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死辱の蟲  作者: 浦切三語
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第六話 儀獄

 お堂を出た頃には、すでに夕陽が山頂付近に浅く食い込んで、オレンジ色の幕が翻るようにして、木立の隙間を縫っておりました。それが今から、およそ九時間前のことですよ。


 呆然とした心地のままお堂を出た私を、住職は何食わぬ顔で連れ立って、再び山門を潜り、すぐ右手にある、こじんまりとした寺務所へ案内してくださいました。


 取材を申し込んだ時に、夜の寺も写真に収めたいというこちらの要望を聞き入れてくださり、昨晩はそこに一泊する手筈になっていたのです。


 寺務所と兼用されるかたちになっていた素泊まり用の一室は、小さなテレビと、せんべい布団と、使い古されたちゃぶ台があるというだけの、実に簡素なものでございました。


 何の変哲もない部屋でしたが、隅の方を見やりますと、茶室のにじり口にも似た、小さな戸があるのに気づきました。


 ですが、そこには板が釘で打ち付けられておりましてね。これは何だろうかと思いましたが、特に深く考えるようなことはしませんでした。


 夕餉(ゆうげ)の時間になった頃に、住職がニコニコと笑みを浮かべて、精進料理の数々を運んできてくださいましたが、食欲はめっきり湧かず、半分ほど残して、あとは遠慮しました。味すらも、どんなものであったか、今となっても思い出せません。


 風呂をお借りして、寝間着のスウェットに着替え、部屋の電気を消し、床につきました。


 しかしながら、普段より少し早めに布団に入ったせいでもありましょうが、なかなか寝付けませんでした。なにより、心中が穏やかではありませんでした。


 慣れない山道を登って、ただでさえ運動不足な肉体には疲れが溜まっているはずなのに、部屋の外で奏でられる虫のさざめきの(かす)かな残響すら聞き漏らさないほど、全身の神経が尖っておりました。


 あのお堂で目撃した、でんぐり様の腹に描かれていた、ちぃちゃんそっくりの女性の正体は、いったい何であろうかと考えば考えるほど、脳の神経が火花を上げるようでございました。


 見間違いであると結論付けるにはしかし、あそこに描かれていた(かお)は、私の記憶の中で生きる、ちぃちゃんの特徴を全て兼ね備えており、そのことがますます、私を激しく混乱させたのです。


 ですがふいに、その混乱が、大脳の(ひだ)の奥で一時の収束を見せ、恐るべき仮説といいますか、ある尋常ならざる疑念を、私に抱かせたのでございます。


 その疑念というのは、以下に申すようなことです。


 でんぐり様の腹に描かれていた女性が、本当にちぃちゃん本人であったとするなら、それはつまり、いまだ生死はっきりとしていない人間を、花嫁として、描いたということになります。


 生死が分からない……それは言い方を変えるなら、生きている可能性もあるわけで……

 

 つまりですね、存命中の人間(・・・・・・)の貌を、でんぐり様の腹に描いて奉納した場合、描かれた人物は、果たしてどうなってしまうのだろうか、という疑念なわけでございますよ。


 十年前、ちぃちゃんが突如として失踪してしまった理由は、彼女を恋い慕う何者かが……(つがい)のでんぐり様に描かれていた、あの見知らぬ男の遺族か誰かが、彼女の貌を描くように、住職にお願いをしたのが原因にあるのではと考えたのですが、私は、自分で打ち立てたその仮説を、すぐに馬鹿馬鹿しいと一蹴したのでございます。


 失踪事件とでんぐり様の習わしを結びつけるには、あまりにも関連性が不透明でありましたし、もちろん、科学的な論拠があるわけでも、ありませんでしたから。


 第一、生きている人間であるかどうかなど、町役場に問い合わせれば一発で分かるはずです。死後婚というデリケートな風習を扱う寺院が、そのようなことをしないはずがありません。存命中の人物の貌を描くよう頼まれても、丁重に断るはずでございましょう。


 しかしながら、一度、心の奥底から湧き上がってきた、その恐るべき疑念は、なかなかどうして、綺麗さっぱりと消えてはくれませんでした。


 悶々とした心地のまま、今からもういちど、あのお堂に行って確かめてみようかとも思いましたが、そのためには、ぐっすりと寝静まっている住職を起こして、お堂の扉の鍵を開けてもらわねばなりません。


 それを思うと、私の中に眠る、遠慮深さと言う名の臆病さが鎌首をもたげて、果たしてそこまでの執念深さを発揮するまでのことだろうか、考え過ぎではなかろうかと、囁き始めて仕方がありませんでした。


 そうして、うんうんと、布団に横たわっておりましたが、これではいつまでも寝付けないなとあって、気晴らしに煙草でも吸おうかと、布団から跳び起きて、ライターと煙草の箱を手に、部屋の裏口から外へ出て、目についた喫煙台で、プカプカと白煙をくゆらせていた時でございます。


 煙草を口に挟み、喫煙台から少し離れて、寺務所の裏から何気なく辺りへ視線をぐるりとやっていると、蒼白い月明かりを浴びて、しめやかに回廊を歩く、袈裟姿の住職をふと見止めたのでございます。


 その手には、何か皿のようなものと、急須が握られておりました。


 何をするのだろうと思って、息を殺して見ていれば、住職は、回廊を渡り歩いて本堂のところまでくると、厳かに祀られている本尊には目もくれず、石階段を降りて、こちらへ向かってくるではありませんか。


 私は、妙な気まずさを覚えて、急いで喫煙台のところへ戻りましたが、そこで、はたと気づいたのです。


 そういえば、私は、住職から寺の歴史や風習のことについては色々と話を聞かされたけれども、肝心の、住職ご本人の来歴については、いまだに何も知らないままであったなと。


 もしかすれば、こんな真夜中近い時分(じぶん)に、一人でこれから何かを始めようとする住職の行動の一部始終を観察していれば、彼の人となりが、少しは分かるかもしれない。あの気狂いめいた瞳を持つ彼は、一体、どのような風に、俗物の世界を見ているのだろうか。


 そのことを考え出すと、またもや好奇心の虫がうずうずと動き出して、どうしようもありませんでした。


 私は、さながら泥棒が家人の留守を確かめるかのように、ひょっこりと、寺務所の裏手から小さく顔を出して、住職の動向を見守ることにしたのです。


 住職は、こちらの存在にはまるで気づいておらず、境内にあつらえられていた石灯篭の数々へ、火を入れ始めました。


 これは後で分かったことですが、彼が手に持っていた皿らしきものは、石灯篭の火袋に入れるための、油皿と呼ばれる代物でございましてね。名前の通り油を仕込むための皿なのですが、油は手に持った急須から注いでおりました。


 並々と油が注がれたそこへ、袈裟の懐から取り出した、灯芯と呼ばれる点火用の白く細い紐を垂らし、同じく懐から取り出したチャッカマンで、彼は次々に、紐の先に火をつけていきました。


 匂いですか? いえ、それが全く、灯油臭さは感じませんでした。恐らくは、菜種油だったのでありましょう。


 火を入れられた石灯篭の群れは、昼間の死んだような佇まいからは一転して、永遠の命が宿ったかのように、煌々と鬼灯色に光を放ち、闇に包まれた境内を幻想的に照らしておりました。見事としか言いようがございませんでした。


 その見事さに惚れ込んだ拍子に、私の口から、ほぅ、と溜息めいたものが出た途端……静謐な空間であったがゆえに、意外とそれが響いてしまって……住職はこちらの存在に気づき、最後の石灯篭に火を入れ終えた瞬間、くるっと、こちらを向いたのでございます。


 あっ、と思った時には既に、目が合ってしまっておりました。


 私は、いたずらが見つかった小僧のように、ばつの悪そうな笑みを浮かべ、その場を誤魔化そうとしました。


 住職は、そんな私のあいまいな態度を見て、しばらくは能面のように無表情でありましたが、やがて、気狂いめいた両目の斜視はそのままに、にゅっと笑みを浮かべると、こう言ったのです。


『眠れませんか。もしそうでございましたら、ご一緒いたしませんか』


 私は、住職の言葉の意味をすぐには掴めず、怪訝な表情をしながら、寺務所の裏から身を乗り出しました。


 何をご一緒すればよろしいのですかと聞き返すと、彼は、実に楽しそうに口にしたものです。


『今日は私にとって、とても特別な日なのです。本来ならば一人で過ごすつもりなのですが、あなた、せっかく東京からわざわざお越しくださったんだ。これも何かの縁でございましょう。それに、初めてお会いした頃から薄々と感じておりましたが、貴方には素質がおありのようだ。ご一緒に、これから起こる儀式を見届けましょうではありませんか』


 住職の言っていた『素質』とやらが何なのか、その時は分かりませんでした。それに、あの時の私は、儀式という言葉の方が引っ掛かってしまって。甘い蜜に誘われる虫のように、住職の言葉に、のこのこと従ってしまったのです。


 住職と私は、本堂の石階段に腰を下ろしました。私が本堂へ近いところへ、住職は私が座ったところよりも二段下の石階段に座りました。


 つまりは、私は少し目線を下げれば、住職の禿頭がすぐに見下ろせる位置に、陣取ったというわけであります。


 別に住職の指示でそうなったからではありません。自然とそのようなかたちになったわけですが、これが、後々の展開で大きな役割を果たすようになったのです。


 さて、住職に誘われるがままに、儀式とやらを見届けることになった私は、石灯篭が照らす境内を、あてもなく眺め続けました。住職も同じようにしておりました。


 この時にはもうすでに、私の脳裡から、ちぃちゃんらしき女性の貌が描かれた、あのでんぐり様の件は、とんと抜け落ちてしまっていました。


 住職が意味深げに口にした『儀式』という言葉に含まれる、秘事めいた雰囲気にやられて、間抜けな事にも、はやくそれを見たいという気分で一杯でした。


 儀式がなんであるのか、詳細を住職に訊くこともできたわけですが、石灯篭からこぼれる火の光の爛々とした様を見ていると、なんだか根掘り葉掘り尋ねるのは無粋であるように思えて、私は口を閉ざすばかりでございました。


 十分、十五分、いや、もっとでございましょうか。


 とにかく息を殺して、これから起こるであろう出来事を、じっと待ち続けている時でございました。


 山門の奥の方から、何か大きな丸い岩が転がるかのような、地面を強く邁進する音を、しかと耳にしたのです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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