表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死辱の蟲  作者: 浦切三語
1/10

第一話 真夜中の訪問者

 N県八日町ようかまちの駐在所に勤める大原丈和おおはら たけかず巡査長は、その晩、ぽつぽつと窓を叩く雨音を耳にしながら、使い古された回転椅子に沈み込み、無言で書類作成に向かっていた。

 机の上には薄黄ばみの紙と安っぽい蛍光灯の光だけがあり、外界から切り離されたような薄暗さが、狭い室内を満たしている。


 駐在所とは、警察官が家族と共に暮らす半ば自宅同然の勤務先――そうした印象が世間には強い。だが、大原は三十を迎えた今も、己の意思とは無関係に独身を貫かされていた。

 八日町は、いかにも地方都市と呼ばれるにふさわしい町である。旧市街はシャッター街と化し、高齢者ばかりがデイサービスに通い、過疎と人手不足に起因する問題は、もう長らく行政を苛んでいた。


 今宵の駐在所は、大原ひとりきり。

 夜の十一時、壁の古時計が重苦しくその刻を告げると、大原は大きく伸びをし、首をゆっくりと回した。雨脚はじわじわと強まり、外界はますます遠のいていくようだった。肩を揉みほぐし、再び机へ向かうも、それは仕事というより、退屈しのぎの雑務にすぎない。

 真夜中の針が天を指す頃には、その作業すら終わってしまった。


 交代は、夜明けに鶏が鳴く時刻。それまでの数時間を、この剥げた三角屋根の下で、降り続く雨と雷鳴を相手に過ごさねばならない――そう思うと、胸の奥に雲の塊を押し込まれたような圧迫感が漂った。


 この町で起こる事件など、たかが知れている。血の匂いとは無縁で、不審者など影も形もない。つまり、これから訪れるのは、平和と呼ばれる退屈との闘いにほかならなかった。


 これから過ごすことになる、およそ六時間あまりの虚無的な時の流れをどうにかするのに残された選択肢と言ったら、デスクに置きっぱなしの朝刊と夕刊を見比べるぐらいのものだが、それもいい加減に飽きてしまった。

 かといって、妙に頭が冴え冴えとしていたから、仮眠室に潜り込んでお天道様が起き上がるのを待つ気にもなれない。


 デスクに頬杖をついて、大原は特に何の目的もなく、実にふやけきった表情で、じーっと外を眺め始めた。


 雨の勢いは一向に収まりを見せず、それどこか延々と降り続けるのではないかと思うほど、煩く耳朶を刺すばかりだ。


 時計の針がどんどんと進む間も、大原の視線は、ずっと変わらず駐在所の外へ、つまりは、果ての無い濡れた闇の向こうへ注がれている。


 ほとんど無心で眺めているうちに、不思議なもので、何とも予感を抱かせる気配を纏った闇であるように映ってきた。


 実際に彼は、あの暗闇の向こうから、奇妙奇天烈な生き物か何かが、ぴょんと飛び出してきて、俺の話し相手になってはくれないだろうかと、そんな馬鹿馬鹿しい空想に耽り出す始末である。


 だが、現実というものは時に、思いがけない形で人の目に映り込んでくるものだ。


 大原が抱いた、その馬鹿馬鹿しい妄想が願いの形となって、墨汁めいた暗黒の雨雲を通じて天に届いたかどうかは定かではない。


 ただ一つ言えるのは、この深海の最中に放り出されたかのような、水と闇の孤立空間の一点に、ぽっかりと、小さな光が、道の彼方からやってきたということである。


「なんだろうか?」


 大原は、意識せず声を漏らしていた。駐在所入口の正面。ガラス張りのドア一枚を隔てた向こうに、妙な円形の光を見出したからである。


 駐在所へ至る道程を形成するのは細い畦道一本だけで、光は、それに従って真っ直ぐに、こちらへと向かってきているように見えた。しかも、光は時折、小さく左右や上下にこそこそと揺れて、同一の軸線上に留まることを嫌がっていた。


 やがて少しずつ、ほんとうに少しずつ、その不可解な光が大きくなるにつれて、つまりは駐在所の方へ近づくにつれて、ばしゃり、ばしゃりと、一定のリズムの下、泥と水溜まりを踏みしめる音をかすかに耳にした時、大原は、はっとしてイスから腰を浮かせた。


 光の正体は、懐中電灯だった。つまりは、何者かの到来を意味していた。

 その足取りがまた、迷いなく駐在所へと向けられていることにも、大原ははっきりと気づいた。


「(こんな夜更けに、いったい何の用事だろう?)」


 大原は、胸騒ぎと妙な期待感を抱きながら、近づいてくる何者かが何用でここを訪ねるのか理由は定かではないにしろ、迎え入れないわけにはいかないとばかりに、ガラス張りの戸口の鍵を開錠した。


 戸口を開けた途端、風に誘われた雨粒が、ほとんど横殴りに大原の顔面を叩いてきた。顔をしかめつつ、袖口で雨粒を拭い取ると、大原はしっかりと懐中電灯の持ち主を見て、それから、ぎょっとした。


 やってきたのは、三十歳に差し掛かろうとかという年齢の、痩せた体躯の優男だった。


 驚くべきは、これほどの雨模様だというのに、その男は傘を差すどころか、レインコートさえ身につけていないことにあった。


 上下が灰色のスウェットだけでなく、田舎町には似合わない洒落たスニーカーも、何から何までずぶ濡れだった。


 それなのに、悲壮感というものが一切感じられないのは、男の容貌が、ともすれば、煌びやかな芸能界にいそうなほどに整っているせいだろうと、大原は思った。


「こんな時間にどうされたんです? 何かお困りごとですか?」


 雨音に負けない声量でそう尋ねるも、男はろくすっぽ反応を見せなかった。どういうわけか、懐中電灯の光を、駐在所の軒先に立っている掲示板に向けて、磔にでもされたかのように微動だにしないでいる。


 なんとも不可解な光景だった。男は、掲示板を睨むように見つめると、ときおり眉根をハの字に下げたり、それからやおら頬を紅潮させ、かと思いきや、諦めのついたような眼差しになったりと、千差万別に感情の波を表情に顕して、ぎゅっと唇を噛み締めるばかりであった。


「そんなところにいつまでも立っていると、体が冷えてしまいますよ」


 大原の呼びかけを受けて、男は、ようやく彼の存在に気付いたかのように、ゆらりと首を向けた。大原は、努めて相手を安心させるような笑みを浮かべて続けた。


「遠慮せずに、中に入ってください」


 男はそれでもなお、名残惜しそうに掲示板へ視線を向けていたが、この雨の冷たさにやられたのか、大原の声に誘われるがまま、駐在所に足を踏み入れ、後ろ手にドアを閉めた。


「随分と濡れてしまっていますね。これ、使っていいですよ」


 いつのまにか、大原が厚手のタオルを持ってきていた。「ありがとうございます」と、消え入りそうな声で感謝を述べてそれを手に取ると、男はわしゃわしゃと顔を拭いた。


 スポンジが水を吸収するかのように、あっという間にタオルは水浸しになった。よほど長い時間、この雨模様の中を彷徨っていたのだろう。


「まだ蒸し暑い日が続いているから、秋支度の準備は整えていないんですよ。代わりに、よかったらこれも使ってくれていいですよ。あぁ、あと、そこにイスがあるんで、座ってもらって構いませんから」


 まるで旅館の女中のように、大原はいそいそと動き回った。男に乾いた毛布を渡し、濡れたタオルを代わりに受け取ると、それを持って給湯室へ消えた。


 大原は、目についた手頃なハンガーにタオルをかけ、棚から盆と湯呑茶碗を二つ取り出すと、それぞれに急須から熱いほうじ茶を注ぎ入れ、それを持って再び現れた。


「こんなもんしかないですが、遠慮しないで飲んでください」


 大原はデスクを挟んで男と向かい合うようにして座ると、湯呑の一つを男へ差し出した。


 男は、大原から渡された毛布をマントのように羽織ってから、湯気の立つこげ茶色の湯を口に運び、ゆっくりと喉を鳴らした。それから、ほぅ、と擬音が聞こえてくるかのような溜息を一つ吐き、控えめなお辞儀をしたのである。


「ありがとうございます」


「お礼など結構ですよ。それで……どうされたんですか? 何かのっぴきならない用事があって、こんな雨の中、ここを訪ねてこられたんでしょう?」


 大原はそう言いつつ、ゆっくりと茶を飲んだ。男が自然と口を動かすのを待っているかのような態度だった。その一方では、この、雨降る真夜中にやってきた突然の来訪者の素性は何であろうかと、少しの義務感と、ほとんどの好奇心を糧に、探るかのような口調でもあった。


「……そこに立ててある掲示板の……」


 男が、濡れた唇を動かして何事かを口にした。つんと垂れ下がった髪先の一片から、ぽたりと雫が一つ垂れ落ち、湯呑の中へと混じっていく。


「……掲示板の……いや、掲示板に、行方不明者のポスターが、一枚だけ貼られてありますよね」


「ええ、そうですね。それが何か?」


「……私、知っているんです。実は私は、あの行方不明者の高校時代の同級生でして……彼女の身に何があったか、知っているんです。いや、知ってしまったと言った方が、正しいでしょうかね」


 何を口にするかと思えば、男は、突然にそのような、一見して訳の分からない、呆気にとられかねないことを喋り始めたではないか。


 大原は、酸素不足に陥った金魚がするように、口を何回か小さくぱくぱくと動かしてのち、声を呑んだ。そうしてまじまじと、この得体の知れぬ男の面を見つめるが、茶色に染まる彼の瞳は詭弁を語る詐欺師のそれにはとても思えず、ただただ、どこまでも透き通って、脆さまで覚えてしまうほどの誠実さだけを感じた。


 確かに男の言う通り、この駐在所の表に立てかけられている掲示板には、行方不明者の情報提供を求めるカラーポスターが、一枚だけ、寂しくも貼りつけてある。


 八日町の隣にある、無碍野町(むげのちょう)と呼ばれる田舎町で、十年前に発生した失踪事件である。


 俗に『無碍野女子高生失踪事件』と呼ばれるその事件は、無碍野第一高校に通う、当時十七歳の女子高生が、学校からの帰宅途中に忽然と行方を晦ましてしまったというもので、当時大変な騒ぎになったと、大原も署長から聞かされていた。


 無碍野町も八日町と同じく、事件らしい事件、ましてや失踪といった、怪奇且つ不可思議な事件など滅多に起こらない土地柄であったため、町は一時、異様な雰囲気に包まれたらしい。


 県警から応援を寄こしてもらい、五百人余りの人員が三ヶ月に及ぶ捜索を行ったものの、ついに失踪した女子高生を発見するには至らなかった。


 また、失踪当時の目撃証言も信憑性に乏しいものがほとんどであるのに加え、女子高生の近辺でトラブルの類などもなく、単なる家出なのか、事故に遭ったのか、それとも何かしらの犯罪に巻き込まれたのか、一つとして明らかにされることはなかった。


 現在では、捜査はとっくに打ち切られており、町役場とこの駐在所に、行方不明者の情報提供を求めるポスターが、寂しそうに貼られているのみである。すでに十年の月日が経過しているが、いまだに失踪宣告が為されていないから、ポスターを外そうにも外せないのだ。


 家庭裁判所が発令する失踪宣告は、失踪者の生死が七年間明らかにされていない場合、利害関係人の申し立てを以て成立する。


 この場合における利害関係人とは、行方不明になった女子高生の親族、つまりは、父か母、あるいはその両方を指しており、彼らが失踪宣告の申し立てをしたという話は、今のところ大原の耳には入ってきてはいない。


 女子高生の両親は、いまだに娘の帰りを待ち続けて、この、八日町に勝るとも劣らない、うら寂しい無碍野町の片隅で、張り裂けそうな胸の慟哭を必死に抑えながら、息を殺して暮らしているのであろう。


 それにしても、実に奇妙な事を口にするではないか――大原は、ごくりと唾を飲み込むと、デスクの引き出しから調書を取り出し、胸ポケットのボールペンのノックを、カチリと押した。


「どういうことか、詳しくお聞かせ願えませんか」


 ボールペンに指を這わせながら、伺いを立てるように言うと、男は遠慮がちに顔を上げて、こう言った。


「無論です。そのために、この雨の中、傘も差さずに必死の思いでやってきたのです。しかし、私はいまだに、どう話そうか迷っているのですよ」


「何を迷う必要があるのです? だって、ご存じなんでしょう? 失踪事件がなぜ起こったかを。被害者の身に何があったかを」


「ええ、そこについては、天地神明に誓って断言できます。刑事さん、私は、確かにあなたに真実を伝えたくて、こうしてやってきました。しかし、私がこれからお話する内容には、いささか、常軌を逸した事象が多分に含まれておりまして。正直、私もときおり、あれは夢か幻の最中の出来事だったのではないかと、己の意識を激しく疑ってしまいかねない側面があるのです。それほどまでにおぞましく、陰惨で、なにより許しがたい傲慢の極みが、あの失踪事件には凝縮されているのですよ」


 そう言ってのける男の顔には、先ほど、雨に打たれて掲示板をじっと見つめていた時よりも、怒りと、哀しみと、諦めの三重の感情が、まるで強大な鎖のように絡みついていた。


 一体、この男は何を見て、何を聞いて、そしてどんな真実を抱えて、雨の降りしきる畦道を駆けて、ここにやってきたのか。男の、その真っ黒く塗りつぶされた感情の背景を何としてでも照らしてやりたくなって、大原はとうとう、懇願するような調子になってしまった。


「お願いします。どんな内容でも構いません。私はこうして、貴方の言葉を一言一句聞き漏らさず、きちんと調書に取る準備は出来ております。そうして、貴方が洗いざらい話して下さった証言を、しかるべき手順を経て上司に提出いたします。そこに、どのような事柄が書かれていようと、今夜、貴方から聞いた供述を、机の片隅に放っておいたりなどいたしません。必ず上へ報告して差し上げます。ですから、どうか気分を落ち着けて、ゆっくりと、遠回しでも良いですから、お話くださいませんでしょうか」


 大原の気に当てられたのか、男は、しばし湯呑に沈む茶葉の残滓を眺めると、意を決して口をきった。


「ありがとうございます。そうしましたら、そうですね。まずは私の身の上から、お話させていただくとしますか」

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

「続きが気になる!」という方は、ぜひブックマークの登録をお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ