第九話 憤怒
常軌を逸した悪念の告白でございました。
住職の語った身の上話は、そうとしか例えられないほどに、陰惨で、おぞましく、身勝手な悪意極まる犯罪の暴露でございました。
真実を知った私の胸に、とてつもない衝撃と、住職への激しい怒りが去来したのは、言うまでもありません。
世俗を断ち、衆生救済を掲げる仏様に仕え、迷える人々へ説法を解く。それが、正しき仏教徒のあるべき姿ではありませんか。それを破り、殺人に手を染めるとは……
刑事さん、あの住職は、敬虔な仏教徒でも何でもありません。お話を聞いてお分かりの通り、邪教の徒でございますよ。
障碍者の息子を抱えてしまったことは、想像も尽きませんが、さぞかし大変だったことでしょう。しかしですね、それを鑑みたとしても、同情の余地など皆無でございます。
息子への愛情を暴走させた結果、無関係な女の子を巻き込み、遺体をドラム缶で焼くなど……まともな神経の持ち主なら、決してしない選択でありましょうに。
ちぃちゃんが住職の誘いに乗ってしまったのが、いや、そもそも、あの住職と親し気な関係を築いてしまったのが、彼女が被った悲劇の根本であります。しかし、彼女に落ち度は全くと言って良いほどありません。
どこの世界に、寺の住職が殺人を犯しかねないと、はじめから疑ってかかる者がおりますでしょうか。
彼女は、迂闊な行動をとったわけではありません。その事で、彼女の身に起こった出来事を、『自業自得』であるとか『自己責任』の一言で片づけるような奴がいたら、今すぐに、くびり殺してやります。
責められるべきは、己の立場を利用して、息子を真人間にするためだか何だか知りませんが、都合の良い生贄を虎視眈々と狙っていた、住職の方でございます。
あの男がいなければ、彼女は、今でもきっと元気に……あの素敵な笑顔を、私に見せてくれていたかも、しれないのですから。
挙句の果てに、住職は息子を殺した罪に苛まれるばかりで、理不尽なかたちで人生を奪われてしまったちぃちゃんへの謝罪の言葉を、一言も口にしなかったのですよ!
それが……それが私には、どうしたって我慢なりませんでした。
あの時の私の心は、どこまでもどす黒く染まっておりました。この男が犯した暴挙を見過ごしてはおけない。決して許せない。制裁を加えてやらなければという覚悟の念が、鉛のように重く広がり、それは後先を考える間もないほどに、先鋭化されていきました。
ちぃちゃんの仇を、何としても取らねばなりませんでした。でんぐり様同士のまぐわいなど、もうこれっきりにするべきでした。
過去に侵した殺人の罪を暴露し終えると、住職は、呆けたようにでんぐり様の儀式を見守るばかりで、こちらには気の一つさえ向けようとはしませんでした。その態度が、功を奏しました。
私は、スウェットのポケットからライターと煙草を取り出すと、そろりそろりと、静かに、気取られぬように、ゆっくりと煙草に火を点け、軽く一吸いしました。
そうして、先端の火種が明るく光ったのを確認するやいなや、私は、それを住職の後頭部へ、思いっきり押し当てたのですよ。
ぎゃあ、とでも例えればよろしいのでしょうかね。とにかく、ひとたまりもないといった絶叫が迸りました。思わず前かがみになった住職の背中を、私は、右足で力一杯に蹴り飛ばしました。
石段を勢いよく転げ落ちた彼の背や脇腹を、何度も何度も、強く強く踏みつけ、蹴り上げました。蒸し暑さで顔中を汗が滴りましたが、そんなものは関係ありませんでした。心の中でありとあらゆる呪詛を吐き連ねながら、私は徹底した暴力を振るいました。
住職は、弱々しく叫び声を上げ続けるばかりでしたが、その声が届いていないのか、あえて無視しているのかは分かりませんが、二匹のでんぐり様は、いっこうに儀式をやめませんでした。
特に、組み敷いている側の……住職の息子の魂が納められたでんぐり様は、決して、ちぃちゃんの顔をしたでんぐり様からは離れようとしませんでした。
ちぃちゃんの顔をしたでんぐり様は、電流を食らった蛙のように、その真っ青な芋虫めいた肉体を弓なりに逸らしていました。何度も何度も。繰り返し繰り返し。
私には一度として見せたことのないあの顔を、忘れることなどできません。もう彼女は死んでしまったはずなのに、まだ生きているような錯覚が襲ってきて、頭の中がどうにかなりそうでした。
しかしそれ以上に、彼女をこれ以上穢してどうするのだという、激しい憤りが沸き上がってきたのも、また事実でした。
衝動に背中を押された私は、儀式に夢中になっているでんぐり様へ、肩から思い切り突進しました。完全に不意をつかれたでんぐり様は、みっともなくあおむけに倒れました。
あとはもう、徹底したやり方で、でんぐり様を……住職の息子を痛めつけましたよ。馬乗りになってね。
芋虫めいた胴体は、実際に触れてみると、ぶよぶよとした質感がたまらなく気持ち悪いことこの上なかったですが、そんなことで怖気づいてしまうほど、私の怒りと哀しみは浅くありませんでした。
拳を固めて、生まれて初めて抱く苛烈な感情に身を任せるがまま、でんぐり様の腹を殴り続けました。そこに描かれた顔が、目を背けたくなるほどに、酷く、より醜く、変形するまで。
どれくらいそうしていたのか。もう、あまり覚えておりません。気づいた時には、でんぐり様の腹の貌は、もうどこが目でどこが口であるか、分からないくらいになっていました。
魂がすっぽり抜け出たような虚脱感を振り払って、その場から立ち上がりました。生まれて初めて振るった暴力の味は、とても嫌なものでございましたよ。
人間だろうと怪物だろうと、暴力を行使するのが、あれほど疲れるとは知りませんでした。それでも、自らの行いが間違ったものだとは今でも思いません。あの時は、ああするしかなかったのです。
これからどうするべきか考えようとした時でした。
おぎゃあ、と、赤ん坊そのものと形容して良い鳴き声が、すぐ近くでありました。声のした方を見て、私はぞっとして、思わず後ずさりました。
でんぐり様と化したちぃちゃんの下腹部から、一体の小さなでんぐり様が、赤黒いぬるぬるとした血にまみれて、こちらを見上げてしきりに泣いておりました。
おぎゃあ、おぎゃあ、という風に。
異常な光景を前に、私はもう、自分が何を目にしているのかさえ、分かりませんでしたよ。
ふと視線を上げると、ちぃちゃんの貌が目に入って……
……
……
……すみません。ちょっと、お茶を……
……
……
……私は、荷物も何も持たず、必死になって山を下りました。
身支度をまとめる時間などありませんでした。ちぃちゃんの、死人のように青ざめたあの貌を見た瞬間、私の本能は恐怖に身を絡め取られるのを、懸命に避けようと、必死に、無我夢中に、私の体を突き動かしたのです。
どの道をどのように駆け下りたかすら、覚えてはおりません。途中でひどい雨が降りはじめた時は、さすがに遭難するのではと思いましたが、しかしだからと言って、寺に引き返す勇気などありませんでした。
そうして、だんだんと深くなる闇の最中を走っているうちに、ある物に蹴躓いて、転んでしまいましてね。見ると、登山客か誰かが落としていった懐中電灯でしたよ。
私は、これ幸いと懐中電灯を拝借すると、深く覆い茂る草木を分けて、先を急ぎました。とにかく、山を下りることを優先したのです。あの悪夢のような寺から、一刻も早く遠くへ逃げ去りたかったのです。
ようやく山を下り、人家を見止めた時には、たぶん、もう夜中を既に回っていたのでしょう。灯は全くなく、ところどころに佇む街灯だけを頼りに、私は町を彷徨いました。
当てもなくそうしている時です。たまたま目についた交通案内の看板から、ここが無碍野町ではなく、隣の八日町であることを知ったのは。同時に、警察署までの行き方も描かれていましてね。
取り敢えず、信じて貰えるかどうか分からないが、あの寺であった一切合切を警察に報告するべきではないだろうか。
そんな風に思うようになって、私は、ここへやってきたのです。
長くなってしまいましたが、刑事さん。
これが、私が実際に見て聞いた、事のあらましなのでございます。