第八話 住職の告白
『何度も繰り返すようで悪いですが、東京から来なすった、あなたのような部外者に、この儀式を見せるというのは、永い虫願寺の歴史の中でも、初めてのことなのですよ。
しかし先ほども申し上げましたように、あなたには素質がおありのようだ。だからこそ、私はこの、でんぐり様の魂を鎮める儀式に、あなたをお招きしても良いと判断したのです。
まぁ正直に申しますと、石灯篭に火を入れる姿を見られている事に気付いた時は、怒りと驚きがありましたがね。
気分が悪いとお感じなさいますか? そうではないはずです。なぜなら、これは神聖な儀式そのものであるからです。
卑と俗の殻を剥いだ向こう側には、真なる愛の行為がある。それをあなたには分かっていただきたい。
人間は、たとえその肉体朽ち果てようとも、愛しい人と永遠に添い遂げることができる……でんぐり様は、死者の愛を叶えるためにある、大事な、大事な伝統なのですよ。
私はこれまで、多くのでんぐり様が、架空のお相手と、ああして交わり、愛の結晶たる子を産み落としてきた様を、ずっとずっと見届けてまいりました。
いや、私だけではありません。私の父も、祖父も、曾祖父も……私の一族は、それこそ江戸の頃から、こうした儀式を奉る立場にありました。
これまで多くのご遺族が、亡き息子や娘の魂に見合った伴侶をつくって、弔って欲しいと、私の下へ駈け込んでまいりました。
正直申しますとね、父からこの寺を受け継いだばかりの頃は、彼らの心が分かっているようで、実は分かっておりませんでしたよ。死者を弔いたいという感情が、ではなく、自分より若い家族の一員を失った時に味わう、心の傷の深さがです。それは、当事者にしか知り得ない、激しい苦しみなのです。
経験してみて分かることもあるものです。生まれて初めての、想像を超える辛さと苦しみを、あの時の私は思い知らされました。
それで私はね、こんなひどい斜視になった。ええ、そうなんですよ。この目は、生まれつきのものではないのです。
こんな狂人めいた目になったのは、あの出来事があったからだ。自分より年若い家族の喪失がそうさせた。それ以来、この神聖なる儀式を執り行うことの重要性を、私は強く認識したのでございますよ。
つまらない身の上話ですが……独り言だと思ってくださって、結構です。
私には、その昔、一人息子がおりましてね。とは言いましても、私の子供じゃない。女房が、よその男との間にこしらえた子供です。
女房は、子供の出生届けすら出しておりませんでした。育てようとする気が、皆無だったのでありましょう。元々、私のところへ嫁いできたのも、財産が狙いであったのかもしれません。しかし、私が甲斐性の無い人間であると分かるや否や、呆気なく冷たい態度を露骨に取り始めまして。
彼女は、己の犯した罪を反省することなく、私に不貞の一切合切をあっさりと白状すると、子供を押し付けて、自分は愛人と共に、さっさとこの町を出ていきました。今となっては、どこで何をしているのかも分かりません。
私は、最初のうちは仏に仕える身らしく、これも自身の不徳が招いた結果であると、悟ったようなことを考え、心を律して、子を育てようとしました。
ですが、育児という不慣れな環境に身を置いておりますと、どれだけ読経を唱えようとも、座禅を組もうとも、心に溜まっていく澱は消化できなかったのです。
なにせ、息子の体には私の血が混じっておりません。どことも知れぬ馬の骨の血を、この赤ん坊は宿しているのだと思うと、苛立ちが募る日々でございました。
出生届を出そうという気すらありませんでしたよ。不貞の子を持っているなど、噂になったら、たまったものではありませんでしたから。
それでもね、人として最後の一線は超えてはならないと、厳しく己に言い聞かせて、やみくもに暴力を振るうような真似だけは、しなかったのです。それをやっていましたら、私は、本物の畜生に堕ちていたことでしょう。
愛憎入り混じる態度で、息子に接していた私ですが、ある時、妙な事に気づきました。それは、息子が三歳になったばかりの頃です。
三歳ともなりますと、もう言葉の一つや二つ、口に出していい年頃でありましょうに、息子は、私のことを『パパ』と口にするどころか、ろくに言葉を発しなかったのです。毎日毎日、あー、うー、と唸るばかりで、落ち着きの欠片も無かった。
私は、胸に嫌な予感を覚えました。
町医者には連れて行かず、車を走らせ、ここから数十キロ離れた市内の病院で、息子の状態を診てもらったところ、重度の精神疾患に罹っていることが判明いたしました。
言語の発達と、感情の表現。この二つに大きな異常が認められたのです。生まれつきのものですし、治る見込みはないとすら、宣告されました。
普通の親だったら、子供の身に起きた思いもよらぬ不幸を嘆くところでしょうがね、小説家さん、私は、息子が知的障害を患っていると知って、当然、哀しみもございましたが、それに勝る感慨深さがありました。
あの子は、きちんとしたかたちで、この世に生を受けられなかった。その理由は、私の血が入っていなかったからですよ。それが証明されたから、私は大変に、たまらぬ気持になったのでございます。
女房の血だけでは、不完全だった。加えて、どこの誰かも知らない、汚れた間男の血なんぞが混じったばかりに、あの子は、可愛そうなことに、知能に障害を負ってしまった。
言い換えれば、私の血こそが、息子を真人間に戻すことのできる、唯一残された鍵でした。その鍵を握っているのは、他ならぬ私自身であります。
それを自覚した途端、物凄い優越感が、精神の奥底から迸りました。この子を正しく導けるのは自分だけだという特権を自覚した刹那、私の心から憎しみの情念は跡形もなく掻き消えて、たまらぬ愛情だけが残ったのです。
はは、いくらこう申しましても、小説家さん、あなたは私を、気狂いであると断じるでしょう。しかし、じきにあなたにも分かる時がくる。あなたにもいるはずでしょう? 心から愛する人が。その愛する人が、歪なかたちで遺した結晶を見れば、きっとあなたにも、私の口にしている言葉の意味が、身に沁みて理解できますよ。
無碍野町は、時代の潮流から遥かに取り残された、文化的断絶に浸された土地です。古い習わしが習慣のように根付いており、その習慣を人生における指針のように大事にする大人たちが、あちこちに跋扈しています。
あの時ばかりは、出生届を出さずに放っておいた偶然に、感謝しました。しかし、社会的に息子の誕生が無かったことになっているとはいえ、それはそれ、これはこれです。彼を、息子を、表に堂々と連れ出すことなどできなかった。
神職に仕える我が家から、精神疾患者が出たと知れれば、噂は広まり、家の名は格段に落ちましょう。そればかりか、息子を忌み子として扱う輩だって現れる。それを想像しますと、とてもじゃありませんが、耐えられなかった。だから、学校にも通わせることができなかった。
私は、息子を人目から隠すのに執心し、一方では、彼を動物ではく人間として扱おうと決めました。その結果として、今はもう用済みとなったので取り壊してありますが、寺務所にあるものをこしらえたのです。
座敷牢ですよ。
木材で作り上げた、私製の牢屋です。噂を恐れて業者には頼まず、苦心しながらも、私自身の手で造り上げました。
小説家さん、あなたが今晩泊まっていた部屋がありますでしょ。あの部屋には、茶室のにじり口のような小さな戸があるのです。とは言っても、座敷牢を撤去した今となっては、板でしっかりと蓋をしてありますが。
以前は、その戸を潜った先に長い廊下がありまして、その突き当りに広めの座敷牢を造り、息子の部屋といたしました。そこを、息子の世界としたのです。
毎日毎日、私は息子に語りかけました。今日はこんな人が参拝に来たであるとか、もうじき桜の咲く季節になってきたとか、明日は台風が来るけれども、何も心配することはないと安心させてやったりしました。
おもちゃを買ってきてやったことも、何度だってあります。特に息子は、絵を描くのが大変に上手くて、クレヨンやら色鉛筆、画用紙を大量に買ってやりました。
毎日の食事も、栄養を考えて、しっかりとしたものを食わせてやりました。
私が教師代わりになって、ひらがなや簡単な漢字を教えてやることもありました。
もちろん、住職らしく、子供にも分かるお釈迦様の説法を、聞かせてやったことだって、一度や二度ではありません。
私が何かを教え聞かせたり、何かを与えてやるたびに、息子は引き攣った顔面をさらに酷く歪ませ、言葉にならない呻きを漏らし、涎を垂らし続けました。
それでも、私は悲しくなんてありませんでした。嫌気が差すことなど、これっぽっちもなかった。取り留めもない話を聞かせてやっていると、どんどん、息子を愛しく大切に想う気持ちが、募るばかりでした。あの子が頼れるのは、私しかいなかったのですよ。
そんな息子の精神に、少しばかりの変化が訪れましたのは、彼が十歳の誕生日を迎えた直後に開かれた、納涼祭の最中でございました。
この寺では、毎年の七月になりますと、町中の人が集まって、納涼祭を開催するしきたりがありましてね。役場の人たちと協力して、境内にステージを設営して、和太鼓の演奏や舞踊を披露したり、山門の周辺に出店を出したりと、まぁ、よくある夏祭りそのものでございます。
その年、二日間に渡る納涼祭りを滞りなく終えて、簡単な夕餉を済ませた後、息子の様子を見に座敷牢へ行った時です。
いつもなら、ぼーっと虚ろな目をあちこちへ向けているはずの息子が、その日ばかりは、まるで何かに取り憑かれたかの如く、一心不乱に、私が買い与えてやった画用紙の数々に、似顔絵を描いていたのです。
何事であるかと勘繰りました。私は、少しの驚きを押し殺しながら、座敷牢の木鍵を開けて中に入り、畳の上に散らばる画用紙の一枚を、おもむろに手に取りました。
そこには、まぁ実に、実に見事と言う他ないほどの精巧な筆致で、息子と同じぐらいの年恰好と思しき、一人の少女の似顔絵が描かれていたのです。
はじめは、それが誰なのか、皆目見当も尽きませんでした。何より、息子が私以外の人間の顔を書いたという事実に、驚くばかりで。
私が困惑していると、息子はしつこく、『ち・ひ・ろ』と、辛うじて聞き取れる音節で、そう呼び続けておりました。
興奮したように目を充血させ、唾を撒き散らしながらその名前をしきりに口にする息子の顔と、紙に書かれた似顔絵を交互に見返した時、私は、ある一つの、確信に近い仮説に至ったのです。と同時に、ようやく気が付きました。納涼祭りの準備に追われ、座敷牢へと続く戸の鍵を、その日はうっかり閉め忘れていたことに。
恐らくですが、何者かが周囲の目を盗んで、好奇心にまかせるがまま、鍵を開けっぱなしにしていた、あの茶室のにじり口めいた狭い戸を潜って、座敷牢に辿り着き、そこで息子を目撃したか、あるいは二、三言のやり取りをしたのでありましょう。
その何者かが、息子の口にしていた『ちひろ』という名の少女ではないかと、結論付けたのです。
私は恐れました。子供というのは、要らぬことをペラペラと口にするものです。
もし万が一、その少女が『虫願寺には座敷牢があって、そこに頭のおかしな子供がいる』などと吹聴すれば、たちまち噂は町中に広がるのは明白でした。
何としても早急に見つけ出し、寺で見た事の一切は他言無用であると厳重に告げるべきでしたが、しかし『ちひろ』という名の少女を、どうやって探せばよいのか。
手がかりは息子が描いた似顔絵だけですが、それを手に町中で『この似顔絵の人物を探しているのだが、知らないか』などと聞いて回れば、それこそ奇行であると咎められ、あらぬ疑いをかけられてしまいかねません。
町役場に問い合わせることもできたでしょうが、それらしい理由をつけて尋ねたとしても、後で噂の火種になりかねないと思うと、なかなか決断できませんでした。
有効な対策が打てぬまま、一日、一週間、一ヶ月と時間が流れていきました。
結論から申しますと、私の心配は全くの杞憂でございました。というのは、二ヶ月を過ぎた頃になっても、それらしい噂がまるで立たなかったのです。
私は、一人静かに、その少女に感謝いたしました。人の口に戸は立てられぬと言いますが、その『ちひろ』という名の少女には、最初から戸を立てる必要がなかった。
本当に心優しい少女であるなぁと感じ入り、そんな彼女と巡り会えた息子は、なんと幸せな者であろうかと、御仏が巡り会わせてくだすった縁に、心の底から感謝いたしました。
息子はそれ以来、少女の顔が描かれた大量の紙を、座敷牢の骨組みである木枠という木枠へ貼り付け、終始眺め続ける毎日を送りました。
まるで夢見心地の最中であるように、顔を紅潮させ、瞳をとろんとさせ、ときおり、絵に語りかけ、にんまりと笑みを浮かべている様を見ていると、私も、親としての喜びに満たされたものですよ。
息子は、確実に恋をしておりました。『ちひろ』という名の少女にです。
そうです。恋です。その素敵な好奇心が、息子を成長させたのです。
私は、息子の恋心を叶えてやりたいとさえ思い始めるようになりました。ですが、急いては事を仕損じるというように、急ぎ過ぎてはなりません。
そこで私は、自分で言うのもおかしな話ですが、ある妙案を思い付きました。
課外学習と称して、寺への訪問授業をしてはどうかと、町の小学校に提案したのです。
もちろん建前でございますが、校長たちは快諾してくださいましてね。無碍野町の全小学校の全クラスが、それぞれに日程を組み、虫願寺での一日体験授業をするようになりました。
それら小学校の内の一つである、無碍野第三小学校の五年生のクラスが、ここへ参った時のことを、私は終始忘れないでしょう。
そのクラスの中に、息子の想い人がいたのです。彼の描いた精巧な似顔絵は、飽きるほど見ておりましたから、すぐに『ちひろ』という名の少女が、誰であるか分かりました。
そう、『三船千尋』という名も、その時に知ったのです。
栗色のツインテールに、優し気な瞳。華奢でありながら、健康的な肌の色つや……ええ、全てはっきりと覚えております。
千尋さんは、私の説法を興味深く聞いてくださいましたよ。悪戯心が働いて座敷牢へやってくるような子だから、てっきりやんちゃかと思いきや、中々に大人しい感じの子でしたね。
ただ、好奇心はわりかし強い方なのか、授業が終わった後も、他の子よりも沢山の質問を寄こしてきました。その際に、座敷牢や息子のことを聞かれるのではないかと、内心では恐々としておりましたが、そんなこともなかったんです。
最後に、各クラス毎に集合写真を撮りました。後日、私は写真を現像するやいなや、一目散に息子の下へ駆けました。
写真を見せると、息子は、昇天してしまわないかと心配になるほど、奇声をほとばしらせ、狂喜乱舞いたしました。千尋さんはクラスの中でも背の低い方でして、最前列に並んでおりましたから、集合写真の中でもとくにはっきりと、顔だけでなく、その体つきも余すところなく写っていたのが、幸いでした。
息子はね、涙を流すほど喜んでいましたよ。私の目を見て、写真を手に、おいおいと泣きながら、声にならない呻き声を漏らし続け、何度も何度も、ぶんぶんと頭を上下に振っていました。彼なりのお辞儀の作法です。
感謝されたんですねぇ、この私が。一時は愛情の欠片も持っていなかった私に、あの子は、真心からの礼を示してくれた。それが、私の心を暖かくしてくれた。私は初めて、他人から受けた感謝の念が、人の心を彩り豊かにすることを、身をもって理解したのであります。
課外授業は、その翌年も開きました。その時も、千尋さんは他のクラスメイトと違って、実にいろいろな質問をしてくださったのを覚えています。あれほど印象の良い子は、他にはおりませんでしたよ。
私としては、学年が上がっても、つまりは、中学・高校へ進学しても、課外授業をやって欲しいと、学校側へ打診する予定でおりました。
しかしながら、私の意に反して、中学・高校の校長や教職員たちは難色を示しました。
思春期を迎えた年齢ともなりますと、地元の、こじんまりとした寺で、仏様の説法を聞かされるより、京都や奈良へ出かけたほうが、ずっと子供たちの成育に良いと、判断してのことです。なによりも、生徒からの反感が強かったのでしょう。いまさら、寺で説法はないだろうと。
そこで、私は一つの賭けに出ました。課外授業を自由参加制として、希望者を学校で募るようお願いしたのです。そこまで妥協すると、校長たちは、それならば構わないと承諾してくださいました。
小学生を相手にしていた頃よりも、ずいぶんと参加者は減りました。
ですが、本命は釣れました。授業の参加者の中に、千尋さんの姿が必ずあったのです。それも、春、夏、秋、冬と、年に四回開催される授業に、彼女は、毎回自主的に参加してくれたのです。
私は、賭けに勝ったのでございます。彼女の仏教への強い好奇心と、実直な性格を信頼した結果でございますよ。
もちろん、授業の終わりには集合写真を必ず撮り、それを息子にプレゼントするのを忘れませんでした。
日々可愛らしく成長する千尋さんを眺める息子の目には、爛々とした眼力が宿り、それが彼の、生命力の発露そのものでございました。
どこでそんなことを覚えたのか、写真に写る千尋さんの顔面を舌でねぶりはじめた時には、さすがに苦笑を覚えましたがね。
ですが、息子が喜びを噛み締めているのであれば、彼が彼女に対してどんな行為に及ぼうとも、それを咎める理由などどこにもありません。
同時にこうも思いました。来るべき時が来たと。
今こそ息子の初恋を叶えさせてやるべきだと、私は、前々から抱いていた計画を実行することに致しました。
さる八月六日の事でございます。
その日、私は、千尋さんが通っている高校の下校時刻が近くなるのと同時、車に乗って寺を出ました。
適当な路傍に車を止めると、高校の周辺を、さも気晴らしに散歩でもしているのだ、といった風を装って歩き始めました。
彼女は高校生になってからも、課外授業があるたびに、私と色々な話をする中になっていましてね。会話のほとんどが、お釈迦様の説法に関するものだったのですが、私はその中で、彼女がテニス部に所属している事を、それとなく聞き出していました。
加えて、家がどこそこの辺りにあるとか、周りが田んぼだらけであるとか、自転車ではなく歩きで通学しているなどといった、生活習慣についても聞き及んでいました。
それを、何の抵抗もなく話してくださったあたり、千尋さんはすっかり、私に対して心を開いてくださっていたのです。
ならば、なにも回りくどいやり方など必要ありません。
私は、彼女が部活動を終える頃合いを見計らって、来た道を戻って車に乗り込み、近道を使って先回りし、さも偶然を装って帰宅途中の彼女と出会い、車の窓を開けて、こう言いました。
実は、まだ学校からの通達はないだろうが、今度、臨時で君の高校に訪問授業をすることになった。その時に、説法を幾つか披露しようと思うんだが、君は、いつも課外授業に参加してくれるし、真剣に私の話に耳を傾けてくれている。そこで、ここはひとつ、どんな説法をするべきか、ぜひ君の意見を聞かせてほしいのだ。ついては、説法を選ぶにあたって、これから一緒に寺へ来てはくれないか。なぁに、長い時間はとらせない。ほんの軽く、意見を聞かせてもらえばいい。一時間もかからないよ……とまぁ、こんな事を口にしたのです。
彼女は、少し迷っていましたが、やがて『そういうことなら、分かりました』と、何一つとして私の言葉を疑うことなく、車の後部座席に乗り込みました。周囲は田んぼが広がる畦道で、人の気配はありませんでした。
ここだけ聞くと、あなた、私が彼女を誘拐したとお疑いになるでしょうが、いえいえ、とんでもございません。
確かに誘い文句はでたらめもいいところですが、私には、彼女を誘拐してどうこうしようなどという気は、全くございませんでしたよ。
私はね、息子の一人遊びを覗き見た時に、こう直感したのです。不完全な形として生まれてしまった彼が、今まさに、初恋を糧にして、真人間へ進化しようとしていると。それは、彼がそうは意識せずとも私に見せつけてくれた、自立の予兆でございました。
息子を真人間にするのには、なによりも、恋と、そこから昇華された愛が、必要不可欠であると気づいたのです。
親からの愛情の他に、異性からの愛情が、彼の心に巣食う精神の病を緩和してくれるはずに、相違なかったのでございます。
私は、その熱烈な愛を与えてくれる女神的存在に相応しいのは、他でもない、三船千尋さんで間違いないと結論づけました。
彼女と息子を会わせて、まずは友人関係から、一歩一歩、しかし、しっかりと健全な関係性を築いてもらいたい。その一心で、私は彼女を寺へ連れて行ったのです。
寺へ到着すると、私は千尋さんに、先にお堂に上がって待っていて欲しいと告げてから、急いで寺務所を通じて座敷牢へ向かいました。
牢の鍵を開けて息子を外へ招き出した時、彼はずっと不思議そうな表情でいましたよ。当然です。なにせ、その日、千尋さんを連れてくることを、彼には黙ったままでいましたから。
ですが……今思えば、サプライズなど考えずに、素直に、彼に対して告げるべきだったのかもしれません。
あ、いや……言ったところで、あの光景を見たら、どのみち結果は同じであったのでしょう。
実は、寺務所から外へ出た途端、息子と私は、偶然にも目撃してしまったのです。
お堂へ向かう途中の砂利道で、こちらから見て背中を見せていた千尋さんが、ほどけた靴紐を結ぼうとしたか、あるいは何かを落とし物を拾い上げようとしたかで、その場で不意に、上半身を屈めた姿を。
その時の彼女の恰好は、むろんのこと夏服でしてね。
上半身に力を入れる格好になったことで、薄手の白ワイシャツが皮膚にぴたりと押し付けられ、くっきりと……ブラジャーの形が浮き彫りになっていたのです。
そればかりか、膝上まであったスカートが、突如として吹いてきた生暖かい風にめくられたせいで、ちらりと、真っ白な、一切の穢れとは無縁な、純白の下着が不意に露わになったのです。
私みたいな耄碌じじいが、それを見たところで、別にどうということはありません。しかし、息子にとっては、それはひどい毒であったのです。
だって、そうでございましょう。息子の性欲のはけ口となっていたのは、二次元の世界の千尋さんだけでしたし、それまで女性の下着物など、雑誌やテレビでしか、あの子は見たことがなかった。生の女の肉や、そこから漂う豊潤な香りなどとは、無縁の境地で過ごしてきたのです。
それが突然、雑誌やテレビではない、生の、現実の、みずみずしい女の肌着を、ほんの数メートル先に見止めてしまったら、息子の眼差しが底の無い色欲にまみれてしまうのは、これはもう、どうしたって止めようがなかったのです。
息子は、それまで見た事もないくらいの俊敏さを発揮しますと、まるで獲物に食らいつく野獣のように、こちらに背をむけたままの千尋さんへ、襲い掛かったのでございます。
体の奥底から湧き上がる途方もない性欲と、女のまろやかな体つきへ向ける激しい好奇心とを、胸の内で激しく燃やして駆動力へ変えたかのような、本能剥き出しの行動でした。
……それから数分間の事を、私は、あまり覚えておりません。思い出したくも、ないと言った方がいいでしょうか。
気付いた時には、ぐったりと力無くうつ伏せに倒れ込んでいる千尋さんの姿と、血飛沫の飛び散った沢山の砂利と、千尋さんのすぐ傍で、慟哭の涙を流している息子の姿がありました。
あってはならないことでした……全く、そんな結末になるだなんて、予想外もいいところでしたよ。
千尋さんは、息子が急に後ろから飛び掛かってきたせいで、バランスを崩し、何が起こったのか知る間もなく、頭を地面に強く打ちつけてしまったのでしょう。
直ぐに駆け寄って様子を確認しましたが、呼吸も脈も止まっていました。即死でございました。
彼女の着衣は酷く乱れて、ワイシャツのボタンは、中途半端に弾け飛び、紺色のスカートには、涎と思しき液体が大量に付着しておりました。
私は、青白い心地のままに、息子の顔をじっと見ました。その目はもう私のほうを向いておらず、心を失くした人のように虚ろで、それでも、泣き声はいつまでも止みませんでした。
自分が意図せず手にかけてしまった少女が、初恋の人だと知った時の彼の心境を想うと、胸が張り裂けんばかりでした。
こんなに悲しい事が、果たしてあって良いのか、私にはもう、どうしようもなくて……
……しばらくすると、息子は、自分で自分の首を絞めるジェスチャーを始めました。
ぎこちなく、両腕を動かして、こう、ぎゅーっと、首を絞める真似をしては、何度も何度も、激しく咳き込みました。
殺してくれというサインであることは、直ぐに分かりました。
私が泣いたのは、言うまでもありません。親に、殺してくれと頼む息子の姿を見ることになるなんて、思ってもいませんでした。そのショックからくる涙もありましたが、また違う理由から心に押し寄せてくる感情の波も、あの時、私は確かに感じたのです。
息子が行動で示そうとする、贖罪の意識に相違ありません。でなければ、どうして息子は、自分を殺してくれと頼むでしょうか。己が、取り返しのつかないことをしでかし、人の命を一つ奪ったから、その償いをさせてくれと言うのですよ。何とも、何とも、健気な姿であったことでしょうか。
殺しましたよ。息子をこの手で。
首を絞めている最中、何を考えていたかすら、覚えていません。意識をずっと宙に飛ばして、息子の首から伝わる体温を、完全に無視するよう努めていました。
ですが、息子殺しという大罪の業だけは、消せなかったのでしょうなぁ。全てが終わった後、鏡を見た時、私の目は正常さを失って、今のような、ひどい斜視となったのですよ。
私はね、小説家さん。自分の息子を自分の手で、殺したんです。
生まれて初めて、自分よりもはるかに年若い、家族の命を奪って……
二人は揃って、ドラム缶で焼却しました。身に着けていた服もろとも、血の付着した砂利や、学校の鞄も合わせてね。
巷では、千尋さんの失踪を行方不明事件として扱うようになりましたが、目撃者もいませんでしたし、警察がここにやってきた時には、彼女のいた痕跡は全て残っておりませんでしたから、私が疑われることはありませんでした。
何より、時効です。私が法の下で裁かれることはありません。
息子を失ってすぐ、私は寝るのも忘れて、番のでんぐり様を作り始めました。彼と、千尋さんの魂が、仲良くあの世で暮らせるよう願いを込めて。
驚きですか? 実はあれ、業者に任せているんではなく、全て私の手作りなんですよ。ええ、顔ももちろん、私が掘ったんです。もっとも、千尋さんの顔は、私よりも息子にやってもらったほうが、ずっと可愛らしく仕上がったでしょうがね、はは。
それでね、小説家さん。今、こうして目の前で、二体のでんぐり様同士が、まぐわいを続けておりますよね。
あれは何を隠そう、私の息子と、千尋さんの二人ですよ。いわばこの二体は、どちらも実在していた人間だったのです。
ですから、今日は特別な日であると、先ほど申し上げたのです。
でんぐり様と化した二人が、こうして私の前で性交に勤しむのは、これで丁度十回目なのですが、いまだに『子』が宿らんのです。もうそろそろの頃合いだと、私は睨んでいるんですがね。
その『子』にどんな名前を付けて、仏様にお捧げしようか。
最近は、そればっかり考えているうちに、一日が過ぎていくくらいです。
いやいや……すみませんな。
ずいぶんと、お喋りが過ぎてしまったようです』