第二話 好奇心
私は、東京のほうで小説家の仕事をやっている者です。小説家、なんて、自分でも畏まった肩書の職業だなとは思うのですが、実際のところは『つまみぐい作家』と言ったほうが近いものですよ。
いわゆる、節操のない物書き、みたいなものでしてね。きちんと製本されて、店頭に並ぶようなものから、雑誌に寄稿するちょっとした短編なんかも、書かせていただいております。
今の今まで、芥川賞だとか直木賞だとか言った、大層な文学賞には全く掠りもしていないのですが、そんなのは関係ないのです。
自分の好きなことをやって、毎日安定して、ごはんを食べていけるというのは、自作の有名・無名に関わらず、とても幸せな事でございます。
子供の頃から、ありもしない物語を空想するのが好きでした。それを字に起こす愉しみを知ったのは、高校生になってからのことです。
いえ、別に国語の成績が良かったわけではないのです。むしろ、随分と不得手なものでしてね。特に、教科書の読み回しなんてものは、どうしたことか酷く苦手でして。
周囲の反応を気にするあまり、文章に集中できなくて。何度やっても、どもってしまって。クラスメイトから、からかわれたものです。
しかし一人で、誰にも邪魔されず、パソコンと向かい合ってカタカタとキーボードを撫で打ち、じわりじわりと、フィクションの世界を書き連ねる行為は、読み回しとは比べ物にならないくらい、心が足湯に浸かっているかのような、健康的な満足感が得られるのでございますよ。
何と言いますか、私にとって小説を書くと言う行為は、大袈裟で高尚めいた言い回しで表すとするなら、世界を見つめる行為そのものなのです。
己の心から発露された、ありもしない物語をレンズ代わりに、この醜くも恐ろしく、それでいて、ときおりプリズムめいた美しさを放射する世界を、じぃっと眺めるのでございます。
すると決まって私の心は、一つの終着点へ到達するのです。ああ、こんなふざけた世界でも、もう少し、頑張って明日を生きてみようかと。
どんなに人の世がどす黒い悪意の現出であろうとも、その中には、しかと光る人の善性があるように、感じられるのです。
しかし……今にして思えば、私は悪意というものを、その恐るべき本質を、正しく理解できていなかったと断言できるでしょう。
と言いますのは、自分は他の人間とは違う、特別な枠に収まるべき大人物だという猛烈な驕りが無意識のうちに働いて、どこか世の中を斜に構えて見る習性を獲得した結果、世界は、悪意に塗れた地獄の様であるように、錯覚していただけなのです。
ええ、今ならしっかりそう反省できます。なにせ私は、つい数時間前に、心を斜に構える余裕もなく、本物の悪意を前に、膝を屈したばかりなのですから……
私が小説家としての第一歩を踏み出したのは、高校を卒業した直後のことでございました。
その前年に、とある文芸雑誌が主催していた新人賞に作品を応募したのですが、最終選考まで審査を通過したのに、あえなく落選してしまい、その時の心の傷が癒えていない時分でした。
ですが、そんな私の作品を、ありがたいことにえらく気に入ってくれた方がおりましてね。件の文芸雑誌の編集者さんが、今度、親会社が発刊する新雑誌に短編を一つ掲載したいのだが、良ければ君、書いてみないかと言った感じで、直接、連絡を取ってきてくださったのですよ。
それが、私の作家人生の始まりでございました。
私は、デビューして以来一貫して、主にSF界隈を主戦場に執筆しています。SFと言いましても、そんなに立派な出来栄えの作品が書けている訳ではありません。
たしかに高校時代、化学や物理は好きでしたが、大学院で学ぶような専門的知識の数々となると、とんと持ち合わせておりませんから、ほとんど門外漢が、足りない頭を振り絞って、ひいひい悶えながら執筆している状況なのです。
しかし、専門的な知識がないからと言って、その分野に関する興味が全くないと断言するは、いささか早計であると思います。
むしろ、私は、この世を理路整然と支配する自然法則の数々に、何とも形容しがたい不思議さと崇敬の念を強く覚えるばかりで、その気持ちだけを駆動力に、サイエンス・フィクションの世界を紡ぎ出しているのでございます。
ですが、そんな毎日を繰り返しているうちに、ふと、こんなことを考えるようになったのです。
自分は、このままSFだけを書いて作家人生を終えることになるのではないかと。人生はたった一度しかないのに、そんな勿体ないことをして、果たして死ぬときに後悔なく死ねるのであろうかと。
そんな、何の脈絡もない考えすぎにも近い妄想に憑かれた結果、私はとてつもない不安にうなされると同時に、まるで間欠泉が勢いよく吹き上がるような、好奇心の大洪水が、胸の奥で湧き上がるのを覚えてしまいました。
ええ、つまりは、ここいらで一つ、SFとは対極の位置にある、それでいて、ある意味では表裏一体とでも言うべきジャンルの作品を書いてやろうではないかと、唐突に決意したのであります。
それがまぁ、つまるところ、怪奇小説やホラー小説、といった、オカルト的要素を多分に含んだ作品でありましてね。これはSFとは全く異なる軸上に位置している物語であると、私自身は考えておるのです。
稚拙な例えで申し訳ございませんが、SF小説が、緻密で壮大なパズルを一つ一つ組み合わせていく論理的な過程や、完成したパズルの美しさと、それを形作るピースの細やかさに、感銘を抱くような種類のものであるなら、ホラー小説とは、その真逆でございます。
パズルは組み立てますが、あえて完成する直前で作業をほっぽり出して、不完全な作品を完成形だと豪語して額縁に納めたり、どうみてもそこに当てはめるべきピースではない、全く異なる形をしたピースを無理やりはめ込んで、へんてこな完成品を造り上げたりする。
ホラー小説というのは、論理的結末へ至るはずの道程に蜃気楼をかけてやって、浮かび上がってきた歪な物語の枠組みに、夢幻めいた美や快楽を見出すことを楽しみとするたぐいのものではないでしょうか。
思い立ったが吉日とはよく言ったものです。私はすぐに、専属契約を結んでいる出版社の編集者を呼び出し、胸の内を滔々と打ち明けました。正直、あまり良い反応は頂けないのではないかと心配していたのですが、これは全くの杞憂でございました。
編集者は快く、私の不安から生じた無謀な挑戦心を高く買って下さり、そればかりか、新ジャンルに挑むとなれば、それなりの準備期間が必要だろうと、ありがたいことに、取材の為に何日かの休みまで下さったのでございます。
さて、そうなりますと、当然小説を書くための題材を探すことになるのですが、ここで私は二の足を踏む事になりました。山を登ると決意したは良いものの、どこの山を登るか考えあぐねてしまうような、そんな心境に陥ったのです。
つまりは、いや、これは何ともお恥ずかしい話なのですが、私は『ホラー小説を書くぞ』と息巻いていたは良いものの、一体何を核として書くべきなのか、すっかり頭から抜け落ちていたことに、この時ようやく気付いたのです。
世の中には、題材なんかなくとも、気持ちの赴くままに文章を記していけば、自然と一つの物語を構築できる作家などもおりますが、そういうのは、俗に言うところの『天才』と呼ぶべき種族でありまして、凡庸な私には真似したくとも真似できない芸当でございます。同じ海に暮らす生き物同士でも、イワシとマグロの遊泳速度を比較するようなもので、そこには何の生物学的意義はございません。
これは困ったな、どうしようかと、私はひどく悩みました。編集者に向かってあれだけ息巻いて新境地を開くと宣言した手前、今さら、やっぱり止めにすることにしましたとは、作家の矜持にかけて口が裂けても言えませんし、だからと言って、このままうんうんと唸り続けていて、ポンと良い着想が生まれてくるほど、私の頭は出来の良いものではございません。
とりあえず、何かのきっかけになればよいと思って、私は手持ちのパソコンを使い、ホラーの定番とでも言うべき民間伝承について、探りを入れることにいたしました。
そうして、有象無象の、古代から近現代に至るまでの伝承や伝説を隈なく調べ上げていくうちに、とある伝承に目が留まりました。
いま考えると、あれは一つの啓示のような、何かしらの説明不可能な大きな力が、私の脳裡に甚大な揺さぶりをかけてきたとしか、思えないのですが。
私は、それまで一度として耳にしたことのない、その伝承に、強く興味を惹かれてしまいました。
きっと、私の生まれ故郷である無碍野町に、古くから伝わる類の風習であるというフレーズが、耳の奥に深く食い込んで、離れなかったせいでございましょう。
それが、『でんぐり様』という符丁で無碍野町に言い伝えられている、ひどく奇異で、面妖極まる伝承との、運命めいた巡り合わせの始まりでございました。