうものの、僕は、その時には死んでしまって、この世には存在してはいないのではあるが。
もう、跡形もなく僕は存在しない。
そして、怜子も茉莉子も存在しないだろう。
誰も存在しない。
「ねえ、イノダに寄って帰る?」怜子が言った。
「いいねえ。どっちに行く?本店か三条店、どっちがいい。」
僕は、昔から三条店に行くのが好きだった。
広い店内の1番奥に、丸いドーナツの形をしたカウンターがあって、そのカウンターでコーヒーを飲むのが好きだった。
ドーナツのカウンターの中の男性スタッフがネルの大きな袋でコーヒーを淹れているのを見るのが好きだった。
ただ、最近は、広い店内の入口付近にもテーブルを設置していて、あの独特の雰囲気がなくなってしまったのが残念だ。
「本店に行こうか。なにか急にフレンチトーストが食べたくなったから。」
「わあ、いいね。あの砂糖を見たら、テンション上がるよね。じゃ、あたしはサンドイッチ。」
イノダのフレンチトーストは、厚めのトーストを油で揚げて、その上に白砂糖を、ビックリするぐらい乗せてある。
身体には、どう見たって悪いのだけれど、旨いのである。
ただ、コーヒーに関しては、僕はイノダのコーヒーは好みじゃない。
酸味が強すぎるのだ。
それに比べて、大阪の丸福のコーヒーは、あの煮だしたような濃い味のコーヒーは、酸味が無くて、何と言っても僕の好みである。
ただ、雰囲気はイノダだ。
昔からやっているお店ということもあって、有名作家や、有名なミュージシャンが、通った店である。
喫茶店だけれど、少し気取って入るお店だ。
あの丸福のコーヒーをイノダで出してくれないものかと思う。
それでは、イノダじゃなくなるか。
「ああ、美味しい。」怜子は、分厚いコーヒーカップを両手で包み込むように持って僕に言った。
「でも、酸っぱいね。」
「あ、また言った。気に入らないんだったら、別のもん頼めばいいのに。」
「いや、気に入っているよ。でも、酸味が強いなって思って。」
「だから、好きじゃないんでしょ。いつも言ってるよ。」
「いや、好きだ。酸っぱいコーヒーは嫌いだけど、イノダのコーヒーだけは別なんだ。」
「ふうん。これから何回言うんだろうね。ここで、『酸っぱいね。』ってセリフ。」
「そんな言ってるかなあ。」
「言ってるよ。毎回。でも、この雰囲気いいね。」
イノダは、入ってすぐのスペースは、椅子と丸テーブルが、ホテル風で、ちょっと高級感がある。
でも、いつもは禁煙席を頼むので、奥にある昔からのシックな旧館に案内されることが多い。
昭和初期のインテリアのスペースは、大きな窓ガラスから差し込む日差しも、どこかよそ行きで、時おり昭和の黴臭さを鼻孔に感じる風がカーテンを揺らす。
僕は、怜子を見つめた。
屈託のない笑顔は、怜子の財産だ。
隣のテーブルに、80歳ぐらいの老夫婦が座った。
身なりのキッチリとした感じは、お芝居でも見に行くのだろうかと想像していたら、奥さんが、「もう、そんなことをして。そんな細かいこと気にしてたら、精神病になるわ。あなたオカシイよ。もう、やめなさいよ。」と怒り出した。
旦那さんを見ると、背中を丸めて、オシボリで一所懸命にテーブルの上を几帳面に上下左右に拭いている。
「わたし、ビーフサンドにするわ。あなたは何にする。」
奥さんが、メニューを見るなり、あっさりと決めてしまった。
旦那さんは、その言葉を聞いているのか無言で、メニューを見ていた。
そして、言った。
「今頃、ビーフサンドなんて食べたら、晩御飯食べられない。」
「もう、そんな事考えてるの。多かったら残したらいいし、美味しそうじゃない。それより、あなた、早く決めてよ。」と急かす口調が強い。
可哀想だなあと思って、怜子を見ると、怜子も隣の会話を聞いていたようで、ちょっと肩をすぼめてみせて、クスリと笑った。
こんな夫婦の関係でも、ここまで一緒にいると、幸せなのだろう。
見ている僕は、ハラハラするのだけれども。
最後のコーヒーの一滴を、目を細めて飲んだと思ったら、怜子が言った。
「あたし、今、しあわせ。」
(9)
僕が怜子を愛しているのは、もう事実である。
しかし、怜子は僕の事を愛してくれているのだろうか。
それは普段の怜子をみていると解る。
愛してくれているに違いない。
となると、僕の愛と、怜子の愛は、どちらが重いのであろうか。
画家の岡本太郎さんは、たとえ相思相愛の2人でも、そこには必ず温度差があるから、突き詰めれば、恋愛とはすべてが片想いであると言った。
それを読んだときに、名言だと思った。
今の、僕と怜子の間を考えると、どうだ。
怜子は、僕のために夢を諦めたのだから、僕への愛は、周りの友人たちの夫婦と比べてみても大きいに違いない。
それに比べて、僕の愛はどうだ。
始めは、愛してはいなかった。
でも、愛する努力をした挙句に、僕は怜子を愛し始めた。
そして、怜子に復讐のコーヒーを淹れたり、怜子に夢を諦めさせたり、そんなことをしているうちに、僕の愛は深まっていったのである。
怜子に復讐をする、そのエネルギーが愛に変わっていった。
そんなこともあるのだ。
嫌がらせをしている間、僕は怜子が可哀想でならなかった。
その可哀想を何度も繰り返すうちに、その可哀想の分だけ、愛しているに変わっていったのだ。
そして、今僕の心の中を覗いてみると、その愛はとてつもなく大きなものとなっている。
或いは、怜子の僕にたいする愛よりも、僕の怜子に対する愛の方が、はるかに大きいのではないかと思うのである。
可哀想が大きくなることで、比例して増していった愛。
ひょっとしたら、僕の怜子に対する復讐や嫌がらせを止めたら、怜子への愛も少なくなっていくのだろうか。
ただ、今の僕には、そんな相対的な愛には思えないのである。
何か大きな運命とでもいうような大きな力で怜子を愛し始めている。
ただ、怜子への愛が、僕の心の中なのか、頭なのかなのかに、ただ存在しているという感覚だ。
或いは、絶対的な愛と云うものだろうか。
たとえ、怜子への可哀想がなくなっても、怜子への愛は変わらない。
怜子の僕に対する愛が、たとえ大きくなっても、小さくなっても、ただ僕の愛は、そこに存在する。
ただ、怜子を守っていきたい。
ただ、怜子を悲しませたくない。
不動の愛というようなものではない。
そんな頑丈な愛じゃない。
でも、他の何物にも左右されない、怜子への思いがそこにある。
ただ、怜子だけを見ている。
それは弱い存在なのかもしれない。
もともと、怜子を見た時に、ひと目惚れだとか、そんな動物的な衝動で愛し始めた訳じゃない。
僕の計画を実行に移すために、無理に僕の気持ちを押さえつけて、愛する努力をして愛したのが始まりだ。
だから、猛烈な愛と云うものであるはずがない。
なのだけれど、今、確かに僕の心の中に愛が存在する。
たとえ、怜子が僕を、嫌いになっても、それは変わらない自信がある。
たとえ、怜子が僕を、恨んでも、僕の愛は変わらない。
僕の愛は、怜子の愛に対しても、他の女性に比べても、相対的ではなくなってしまっているのである。
言うなれば、怜子しかいない。
不二の愛である。
不二の愛ならば、それを壊すことは、僕と言う存在を壊すことと同じだ。
というよりも、僕を壊しても、愛は残されるだろう。
僕のいない、この場所に、ポツリと愛だけが残っている。
家の近くの小さな公園のベンチに、ただ僕の愛が置かれている。
近所の子供らが、ブランコ乗ったり、滑り台で笑ったり、そんな光景の片隅で、ただ、何も感じないで、ただ僕の愛が、ポツリと置かれている。
そんな感じだ。
夜になって、星空を見上げる僕の愛がいても、誰も気が付くものはいない。
霊感の強い野良猫だったら、僕の愛を見つけて、じっと様子を窺うかもしれないな。
明るい月の下に野良猫と僕の愛が、相対して静かに固まっている。
そんな感じだ。
僕が壊れてしまっても、決してなくなりはしないし、そのままで存在する。
とはいうものの、僕はその愛を、置き去りにしたまま、怜子への最後の復讐をしようとしているのである。
復讐を終えた時に、残る僕の愛は、果たして泣いているのだろうか、ただ固まっているのだろうか。
僕に復讐をされた怜子の愛は、果たして、消えてなくなってしまうのだろうか。
僕の仕打ちに怜子が気が付いたときに、怜子の愛は、恨みの感情に変化してしまうのだろうか。
もし、そうなら、怜子の愛は、極めて平凡な相対的な愛ということになる。
でも、普通は、そうなるだろう。
自分が、恨まれていたとか、復讐をされたというのに、まだ愛しているなんて人間は、いないのが道理だ。
そんな鈍感な人はいない。
でも、怜子は、それでも、僕の事を愛し続けてくれるという、何だろう、希望なのか、根拠のない、そして曖昧な思いが、僕にはある。
本当なら、そんな都合の良い話はないのだけれど。
しかしだ、そんなことを考えるのは、僕が怜子に、そうであってほしいと望んでいるからだろう。
理屈に合わない思考回路である。
僕が、怜子に復讐をして、怜子のこころを打ちのめした時に、それでも、少しでも僕への愛があったなら、それは僕の愛と同じ不二の愛だと確認できるのかもしれない。
ありえない。
でも、もしそうなったら、公園のベンチの僕の愛の横に、怜子の愛は座ってくれるのだろうか。
ありえない。
ありえないだろう。
そんな言葉を何度もつぶやいた。
そして、言った。
仕方がないのであると。
(10)
「あのさあ。今度の怜子の誕生日なんだけどさ。あるイベントを考えてるんだ。でも、怜ちゃんが、どう思うかなと思って。」
「計画って何なの。」
「実はさ、僕と怜ちゃんは、本当は結婚式の日取りを決めてたけど、実は妊娠してることがわかって、結婚式の月は、シンドイだろうっていうことで、式はキャンセルしたじゃない。その時は、また落ち着いたら結婚式を挙げようって話してたけど、結局式は挙げないまま、今日まで来ちゃったでしょ。だから、今度の2月の23日の怜ちゃんの誕生日に合わせて、小さな結婚式を挙げたいなと思ってるんだ。」
「どうしたのよ、急に。いいよ、いらないよ、そんなの。もう結婚して20年以上経つのよ。今さらじゃない。」怜子は、急な僕の提案に、考えることなく否定した。
「だから、僕たちだけの結婚式にしようと思ってるんだ。僕と怜ちゃんと茉莉子の3人でさ。」
すると、新聞のテレビ欄をチェックしていた手を止めて茉莉子が言った。
「それ、いいじゃん。しようよ、お母さん。記念になるよ。」
「そうだよ、別に披露宴をするわけじゃないんだ。今はね、ホテルでそんなプランをやってるそうなんだ。結婚式を3人で挙げて、ウエディングドレスを着て3人で記念写真を撮って、ホテルで美味しい料理を食べて、そんなプランをやってるらしいんだけど。」
「いいじゃん。あたしはお母さんのウエディングドレス見たいな。」
「だから、嫌だって。恥ずかしいでしょう、そんなの。この年でウエディングドレスなんか着たら、いい笑いもんだよ。絶対に嫌だ。」
「そんなことないよ。きっと可愛いよ。怜ちゃん若く見えるし。」
「そうだよ、お母さんしようよ。」
「ヤダ。」
「分かった。まあ、怜ちゃんが嫌なら、無理してやらなくてもいいよ。喜ぶかなって思って考えただけだし。じゃ、今度のお誕生日は、お誕生日を祝う会にしよう。」
「祝う会にしようって、それってただの普通の誕生日じゃない。でも、見たかったなあ。お母さんのウエディングドレス。」
茉莉子だけは乗り気である。
そんな話があって、結婚式はなしになったのだけれど、茉莉子だけはどうしてもやりたかったようで、というよりも怜子のためにしてあげたかったようで、結婚式はやらないけれど、新しい服をみんなで新調して記念写真を撮るということに怜子を説得したのである。
そんなことがあった次の週。
「ねえ、これなんかいいんじゃない。」
「白のドレスなんて、写真撮った後、着ていくとこないでしょ。」
「だって、ウエディングドレスの代わりなんだからさ。」
怜子と茉莉子は、ドレス選びを楽しんでいるようである。
それだけでも、怜子の誕生日はいつもとは違った特別なものになるだろう。
「あ、あたしも、白いドレスがいいなあ。これ可愛いし。」茉莉子が言った。
「それじゃ、花嫁が2人になるじゃない。」僕が言うと。
「面白ーい。そうしようよ。それだったら、私も恥ずかしくない。」と怜子が言った。
「じゃ、僕も白いスーツにするかな。」
「それだったら、バカ丸出しの家族写真になっちゃうよ。」と茉莉子が笑った。
「じゃ、赤、青、黄色にする?」
「もう、あんなこと言っているよ。お母さん。」
「それいいね。それで漫才しよう。じゅんでーす。長作でーす。」と怜子が言った。
「、、、?」
「もう、ここは、三波春夫でございますでしょ。」と怜子が、お笑い芸人のように、こけながら僕に言った。
「ねえねえ、何それ?」と、茉莉子が、僕と怜子の話に、興味津々な感じで聞く。
「これはねえ。レッツゴー三匹っていう漫才師のネタなのよ。お父さん、ぜんぜん反応しないし。あかんわ。」と怜子が説明をした。
「古すぎるねん。」と僕は笑うしかなかった。
怜子は、お笑いが好きで、特に、昔の漫才や新喜劇を、ネットで探しては、いつもユーチューブなどで見ているのだ。
特に、岡八郎さんと花紀京さんに、今はハマっているようで、普段でも、僕に「クッサー。」なんて、ギャグを言っては、自分1人で笑い転げている。
確かに、あの時代の吉本新喜劇は、面白い。
それは、僕も思うのだけれど、ただ、そのギャグを言ったところで、怜子と同じ年代の友達に通じているのかは、謎である。
一度、彼女の友人に、そんなギャグを言っている場面を、後ろからそっと見てみたいものである。
他の人がどんな反応をするかね。
きっと、みんなポカンと無表情だね。
そんな無表情を目の前に、怜子は、どんなことを言うんだろうね。
考えると、笑ってしまう。
「ねえ、料理は、やっぱりフランス料理だよね。」と茉莉子が言った。
「そうよね、特別な日だもんね。」と怜子も笑う。
「だって、ホテルで写真撮るんでしょ。だったら、ホテルのフランス料理がいいよね。」茉莉子は、自分の結婚式のようにはしゃいている。
「そうね、ドレスだもんね。」怜子も乗り気になってきたようである。
それにしても、フランス料理って、一体にどういうものなのか僕は知らない。
日本でフランス料理として食べられているのは、凝ったソースを使って、1品1品出てくるコース料理の事を言うのだろう。
でも、最近の和食のお店だって、僕は行ったことはないが、1品ずつ提供されるお店も多い。
その内容は、先付が始めにあって、それから、向付や椀物があって、焼き物や炊き合わせがあって、と時系列に運ばれる。
カツオだしで調理された餡かけや汁は、濃厚ではないけれども、ソースだと言えなくはない。
そう考えると、フランス料理と日本料理の違いは、箸で食べるか、ナイフとフォークで食べるかの違いしかないという理屈も成り立つ。
不思議である。
なんて考えていたら、そうだ、ロシア料理もイタリア料理も中華料理も、なんだって、ちょっと高級なお店に行くと、時系列で料理が出てくるし、ソースだって掛かっているから、フランス料理だって言っても非難される理屈はない。
中華料理の餃子の王将だって、餃子は前菜、酢豚は肉のメイン料理として、ナイフとフォークで提供したら、立派なフランス料理になっちゃうじゃないか。
「フランス料理店・餃子の王将」
仕事帰りのサラリーマンや近所の家族がワイワイと食事をする横のテーブルで、僕はスーツを決めて怜子と向かい合う。
「今日は、君と僕の大切な日だからね。フランス料理の餃子の王将にしたよ。」
「まあ、嬉しい。」
油の匂いと、中華鍋とオタマが激しくぶつかりあう音をバックミュージックに、生ビールで乾杯だ。
メイン料理の酢豚をナイフで半分に切る。
そして、おもむろに口に運ぶね。
勿論、この場合は、おちょぼ口でなければならない。
なんてったって、フランス料理だからだ。
「ねえ、あなた。このお肉の周りのソースが美味しい。甘くって―、酸っぱくって―、なんだろう、初恋の味?あは、あたし嬉しいから、ちょっと変でしょ。」
「ははは、仕方ないよ、フランス料理だからね。それにしてもさ、このソースは絶妙な甘辛味だね。たぶん名のあるホテルで修業した料理人に違いないよ。」
「そうね、あたしたちリッチね。」
「そうだね、リッチだよね。ブルジョアだよね。」
「あはは、リッチ。」
「あはは、ブルジョア。」
フランス料理という特別なディナーを前に、周りの怪訝な目に気が付かない2人なのでありました。
「くくくっ。」そんな想像をしていたら笑ってしまった。
「あれ、パパどうしたの?」と茉莉子が不思議そうに聞いた。
「えっ、いや何もない。」
「何もないって、いまパパ笑ってたよ。」
「いや、笑ってない。」
「そんなことないって、笑ってたって。」
「あ、イヤらしいこと考えてたんだ。」と怜子が入ってくる。
「だから、笑ってないし、イヤらしいことも考えていません。」
「きゃはは。イヤらしいことって、何?ねえ、パパ。」
「バカ。だから、イヤらしいことは、考えていません。」
そう言ったら、2人とも、僕の肩を叩いて大笑いした。
ただ、僕は、僕の考えていることが、人には見えないことだということが、どんなに楽な事なのか知った。
(11)
僕は、僕と怜子と茉莉子の結婚式の前日の朝、家を出た。
これが、僕の計画である。
突然、怜子の前から姿を消す。
復讐のためだ。
僕が、いなくなったことに気が付くのは、今日の夜だろうか。
明日の朝には、結婚式の準備があるから、怜子も茉莉子も、気が気じゃないだろうな。
可哀想で仕方がない。
或いは、事故に巻き込まれたと思うかもしれない。
いや、感のいい怜子なら、理由があって僕が家を出たと気が付くだろう。
そして、怜子がどう思うか、どう考えるか、それを思うと辛い。
でも、これは実行しなければならないことなのである。
仕方がない。
仕方がなかったのである。
僕は、怜子に、僕の気持ちと、何故家を出たのかを、パソコンのデスクトップに残してきた。
それに怜子が、気が付くかどうかは、解らない。
すぐに、見つけるかもしれないし、何年もたってから見つけるかもしれない。
でも、そんな言葉なんて、怜子には意味がないはずだ。
何故なら、僕が出て行ったという事実は、今、目の前に間違いなくあるからだ。
その理由を知ったって、その事実が変わる道理はない。
僕が家を出るのは、怜子に復讐をするためだ。
とはいうものの、家を出ることを実行する今は、復讐なんてしたくない気持ちでいっぱいだ。
怜子を愛しているからだ。
でも、仕方がないのである。
今、僕が家を出なければ、僕が復讐をしなければ、今まで怜子にしてきた罪が、意味をなさなくなるのである。
ただ、怜子が僕に苦しめられたということで、それで終わってしまう。
それじゃ、苦しめられ損じゃないか。
家を出ることによって、復讐が終わり、僕が怜子にしてきた罪が、僕の罪として確定するのである。
その瞬間に、僕は罪人となる。
地獄行きの切符を受け取ることになるのである。
僕に罪があるとしなきゃ、あまりにも怜子が可哀想である。
だから、仕方がないことなのである。
僕は、罰を受けなければならないのである。
南無阿弥陀仏の救いは、法然上人から、親鸞聖人へと発展していき、そこで、阿弥陀仏の救いを信じた全ての人が救われると説かれた。
それから更に、一遍上人は、信じなくても救われると発展させたと知った。
素晴らしい発展だ。
まさに全ての人が救われてしまう。
そうなると、怜子を苦しめた罪深い僕も、救われてしまうことになる。
それで良いのだろうか。
良い訳がない。
僕は、怜子の為にも救われてはならないのだ。
勿論、僕は一遍さんの信者じゃない。
でも、そんな理屈に苦しめられていたのである。
それが、僕が家を出る数日前の事だ、あることを知った。
一遍上人が死んだ後に、それを引き継いだ時宗教団は、往生が約束された人でも、戒を破ったものは、往生が出来ないという解釈に変更をしてしまったそうだ。
それを知った時に、一遍上人の究極の救いが、急に色あせてしまった。
折角、ここまで、発展させた救われる理屈が、またもとのスタートに戻ってしまったようで、悲しかった。
とはいうものの、その逆戻りした考え方に、今は身を委ねよう。
何故なら、それを知った時に、気が楽になったのである。
怜子に復讐をする僕は往生が出来ない。
詰まり、永遠に続く輪廻の中で苦しみ続けることが決まったのである。
そして、地獄行きが決まったのである。
とはいうものの、地獄に落ちることで、ホッとしている僕は、地獄に落ちることで救われたのかもしれない。
いっそ、地獄には落ちずに、極楽で大きな罪悪感を抱えたまま、永遠に苦しみ続けることの方が、僕には必要なのだろうか。
地獄で苦しむことと、極楽で苦しむことは、どちらが苦しいのだろうか。
どちらも苦しいのだから、それは神様の気持ちに任せよう。
家を出て、取り敢えずは山陽本線の新快速に乗り込んだ。
これから、どこへ行くかは、まだ考えていない。
姫路に着いたら、次にどの線に乗るのか、それが、今さしあたっての問題である。
どこかのビジネスホテルにでも泊まるぐらいしか、思い浮かばない。
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残された怜子と茉莉子。
「ねえ、ママ。パパの仕事遅くない?」
「、、、そうね。」
「そうねって、ママ。飲み会とか?それだったら電話ぐらいしなきゃね。」
「、、、そうね。」
「もう、明日、結婚式なんだから。ねえ。楽しみにしてるのに。二日酔いで新郎登場なんて、ダメだよね。」
「そうね、、、。」
「もう、さっきから、そうねって、ママおかしいよ。」
「そうね、、、。」
「だからあ、そうねって、、、ねえ、ママどうしたの?」
「、、、パパ。いなくなっちゃった。」
「いなくなっちゃったって、どうして。」
「ママ、解らない。」
「えーっ。なんで。なんで。パパいないのに、解らないの。」
「なんでって、、、、。」
「パパの携帯に電話したんでしょ?」
「つながらないの。」
「留守電は?メールは?ねえ、どうなったの。」
「解んないの。もう、この携帯使われていませんってメッセージが流れるの。」
「えーっ、ママどうしたの。ねえ、大丈夫?」
「あたしも、明日のことで確認したいことあったから、電話したんだけど、全然つながらなくて、メールも返事ないし、どうしようなかって思ってたら、平君から電話があって、仕事のことで携帯に電話したけど、パパと連絡つかないって。」
「えっ、平さんも連絡つかないって?」
「うん。会社の人も、誰も連絡つかないって。」
「ママ、泣かないでよ。きっと何かのトラブルで連絡付かないんだよ。パパ、きっと何かあったんだよ。そうだ、警察に連絡した?」
「連絡してない。」
「何でよ。パパいないんでしょ。警察に連絡しないと、何処かで事故にあってるかもしれないんだよ。」
「ママ、事故じゃないと思う。」
「思うって、思うって、解んないんでしょ。」
「、、、だって、お墓に新しいひまわりが供えてあったから。平君から電話があって、そうだって思って、お墓に行ったの、あたし。」
「お墓?ひまわり?なんなの、それ。」
「解らない。」
「だからさ、解らないって。それに、お墓とか、ひまわりとか、一体、何なの。」
「もう、いい。きっと、いつか戻ってくるよ。だから、茉莉子も待ってて。」
「いや、だから。いつか戻ってくるって、待っててって、どういう意味。ママとパパと、何かあったの。喧嘩でもしたの?」
「してないと思うんだけど、解らない。」
「また、解らない。」
「とにかく、ママと茉莉子で、待ってよ。」
「、、、、、。」
「待ってよね。お願いだからね。」
「、、、お願いだからって、、、、。」
「お願いだからね。」
「待ってるけど、どういうことなのか、落ち着いたら、話してよ。茉莉子は、ママの味方だからね。絶対だからね。」
「うん。だから、待ってるんだもん。」
ただ流れる涙を拭くこともせず、ただじっと窓の外を見ていた。
怜子も茉莉子も、ただソファに座って、そこにいることでしか、お互いに慰め合うことができなかった。
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読まれることのないデスクトップの怜子への手紙
怜子へ。
僕が突然にあなたの前から姿を消したことで、今この手紙を読んでいるあなたは、さぞかし驚いていると思う。
或いは、この事態を把握できずに戸惑っているだろう。
そして、僕への強烈な憤りを感じていることと思う。
そのことに関しては、本当に申し訳ないという気持ちで胸が痛んでいます。。
でも、このことについては、僕にとって、どうしてもやらなければいけない事だったのです。
詰まりは、始めから計画していたことなんだ。
その目的を最終的に達成するために、あなたにこの手紙を書きました。
何故、僕があなたの前から姿を消したのか、それをここに書きたいと思う。
ただ、これだけは、あなたに伝えておきたいのです。
今、僕はあなたを心から愛しています。
これは事実なのです。
25年前の事を書きたいと思う。
僕が入社して間もない頃だ。
その当時、僕には雪子という付き合っている女性がいた。
結婚の約束もして、その準備に楽しい日を送っていたよ。
ただ、雪子には1つ問題があったんだ。
うつ病で悩んでいた。
それも、ひどい時は自殺まで考えたり、婚約破棄の話も何度も出たよ。
でも、僕はそんな雪子と一緒に苦労をしてゆくつもりだった。
そんな時期に、取り返しにつかないことが起きてしまったんだ。
あなたは、僕に残業をするように言ったんだ。
怜子はもう忘れてしまっているだろう。
というか、そんなことは当時、気にも留めていないことだったと思う。
でも、僕は、その日の夜は雪子と病気のことと結婚のことの話し合いをする日だた。
少しうつの症状が酷くなりかけていた時だった。
そこへ、僕への残業の命令だ。
勿論、その日しかない重要なことだったら、僕も残業をするよ。
でも、そうじゃなかった。
それにいくら仕事の事だと言っても、上司でもないあなたに指示される筋合いではないことだった。
なので、僕はあなたに、そう答えた。
その事が、あなたには気に入らなかったのでしょうか、或いは、ただのデートだと思ったのでしょうか。
あなたは古川部長に僕の仕事がなっていないと、マイナスイメージたっぷりに脚色交じりに訴えにいったのですよね。
それから、古川部長から、仕事がしたくないなら会社を辞めろと言われました。
その言葉に僕は逆らうことをしなかったし、怜子が部長に話した嘘も否定はしなかった。
人のあらかじめ決まっている印象は、どんなに本人が否定しても変わることはないということを知っているからね。
あの場合、僕がどんなに怜子の嘘を否定しても、部長は僕へのイメージを変えることはなかっただろう。
僕は結婚のこともあったし、将来の事を考えると辞めるわけにはいかなかった。
それで、仕方なく残業をする事にしたんだ。
その日だ。
雪子は、僕の住んでいるアパートで薬を大量に飲んで、何故なのか外出して車に轢かれて死んだ。
僕が、それを知ったのは、仕事を終えてアパートに帰ってきた時だ。
雪子は僕の事を待ちきれなかったんだろうか。
待ちきれずに駅まで迎えに行こうとしていたのか。
ちょうど雨が降っている日で、僕に傘を届けようと、駅まで傘を持っていこうとしたのだろうか。
雪子には僕が傘を持って出かけたかなんて関係なかったのかもしれない。
ただ、心配で傘を持って家を出た。
或いは、雪子は僕に裏切られたと思ったのだろうか。
これからの将来の大切な話をする時間になっても僕が返ってこないことで、雪子の前から僕がいなくなると思ったのだろうか。
どんな理由なのかは、今でも分らない。
でも、僕が雪子を死なせてしまったことは事実なんだ。
そして僕は、自分のした事で雪子を死なせてしまったんだという事を受け入れる事が出来なかった。
深い苦しみ、悲しみ、後悔、そんなネガティヴな感情がずっと僕を支配していた。
愛している人を突然に失うと、こころにポッカリと穴が開いたようだという例えを聞いた事があった。
でも、実際はそうじゃなかった。
僕の心の中には、恨みと憎しみが渦巻いていた。
雪子が、死んだ事は、誰のせいでもない。
誰かのせいだと言うなら、それは僕のせいだ。
僕が、毅然とした態度で断らなかったからなんだ。
でも、僕が選んだのは、復讐だった。
心の中の恨みと憎しみを誰かに向けなければ、僕という人間が、その時は生きている意味を見つける事が出来なかった。
そして、復讐を思いついた。
誰に?
それが、あなただったんです。
あなたが僕に残業を命令しなければ、そしてあなたが古川部長に誇張した嘘の告げ口をしなかったら、そしてあなたが存在しなかったら、雪子は死ぬ事がなかった。
その時の僕には、その考えを否定する何物も存在しなかった。
本当は、僕のせいだということに気が付かないふりをしていたのかもしれない。
怜子は、そんな僕の事情なんて知らなかっただろう。
だから、怜子は少しも悪くない。
悪いのは、僕だ。
でも、その時の怒りは、僕自身じゃなくて、怜子、あなたに向けてしまったんだ。
愚かな考えだが、その時は、仕方がなかったんだ。
そこで、復讐についてです。
復讐をするといっても方法がある。
肉体的な暴力は、僕は苦手だ。
では、どうするのかを悩んだよ。
そして出た結論が、あなたとの結婚生活だったのです。
人間においての1番の絶望は何か。
それは、裏切りだと思うのです。
信頼している人からの裏切り。
愛している人からの裏切り。
僕は、あなたを裏切る事で、復讐を実行しようと考えたのです。
その日から、僕はあなたに近づき、あなたに気に入られ、あなたに愛されることを、続けてきたのです。
しかし、その作業がこれ程までに辛いことだとはその時は思いもしなかった。
人に愛される、あなたに愛されるためには、これは演技なんかで出来るものじゃない。
人間の感性は思いのほか鋭いからね、いくら演技で愛を囁いても、それは伝わらないし、相手の心を動かすことなんてできやしない。
本気でぶつからなきゃダメなんだ。
なので、僕が最初に行ったのが、あなたに愛されるために、心からあなたを愛するという作業だったのです。
恨んでいるあなたを、愛する。
憎いあなたを、愛する。
即ち、それが復讐のはじまりなのです。
そうして、あなたが私を愛し、そして心を開いた時に、あなたを裏切って、あなたの前から姿を消す。
それによって、あなたの心は裏切られ、今まで一緒に暮らしてきた時間を無意味なものにするのです。
今まで、あなたが僕のために犠牲にした時間。
今まで、あなたが僕のために尽くしてくれたこと。
今まで、あなたが僕のために諦めた夢。
そして、これから無駄になるあなたとの将来の約束。
それらのもの、全てが今日で無意味なものになってしまうのです。
それが、僕のあなたに対する復讐の全てです。
勿論、あなたと同じ時間を過ごす僕の25年も無意味なものになってしまうのかもしれない。
しかし、復讐には犠牲は必要なものである。
覚えていますか。
僕が初めてあなたを抱いた日のことを。
僕は、はじめはそんなことが出来るのだろうかと思っていた。
憎い人を抱くことが出来るのかと。
しかし、それは僕の想像を超えたものだった。
ホテルの部屋で、お互いに服を剥ぎ取るようにして裸になった時だ。
あなたの皮膚と僕の皮膚が重なり触れ合う。
胸の皮膚。
腿の皮膚。
そして、脳幹までもが痺れるような快楽に包まれていた。
それは、愛している人を抱くよりも高い興奮だった。
僕は、何日も何日も、貪るようにあなたを求め続けたね。
そして、そんな時に身ごもったのが茉莉子だ。
ある意味、茉莉子は、恨みや憎しみを超えて生を受けた子供だといえる。
或いは、もう恨むのも憎むのも止めなさいという神様のメッセージだったのかもしれないと思った。
あの時に、神様のメッセージを素直に聞き入れるべきだったのかもしれない。
結婚してから2年ぐらい経った時だろうか、僕は僕自身の心に変化が生じていることに気がついた。
或いは、もっと前から気がついていたのかもしれない。
それは、あなたを本気で愛してしまっていたのです。
あなたに愛されるために、本気であなたを愛してきたのではあるのだけれど、それは復讐をするためだという思いが僕の心の中には存在していた。
でも僕の中で、それとは無関係にあなたを愛し始めていたのです。
これは、雪子のことを忘れかけてきているということを意味しているのかもしれなかった。
この頃から、復讐なんかしても仕方がない、それよりこれからの事を考えるべきだという気持ちが起こってきたのです。
しかし、それは、どうなんだろうと思うのです。
あなたに復讐をするために愛した筈なのに、あなたを本当に愛してしまったから、復讐は止めて、あなたを愛する事だけにしますというのは、あなたの存在と、あなたが僕に騙されてきた時間を否定する事になってしまう。
詰まりは、最後にあなたを裏切らなかったとしても、あなたの今までの時間が無意味なものになってしまうという事だ。
そんなことを僕はずっと考えていた。
そう考えながら、月日が経っていった。
その間、僕は本当に幸せだった。
あなたのような人には、もう二度と巡り合えることはないだろう。
茉莉子という素直な子供にも巡り合うことはないだろう。
言うなら、今の状況は僕の理想とする結婚生活なんだ。
ここで、もう一度あなたに言いたいのです。
あなたを心から愛しています。
そして、あなたと茉莉子のいるこの家庭が大好きです。
でも、仕方がないのです。
ここで復讐を実行に移さなければいけません。
その理由は2つあります。1つは雪子です。
雪子には復讐を約束して始めたのです。
それを復讐の相手を愛してしまったからと言って、止めてしまうことは、雪子があまりにも不憫ですから。
そして、もう1つは、あなたに復讐するために始めた結婚生活を、あなたを愛してしまったから、このまま続けるというのでは、あなたにとってこの結婚生活が、一体にいつのどこまでが復讐で、いつからどの日から愛のある結婚生活なのか、判然としないまま終わってしまうことになる訳で、僕の中で不条理な気持ちを抱えたまま、いつまで続くか分からない生活を続けることになる。
なので、僕はここで一旦復讐を完結させてしまおうと思う。
今日、僕はあなたの前から姿を消します。
今まで、本当にありがとう。
僕は今あなたに復讐する意味をまったくなくしてしまった。
出来ることなら復讐はしたくない。
しかし、それはしなければならないことなのです。
それは、あなたを愛しているから。
あなたの為に、このまま愛のある生活をしてはいけないのです。
愛しているあなたに意味のない復讐をすることを僕はやらなければいけないのです。
苦しい。
このままあなたと暮らしたい。
このまま怜子と茉莉子と今の生活を続けたい。
でも、実行に移さなければいけません。
愛することによる復讐を。
怜子、ありがとう。
そして、愛しています。
追伸
復讐のために、銀行口座の残高を無くしてから家を出ていくつもりだったのですが、それは止めました。
今の貯金で2年ぐらいは何とか暮らせるとおもいます。
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怜子の出すことの叶わない手紙、、、独り言
あなたがいつか、あたしの前からいなくなってしまうんじゃないかということは感じていました。
でも、それが今日だったとは思わなかった。
いつかはこうなると思っていたけれど、あなたの笑顔、あなたの優しさを感じる時、まだもう少しあたしのそばにいてくれるんだって、そんな楽観的な思いを漠然と抱いていたの。
でも、今日だったのね。
そして、本当にいなくなってしまったのね。
でも、少し安心しました。
だって、あなたはまだ生きているんですもの。
あなたは、まだこの世界のどこかにいる。
それだけで、あたしは生きていける。
ひょっとしてあなたは死を選択するんじゃないかって思ったこともあったのよ。
あたしってバカよね。
どうしてだか知らないけれど、そんな気がしたの。
理由はないの。
でも、何となくね。
いえ、何となくというより、直感というのかな。
でも、そんなことはしないと知っていたの。
だって、あなたはあたしのことを愛してくれていると思うから。
あたしの前を去っても、あたしと茉莉子のことを見守ってくれる筈だから。
でも、おかしいね。
あたしの前から消えた人が、あたしのことを愛してくれているって信じられるって。
もし違ってたら、あたしってただの妄想癖のおかしな人になっちゃうね。
昔はね、ひょっとして殺されるのかなって思った時もあったの。
理由は解らないけど、そう感じたんだ。
何故だろう。
その時の、あなたは確かに変だったんだもん。
何かに憑りつかれてるようにみえた。
その何かは解んないけどね。
あなたじゃないみたいに見えたのよ。
でも、殺されるのはちょっと怖いけれど、それまであなたと一緒にいられると思うと、なんかね、うれしかったのよ。
ただ、あなたといられる時間が大切だった。
その他にも、いろいろ想像したのよ。
あなたが愛人を連れて帰るとか、あなたが犯罪を犯すんじゃないかとか。
だって、あなたの様子がおかしいと気が付いたら、本当に怖かったんだもん。
何が変化って説明なんて出来ない。
でも、普通じゃなかったんだよ。
あたしの目の前にいるのに、いないみたいだったんだ。
そして、何かを思い詰めていた。
あたしと食事をしてる時も、あたしとテレビ見てる時も。
あなたは、あたしを見てるんだけど、見てなかったんだよ。
ううん、見てた。
見てたけど、あなたの目の奥に映ったあたしを、何故か消そうとしていた。
そんな目だったんだから。
苦しそうだった。
どうしたのって、聞きたかったのよ。
あなたに、どうしたのって。
何を苦しんでるのって。
もし、苦しんでるなら、一緒に苦しみたかったんだよ。
ホントに、、、。
でも、そんなあたしの気持ちも否定していた。
あたしの心配を拒否してたよね。
あなたの苦しみに近づけなかったんだ。
やっぱりあたしの前から消えてしまったのね。
それが、あたしと茉莉子にとって一番良いと思ったんでしょう。
理由はないけど、そう思うよ。
でも、あなたって演技が上手いね。
はは、あたし本当にダマされちゃった。
あなたは、いつも何かに悩んでいた。
すごく辛そうだったよ。
でも、それを、あたしや茉利子の前では、隠してたのよね。
あたしにも言えないことだったのよね。
あなたのこころの奥にあるものは。
あたしね、あなたが入社したときから、少し気になってたのよ。
でも、付き合うなんて考えられなかった。
年齢もあたしの方が上だし、きっとね、お局様なんて思われてるだろうなとおもっていたから、きっと嫌われてるって思ってたから。
だから始めて映画に誘われたとき、びっくりしちゃった。
でも、嬉しかった。
それから、あなたの甘い言葉を毎日のように聞いて、だんだん、あたしもあなたがいないとダメになってきたのね。
そして勘違いしちゃった。
あたしなんて、人に愛されるような魅力もないのにね。
全然、気がつかなかった、あたし。
あなたの笑顔が、あなたの優しい言葉が、あなたの暖かい腕が、偽りだったなんて。
そんな風には思えなかったよ。
こんなあたしでも、あなたに愛して貰えるんだって思ったのね。
でも、今思うとその時に気がつかなくて良かった。
もし、その時にその事実を知っていたら、あたし死んじゃってたかもよ。
ほんとよ。
あなたに大切な人がいたって知らなかったのよ。
あたしは、その人の代わりだったのかな。
大切な人がいなくなった寂しさを紛らわす為の代用。
、、、それでも良かったんだけど。
いえ、そんなことないわよね。
あなた、あたしのことを愛してくれてたのよね。
だから、あたしに結婚を申し込んでくれたんでしょ。
あたしへの愛が偽りだったなんて、あたしの勘違いよね。
、、、そう思いたいの。
あなたに好きだった人がいてもいい。
ううん。
今もまだ、その人の影を追いかけてるんだったら、それも我慢できるんだよ。
その人への悲しさを紛らわせるために、あたしといるんだってこと。
それでも、いい。
あたしがね、事実を知ったのは5年ぐらい経った時かな。
でも、その時には、あなたの気持ちが変わってきている事に、何となく気が付いていたから、あなたがあたしの事を愛してくれているって思えたのね。
だから事実を知っても傷つかなかった。
だって、あなたがあたしを愛してくれていたんだものね。
あなたの心の中に、あの人への愛が残っているかどうかなんて問題じゃなかったの。
ただ、あなたに愛して貰えるなら。
あの人を忘れないでいることであなたのこころの傷が癒えるなら、あたしはいつまでも、あなたを待っている。
あなたに、少しのあたしへの愛があるなら。
もし、あなたがあたしを愛する事で罪悪感が生まれるなら、あたしを傷つけないでおこうなんて考えないでいいのよ。
あたしを傷つけていいよ。
あなたが、それで救われるなら。
あたしは、それでもあなたのそばにいることができるのなら、それでいい。
少しのあなたの愛があるのなら。
いままでも、そしてこれからも。
あたしの全てを無駄にしても、あなたを愛し続けます。
ねえ、あなたは覚えてるのかしら。
あたしが、あなたの様子がおかしいと気が付いたきっかけを。
あれは結婚して3年ぐらいの時だったかな、あたしが友達と会っていて、帰りが少し遅くなったかなと思って帰りを急いでた時のことよ。
その時に偶然あなたを駅のホームで見かけたことがあったのね。
あなたは電車から降りると、駅のホームのベンチに座ったの。
まっすぐ前を見ていたわ。
そして無表情だった。
あれは何を考えてたのかな。
ずっと動かないで座ってたんだから。
あたし心配になって、次の電車が到着した時にあなたに電話してみたのよ。
今、駅に着いたけど、あなた今どこにいるの?って明るく聞いてみようと思ったのね。
でも、あなたは携帯を見たまま出なかったね。
あなたが家に帰ってきたのは、それから1時間してからだった。
帰ってきたあなたはいつものあなただったね。
ずっとホームのベンチに座ってたんだね。
あの時、あなたは何を考えていたんだろう。
あの時、あなたはどうして携帯に出なかったのだろう。
あの時、あなたは苦しんでいたの。
あの時、あなたはあたしを憎んでいたの。
あの時、あなたはあたしを愛してくれていたの。
家に帰ったあなたは、いつものようにビールを飲んでたよ。
そして、帰りに買った出来合いの唐揚げを食べながら、「やっぱり唐揚げは怜子が作った方が美味しいね。」って言って笑ったんだよ。
いつもと変わんなかった。
それですっかり安心したというか、そのことは忘れていたのね。
でも、毎年8月になったらお休みの日に1日だけ、あなた1人で出かけることがあったよね。
それで、その年の8月になったときに、あなたは、ちょっと出かけてくるっていった日があったでしょ。
朝から汗が流れるぐらい暑い日曜日だった。
始めは気にしなかったんだけれど、ホームの事も気になってたのか、急に何処へ行くのか気になりだしたの。
気がつくと、気になって仕方がなくなって、何処に行くのか知りたくなったのね。
あなたに聞けば教えてくれたのかな。
でも、その時はあたしも自分に自信がなくって、実はあなたの後を付けて行ったの。
はしたない女でしょ。
でも、気になって、、、何かあたしたちの家庭に不調和が出てきて、あなたが何かに救いを求めているんだろうかとか、それでその原因があたしなんじゃないのかって。
あなたが他に女を作ってるとか、そんなことは考えなかった。
ただ、あなたが苦しそうに見えたの。
それで、あなたをつけて行ったら、京都の五条にある霊園に行ったのね。
あなたは、そう、あるお墓に、ずっと手を合わせていたわね。
でも、どうしてか、その後、お墓の前に立ったまま、1時間も、そこに、そうやって立ってた。
あれは、どんな気持ちで立ってたのかしら。
あの人に、あたしのことを報告していたのかしら。
でも、私には、苦しそうにみえたわ。
人が見たら、無表情に見えるかもしれないけれど、私には、苦しそうに見えた。
でも、その時は、まだ、あなたと、あなたの特別な人とのことなんて、知らなかったから、何か不思議な気持ちで見ていたわ。
お墓と、あなたと、そして、私。
そのわずかの距離の空間に、不思議な空気が流れていた。
あなたは、気が付かなかったでしょうけれどね。
そこだけ、何かに依って捻じ曲げられた、歪んだ時空のように思えた。
それは、現在と過去が同時に存在する時空だったのね。
私は、それを知らずに、あなたの背中に抱き着こうかと、真剣に悩んだ。
苦しんでいるあなたの背中にね。
でも、どうしても足が動かなかった。
それと同時に、私の事を気づかれてはいけないという気持ちもあったの。
息を吸うのも、喉に神経を集中させてさ。
びくびくしながら、息してた。
そしたら、急に、遠くの蝉の声が、わーんと鳴き出して、今、私の立っているところの時間が動き出したようだった。
あなたとわたしが、生活をしている現実世界。
あなたが立ち去った後に、わたしは、そのお墓の名前を見たわ。
中島家という名前が刻まれていた。
それが、どういう人かは分らなかったけれど、大切な人なのだって、そのぐらいは、あたしだって解る。
でも、それ以上のことは、考えたくなかったんだ。
お墓には、小さなひまわりが供えられていた。
その鮮やかな黄色が、不安を感じてるあたしの気持ちと正反対に、周りに開き直った明るさを振りまいていたわ。
あの人の好きな花だったんだってね。
花言葉、「あなただけを見つめてる」だってさ。
じゃ、あたしにくれた四つ葉のクローバーの栞も、花言葉に引っかけてたのかな。私は、幸運の印だと疑わなかったけれど、クローバーには、「復讐」という意味もあるんだってね。
復讐って、誰に?
まさか、あたしじゃないよね。
って、クローバーの花言葉なんて、あなた知らないよね。
そんなことまで勘繰っちゃってる私って、正常じゃないのかな。
バカだね、私って。
あなたに復讐されることなんて無いのにね。
だって、私は、あなたの奥さんで、愛されてるのよね。
その日、家に帰って来たあなたは、そういえば、少し無口だった。
今までなら、気にならないのだけれど、その時は、ハッキリと、いつもと違うって分かったよ。
でも、意外と、あなたって、自分を隠すのが上手かったんだね。
というよりも、嘘が上手かったのかな。
いや、違う。
変だとは思っても、それに気が付かないつもりでいたのかもしれない。
そんなことがあって、少しはあたしだって気になったからさ、明子ちゃんとと平君に連絡して見たの。
それであなたのいないお昼に会って話を聞いたのよ。
あなたがまだ私と付き合う前に、あなたには特別な人がいて事故で死んでしまったっていうことを知ったの。
初めて知ったというより、その当時はそんなこともあったように覚えてるんだけれど、それがそんなに重要なことには思えなかったのかな、忘れていたんだね。
それで、その特別な人が、雪子さんだってこともね。
でも、そんなことがあったなら、私に、そう言ってくれれば良かったのに。
水臭いななんて、思ってた。
あなたの特別な人なら、私も一緒にお墓参りに行ったんだよ。
だって、その人は、過去の人でしょ。
今でも、その人を愛してたのかしら。
でなきゃ、私にも打ち明けてくれるはずよね。
私よりも、その人が好きだった。
そうなのかしら。
その時はね、ただ、あなたを助けたいと、それだけを思ってた。
でも、腑に落ちないことがあった。
平君が、雪子さんの死因については、何故かハッキリとは答えなかったのよ。
何度聞いてもさ、事故だっていうだけで、詳しく知らないなんて言うのよ。
でも、平君は、あなたと同期で、いつも帰りによく飲みに行ってたじゃない。
知らない訳ないと思ったの。
それで、何度も聞いたけど、知らないの一点張りだった。
本当なのかなと思った。
でも、雪子さんが原因で、あなたが変になっているのは、解ったよ。
もしかして、あたしが雪子さんに、何かをしたのかな。
どうなの。
もしも、私が雪子さんの死に関係しているなら、つじつまが合うよね。
そう考えるのが自然だよね。
でも、そうは考えたくなかったんだ。
そんなの悲しすぎるもん。
私も、雪子さんも、そして、あなたも。
私が、雪子さんの死に関係していて、それで、あなたが、私に今の行動をとっているとしたんだったら、そんなの悲しすぎるよ。
誰も、いいようになってないじゃん。
でも、やっぱり、私が悪いのね。
理由は知らないけれど、私が悪いせいなのよね。
その理由は、知りたくない。
でも、聞かなきゃいけない気がするの。
本当に私が悪かったの?
それだけでも、教えて欲しい。
私が悪かったの?ねえ。
考えれば考えるほど、気が変になっちゃって、平君に相談したの。
でも、やっぱり教えてくれない。
でも、それって変でしょ。
もし、雪子さんの死にあたしが関係してなかったら、あたしにも教えてくれるはずでしょ。
他に、あたしには言えない理由があるっていうの?
でも、そうじゃないわよね。
もし、あたしが雪子さんの死に関係してたら、あたしと結婚なんかしないよね。
あたしを愛してくれたりしないよね。
でも、あなたは、あたしを愛してくれて、結婚してくれてる。
だったら、雪子さんの死にあたしは関係してないってことになるよね。
やっぱり、あたしは雪子さんの身代わりなの?
雪子さんのいない寂しさを埋めるための、代用なの?
でも、それでも、結婚まではしないでしょ。
やっぱり、変よね。
だって、理由が解らないんだもん。
あなたが変だったこと。
平君が、雪子さんの死について教えてくれないこと。
あなたが雪子さんのことを、今、どう思ってるかってこと。
あなたが、あたしの前からいくなっちゃったこと。
どれも、解らない。
解らないの。
ねえ、教えて。
ただ、あなたが、あたしを愛してくれてることだけは、解る。
あたしって、アホやなあ。
泣けてくるよ。
私は、あなたの特別な人、雪子さんの事は、よくは知らないけれど、嫌いじゃないのよ。
あなたが選んだ人だもの。
もし生きていたら、うまくやっていけた、そんな気がするの。
だから、あたしとあなたと、一緒に雪子さんの想い出を抱いて生きていけたと思う。
何かを背負って、嘘ついて、生きなくても良かったのよ。
でも、今でも、私より、雪子さんの方を愛してるなんて、言わないよね。
だって、私たち、幸せだものね。
私の事だって、愛してくれてるのよね。
そうよね。
ひょっとして、あなたは、あたしのことを恨んでるの?
何故だか解らないけど、そんな気もするんだ。
女の直感っていうやつかな。
雪子んさんの死に関係して、あたしを恨んでる。
そう思うと、納得がいくもの。
あたしのことを恨みながら結婚したっていうの。
そんなの変だよね。
そんなことする訳ないもんね。
でしょ、絶対違うよね。
だって、あたしとあなたと、楽しかったんだもん。
毎日、楽しかったよね。
それに、あたしを恨んでいるんだったら、あたしに酷いことをしてもいいはずだもんね。
それこそ、復讐したはずよね。
でも、あなたは、とっても優しかったもん。
でしょ。
あたしを恨む理由なんてないよね。
でも、あなたが、そうしたいんだったら、私は、そうさせてあげる。
あなたがあたしを憎みたいなら、そうさせてあげる。
いえ、そうしてあげたいと思うの。
それで、あなたが、私には分からない苦しみから逃げられるのだったら、あなたに、そうさせてあげる。
待っててあげる。
でも、いつまでもとは、言わないよ。
私だって、いつ壊れるかもしれないんだからね。
苦しいよ。
私だって。
あなたの苦しみが解らないことが、苦しいの。
逃げるのは、させてあげるけれど、その理由だけは、教えて行ってくれても良かったんじゃない。
でも、本当に、何故、あなたは私から離れて行ってしまったのだろう。
教えてほしい。
でも、本当は、これも何かの気の迷いでしょ。
ねえ、1ヶ月ぐらいしたら、戻って来てくれるんでしょ。
そう思いたい。
でも、心の底では、帰ってこないんじゃないかという考えが纏わりついて離れないのよ。
どうしてか、解らないけれど、帰ってこない気がする。
でも、何故。
何故。
何故。
何故。
何故。
何故。
、、、、私、どうしたらいいの。