1. 世界が変わった日
いよいよお話が始まります。
──声が聞こえる。
その声は、ひどく不鮮明だ。曖昧で輪郭がぼやけていて、実体を掴むことができない。
それでも、ひどく懐かしい声だ。
幼い頃から聞いてきたような、そんな安心する声。
「マ……………てく………」
遠く遠く、遙か遠くから。
ボクを包み込むような声が。
「……タ……起き……………」
ほんのりと暖かく、優しい。
陽だまりのような声だと、ボクは思った。
それは、まるで暗闇に光が差し込んだかのように。
煌々と照らしている。
「マスター、起きてください」
ボクは、その声によって暗闇から光の元へ急速に引き込まれた。
* * *
僕は、夢から醒めた。
ゆっくりと瞼を開けると、真っ先に飛び込んできたのは白。純白な天井だった。
「知ってる天井だ」
ぽつりと呟くと、不思議と目と頭が冴えてくる。そうして身体の感覚を脳が理解できるようになると、背中からふわふわとした触感を認識する。どうやら、僕はベッドに寝かされているらしい。
首を少しだけ傾けて眠っていたであろう部屋を見渡すと、日が差している窓や色鮮やかな壁紙、透き通った花瓶に添えられた紫の花が目に入る。その花は、とあるプレイヤーの領域《花園》で譲ってもらった『紫月』という種類の花だった。
そのアイテムが目の前にある事実から考えると、薄ぼんやりとした頭でも憶測は立つ。
「ここは、『オーダーズ』の中?」
天井を眺めて、手を伸ばす。
ここまで身体が自由に動くということが、ここが現実ではないと証明してくれている。だが、ゲームの中だと断ずるには、あまりに思い通りに動きすぎる。異物感、違和感がなさ過ぎる。それがむしろ、僕に違和感を感じさせた。
伸ばした手は、男子高校生ほどの筋肉質なものだった。これは『オーダーズ』で使っていたアバターであるリオの身体で間違いない。ただ、着ている服は装備していたものではないが。
ここが『オーダーズ』の中。
そう考えるのと、やはり1番辻褄が合う。
湧き上がった疑問を飲み込んで、『オーダーズ』であると認識する。
そうした瞬間、記憶が奔流のように押し寄せる。
異常なノイズ。
風景の崩壊。
激しい頭痛、そして痛み、痛み、痛み。
そして、意識を失ったのだ。
あの時の痛みを思い出して、頭を押さえる。
「……あの時、一体何が?」
混乱した頭で記憶の紐を辿っていく。
アップデートのために、《最果ての地》で待機していて、リストに入っていた『《アルテマ》への招待状』を使用した。それと同時にアップデートも始まり、そうして異変が起こった。
この流れだったはずだ。
……原因は、あのアイテム?
「『《アルテマ》への招待状』……あのアイテムが、きっかけだとしたら。あれがアップデートの時間と重なって使用されたから、バグのようなエラーが起こった……?」
十分に考えられる話だ。
あれほどの痛みをVRゲームで起こすことができるのかということは置いておいても、可能性はある。アップデートというゲームとしては不安定になるタイミング、そこで用途不明のアイテムを使用したプレイヤーがいたとしたら。いくら仕事しすぎの運営とはいえ、把握しきれないこともあり得る。それが致命的なバグに変わったのだとしたら。
憶測ではあるが、1番妥当な線ではないだろうか。
兎も角、運営に報告──もとい問い合わせするべきだろう。痛みを伴うバグともなれば、流石に放っておくことはできない。人が気絶するほどの痛みが襲ってくるとなると、それは文字通り命取りになる。
フィールドで使用したら? 戦闘中に使用したら?
どちらのパターンも避けたい、そう思うのがゲーマーという人種なのだと思う。
それに、痛いのは勘弁して欲しいという気持ちもある。
流石に、見逃すことはできない。
そんな使命感にも似た気持ちで、僕はゲーム特有の操作盤を開こうと宙を軽くフリックする。
「あ、あれ?」
コンソールが、出現しない。
空中をタップすれば、容易に現れたはずのもの。それがどういうわけか出現しない。
『オーダーズ』内の大部分の操作を担っているコンソールはゲームにおいて、中核を担う存在と言っても過言ではない。それが現れないとなると、バグどころの騒ぎではない。ゲームの根幹を揺るがす大事件だ。
「……どうなって」
困惑している僕に、声が聞こえてくる。
「マスター、お目覚めですか?」
「あー、起きたよ。おはようデッ……」
声が聞こえたので、よいしょと起き上がって声のする方へと目を向ける。誰に呼ばれたのか、声を設定した僕はすぐに気づいた。が、挨拶をする声は、失速し消えた。
メイド服。メイド服を見にまとっている少女が、目の前に立っていたからだ。しかも超絶美少女。
紫色の長髪が1つに纏められ、きらきらと陽の光を浴びている。彼女は人の持ちうる限界を超えているとさえ思える美貌を振りまいていて、100人に100人の男の人は振り向くのではと思わせる。ため息をつきたくなるほど、彼女は美しかった。
そんな彼女の整った顔立ちは、僕にも見覚えがあった。
「デッ、ク……? デックだよね?」
「? おかしなマスターですね。…………あぁ、この身体では分からないですね、忘れていました」
不思議そうにした後、彼女は納得したように頷いた。改めまして、と彼女はメイド服のスカートの裾をひとつまみして持ち上げる。
「改めまして、《最果ての地》を守護する特A型領域防衛知能──デックです。おはようございます、マスター」
そして優雅に1礼。デックと名乗った彼女の姿は堂に入っていて、完璧な所作に驚く。
人では考えられないほど、動きが完成されている。
確かに、人工知能なのだろうと思わせる動きだった。そして、声もデックそのものだ。
どうやら、デックは声という次元を飛び越えて、身体を手に入れてしまったらしい。何じゃそりゃ。
それに見覚えのある身体は、『オーダーズ』においてアイテムだったはずの物だ。
「というか、それって自動人形だよね?」
「そうですよ。マスターが入手されていた『自動人形TYPE:ノネット』に、私自身のコアチップを埋め込みました。この《最果ての地》を防衛するには、その方法が最適であると判断しましたので」
自動人形は、その名前の通りオートで動く人形、人型ロボットと言い換えてもいい。インプットされた命令に従う意志を持たないアイテム。主に掃除、耕作、錬成などの単純作業を自動で行ってもらう用途で用いられていた。命令以上のことはできないために用いる人の少ないアイテムではあった。僕自身もアップデートの少し前に譲ってもらったぐらいだ。
自動人形としての知能を持たない身体。そこに、デックのコア──脳を埋め込んだとしたら、デックは声だけの存在ではなくなる。身体を持った個体として、活動する事ができるということらしい。
「……だめ、でしたでしょうか」
そこまで話して、不安そうに僕を見つめてくるデック。妙に人間らしい彼女の所作は、僕を慌てさせるに十分だった。
「あ、いや、いやいやっ! ぜ、全然使っても良かったよ! 僕のモットーは『集めたアイテムは、使ってこそナンボ!』だしっ! うん、問題無いなあ、むしろ使ってくれてありがとうって思うくらいだし! うん、そうなんだよ!」
早口でまくし立てると、伏せがちだった彼女の双眸が見開く。きょとんとした表情。そして、我慢できないといった様子でクスクスと笑い声が漏れ聞こえる。
「ふふっ、ありがとうございます。マスター」
そう言って、僕の相棒は微笑んだ。
「えーっと、それでどうなったの?」
「どうなった……というのは、アップデートの後、マスターが気を失われた後にどうなったのか。そのことについて聞きたいのですね?」
「そうだよ。いつの間にかベッドで寝てるし、デックは身体を手に入れちゃってるし、聞きたいことだらけだよ」
「マスターからしてみれば、疑問ばかりなのも理解できます。1つ1つ順番にお話しましょう。まず、ベッドに寝ているのは、私が運んだからです。気絶したマスターを『玉座の間』に放置しておくことはできかねましたので」
デックの話を聞いて、納得する。
そもそも《最果ての地》には、僕とデックという2つの知性ある存在しかいない。それは僕自身がNPCを招き入れることにあまり積極的ではなかったからだった。
というのも、課金によって有効化できるNPCは総じて高額であるために、手が出せなかったという事情がある。イベントで入手できるNPCも、交換レートが異常に高く、NPCよりもアイテムを選ぶことが多かった。時には領域の設備を選ぶこともあったが。
言ってしまえば、NPCの優先度は低かったのだ。そのため、比較的コストの低いデックのみを有効化するに至った。
そのため、ベッドに運んだのがデックというのは真実だろうという確信があった。
「私が『自動人形』の身体を使っている理由も、マスターが倒れられた事がきっかけでした」
「というと?」
「身体がなければ、マスターを運ぶことができないでしょう?」
なるほど。真っ当な回答だ。
いくらゲーム世界の『オーダーズ』といえど、物理のようなものは作用している。重力があったり、風圧があったりと、現実よりは緩和されているらしいが、似通った物は当然ある。身体がないと、物は動かせない。その事実は全く変わりが無い。
それと、そう言ってデックは付け加える。
「それと、襲撃者に備えるという意味でも必要なことでした。命令系統はマスターと私に集約されますが、知能だけではコマンド入力に時間が掛かりますから」
「……襲撃者? なにそれ?」
襲撃者とは穏やかではない。聞き慣れぬ単語に、僕は眉をひそめる。
そのことについても、彼女は人差し指をピンと立て説明してくれる。
「襲撃者──その名前の通り、領域に牙を向き、襲いかかってくるモンスターのことです。以前の『オーダーズ』では、領域は不可視の膜に覆われていて、モンスターなどを払うシステムがありましたよね?」
「それのおかげで、領域はほぼ安全地帯になってるんだよね」
「その通りです。この膜がアップデート後に取り除かれてしまったようなのです」
「……え? じゃあ、今はここも安全じゃないってこと?」
常識が、崩れる音がした。
モンスターが領域を襲う。そんな事はアップデートの内容には記述が無かった。見落としたという可能性もあるが、僕がこのような大きな変化の記述を見逃すとは思えない。
やはり、何かが起こっている。
「……実はマスターを起こしたのも、その襲撃者に起因しています」
「僕を起こした理由?」
「はい、フィールドボスが出現しました」
「……フィールドボスだって!?」
フィールドボスとは、『オーダーズ』において、災害と等しいものであった。
《秩序の塔》を以外の全てのフィールド、領域で暴れ回る最凶最悪のモンスター。それがフィールドボスと呼ばれる存在である。プレイヤーが所有している領域に出現したが最後、無事では済まないという。
彼らには境界線がない。そのために、縦横無尽に破壊の限りを尽くす。プレイヤー泣かせのモンスターである。
『オーダーズ』歴の長い僕をしても、捕獲・討伐が成ったという例はわずか5件しか聞いたことがない。それも何人ものプレイヤーで徒党を組んでようやくといったレベルでだ。
当然、そんな怪物に1人で立ち向かえるはずがない。
「私1人では対処が難しいと判断しました。マスター、お力添えを」
真摯な彼女の声を聞いた。
様々な問題が山積みになっている現状、運営に連絡を取れない現状を鑑みるに、ボスに手を出すのは得策ではない。そして、《最果ての地》を守ることを優先していいのかという気持ちもある。
それでも、僕の世界は確かにこの場所なのだと、そう思う。
『オーダーズ』は僕の全てだ。
だから、彼女の願いに全力で挑むのは、僕の願いでもあった。
「……デック、僕の装備と必要だと考え得る全てのアイテムを持ってきて。戦闘準備は任せるよ」
「マスター……、ありがとうございます」
感謝を告げるデックは、胸元で手を組み祈るように頭を垂れる。
そんな現実離れした姿も様になっていて、見ているこっちが恥ずかしくなる。自分の身体も今は『リオ』の身体なのだから美形には違いないだろうが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
兎も角、この異変を確認する意味でも、戦闘がどうなっているか確認しなければならない。
「……行こう」
僕は初めての一歩を踏み始める。
違和感を胸に抱きながら。
──プレイヤー名:リオの覚醒を確認。
──特種存在の反応を検知。
──個体名:ディンエルの反応を検知。
──激しい損傷を確認。また、プレイヤー名:リオの戦闘意志を確認。周囲を巻き込んだ戦闘になることが予測される。
──この戦闘を記録しておくことを最重要項目に設定。
──報告、継続。